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〜端末の向こう側〜
“今日も暑いね。”
“暑かったね。子供、保育所まで連れに行ったら、汗びっしょりやわ。”
そんな普通の会話。
僕たちの間で一日に何度もやりとりされる、あたりさわりのない会話。
僕は彼女の顔を知らない。
知っている事と言えば、彼女は三十歳。関西地方在住。
保育所に通う長男と、ダンナさんとの三人暮らし。
それと、《みく》というニックネームだけ。
“おはよう。朝ごはん、ちゃんと食べた?”
“おはよう。食べられへんわ。とにかく仕事、行って来ま〜す!”
彼女とは、携帯電話のメル友サイトで知り合った。
メールを交換し続けて、もう二ヶ月になる。
もう既にそこのサイトを通してではなく、お互いのアドレスでメールのやりとりをしている。
二日間ぐらい音信不通になったと思いきや、何時間もメールの応酬を続ける事もあった。
僕が彼女に声をかけた理由は、大した事ではない。なんとなく年上の女性と話がしたかっただけ。
二年間交際を続けていた彼女と終わって、ぽっかりと開いた胸の隙間を埋める為だった。
きっと、そうだった。
“けいくん。彼女、いてへんの?”
“いたんだけど、ちょっと前に別れたんだ。”
“そうだったんや… でも、元気出しいって!まだまだ女の子はぎょうさんいてるがな(笑)”
彼女に救われた。そう思った。
気休めの言葉なのは判っている。
でも、他の誰の言葉より、彼女の言葉が嬉しかった。
彼女はとても親切で、親身になって相談に応じてくれた。
僕も、彼女の職場やダンナに対する愚痴を聞いてやったりした。
“なあ、けいくんはどう思う?”
“俺は結婚した事がないから分からないけど、きっとダンナさん、疲れていたんだと思うよ。営業ノルマもきつそうだしね”
“そっか、そうやね。あたしもきっとカリカリしてたんやわ。ありがと、けいくん”
“うん、おやすみ”
“おやすみー♪”
携帯電話のメール着信音が鳴るたび。
僕のなかで、楽しみがときめきに変わっていった。
どうせ他人のもの。最初から恋愛関係を期待してた訳じゃない。
恋愛関係になれないから、他人のものに手を出した。
話をするだけでいい。飽きたら後腐れなく別れられるから。
きっと彼女もそうだろう。
そう思っていても、何かが…
“今晩、ダンナいないんや。”
“そうなの?寂しいね。”
“寂しくなんかあらへん。あたしにゃ、けいくんがいてるからな。”
“不思議なもんだね。こうして知らない人と話している事。”
“そやね。なあ、けいくん”
“何?”
“えっとな。ちょっと話してみへんか?”
“話って?”
“電話。けいくんの声、聞きとなったわ”
僕は一瞬戸惑った。
決心を固めて携帯電話のキーを打つ。
“いいよ。090-○○○○…”
タバコに火を点けようとした時、着信音が鳴った。
彼女からだ。
僕はそっと開始キーを押す。
「はじめまして… なんか照れ臭いわ。」
「こちらこそ。あはは… 俺も一緒さ。」
彼女の声は可愛かった。想像通りの関西弁と、鼻にかかった声がとても愛らしかった。
僕らは色んな話をした。
好きな音楽の話とか、サッカーの話とか、メールでは伝えにくかった話ができた。
お互いが既に中身を知ってる間だったから、普通の友達のように話が弾んだ。
それから僕たちの間で、ちょくちょくと電話でのやりとりが始まった。
昼休みや休日の昼下がり。僅か15分程度の他愛のない会話。
“今、電話、いい?”
“アカン。ダンナがいてる。”
事前にメールで連絡しておいて、それから電話を掛けるのが僕たちのマナーになっていた。
「ダンナは出張や。今夜から三日、あたしは自由の身。」
「自由の身って… ムショみたいな…」
「結婚生活なんて、こんなもんや。けいくんが羨ましいわ。」
「そうかな?」
「息子もよー寝てるわ。ちょっと待ってな、のど乾いた。なんか取ってくる。」
今夜はゆっくり話ができるらしい。
…そういう事だったんだ。
「へへ。ビールがあったわ。けいくん、乾杯しよ。」
「じゃぁ、俺も持ってくるよ。」
僕らはビールを飲みながら、またいつもの他愛の無い話に花を咲かせる。
「彼女いてへんし、そっちのほうは大変やろ?」
「そんな事ないよ。」
いつの間にか変な話になっていた。
メールでも過去に幾度かこんな話をした事がある。
「うーん。まあ、男の人は金さえ出せばなんとかなるもんやしね。」
「そんなところかなぁ…」
「なあ、けいくん…」
「何?」
「テレホンセックスしてみへん?」
「テレホンセックス?」
「ほら、声だけでやる、アレや。」
「知ってるよ…」
「イヤだったらええんよ。」
「そんなこと、ないよ。」
「じゃぁ、しよ。」
「うん…」
「待っててな、パジャマ脱ぐさかい。」
僕は想像の中で彼女を抱いた。
彼女の甘い吐息が受話口を通して耳元に触れるたび、何度も何度も高波のような悦楽が快感と混じり合って僕を飲み込む。
「けいくん… なあ、あたしのこと好き?」
「好き。好きだよ…」
彼女の声が、やがてすすり泣きに似たものに変わる。
「いやや… いややわ…」
リアルでいてどこか非現実的な快楽に身を委ねながら、僕と彼女は果てた。
馬鹿馬鹿しい事は分かっている。演技という事は知ってる。
でも独り自分で慰める行為とは違い、不思議と後の空しさは無く、充実感と征服感だけが残った。
「へへ… ごめんな、けいくん。」
「いや… ありがとう。」
「感謝されても困るけど… あ、もうこんな時間。」
「明日、早いんだ。」
「うん、おやすみー。」
「おやすみ。」
“おはよ。昨日は楽しかったわ。また遊ぼうな。”
翌朝、彼女からのメール。
彼女のさっぱりとした爽やかな態度に、僕は少し驚いた。
そんなものかも知れない。
これがお互いの顔を知らない事の強みなのかも知れない。
“今夜はいいよ。けいくん。”
“じゃあ、こっちから掛けるね。”
僕たちは幾度そんな事を続けただろう。
恋人同士。
そう、彼女を恋人と言い切ってしまう事に、何のためらいも無かった。
外の風はすっかり涼しくなって来た。
秋の気配。
彼女からぱったりとメールが途絶えたのが、三週間前だった。
いつも事前にメールで了解を得ていたから、当然こちらから電話も出来ない。
何かの事情があったのか。
単に僕は遊ばれただけかも知れない。いや、これはきっとお互い様。
僕の携帯のアドレス帳には、彼女の電話番号とアドレスだけが残っている。
《みく》という名の彼女。
三十歳。関西地方在住。保育所に通う長男と、ダンナさんとの三人暮らし。
顔は、まだ知らない。
END
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