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夕食の後、みずほは流し台に積み重ねられた食器を洗っていた。
みずほの鼻歌が一瞬止まる。背後の気配に振り返った時、そこに橋本家の長男、陽一が佇んでいた。
「どうしたの? 陽一さん。」
みずほの素早い反応に出鼻を挫かれたか、驚いた表情で固まりながら口を開いた。
「あ、あのさ…」
「?… なあに?」
エプロン姿のみずほは、食器洗い用のスポンジを片手に小首を傾げて陽一の顔を覗き込む。*
(*注釈:男はこのようなシチュエーションでの、女の子のこう
いった仕草に弱い。背後から抱きしめたくなる瞬間はと聞かれて、一番多いケースが『流し台の前』だろう。賛否両論あるだろうが、著者は間違いなくそうだ)
みずほと正面から向かい合った形となった陽一は、少しうつむき顔をそむけて声を絞り出す。
「えっと… あの… 今度の日曜日、ヒマだろ?」*
(*注釈:勝手に決めるな)
みずほは泡だらけの人差し指を鼻の先に当て、少し考え込む。
「うーんと… 特に用事はないわよ。朝7時から10時までは三丁目のソフトボールの練習で、夜7時からママさんバレーのコーチを頼まれてるから、お昼の
間は大丈夫。」
「だったら映画、観に行かないか? 話題作なんだけど、誰も行くヤツがいなくてさ。あ、嫌だったらいいんだ…」
「行く、行く!」
みずほは威勢良く返事を返した。鼻の先に白い泡が付いている。
「じゃあ、11時頃がいいかな?」
陽一の緊張に満ちた険しい顔が、少しほっとしたように和らいだ。
よく見るとジャーニーズ系の美青年である。笑えば愛嬌のある八重歯が覗き、女が放って置けないような母性本能をくすぐるタイプだ。
「うん、じゃあ11時にここに来るわ。優くんは?」
「なんで優太が付いて来る必要があるんだよ?」
「あ…」
みずほは初めて陽一の意図を理解した。*
(*注釈:鈍い…)
「じゃ、待ってっからな。」
「うん…」
陽一が立ち去った後、みずほは時間にして3.7秒の間凝固していた。
「きゃはっ♪」
脳内で自分が置かれている状況を整理出来たのであろうか、今までにも増して勢いよく洗い物を始める。
陽一はみずほにとって、この橋本家に来た日から気になる存在だった。少しぶっきらぼうだが、細かい心遣いと優しさに少しづつ惹かれてゆくものがあった。
更にあの美形フェイス。これが『ギラン・ドゥ』内の自室*なら、間違いなく踊っていた事だろう。
(*注釈:『ギラン・ドゥ』とは、みずほが地球に乗って来た超次
元高速機の名である。外宇宙航行の為の数々の装備に加え、高い機動力とメガ粒子砲をはじめとする搭載された強力な武器により、銀河連邦軍の宇宙戦艦と対等
以上に渡り合える程の戦闘能力を有している。操縦席とは別に快適な居住空間も用意されていて、個人が所有するには過剰の贅沢さだ)
「おねーちゃん!」
台所で再開したみずほの鼻歌が、鼻たれ坊主の声によって遮断される。
「なーに?優くん♪」
みずほは洗い物から手を離さずに、脇に立っている優太に応えた。
「おにーちゃんとなに話してたの?」
「なんでもないのよー♪」
「ふうん…」
「優くん、宿題済ませたの?」
「ああっ!忘れてたぁっ!」
どたどたと優太の立ち去る足音。
先程からみずほは、最初から手にしていた一枚の皿を、擦り切れるのではないかと思えるほど念入りに洗っている。
優太は台所の入り口で立ち止まり、振り返って言った。
「おねーちゃん、鼻に泡がついてるぞ。」
「え… ありがと。ぢぃごぐのそこかぁ〜らよみがえるぅ〜♪」
まるでうわの空だ。
牛乳とオレンジジュースのパックが入っている為か、買い物かごはやたらと重い。
みずほはその重量を物ともせず、軽快な足取りで橋本家への家路を急いでいた。
道の側を鉄道が通っており、通過する電車が奏でるガタゴトという軽快なリズムと、下校中の小学生の諸声が狭い町中に響き渡っている。
背後で女の子二人が吹くリコーダーのたどたどしいメロディに、みずほは嬉しそうな笑顔で耳を傾けていた。*
(*注釈:下校しながらリコーダーの練習をする時は、通行する車
に十分注意して下さい)
「あ、優くん…」
前方に黒いランドセルを背負った集団。その中に優太の姿を見つけて、みずほは声をかけようと足早に進み始めた。
だが、集団の様子が妙な雰囲気だ。四人が一人の男の子を囲っている状態で、囲まれている男の子は細い呻き声を発しながら、手の甲で滴り落ちる涙を拭って
いた。
異常に気付いたみずほは、急いで集団に駆け寄る。
「優くん、どうしたの?」
「あ、みずほおねーちゃんだ。」
一人の男の子を囲っていた集団の中から、優太が顔を上げた。
「どうしたの?この子、なんで泣いてるの?」
みずほの表情がキッと険しくなった。買い物かごを路上に置き、ポケットからハンカチを取り出して、泣いている男の子の前にしゃがみ込む。
「だってこいつ、逆上がりが出来ないんだぞ!」
