理恵の唇、左下に青い痣。
 化粧で隠していても、よく見れば判ってしまう。
 「あ…」
 「どうした?」
 隆弘は前菜のサラダを口にして、口元を押さえてうつむく理恵に聞いた。
 「ごめん… ちょっと、口内炎…」
 口内炎の筈がない。おそらく、口の中の傷が癒えていないのだ。
 「沁みるかい?」
 「ううん、大丈夫。」
 今日、隆弘は理恵を食事に誘った。会社が終わってから待ち合わせ、魚料理のコースを食べさせる店にいた。
 やっとの思いで理恵を誘い出した。二人きりのアフターファイブは始めてだった。
 窓の外はライトアップされた街路樹が連なり、一人の中堅らしきサラリーマンがコートの襟を立てて家路を急ぐ姿が横切る。
 …何か喋らなきゃ…
 隆弘は話題を探す。彼女の頬の痣について、これ以上触れる訳にはいかない。
 聞きたい事は山ほどあった。

 …どうして殴られたの?…
 …昨日は寝てないんだろ?…
 …今日は本当に良かったの?…

 「もうすっかり暮れね… 年賀状、書いた?」
 「あ… い、いや、まだ…」
 突然の理恵の世間話に、隆弘は面食らった。
 「だめだよ、早くしないと。」
 「家のプリンター、調子悪くて。」
 「そっかー、パソコンあるんだね。あたし、プリントごっこ。楽しいんだ、結構。」
 理恵が笑った。
 隆弘の中でくすぶり続ける疑問の数々が、余計悲しく頭をよぎる。
 知っていた。
 隆弘が想い続ける理恵は、以前から男がいた。隆弘の目から見て、いや、男の目から見て最低の男に、理恵は尽くし続けていた。
 何が一体、彼女にそうさせているのか?
 聞けないでいた。聞く度胸が隆弘には無かった。
 解らなかった…

 

 暮れの忘年会シーズン。連日のように、つき合いと称した享楽に溺れる人の群。
 歩く理恵の足下がふらついた。
 反射的に隆弘は、理恵の肘を抱え支える。
 「大丈夫?」
 「ごめん、酔ったかな…」
 バーで飲んだ帰り道、裏通りのネオンが所々に光る。
 隆弘は一つのネオンの下、外見を豪華に飾った佇まいの入り口で歩を止める。
 一瞬の躊躇だった。

 …何故?…
 …俺は理恵が欲しい…
 …理恵は他の奴のもの…
 …だめだ、出来ない…
 …俺はそんな仲を望んではいない…

 隆弘は再び歩き出そうとする。
 肘を引っ張られた。
 振り返った隆弘は、寂しい色を湛えた理恵の目を見た。

 

 理恵の白い肌は、隆弘の想像通りだった。
 何度も夢に見た、理恵の髪、理恵の唇、理恵の胸、理恵の吐息…

 「どうして?」
 「帰りたくないの…」
 「ひどいこと、されたんだね。」
 「慣れてる。だけど、帰ったらまた一人…」
 「…」
 「気にしないで… あたしのこと好き?」
 「うん。」
 「そう… もっと、早く逢えたらよかったね。」
 「まだ遅くない。」
 「そうかも… 嬉しいな。」
 「俺と…」
 「隆弘って呼んでいい?」
 「うん。」
 「隆弘… もっと…」

 一階ロビーで照明の点いた部屋を選び、目的の部屋に着くまで隣でうつむいて歩く理恵は小さく消え入りそうな存在だった。
 隆弘はそんな理恵が堪らなく愛おしかった。
 抱いた。本当だ。
 だが…
 こうして体を重ね合わせても、切なさは募るばかりだった。
 あの理恵が、俺の腕の中にいる。紛れもない現実だ。
 空しかった。
 隆弘の胸にぽっかり空いた穴は、更に大きさを増してゆく。

 「そんな奴、別れちまえよ。」
 「…」
 「俺が話をつける。」
 「…だめ…」
 「どうして?」
 「どうしても…」
 「俺が嫌い?」
 「違うわ。」
 「君が傷ついているの、見ていられない。」
 「…ありがと…」
 隆弘はベッドに縁に座り、テーブルから煙草を取り上げる。
 一本抜き出し、火を点けた。
 背中に柔らかな感触。理恵の唇が這っている。
 そっと、細く小さな体が覆い被さって来た。
 「良くないのかな?こんな事。」
 理恵の呟きが煙草の煙と一緒に流れる。
 「どうして俺を?」
 「隆弘が好きだから…」
 「違うだろ。俺で遊んだんだ…」
 「違う… 好きという気持ち、確かめたかった…」
 「俺とあいつ、どっちが?」
 「私は…」
 「君は… 君は幸せなの?」
 「判らない…」

 ドアノブに手を掛けた。ベッドの上の乱れたシーツが一瞬目に残った。
 「今日は… ありがとう…」
 理恵の消え入りそうな呟きを部屋に残し、ホテルのドアを閉める。
 「行こう。」
 隆弘は先に立ってホテルの廊下を歩きだした。
 明日からまた他人同士の二人。
 理恵はなぜ、隆弘にドアを開いたのか?
 体を重ねた夜は、お互い心に深い傷跡を残しただけだった。

 …この世界に男と女がいて、
 …恋は星の数ほどあって、
 …望む相手は他の誰かに夢中で、
 …上手くいく恋は星を掴むより難しく…

 外の風は、ホテルを出た二人に容赦なく吹き付けて来た。
 コートの裾が翻る。
 ビルの谷間から見上げた夜空は、冷たく星を輝かせていた。
 深く沈んだ心は外気の体感温度より低く、会話にする言葉さえ見つからない。
 黙って歩く二人は、行きずりの体を重ねただけの他人だったのか?

 突然、理恵が隆弘の腕にしがみつく。
 「私、やり直すことできるかな?」
 「うん、待っている。」
 前を開いた隆弘のコートの中に、理恵の体がもぐり込んで来た。
 「ふふ… あったかい…」
 目の前で本当に笑った理恵を見た隆弘だった。

 

END