宇宙の何処かに存在するという、狂気の源。
 突き止めて破壊する事は、人類の手では到底不可能だろう。
 だが、救いの可能性があるとすれば…

 
狂気の波動 2

 

 四時五十分。
 終業のベルが近い。
 岡本久美子はマウスを操作し、シャットダウンのボタンを押した。デスク上のディスプレイに表示されるデータベースの表が消える。
 今日は速攻、五時帰り。
 「今日、早いのね。デート?」
 隣のデスクの同僚が声をかける。
 「へへ… そうかな?」
 思わせぶりに軽く受け流し、久美子は身の回りの片づけを始めた。
 岡本久美子。データベース入力代行の中堅企業に勤めている。
 現在25歳。明るい性格と、責任のある仕事ぶりで周囲からも評判のいいOLだった。
 「ところで、営業の松下さん。どうなっちゃうのかしら?」
 隣の同僚、木元芳子が声をひそめて言う。
 「刑事裁判はこれからでしょ?営業部長、また頭薄くなっちゃうよね。」
 一月半ほど前、同社営業部の者が殺傷事件を犯した。
 誰もが耳を疑った。あの、温厚な松下さんが…
 行きつけのスタンドで、他の客と口論になった。ただ、それだけの事だった。
 だが、あのいつ見ても笑顔を絶やさない、常に周りに気配りを忘れない松下は、アイスピックで二人の相手をメッタ刺しにしたのだ。
 一人は病院に担ぎ込まれた後、出血多量により二時間後に死亡。もう一人も重体、今も入院しているが、片方の目は完全に失明。
 一緒に居合わせた同僚は、彼を止めることも出来なかったという。
 返り血を浴びながら笑っていたと言っていた。
 「何か不満が溜まっていたのかしら?」
 木元芳子は漏らすように言った。
 「そうね。」久美子は言った。『みんな不満だらけよ。』心の中で言った。
 次々と湧いてくる不満。ぶつけるところのない怒り。
 どうすることも出来ずに人々は耐えている。心の奥底で爆発しようとするものを理性で押さえ込み、なんとか毎日を凌いでいる。
 誰もがそうなのだろうか?希に押さえきれずにその怪物を解放してしまった者が、新聞やニュースに名指しで発表されるという事なのか?
 囚われの身から救われるベルが鳴った。
 「お先に。」
 言うが早いか、久美子はオフィスを後にした。
 どうでもいい、そんなことは…
 今は夢中になれる現実が待っている。
 一月前に知り合った男がいた。車のセールスをしている男だった。
 ビルを出た久美子は、路上に停まっている見慣れた高級外車を見つけた。
 走り寄る。
 助手席のパワーウインドウが静かに降りた。
 久美子は車内を覗き込む。
 「ごめん。待った?堀田さん。」
 「いや、今来たところだよ。」
 運転席から微笑む男は星野紀雄だった。

 「シャワー、浴びてくるね。」
 「ああ…」
 星野はベッドに座って岡本久美子の後ろ姿を目で追った。
 憑依認証コードJ26P03492。憑依度一級Dタイプ。
 一月調査を続けたが、身辺での大きな変化は見られない。
 少し前同社に勤務するの者が、スタンドで些細な口論が元で殺傷事件を起こして以来、なりを潜めている。
 厄介な憑依パターンだった。このタイプは自分では手を下さない。
 無差別に感染をばらまくのだ。本人はまるで自覚もなく、意識もしていない上でだ。
 殺傷事件を起こした松下と言う男は、この岡本久美子とは同期に入社している。同期のよしみで二人は親しく、よく飲みに行っていたというが、特に男と女の関係でも無かった。
 その二ヶ月前、彼女の乗り合わせた電車の中で、52歳の作業員が刃物を振り回すという事件があった。彼女とは面識も無く、たまたま同じ車両に乗り合わせただけで、凶器として使われた電工ナイフも常に男が持ち歩く仕事道具だった。
 軽傷三人で彼女に被害もなく、男はすぐに客と車掌に取り押さえれたが、男の動機は「ムシャクシャしていた。」という事だった。
 これはあくまでも、判っている範囲だ。彼女がそこに居合わせた、同じ会社だった、と言うだけである。他にも彼女と少し接しただけだが、攻撃衝動を取り込んでしまった人間はまだ沢山いる筈だ。
 「早く止めなければ…」
 星野は小さく呟いた。だが、上層部からの命令は『調査を続けろ』だった。
 非常に珍しい、憑依パターンのサンプルだからだ。
 しかし、彼女自身には変化が見られる。幼少より狩部一族に鍛えられた“憑依”を見切る能力。“憑依”から身を守る能力。星野は持てる力をフルに使い、久美子を監視していた。最近は出会った頃に比較して、彼女から発散される波形が弱くなっていた。彼女の発する憎悪や破壊願望を誘発する精神波は、当初頻繁に無差別に放射されていたのだが、徐々に少なくなり、今では一日に数度、それも微弱なものとなっている。が、それは彼女の水準の事であり、その波動の強さはやはり精神力の弱い者は一撃でノックアウトされる事であろう。
 だが、何故?…
 「堀田さん…」
 いつの間にか隣に久美子がいた。
 「また会ってくれる?」
 「うん。」
 久美子と唇を重ねた星野は、己の中の変化にさえ気が付かないでいた。

