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怪しい隣人
水曜日。ゴミの日。
茂章は既に出勤の体勢で、鞄を小脇に抱え靴を履いた。アパートの狭い玄関で、一杯に膨れ上がったゴミ袋の前で、時計を見た。
7時35分。時間だ。
週に3度の、茂章のささやかな楽しみ。
ドアをそっと開ける。もうちょっと。
隣の部屋のドアが動いた。来た!
タイミングを計って、玄関からゴミ袋を引っぱり出す。
ドアに鍵を掛けながら振り向く。
「お早うございます。」
朝日の中で、澄んだ声が流れた。
「あ、お早うございます…」
自分で恥ずかしい程のわざとらしさ。
隣の河野さんの奥さん。今日は赤いロングTシャツ。小柄で色白な彼女を引き立てていた。
「天気、良いですね。」
「はい。」
向こうから話しかけてきた。
ゴミ袋を抱えた彼女は、先頭に立ってアパートの階段を下りて行く。
ゴミの収集場所まで、約2分の道程。
茂章は話題を探していた。
「昨日見られました?」向こうから話しかけてきた。
「うん。どうなるんだろ?」
夜のテレビドラマの話題だった。
「私、あの男が殺したんじゃないかなって、思うの。」
「そんな感じですね。でも以外と、裏があったりして…」
「楽しみね。」
他愛の無い話題が、楽しくも短い。気楽に話が出来る様になるまで、長い努力が茂章にあった。
「駅前にイタリア料理の専門店、出来たの知ってます?彼女でもお誘いしたら?」
「あっ、知ってる。でも僕、今いないんです。」
「あら、ごめんなさい。前川さんみたいな人、放っとかれる方が不思議ね。じゃ、行ってらっしゃい。」
「はい。行って来ます。」
ゴミ袋をゴミの山に積み上げる。振り向くと、人妻の後ろ姿が遠ざかってゆく。
茂章は溜息を一つ。鞄を抱え直すと、駅への道を歩いていった。
隣が引っ越して来たのは一年前。仲の良さそうな新婚夫婦だった。
何よりも小柄で色白な、抱きしめたら折れてしまいそうな、それでいて目鼻立ちのはっきりとした美人の妻に、妙に心惹かれた茂章だった。
茂章より幾つか若ようだ。27、8歳ぐらいか?
ときめいた?人の所有物に…横恋慕?叶わぬ恋?
それでも、週3回の朝の2分が茂章にとっては、最高の悦楽の時間だった。
彼女がいないと言ったのは、嘘。
茂章はこの一年間、デートしても、食事しても、抱いても、心がそこに居ない。魂の無い交際を続けていた。
だが最近、隣の家庭の妙な変化に気付いた。
旦那の姿が見えない。3ヶ月位前からだ。
聞くことも、話題にもっていくことも出来ないが、確かに旦那の気配がないのは事実だ。
単身赴任か?新婚でまさか… 別居? 離婚?
自分にとって都合のいい推測は、後の落胆が怖いので考えないようにしていた。
でも、正直気になる。疑惑は日に日に肥大してゆく。
天気の良い日の筈だったが、夕方から雨が降り始めた。
帰路の電車を降りた茂章は、駅の改札を抜けて途方に暮れる。
近くのコンビニで傘を買おうか。
「前川さん。」
背中に声が届く。聞き慣れた澄んだ声。
「よかった。お帰りになる時間かと思って迎えに来たの。今朝、傘持って無かったから…」
そこに、密かな片思いの相手が立っていた。俺の為に?
