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遙か遠くで幾多の星が瞬く、そのエーテル体のみが存在する空間に僅かな歪みが発生した。
その歪みは徐々に大きくなり、黒い天幕をぐにゃりと曲げて更に拡大し、大きな渦の形を取り始めた。
渦の中心は台風の目のように何もない空間を作り出し、その直径を拡げてゆく。
渦の中心で、何か光る物が現れた。
それは宇宙船の機首のようだった。
拡がったワームホールから、宇宙船の機体の全貌が現れる。
それは、単体での外宇宙航行が可能な超次元高速機だった。
そしてその機首の前方の暗闇に、青く輝く惑星が浮かんでいた。
*スペース・ナビが目標惑星の衛星軌道を演算し、超次元高速機の進路を自動的に修正していた。
(*注釈:このスペース・ナビゲーションは軍に採用されていた物
の払い下げで、少しばかり旧式の仕様である。現在、特に銀河連邦警察内では最新バージョンが使用されている)
正面モニターにアップで映し出された青い惑星を見た時、操縦席に座っていた少女が立ち上がった。長い黒髪が背中で揺れる。
モニターの下部には、その惑星の調査データが刻々と流れている。
オゾン層は破壊され、極度な二酸化炭素の増加とそれに伴う温暖化、そして陸地の砂漠化に酸性雨。挙げるときりのないそれらの項目が、延々と警告事項とし
て表示されていた。
“知的生命体の存在は確認済み”とある。
“但し、要保護観察”とされていた。
少女はモニターに映る青い惑星から目を離そうとしない。この調子では、とても調査データに目を通しているとは思えなかった。
少女の目から感激のあまりに出たと思われる涙が、ひとしずく流れ落ちる。
誰でもそうなのだ。この惑星を見た時の感動は。
そして少女のさくらんぼのような口から、皆と同じ言葉がこぼれた落ちた。
「きれい… なんてきれいな惑星(ほし)なの…」
「芦原みずほ、と言います。宜しくお願いします!」
みずほの元気一杯な挨拶が、落ち着いた客間に響き渡る。
閑静な住宅街の中でも高台に位置する邸宅は、古い歴史を刻んだ洋館風の佇まいを見せていた。
広い客間のテーブル越しに、長身のロマンスグレイの中年男性。その隣には、にこにこと笑顔を絶やさない中年女性。女性の隣には、小学生の男の子がソ
ファーにちょこんと腰掛けており、ソファーから離れて客間の壁を背に大学生と思しき青年が、みずほを物珍しげにじろじろと眺めていた。
「あなたですね、派遣会社から来られたのは。あらまぁ、なんて可愛らしい子でしょう。とても19歳には見えないわ。陽一たちともいい遊び相手になって貰
えそうね。」
中年女性はその育ちの良さそうな、世間知らずな無垢さを隠す事もせず、相変わらずにこにこして言う。
みずほは壁際に立ってこちらをじろじろと眺めている青年を見て、それからソファーにちょこんと腰掛けている小学生に目線を移した。
青年は腕を組んだまま、ぷいと目線を逸らせてしまい、小学生のほうは大きなドングリ眼でみずほを見つめている。みずほの顔に穴が開きそうだ。
“遊び相手… ねえ…”
みずほは心の中で呟いた。どちらも“遊び相手”という年齢ではない。
「まあ、どうか宜しく頼むよ。私は仕事柄家を空ける事も多いのだが、体の弱い家内の事が気懸かりだったのでね。」
中年男性は読んでいたみずほの履歴書をテーブルの上に置いた。
「私は橋本清秀。家内は、紀子と言う。そこに立っているのが長男の陽一。これが次男の優太だ。」
「あ、宜しくお願いします!」
みずほはソファーから立ち上がり、両手を前に深々と頭を下げた。
ぴっちりとした青いジーンズに、赤い長袖Tシャツという素朴なスタイルが余計にみずほの魅力を引き立てていた。