 
 警察署を後にした久美子は、疲れ果てた溜息を漏らした。
 既に時計は七時を廻っていた。闇が初秋の街を支配していた。
 刑事達の執拗な質問責めに、久美子は残った気力の全てを抜かれた様だった。

 見てしまった。第一発見者は私。
 事務所の隣の給湯室で、血に染まった包丁を握って佇む木元芳子の姿。
 流し台に血の手形が滑っている。その先には、胸と腹から泡の混じった血を吹き出している松岡課長の姿があった。
 木元芳子は久美子の顔を見るなり、わっと泣き崩れた。包丁が床に落ちて、少し湿った音を立てた。
 芳子の肩を抱きながら、久美子は倒れている松岡を見た。
 “お局様”と呼ばれた松岡の権力をかさに着たいじめは社内の至る所に及び、社員の誰一人彼女をよく言う者はいなかった。
 『まだ息はあるかしら?早くしないと、芳子は殺人者に…』
 『処置が遅れたらこいつ、死ぬかしら?』
 様々な思いが駆けめぐる中、久美子は事務所へと走った。
 事務所に居合わせた者が殺到する中、久美子は自分でも不思議なほど冷静に事態を客観視していた。
 『メンスの上がったくそババアが調子に乗るからよ… いい気味ね…』
 『どうしてこんな事?芳子… どうなるの?』

 「やあ。」
 肩を叩かれて振り返った。
 「あっ!堀田さん。」
 「大変だったみたいだね。どう?」
 「疲れちゃった…」
 「驚いただろう?」
 この堀田と名乗る星野の優しい笑顔で、久美子に少しだけ気力が戻った。
 「何だか慣れっこになっちゃって… またか、って感じで…」
 「メシ、まだだろ?一緒にどう?」
 「ねえ、堀田さん…」
 「どうして私の周りで、やたらこんな事が起こるのかしら?」
 「…」
 「分かんないよね…」
 コンビニエンスストアの前を通過する時、店の前の駐車スペースたむろする大勢の少年達と目が合った。
 『まずい。』星野の直感がささやく。
 「おい、待てよ。」
 案の定、少年達はぞろぞろと二人の前に立ちはだかった。
 久美子は星野の腕に強くしがみつく。
 一瞬にして広がった“伝染”。更に普段から、ぎらぎらするような攻撃衝動に捕らわれている少年達を誘発するのは簡単だ。
 ターゲットは星野だった。久美子以外なら誰でもいい。目に映る者なら… 殺したい、壊したい…
 これが、憑依認証コードJ26P03492、岡本久美子に憑依したタイプの厄介な性質である。感染元には危害を加えず、他者へと暴力の手を伸ばす。
 任務遂行中。余計なトラブルは避けるべき。
 だが相手は、大人以上の体力と瞬発力を持った少年達。しかも、六人もいる。
 星野は決断を下した。ジャケットの脇に右手を差し込み、肩のホルスターに差した自動拳銃を抜いた。
 「死にたくなかったら、失せろ。」
 静かに言う星野の手に持った拳銃を玩具と見たか、一人の少年が肩を怒らせて近寄って来る。
 「何だよ…」
 乾いた音が響いた。少年の足下のアスファルトに火花が散った。
 「ひっ!」
 星野は銃口をすっと上げた。少年達は銃口に睨まれるまでも無く、慌てて逃げ去ってしまった。
 「堀田さん… あなた…」
 星野はアスファルトに落ちた空薬莢を見つけだし、靴の底で踏み潰すとポケットに仕舞った。
 「説明は後だ。早く。」
 星野は久美子の手を引いて走り出した。