「すいません。どうして?」
「丁度、こっちに用が有ったもので。残業されない時間なら、この頃だと思ってました。」
優しくされると、余計辛い。解っていないだけに、なお悲しい。
「お食事、まだなんでしょ?よかったら、ご一緒しません?」
朝の話題の、イタリア料理専門店だった。
テーブルに付いて、彼女は嬉しそうに店内を見渡した。
「来てみたかったの。嬉しいわ。」
「いいんですか?お家の方は… 僕なんかと…」
「いいの。一緒に来る相手もいないし…」
「旦那さんは?」
遂に、確信に迫る質問が出来た。この時を待っていた。
「いなくなったの…突然。」
「どうして?」
「判らない…帰ってこなくなったの。何処にもいないし…ちょっと前、警察に失踪届を出したとこ…」
「…」
「いいのよ、そんな事。さて、何にしようかしら。」
そんな事?大変な事じゃないか!茂章にとっても、複雑な意味で大変な事だった。どう対応していいか分からない。
食事の後、行きつけのスタンドで二人で飲んだ。茂章のボトルキープは、完全に開けられた。
「ちょっと飲み過ぎですよ。河野さん。」
「美雪でいいの。美雪って呼んで…」
雨は既に止んでいた。街灯の光がアスファルトに反射して、心地よい夜のムードを演出していたが、恋の相手はべろべろに酔っぱらっていた。茂章は肩を貸して、それでも支えていなくては、まともに歩けない。
「暑いわね〜。」
ブラウスのボタンを外している。既に下着が覗いている。白い肌が茂章の目に焼き付いた。
茂章は目をそらした。やはり、タクシーを呼べばよかった。歩いて帰ろうと言った彼女がこの有様では…
とにかく今は、アパートまで無事帰り着くことだ。
「鍵。鍵はどこですか?」
「んん〜。バッグの中…」
バッグの中を探り、ドアの鍵を見つけた。ドアを開く。
靴を脱がせて、引きずるようにリビングのソファーの上に寝かせた。
「水…水持ってきて。」
「はい。はい。」
キッチンでガラスコップに水を汲む。
差し出したコップを取り上げると、一気に飲み干した。
「茂章イイッ〜!」
抱きついて来た。凄い酒乱。
茂章はどうしていいか判断が付かない。
「ち、ちょっと、河野さん…」
「美雪でいいんだってば…」
唇を重ねて来た。
茂章にとって、願ってもいない状況が現実に。そして、目の前に。
絡める舌の心地よい刺激の中で、“もし、旦那が突然帰ってきたら”などという仮想のリスクも、そこそこに酔いが廻っている茂章にとって、スリルという追加された刺激でしかなかった。
ブラウスのボタンを外して脱がす。想像通りの、綺麗な白い肌が露わになった。
それから数ヶ月、不思議な隣人関係が続いた。
朝の挨拶はいつもどおり。外で会っても他人行儀だ。
そして夜は、どちらともなく家に入ってきては、男と女の関係が続く。
「へえ。青森の生まれ?」
「そう、雪深い所よ。」
「それから、こっちの方へ?」
「再婚だったの、私。前の主人は、列車で…」
「亡くなったの?」
「酔って、駅のホームから落ちて。私の目の前で。」
「…」
「私の家、代々女系家族なの。父も早くから死んで、私は父の顔も知らない。男に縁がないのね、きっと。」
「ご主人の事、何か判った?」
「何も。いいの、あんな男の話はしないで!」
「…」
茂章の部屋で、美雪の手料理を食べていた晩だった。
テレビのローカル局のニュースで、ダムで出来た人工湖から、男の腐乱死体が発見された事が伝えられていた。
「近くでもこんな事があるんだ。ねえ…」茂章は話しかけた。
「そうね…」生返事。
美雪が消えたのは、それから数日後だった。
茂章が会社から帰った時、隣は既に表札も無くなっていた。
警察が来たのは、半月後の事。
「お隣が引っ越されたのは、御存知でしたか?」
「ええ。そういえば最近、見あたらないなと。」
「結構お付き合いがあったと、噂でしたが…」
「ビデオ借りたり、一緒に飲んで話したりしてました。」
「それ以外は?」
「さあ…」
拾った雪が、手の平の中で溶けて消えた様な。
そんな、儚い夢だった。
END
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