深く礼をした為に前に垂れた、さらりとした黒髪を肩からかき上げる。
「みずほちゃん。こう呼ばせて頂いていいかしら?」
紀子はにっこりと微笑み、みずほに聞いた。
「はいっ!」
「ぼくはおねーちゃんでいいかな?おねーちゃん。」
元気良く答えるみずほに、次男の優太が声をかける。
「なぁに?」
「おねーちゃんの胸、おっきいね。サイズはいくつ?」
ぴきっとみずほの表情が硬直した。
壁際に立っていた長男の陽一がつかつかと歩き出て、拳骨をごちりと優太の頭に落とす。
「うわぁぁぁん!おにーちゃんがぶったぁぁぁぁ!」
「優くん。初対面の人に失礼な事を聞いてはなりませんよ。」
相変わらずの笑顔で動揺一つ見せずに、紀子は泣き叫ぶ次男をなだめている。
「うわぁぁぁん!おかーちゃんごめんなさいぃぃぃ!」
「ほら、私ではなくて、みずほちゃんに謝りなさい。」
「ううう…」
涙と鼻水で顔面を濡らした優太の顔が、みずほに向き直る。
みずほはどう対処してよいか分からぬまま、引きつった笑顔を浮かべていた。
「ひっく… おねーちゃ… ひくっ… ごめんなさい…」
みずほは泣きすぎて*横隔膜を痙攣させている優太が可哀相になったが、自分ではどうしてやる事も出来ない。
(*注釈:誰にでも経験があるだろう)
「来て頂いた早々、騒がせてしまって申し訳ない。みずほ君はどうか気楽にやってくれるといいよ。」
落ち着き払った風格は流石一家の大黒柱である。清秀はソファーから立ち上がり、客間を出ていった。
「みずほちゃん。早速なんだけど、買い物に行って頂けるかしら?」
紀子は台所から、買い物用の丈夫な布で出来た大きな袋を持ってきた。
「はいっ!」
「お財布は袋の中に入っています。これをお願いね、近くのスーパーで間に合う物だから。」
紀子はみずほの手に、買い物の内容を記入したメモを渡す。
「ぼくも一緒に行っていい?」
ずびびびびとティッシュで鼻をかんでいた優太が、話題の中に割り込んでくる。
長男の陽一はいつの間にか姿を消していた。
「優くんはいけません。みずほちゃんのお仕事の邪魔でしょ。」
「う…」
再び火山が噴火しそうだった。
「あ、私は構いません。優くん、一緒に行こうか?」
みずほはすかさずフォローを入れた。
「ごめんなさいね。この子ったら、普段はこんなことは無いのですよ…」
申し訳なさそうに言う紀子の前に、突然優太が飛び込んで来た。
「わー。行こ、行こ、みずほおねーちゃん。僕がスーパー案内したげるよ!」
「うんっ♪」
強引にではあるが優太に手を引っぱられ、みずほは嬉しそうに笑った。
夕方の商店街は活気づいていた。
何かこう、初めて訪れた筈なのに妙な安らぎを感じる。
通りに面した魚屋の前を通過した時、店の奥から魚屋の亭主がみずほと優太に声をかけた。
「おい、優太坊じゃねーか!どーしたい、その隣の別嬪さんは?」
みずほが振り返ると、店の奥から人の好さそうな亭主がのこのこと出てきた。
褐色の顔に幾多の皺が刻まれている。セリで鍛えられたダミ声が、この場の雰囲気に心地よく響いて来る。
「ぼくのおねーちゃんだ!見せるだけだぞっ!」
優太は魚屋の亭主とみずほの間に割って入る。
「ちぇ、なんでぇ。相変わらずのマセガキだぜ。」
「はじめまして。今日から橋本家の使用人として来ました、芦原みずほと言います。」
みずほはぺこりと頭を下げた。
「あ、ははぁ… こちらこそ宜しく頼んます。って、へぇ驚いた。こりゃ確かに優太坊が羨ましいや。」
「ちょっとあんた!なに鼻の下伸ばしてるんだい!」
先程まで客を接待していた魚屋の女房が、みずほたちの前にずかずかと乗り出して来た。所々にシミが浮いた白い割烹着。ころころと丸く太った体に、同じよ
うな丸く愛嬌のある顔が乗っている。
