魔法のリング

 
 終業のベル。
 単調で退屈な一日の終わり。
 同僚達は、既に10分前から帰り支度でスタンバっていた。
 「お先に。」と背中から声を掛けられる。
 「お疲れさま。」ありきたりの挨拶。
 玲子は既に仕事は片づけていた。よりによって、今日に限って、いつもより多い仕事。めげずにアフターファイブの為に、迅速に片づけていったのだ。
 忙しかった。
 でも、未だデスクから離れられない訳がある。
 パソコンのモニターの端に表示された時計を見る。5時10分。
 遅い… 何してるのかしら。
 その時、デスクトップ上に書類が現れた。待っていた物が来たのだ。
 急いで書類を開く。ローカルネットで送付された書類は、他人が見ても意味不明な数字とアルファベットの羅列だった。
 玲子と発信者だけに解る暗号。
 玲子は書類を削除すると、パソコンの電源を切った。
 長い髪を翻してデスクを立ち上がると、挨拶もそこそこにロッカールームに向かう。
 頭の中で、さっきの書類の内容を反復する。一行の数字とアルファベットには、約束の時間と場所の情報が凝縮されている。
 6時半に駅前のブルーベル。会社から徒歩で10分そこらの距離だった。瀟洒な小物屋が待ち合わせの場所だが、まだ時間がある。多分、相手は仕事から抜けられずにいるのだろう。それまで時間を潰してくれ。と、いう事らしい。

 日が長くなっていた。暖かくなって来ている証拠だ。
 通りには家路を急ぐ人が行き交い、今日のこの日が暮れようとしていた。
 何処へ帰るの?大事な人の元へ?
 玲子はこの通りを初めて二人で歩いた、去年のクリスマスの夜を思い出した。
 あれから半年、夢のような半年だった。
 叶わぬ恋と思っていた。諦めても諦めきれないなら、せめて想い続ける事だけが自分に唯一許される行為と信じていた。

 本屋に寄って立ち読み。週刊誌の見出しだけ眺めて、目当ての音楽関係の雑誌が並んでいる場所へ。好きなアーティストの記事を熱心に読み耽る。
 どの位時間が経過しただろう。時計を見ると6時を少し廻っていた。
 そろそろ約束の場所へ。この本屋とは目と鼻の先。
 馴染みの輸入雑貨専門店。入った途端に、インドの香の匂いに包まれる。陳列された小物を観て廻る。そういえばチョーカーが欲しいなと、独り言。
 怪しい装飾を施された大きな指輪が目にとまる。
 魔法の指輪ってこんなのかな?

 しばらくして、良く知っている優しい影が背後から近寄ってきた。
 「待たせたね。ごめん。」
 ほっと安心する声。孤独から解放された安堵。
 「ホントに待ったわよ。」玲子は振り返りざま、笑って答えた。
 「どうしても仕事から抜けられなかったんだ。部下がドジって、尻拭いさ。」
 話しかけた男は、玲子とは違う課の松島といった。有能にして人望も厚く、社内でも女子社員の人気投票No.1だった。
 同僚達も「好き」と言って、彼を影でもてはやしている。
 だが玲子の場合、「好き」というのが彼女らと違っていた。まるで次元の違う「好き」という感情だった。
 アイドル扱いの「好き」ではないし、お付き合いの「好き」でもない。
 見るたびに惹かれていって、合うたびに虜になって、日に日に心の中で存在が膨張してきて、どうしようもない所まで自分自身が追いつめられる。そんな「好き」だった。
 会社を辞める覚悟で思い切って打ち明けた時、相手の同じ想いを聞かされた。
 嬉しさと想い続けることへの心労から、その日は一晩中泣き明かした。既に当時の玲子は、松島に合う事すら辛くなっていた。課の部屋が違うため、四六時中顔を見ることはなかったが、合わないと余計に想いが募るだけ。
 いっそ忘れてしまおう。このままでは、自分がおかしくなってしまいそうだった。せめて今までの思いを打ち明けて、彼の前から消えようと考えていた。
 今、こうして彼と並んで歩いているのは、決して夢でも空想でもない。

 食事の後、駐車場に停めた彼の車の助手席に乗り込む。ルームミラーにぶら下がった、手作りの小さなぬいぐるみが玲子の心を曇らせた。
 ガラス越しに流れる夜の街を眺めながら、玲子は自分の人生と彼の人生の、はかなくも小さな接点を考える。
 絆って、一体何だろう?

 玲子は立ち上る煙草の煙を眺めていた。
 何度も来た事があるホテルの一室。この部屋は初めてだった。
 うつ伏せから肘で起きあがり、前髪をかき上げた。柔らかな肩に髪が流れる。
 松島はベッドの上の灰皿で煙草をもみ消した。
 肘でにじり寄って、松島の厚い胸に頬を乗せる。胸を鼓動を確かめるように、玲子はじっと動かなかった。
 大きな手が玲子の髪を撫でてゆく。
 玲子は松島に体を密着させたまま、顔が同じ高さになるまで這い上がる。
 くちづけは煙草の味がした。
 両手同士をつないで体を重ね合わせたまま、ずっとそのまま。
 幾ら時間が経っただろう。
 この瞬間だけが、彼は自分だけのもの。

 「まずいんだ、最近。社内でバレてるみたいで。どうも僕の家内に誰かが密告したみたいなんだ。」
 「子供さんいくつだったけ?」
 「四歳になる。」
 「かわいい盛りね。羨ましいわ。」
 「家内の様子が変なんだ。どことなく…」
 「素敵な奥さんじゃない。一度見かけた事があったわね。」
 「僕は家内とも別れられないし、君とも別れられない。」
 「だから、このまま?今度、明るい時に海に連れてってよ。」
 「でもこのままじゃ、君の人生が壊れる。」
 玲子は一瞬沈黙した。
 「このままじゃ、あなたの人生も?」
 「死のうか?」
 「いやよ。」
 「そうだな。」
 長い沈黙。
 「もっと、君と早く出会えていれば…」
 それを言っちゃダメ!本当に何もかもが壊れてしまう…
 「言わないで。」
 「ごめん。」

 玲子は、車の窓の向こうに拡がる夜景を眺めながら、本で読んだお伽話をネタに、友達と熱心に話していた子供の頃を思い出していた。

 三つの願いが叶うなら。
 お金持ちになって、綺麗なウエディングドレスと、そして…

 今、三つの願いが叶うなら…
 恐ろしい事を考えていた。

 玲子は両手で顔を覆った。自分が恥ずかしかった。
 「どうしたの?」
 「ううん、何でもないの。」

 目覚ましの、けたたましくも容赦ない音で、玲子は目を覚ました。
 一日の始まり。平凡な一日が始まる。
 仕度をする鏡の前で呟く。
 「三つの願いか…。」

 

END