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終 発
泰之は、人が近づいて来る気配に顔を上げた。
「ごめん、待った?」
「いや…」
九時半を廻った喫茶店には、他に若いカップルが一組と、泰之と同じ様な待ち合わせらしき中年男が一人という客の入りだった。
泰之の前に座った女は、店の者を手招きする。
「約束、九時だったのにね。ごめんなさい、手が放せなくて…」
「仕事、順調かい?」
「ええ、ぼちぼちってとこ… あっ、ホットね。」
「俺もコーヒー、おかわり。」
店員が注文を聞いて去って行った。
「懐かしいな、この店。よく待ち合わせしたっけ…」
女は辺りを見渡しながら言う。
「由美なら、すぐ判るだろうと思ってさ。」
「判るわよ。しかも、同じテーブルでさ。」
「なんとなく… 習慣かな?」
「昔の習慣ね?」
「ゆかりは、どうしてる?」
「母が見てるわ。もう寝てるかな?」
「そうか…」
ゆかりの寝顔が、目の前の由美の顔とオーバーラップする。
あどけなくも、幸せそうな寝顔。
店員がコーヒーを二つ、テーブルに置いた。
泰之と由美は、店員が去るまで黙っていた。
カップから立ち上る湯気を見つめていた。
「えっと…」 「あ…」
同時に喋りかけて、泰之は引く。
「なんだい?」
「ゆかりのランドセル、ありがとう。」
「学校、行ってるか?」
「ええ、楽しそうよ。」
「そうか。良かった。」
「この前、リュック背負って突然言い出すの。『旅に出る』ってさ。」
「旅に?」
「そう、友達と近所をぐるっと回って来て、夕方には『ただいま』ですって。」
「旅、だったんだね?」
「そう、旅だったのよ。ゆかりにとって…」
「大きくなったな。」
「今度、会う?」
「うん。会ってみたい…」
泰之の記憶の中でのゆかりは、保育所のバックを肩から下げ、名前の入った帽子を被ったゆかりだった。
「少し痩せたか?由美。」
「痩せたみたい。美人度、上がったでしょ?」
「何、言ってんだ。」
「後悔させてやろうって思って、とびきりメイクなのに。」
「帰ってきて…」
電話の向こうで、由美が泣いていた夜。
「タバコ、増えたんじゃない?」
由美は、泰之の手元の灰皿に溜まった吸い殻を見て言った。
「かな?」
「だめよ。それに、酒浸りなんでしょ?」
「そうでもないさ。今、労組の仕事やらされてるんだ。結構忙しくて、飲んでる暇ないよ。」
「あらら… 大変。気を付けてね。」
離れて初めての気遣いの言葉。
離れて暮らした時間のフィードバック。
「出ようか?」
泰之は時計を見て言った。
「うん。」
テーブルから立ち上がった泰之は、レジで勘定を済ませた。
店の外で由美が待っていた。
「少し歩こうか。」
「いいわね。」
昔と同じ町。
でも今はもう、腕を組んでは歩けない。
「今日はどうしたんだ?」
泰之は、最初に自分が身を引いた質問を口にした。
「私… 結婚するかも知れないの。」
「…そうか。」
「親が探して来た人だけど…」
「いい人か?」
「とっても… ゆかりも懐いてるし…」
「良かったな。」
「…ええ…」
会話は途切れたまま、泰之と由美は町を歩いていた。
重い口からは、言葉が出てこない。
通りの店は、既に半分がシャッターを降ろしていた。
急に由美は立ち止まった。
「ねえ、ここにあったレコード屋、どうしたの?」
「ああ、違う店が入ってるよ。潰れたのかな?」
「よく来たよね。」
「そうだったな。」
「あんた洋楽専門だから、私と意見が合わなかったよね。」
「二人とも頑固だからな。歩み寄りの姿勢も無かったよな。」
「あはは…それが、いいところよ。」
由美は笑った。
泰之は記憶のシャッターを切った。
この笑顔だけを憶えていたい。
出会った頃と同じ、無邪気な由美の笑顔。
駅の改札口は薄明かりに慣れた目に、白々しく見える程明るかった。
「今なら、あれ間に合うぜ。」
泰之は時刻表を指して言った。
「いい… ここ座って。」
由美の隣のベンチに座った。
「どうして?早く帰らないと…」
「いいから…」
どれ程座っていただろうか。何本列車を見送っただろうか。
「ああーぁ、行ったぞ… 次、もう最後だぜ。」
「今なら間に合うわ。」
「だったら、早く行けよ。」
「まだ間に合うよ。」
由美は泰之の手を掴んだ。
「間に合うよ…」
泰之は首を横に振った。
同じ事だ。
同じ事を繰り返すだけだ。
由美をこの場で抱きしめたかった。
この改札口から連れ去りたかった。
だが、それをしてしまうと…
お互いを傷つけあう生活の中で、二人が出した結論。
壊れたものは、既に修復は出来ない。
一つ言える事は、今でも愛している事。
愛の結晶は、二人に関係なく成長している事。
別々の幸せの道。
果たして、見つかるだろうか?
「ゆかりに会ってね。約束よ。」
「約束する。」
「じゃぁね…」
「…さよなら。」
改札の向こうのホームに、列車の到着を知らせるベルが鳴り響いた。
END
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