「いやだぜ、妬いてんのかい?ほら、橋本さんチのお手伝いさんだとよ。」
「あんたに言われなくてもね、あたしゃしっかり聞いてたよ!」
女房は愛嬌一杯の顔でみずほの顔を見上げた。
「みずほちゃん、ね?初めまして。あらぁ、ホントに可愛らしい。あたしの若い頃にそっくりだよ。」
「けっ!寝言は寝て言えってんだ!」
間髪入れずに突っ込んだ亭主に、女房はゆっくりと振り返る。
「なんだってぇ…」
「何でもねえよ!さあ、仕事、仕事!」
亭主は持ち場に戻り、おろしかけのサバをひっくり返した。
「みずほちゃん、また来てね。ウチはサービスするからね。」
女房の愛想は決して商売だけのものでは無かった。それは、みずほにもひしひしと伝わって来る。
「はい。ありがとうございます。」
みずほは小さく頭を下げた。
夫婦間の中では*日常的な事であろう剣幕に、圧倒されていたみずほと優太は再びスーパーに向けて歩き始める。
(*注釈:仲の良い夫婦ほど、こういったものである)
「おねーちゃん… 手をつないでいいかな?」
「いいよ。どうしたの?」
家族や知人の前であれ程粋がっていた優太が、おずおずと恥ずかしげに言った。
「うん。おねーちゃんをみんなに見せびらかしてやるんだ。」
少し顔を赤らめてうつむいた優太は、やはり小学生の男の子だった。
「おかーちゃんは昔から体が弱くて、こうして一緒に買い物なんて事、全然無かったんだ…」
「そうだったの…」
繋いだ手の柔らかさと温もりは、商店街の人の温かさと同じだった。
「とってもいい町ね。私、何だかとても嬉しい。」
リズミカルに歩くみずほの背中で、さらりとした黒髪が揺れる。
「でもね、最近ここ、通り魔が出るんだ。」
「えっ?」
優太は子供らしい好奇心を剥き出し、みずほの顔を見上げて言う。
「犯人はいつも捕まってるんだけど、いままで普通にしてた人が急におかしくなっちゃって… 包丁とかゴルフクラブを持って暴れ始めるんだ。」
「いつも、って… 何度もあったの?」
「一週間前にもあったよ。これで三度目。」
「そんなにぃ… 気を付けたほうがいいね。」
「ありがとうございました〜。」
今風の女子高生のバイトであろう、レジにいた女の子の爽やかな挨拶に、みずほも思わず頬が緩む。
レジを通過して、みずほは買い物を袋に仕舞う。
「ねえ、おねーちゃん。どーしてこの野菜がしんせんだなんて分かるの?しかも、どのお肉がやわらかいなんて、食べてみてはじめて分かる事なのに。」
優太は不思議なものでも見るように、袋に納められている買い物を凝視しながら言った。
「ふふ、カンってやつよ。おねーちゃんを信じなさい。」
「はぁい。」
深く考えずに納得するあたりが、やはりまだまだ子供だ。
昔ながらの駐車場のスペースが無い、こじんまりしたスーパーの出口を出る。
店頭のワゴンには、愛らしいクマの模様が施されたスリッパが並んでいた。
みずほは一目で気に入った、黄色いスリッパを取り上げる。
「あ、おねーちゃんが履くスリッパが無かったね。」
「うん。これ、買っておこうかしら。」
みずほと優太は顔を見合わせて笑った。
その時だった。みずほの脳内に、嫌な波長が駆け抜ける。
この感覚… 凄まじい悪意と怨念。
振り返ったみずほの耳に、通りの向こうから悲鳴が飛び込んできた。
見ると一人の青年が、右手に工作用のカッターナイフを振りかざし、こちらに向かって突進して来ていた。
みずほの視線は道の向こう、青年の背後で肩の傷を押さえて蹲っている中年女性を捉えた。肩を押さえている手の間から、流れ出る赤い血が見えた。
「危ないっ!」
誰かが発した声が、商店街に響き渡る。
みずほの視界いっぱいにぎょろりと見開かれた青年の、尋常ではない光りを宿した目が迫って来た。