集団の中でとりわけ体格の良い少年が、言い訳にならない言い訳を言う。
「逆上がりが出来ないからって、いじめる事はないでしょ!」
みずほの叱咤に、少年達は黙って俯いてしまった。
「さ、涙をふいて。泣いてるだけじゃ、何も始まらないわ。」
みずほは泣いていた少年の顔をハンカチで拭いてやる。
少年に涙を拭いたハンカチを手渡した時。みずほは少年の手の平に、硬化した沢山のマメを見た。中には擦り切れて、血が滲んでいるものもある。
「みずほおねーちゃん…」
優太は恐る恐るみずほに声をかける。
「どうして友達をいじめるのっ?!おねーちゃんは、そんな子は嫌いよっ!」
みずほは立ち上がり買い物かごを掴み上げると、脇目も振らずに一気に走り去ってしまった。
少年達の重い沈黙。
先程から泣いていた少年と優太の二人が、うなだれて立ち尽くしている。
「おい、優太。こんなヤツ放っといて帰ろうぜ。」
少年の一人が優太に声をかけるが、当の優太はうなだれたまま反応しない。
「帰ろ、帰ろ…」
優太と泣いていた少年二人を残し、少年達はぞろぞろと散り始める。
「うわぁぁぁぁん!おねーちゃんにきらわれたぁっ!」
突然、優太の慟哭が町内に響き渡る。
「優太…」
先程まで泣いていた少年が、今度は優太を気遣って顔を覗き込む。
「譲治!お前のせーだぞ!お前が逆上がりが出来ないから、おねーちゃんにきらわれたんだぞぉ!」
「ぼ、ぼくは知らないよぉ…」*
(*注釈:何という理不尽極まりない理屈であろうか)
涙を拭う優太の手に、そっとみずほのハンカチが手渡された。
優太はそのハンカチで顔を拭いた。ハンカチは石鹸とみずほの匂いがした。
一通り泣いて気が済んだ優太は顔を上げる。
その目には闘志の炎が燃えていた。
「よぉし、譲治。今日から逆上がりのとっくんだ!」
「え?…」
優太の火を吐きそうな勢いに、譲治という少年は半分ビビりながら聞き返した。
「とっくんだと言ったら、とっくんだ!お前が逆上がりが出来るようになるまで、今日からおれが毎日付き合うからな!」
「う、うん…」
譲治という少年は、どこか迷惑を隠しきれない返事を返す。
「ちょっとキツく言い過ぎたのかなぁ…」
未だに帰宅していない優太を探して、みずほは心当たりを虱潰しに歩き回っていた。
既に薄暗くなった公園の門の前を通過しようとした時、男の子の声を聞いて足を止める。
砂場の横の鉄棒で、二人の男の子の姿があった。
鉄棒の側には二つの黒いランドセルが置いてある。
みずほはそっと公園の植木の影を通って、鉄棒を設置している近くに回り込んだ。
「だから、譲治!根性出せって!」
「出してるよぅ。出してるけど…」*
(*注釈:世の中には、根性だけではどうしようもない事だってあ
る)
そこに、優太とあの泣いていた少年の姿があった。
譲治という泣いていた少年は、懸命に鉄棒にしがみつき、空しく何度も足を上げていた。
みずほは植木の影から二人の姿を認め、満面の笑顔を浮かべる。
二人に気付かれないよう注意して、静かに公園を後にした。
日曜日は爽やかに晴れた。
日陰に入っていないと汗ばむほどの暖かさだった。
みずほと陽一はラーメン屋で早めの昼食を取り、映画の上映時間を見計らって3回目の上映が始まる前に席に座った。
みずほは隣で同時に上映していたヒーロー戦隊スペシャル映画を勧めたが、陽一の猛烈な反対に合い、敢え無く当初から予定のラブコメディ物に落ち着く。
それでも映画の内容は面白く、みずほと陽一はハラハラしながら笑ったりして、映画が中盤まで来た時の事である。
唐突にみずほの手の甲に、別の手の平が重ねられた。
はっとして見ると、みずほのデニムのミニスカートを履いた剥き出しの膝の上に置いた手の上に、陽一の手が重なっている。*
(*注釈:映画館内でイチャつく輩を著者は許さん)
隣を振り返って見ると、陽一の顔があった。
映画館の中は暗くて、表情までは見えない。
端正な顔がスクリーンの光を反射してちかちかと輝いていた。
手の平の暖かさにうっとりとする反面、この状況をどうするかという判断にみずほの思考が混乱する。
胸の鼓動が高鳴り、一層思考が錯乱気味になった。
強く手を握られた。もう片方の手がみずほの頬に迫り、顔がそっと陽一の方に向けられる。
陽一の顔が迫ってくる。
みずほはぐっと歯を食いしばり、小さく言葉を放って首を振る。
「だめ…」
「どうして?… 僕の事が嫌い?」
「違うの。だけど、今はだめ。これ以上は…」
「悪かった。ごめん。」
「私こそ、ごめんなさい。今はだめなの…」
みずほは陽一から顔を背けて俯き、溢れ出そうとする涙を必死になって堪えた。
…カイン…
唇だけを動かして、未だにみずほの心に笑顔だけを刻みつけている相手の名を呼んだ。
…私、やっぱりだめだよぉ…
To be continued …
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