夕凪の海

 
 浩平は大きく息を継いだ。
 再び岩場を目指して潜る。急激な水圧の変化で耳が痛くなるのも、慣れるとどうと言う事もない。
 岩の表面を丹念に見て回る。あった。今日一番の、大きなサザエだった。
 岩からはぎ取り、水面に向かう。穏やかな波を描く天井は、真夏の陽光を受け輝いている。光がスポットライトの様に、水中に射し込まれていた。
 視界が開けた。急に水面に出た時は方向感覚が狂う事もあるが、浩平にとってこの辺りは庭のようなものだった。水中と陸の方角の関連が見事に繋がっている。
 サザエを持った手を大きく振る。
 近くの岩場に向けて泳ぐ。岩場で待っていた義幸にサザエを手渡した。
 「でっけーな!こんなの久しぶりだぜ。」義幸は感心して、バケツに放り込んだ。
 「だろ?」浩平は、岩に手と足をかけ器用に登った。
 手にはめた軍手を外して、義幸からタオルを受け取る。水中めがねを外して、髪の水分を拭き取りながら、バケツの中の今日の収穫を覗き込んだ。
 今日はたくさん採れた。醤油入れて七輪で焼いたら、とうさんが喜ぶんだ。
 浩平は岩に腰を下ろして休んだ。昼から二人で潜りっぱなしで、さすがに疲れる。

 浩平と義幸は、小学校最後の夏休みだった。島の小学校で六年生は、浩平と義幸の二人だけだ。五年生がいなく、四年生が三人、三年生が一人、二年生が二人、一年生もいない。近々廃校になるという話も聞いた。
 波はどこまでも穏やかで光り輝き、瀬戸内の島影を映し出していた。
 浩平は、この季節の海の色が一番好きだった。

 「おい、浩平。」義幸が肘でこずいた。義幸の視線を辿ってゆく。
 岩場の丘に人影があった。白い帽子とロングスカートが、浩平の目に焼き付いた。
 「誰だろ?」義幸は素直に疑問を口にした。
 「さあ?よその人かな?」釣り客にとっては最高の穴場だが、観光目的で訪れる人はいない小さな島だ。
 人影はこっちを見ている。浩平達も人影を見ていた。
 人影が近寄ってくる。
 近寄ってきて分かったことだが、浩平達より2・3歳年上の少女だった。中学生だろうか。日焼けしていない白い顔は端正に整って、つば広の帽子からなびく長い髪は、浩平にとって大人を感じさせた。
 「こんにちは。何してるの?」想像通りの綺麗な声だった。
 義幸は無言でバケツの中を示す。
 「なあに?これ。」
 「サザエだよ。」浩平は答えた。
 「えっ?あの…こうして見ると判らないのね。」
 「?」浩平達にとって、彼女の言ってる意味が解らない。
 一瞬の沈黙。
 「ごめん。私、スーパーでパックに入ったのしか見てないから。」
 浩平が驚く番だった。
 「えっ!よそじゃ、サザエってパックに入っているの?」
 双方のカルチャーショックが交錯した。
 思った事をストレートに口に出した浩平は、自分で顔が赤くなるのを感じた。
 少女がクスクス笑い始める。
 「面白いのね。何年生?」
 「六年。」赤っ恥をかいて立ち直れない浩平に替わって、義幸が答えた。
 「ふーん。来年から中学か… 泳ぐの上手いのね。毎日?」
 「天気、良かったら。」立ち直った浩平が答える。
 「家でゲームとか、しないの?」
 「あんまりやんない。」
 「いいわね… 私に、泳ぐの教えてくれない?」
 「いいけど…」浩平は義幸と顔を見合わす。
 「明日、お昼からここで待ってるわ。」
 浩平にとって知り尽くした海岸、得意の泳ぎを人に教える事が出来るとは。
 「ここはちょっと危ないから、あっちにしようよ。」
 浩平は、少し離れた緩やかな砂浜を指差した。
 「うん。じゃ、明日待ってる。」
 「バイバイ。」
 立ち去る少女を見送って、浩平達は無言だった。
 言葉が出ない。
 歳の近い少女と話したのは、久しぶりだった。学校で女子といえば、四年生に一人と、二年生に二人。上級生は既に中学だ、滅多に合うこともない。
 もっとも恋などと言うものは、気にはなるが面倒くさい年頃だった。恥ずかしさや照れもあるし、何より硬派を気取るほうがはるかに簡単だ。
 その思春期前期の微妙な心理に、しっかり捕らえられていた二人だった。
 「どうする?浩平。約束しちゃったよ。」
 「いいじゃんか。俺、あの人に教えるよ。」
 「浩平、泳ぐの上手いからな。名前、聞かなかったな。どこの人だろう?」
 「明日聞けばいいよ。帰ろうぜ。」
 「うん。」