訳の分からない言葉を発している口から、大量のよだれが飛び散っていた。
次の青年のターゲットは、間違いなくみずほだった。
青年との距離がわずか2メートルに迫った時、みずほは買い物を入れた袋を優太の胸に押し付け、間髪入れずに右足を蹴り上げる。
買い物袋を受け止めた反動で、優太は安全な場所までととっと数メートル後ずさり、その場でぺたんと尻餅をついた。
みずほが蹴り上げた右足は、青年のカッターナイフを持った右手の肘を射抜いた。
カッターナイフが宙に舞う。
みずほは瞬時に青年の腕を掴むと、腰を落として屈み込む。突進してきた慣性を利用し、肩を軸にして青年の体を担ぐようにくるりとそのまま地面に叩き落と
した。
青年が地面に叩きつけられると同時に、凶器のカッターナイフも地面に落ち、かちんと乾いた音を立てる。
背中から地面に叩きつけられた青年は、肺の空気を残らず吐き出しあっさりと気絶した。
「おお〜っ!」
周囲から、やんややんやの歓声が湧き起こった。
エプロンをしたスーパーの店長が店から飛び出して来て、気絶した青年の様子を覗きながら店員に警察に通報するよう指示を出していた。
「おい、コイツはその先のアパートに住んでる浪人生じゃないか?」
誰かがみずほに伸された青年の素性を暴露している。
「ごめんね、優くん。びっくりしたでしょ?」
尻餅をついたまま地べたに座り込んでいる優太を腕を取り、みずほはにっこりと笑った。
「おねーちゃん…」
驚異と畏敬を込めた視線で優太はみずほを見ている。
“ちっ… 邪魔が入ったか…”
心の中で聞こえた声に、みずほははっとして顔を上げる。
みずほは見た。地球の人間には見ることの出来ない元凶が、ゆっくりと低空飛行で飛んでいる様を。
「優くん。ご免だけど、買い物を持っててくれる?あの先でまた同じ事が起こりそうなの。」
みずほは、あの元凶が飛んで行く先を指して言った。
「どうしたの、おねーちゃん… 何があったの?おねーちゃんは一体?」
「おねーちゃんは、悪いことを止めなきゃいけないの。」
走り出そうとするみずほの背中で、さらりとした黒髪がなびいた。
優太はその背中に向けて言った。
「そうか。みずほおねーちゃんは、正義の味方なんだね!」
はたと立ち止まり、みずほは振り向く。
「うん。」
笑顔を残して走り去るみずほの後ろ姿を、優太はきらきらとした目で見つめていた。
「もう後に退けないなぁ、おとなしくしてる筈だったのに… キッド、聞こえる?すぐに来て!」
みずほは走りながらデジタル式の腕時計を口の前にかざし、内蔵された高感度マイクに呼びかける。みずほの呼び声は、遙か成層圏の彼方にいる相手にキャッ
チされていた。
*亜空間ステルスシステムを使い衛星軌道上で停泊していた、超次元高速機『ギラン・ドゥ』内部の格納庫で、真っ赤なバイクがエン
ジンの唸りを上げた。
(*注釈:機体の周囲に亜空間を形成し、肉眼はもちろん軍事衛星
のレーダー網にも探知されない大型兵器を隠匿する際に便利な装置だ。銀河連邦公的機関の常套手段でもある)
格納庫の扉が上部から開き数段階にスライドし、それは暗黒の宇宙空間へと伸びる射出用カタパルトへと変わる。
超次元マシン『アシッド・キッド』は、その真紅の車体をぶるんと震わせた。
それはあたかも主人の窮地を救いにゆく、従者の武者震いのようでもあった。
爆発的な発進と急激な加速で、赤い閃光がカタパルトを一気に駆け抜ける。それは、常人の肉眼では捕捉出来ない程の超高速だ。
宇宙空間に飛び出した真紅のマシンは、赤い光を身に纏いながら加速を続け、自らが作った空間の歪みの中に姿を消した。
To be continued …
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