 「説明してちょうだい。」
 携帯電話のスイッチを切った星野に、ベッドに腰掛けうつむいたままの久美子が聞く。
 コンビニエンスストアの前の発砲事件。警察の捜査は今日中に打ち切られる。
 「信じられないだろう。聞かない方がいいのかも知れない。」
 「いったい何が起こっているの?私、どうかしているの!?」
 「伝染病だよ。」
 「伝染病?どんな?私、それにかかっているの?」
 「心の病。」
 「心の…」
 「放っておけば、世界は破滅する。」
 「私、何ともないよ。死んじゃうの?」
 「君は大丈夫。ただ周りの人が次々と…」
 「どうして?みんな私が悪いの?」
 「君が悪い訳じゃない。」
 「あなたは、監視する為に私に近づいたのね。」
 「“処置”を施す為にだ。」
 「“処置”?どうするの?まさか、あなた私を…」
 部屋いっぱいの大ぶりなベッドに星野は近づく。まだスーツ姿の久美子の隣に座った。
 「正直に言うよ。僕は堀田と言う者ではない。偽名さ。この伝染病を監視して、感染をくい止める事を仕事にしている。でも、治る訳ではないんだ。被害の拡大を最小限に抑える為に… 感染者は死ぬ以外に、選択肢は残されていない。」
 「殺してしまうの?」
 「うん。僕の仕事だから。」
 「どうして早く… どうして私を殺さなかったの?」
 「君は特殊な例だった。」
 「でも… その病気にかかっているのは同じでしょ?」
 「…」
 「…本当の名前… 知りたいな。」
 「星野、星野紀雄。」
 「紀雄さん… もう一度、もう一度だけ抱いて…」
 久美子は星野の首に腕を廻して来た。だが舌を絡めながら星野は、久美子から漏れた危険な精神波を察知した。
 久美子の手が星野の胸をまさぐる。
 突如として久美子は星野から飛び退く。
 前に構えた両手の中には、星野が今まで肩から吊っていた拳銃が握られていた。
 「よすんだ。」
 星野はゆっくりと立ち上がった。
 「来ないで。撃つわよ…」
 近寄る星野に対し、久美子は徐々に後ずさる。
 久美子の背中に壁が当たった。もう後が無かった。
 「本当に撃つわよ。…!?」
 引き金に掛けた人差し指に力を込めたが動かない。
 星野の右手が伸び、拳銃を掴まれた。そっと銃口を下に向けられる。
 「セフティを外さなきゃ、弾は出ないよ…」
 星野の優しくも厳しい現実を語る声に、久美子はわっと声を上げてその場にしゃがみ込んだ。
 取り戻した拳銃を脇のホルスターに仕舞い、泣きじゃくる久美子の傍らに跪く。
 「生きたい… 生きていたいの。あなたを殺しても… 死にたくなかった。」
 「周りの人が狂ってしまっても?」
 「…」
 「人々を破滅へと導いても?」
 「…殺して… 私を殺して、紀雄さん…」
 星野は顔を上げた久美子の首に両手を廻した。
 閉じた久美子の両目から涙が流れた。その蒼白になった表情を見つめながら、星野は徐々に両手の力を込めていった。

 星野は首に廻した両手を移動し、久美子の頬を包み込んでいた。
 重ねた唇の隙間から、久美子の吐息が漏れた。

 「私、きっと死んだのね…」
 星野の腕を枕に久美子が言った。
 「そうだね。さっきまでの君は、死んだのかも知れない…」
 久美子から発していた強烈な精神波も、“憑依”された者特有の波形もまるで見られない。
 “憑依”が解かれた。
 岡本久美子は、明日から『国際憑依調査委員会』の日本支部に送検され詳細な調査が行われる事だろう。
 一つの可能性が見えてきた。“憑依”を解くことが出来る可能性。
 星野と久美子の間に芽生えた感情に、その答えがあるのかも知れない。
 もう二度と星野は久美子と会う事は無いだろう。また別々の世界で生きて行かねばならない。
 一瞬の交わった接点は最後の時を迎えていた。
 胸に顔を埋めた久美子を、星野は強く抱きしめた。

 
END 

 

 

 以上は全くの虚偽であり、作者の空想の産物である。
 読者諸氏が仮に現実の危険性と関連づけようと、それは個人の自由であるが、当方は一切の責任を負わない。
 純粋にエンターテイメントとして本稿を楽しんで頂けたら幸いであるが、私は皆様に“憑依”を退ける強い精神力を切望して止まない。
 この物語はフィクションであり、『国際憑依調査委員会』という組織も当然実在しない。実際の事件、事故、個人、団体、史実とは全く関連が無い事を、ここに今一度言及しておく。

Club30-06