 次の日、約束どおりに浩平が指定した砂浜で、少女は待っていた。
 「さて、いっくわよ!」待ってましたと言わんばかりに、砂浜に敷いたレジャーシートから立ち上がった。
 Tシャツを脱ぎ捨て、ジーンズを脱ぐ少女を浩平達は呆気にとられて見ていた。
 浩平は現れたスクール水着の肢体に目をやると、心臓を鷲掴みされたような息苦しさを覚えた。
 「急に入ったらダメだよ。」浩平の制止を振り切って、波打ち際に駆け出してゆく。
 「キャッ!冷たい。」
 「ほらぁ。少しずつ入って慣らしていこうよ。」
 「君らも来なさいよ。それ!」
 膝の辺りの水をすくって、浩平達に浴びせかける。
 「やったな!」
 浩平は少女に向かって、水の中へ飛び込んだ。
 派手なしぶきを受けて、少女が悲鳴を上げた。

 三人は水をかけ合ってはしゃいでいたが、ウオーミングアップが終わると、浩平と義幸が沖に向けて泳ぎ始めた。
 「あーっ!ダメだよ〜!」少女は叫んでいる。
 浩平は渚に引き返した。
 「ホントに泳げないんだね。」
 「そう。だから教えてって言ったのに。」
 「ごめん、ごめん。だったらまず、ばた足と顔つけから始めようか?」
 「ヤダよ、そんな学校みたいなの。ねえ、あっちまで連れていって。」
 義幸が泳いでいる沖を指差す。
 「どうやって?」
 「おんぶして。」

 背中に、しなやかな感触が伝わる。
 二人分の浮力と推進力を維持する為に、浩平は平泳ぎでゆっくり泳いだ。
 「ねえ。」
 「ん?」
 首にぴったりひっついた少女の顔から、喋る吐息が耳にかかる。
 「気持ちいいね。こんなの始めて。」
 「うん。」
 「また、明日もお願いね。」
 「うん。」
 肺に酸素を大量に取り入れるために、短い返事しか出来なかった。だが、仮に泳いでいない状態であっても、少年の浩平にとって気の利いた返事が出来ただろうか?

 翌日、浩平は義幸を誘いに行ったが、風邪をひいた義幸は出られないようだった。
 仕方なく、一人で約束の砂浜へ向かった。
 「あれっ、一人?もう一人は?」
 「風邪ひいたらしいよ。」
 「あら、大変ね。でも、いいか。君がいるから。」
 昨日と同じように、おんぶして沖まで泳いで、休んで、砂浜で騒いで…
 浩平にとって、海も、砂も、岩も、波も。全てが輝いていた時間だった。

 「私、おばあちゃんチに泊まってるの。」
 「おばあちゃん?」
 「船井よ。」
 「ああ、船井のばーちゃんか。孫だったんか?船井のばーちゃん、優しいから好きだよ。」
 「うん、私も大好き。夏休み、おばあちゃんチに行くってダダこねて、やっと来れたの。」
 「そうだったンか…」
 「君の名前、聞いてなかったね。」
 「オレ、浩平。浜崎浩平。アイツは義幸。」
 「浩平クンか… 私、涼子。」
 二人は砂浜に座り、タオルを肩にかけて黙って海を見ていた。
 高かった陽が、大きく傾いてきていた。海の色は青から緑色に変わり、波が光を更に反射させてきらきらと輝いてる。
 浩平は横を向き、涼子という少女の横顔をじっと見た。
 満足そうな、それでいて寂しそうな、不思議な表情だった。
 触れると壊れてしまいそうな、そんな表情だった。
 壊れてしまいそうなのは、自分の心だったのかも知れない。
 浩平の視線に気付いた少女がこっちを向いた。
 小首を傾げて微笑む。

 浩平は、その後をよく憶えていない。ただ、触れ合った唇は潮の香りがした事を憶えている。

 翌日、少女は来なかった。いくら待っても、姿は見えなかった。
 「いいな〜っ!お前。ちっくしょー!」
 親友に黙っている訳にはいかなかった。だが、やはり喋った事を少し後悔した。
 「で、どうだったよ?」
 「どうって?」
 「どんな味、したんだよ?」
 「別に… 味なんかないよ。」
 「嘘つくなよ。」
 「ホントだって…」
 昨日と同じ砂浜、昨日と同じ波の光。
 浩平は、そっと指先で自分の唇に触れた。

 

END