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ポーリーヌ
ポーリーヌは、かっと頭に血が昇った。
「うるせえんだよ!この、ズベ公!」
「何言ってんだい、インポ野郎が!あたしの前から消えなっ!」
「上等だ。あばよ!」
捨てぜりふを吐いて、マドレーヌの家の扉をくぐった。
頭に血が昇っていた間は良かったが、徐々に冷静になるに従い外気の寒さが骨まで浸みた。
やけくそになって歩く通りは、建物の窓から暖かそうな光が列をなし、なお一層冷たい石畳を照らしていた。
「ポール… ポールじゃないか。」
呼び止められて振り返る。
「やあ、エクトル。」
ポーリーヌの親友、エクトルだった。
「どうしたんだ?浮かない顔だぜ。また、マドレーヌと喧嘩したかい?」
「そんなところさ…」
「喧嘩するほど、仲いいってな。」
「もう、あいつとは会わないよ。あんな、あばずれ女…」
「相当深刻だな。でもお前、マドレーヌとは長いだろ?」
「そんなんじゃねえよ。俺がこの街に来た時、最初に知り合っただけさ。何にもねえんだぜ。」
男と女の関係では無かった。生活を助け合っていた仲間だった。
「何にも?本当かよ?」
エクトルは目を丸くした。信じられないといった様子だった。
「ああ、本当さ。今夜も寒いな…」
ポーリーヌは鼻を啜った。一人っきりの家に帰っても、つまらないのは分かっている。ポーリーヌの心情を察していたのか、エクトルは黙って一緒に歩いた。
沈黙に耐えかねたか、エクトルは思い出したように話し始めた。
「なあ、ポール。この先の大きなお屋敷に、とびっきりの可愛いコがいるんだぜ。知ってたか?」
「さあ、初耳だな。」
「おめめパッチリで色白の娘さ。この前会ったんだ。」
「惚れたか?やめとけよ。お金持ちのお嬢さんだろ。俺達は相手にもされねえよ。」
「そうだな…」
お袋?顔も覚えてないよ。
涙なんざ、とっくの昔に枯れちまった。
俺達は今日のおまんまがあれば、それでいいのさ。
聞き覚えのある歌声が響いてくる。路地の隅に腰掛けて歌っていた老人に、エクトルは声をかけた。
「やあ、ソヴァージュ爺さん。今夜も寒いね。」
反応は無かった。老人は歌い続けている。
「やめとけよ、エクトル。爺さん、もう耳が遠いんだ。」
不意に路地の裏から罵声が湧いた。ただ事でない雰囲気だ。
喧嘩か?
ポーリーヌとエクトルは路地裏に走った。そこには、三人のゴロツキに囲まれて震えている少女の姿があった。
「助けるか?」エクトルはポーリーヌにささやく。
「乗りかかった船さ。俺に任せろ。」
「ああ。喧嘩なら、ポールのものだからな。」
ふらりと路地に入って来たポーリーヌの姿に、ゴロツキ達は硬直した。悠然と歩み寄るポーリーヌから発する、暴力への渇望と破壊衝動がゴロツキ達を威圧した。
三人のゴロツキ達は、何も出来ずにすごすごと去って行った。
「もう大丈夫だぜ。」
ゴロツキ達の後ろ姿から目を離さないまま、怯えきった少女に優しく話しかける。
後から来たエクトルは、あっという顔をした。
「君だったんだ!ここに来ちゃ駄目だ。送っていくよ。こいつはポーリーヌ、みんなポールって呼んでる。」
「そう、ポール… ありがとう。私はアンリエット。」
おめめパッチリで色白… 鈴を転がすような声に、ポーリーヌは一瞬にして心臓を捕まれた。
三日後、ポーリーヌはアンリエットと出会った。暖かな日差しの午後だった。
勝手知った街を案内しながら、ポーリーヌは今までにない最高の気分を味わった。
誰もが振り向く美貌のアンリエットは、隣にいるだけでいい匂いがした。
このまま時間が止まってしまえばと願う事が、彼の生涯にあっただろうか。
あの晩、彼女を家まで送った後、エクトルがしつこく言っていた。
『だろ!だろ!可愛いだろ?いいとこ見せられてよかったな〜。俺もうゾッコンなんだよ。』
エクトルと共にくぐった、修羅場の数々を思い出す。
“エクトルはいい奴だよ。あいつがいなきゃ、俺今頃死んでかも知れない。いや、エクトルだけじゃない…”
「あのさ…」
「なあに?ポール。」
「君のこと、好きって奴がいるんだ。」
「えっ?」
「あの、エクトルだよ。」
ポーリーヌは一歩下がった。この時期は日が落ちるのが早い。暗く湿った路地を吹く風は冷たかった。
ゴロツキどもは数を増やしていた。しかも真ん中の奴は、ポーリーヌが見上げる様な巨漢だ。
アンリエットをエクトルの家まで送り届けた帰り道。
待ち伏せされていたのだ。
口の中は鉄の味がした。血の味だった。
よたよたと歩くたびに傷口が開き、体はあちこちが悲鳴をあげる。
痛かった… 寒かった… 惨めだった…
“畜生… 何やってんだ俺… 何もかも失ったんだ。もう、何も無いんだ。”
ポーリーヌの口から笑みがこぼれた。体を苛む痛みは既に意識の外にあり、自分をあざ笑う自分がいた。
気が付くと見慣れた風景。マドレーヌの家の前にいた。
「無茶したのね… 馬鹿にも程があるわ!」
「そこ、痛いんだ。優しくしろよ!」
「生きてる証拠よ!」
ポーリーヌは目を覚ました。どれ程眠っていただろうか。
隣に、寄り添って眠っているマドレーヌがいた。彼女の栗色の毛をそっと嘗めた。
「フン!心にも無いことしちゃって…」
マドレーヌは眠っていなかった。
「腹、減ったな。何か探しに行こうぜ。」
ポーリーヌは起きあがって大きく伸びをする。傷は既に癒えていた。体を覆う漆黒の毛と、同じ色の尻尾がぴんと跳ね上がる。誇らしげな爪が床を引っ掻いた。
「まだ、動いちゃだめよ。」
「大丈夫さ。」
「あたしも行く!馬鹿、ほっとけないわ。」
お袋?顔も覚えてないよ。
涙なんざ、とっくの昔に枯れちまった。
俺達は今日のおまんまがあれば、それでいいのさ。
街路樹は星をちりばめたように光ってる。漆黒と栗色の毛をした二匹の猫は、ライトアップされた通りを寄り添うようにして歩いていた。
END
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