この物語の主人公である星野紀雄氏は私の友人であり、今回の執筆にあたり出演を快く承諾してくれた。
 彼の語る事件の内容に当初、私は驚愕と猜疑そして嫌悪感に捕らわれていたのだが、もう一つの真実として公表する責務がこの私に与えられた使命と信じ本稿を発表する。
 なお、この物語はフィクションであり、『国際憑依調査委員会』という組織も当然実在しない。実際の事件、事故、個人、団体、史実とは、全く関連が無い事をここに言及しておく。

Club30-06

 
狂気の波動 1

 

 少年は手に持った金属バットを放り出そうとした。
 指が痙攣して開かない。自由になる左手で右手の指を開き、なんとかバットを掌から外した。
 アスファルトに、血染めのバットが乾いた音を立てて転がった。
 そのバットの先には、バットと同じく血に染まった少年の同級生が三人横たわっていた。

 
 男は、運転している車のアクセルを強く踏み込んだ。
 大勢の人々が行き来する夕方の歩行者天国のアーケード街は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
 一体何人撥ねることが出来ただろう? 一体何人の生命を奪うことが出来ただろう?
 最後に跳ね飛ばした老人の顔が、フロントガラスに叩きつけられた。その恐怖に引きつった表情を、男は死ぬまで忘れないだろう。
 男はゆっくりと車から降りた。手には先程買った刺身包丁が握られていた。
 さあ、あと何人殺せるか?
 男は人だかりに向けて走った。

 
 時計の針は10時を廻った。
 住宅街は静まり返り、家々には家族の団欒の明かりが灯っている。
 道端に一台のバンが停まっていた。ディーゼルエンジンのアイドリング音が静かに響いている。そこらでよく見かける、商用の1トンタイプだ。
 安全基準をクリアしていない旧式の箱バンの中で、星野紀雄はラジオのスイッチを切った。
 歩道を歩いて来る人影を、ルームミラーで捉えたのだ。
 バンの横を通り過ぎる男の顔を見た。
 間違いない。憑依認証コードJ13A85671。
 佐藤修三。35歳。大手保険会社勤務、営業主任。妻と9歳の長男、6歳の次男の四人暮らし。3年前に一戸建て住宅を購入、25年ローン。経済学科を卒業し現在の会社を12年勤める。勤務態度は良く、近所からの評判もいい。
 男が歩き去り、その後ろ姿を見送る。
 星野はサイドブレーキを静かに落とした。ギアをセカンドに入れて、ゆっくりとクラッチを繋ぐ。
 ライトをロービームにして徐々に加速をつけ、サードにギアを入れた瞬間アクセルを床まで踏み込んだ。
 男の振り返った顔を見たのは一瞬だった。
 次の瞬間、がくんと車体が揺れる。
 星野は巧みにハンドルを操作し、歩道に乗り上げたバンを操った。
 左側の前輪、続いて後輪と巻き込む音を確認する。
 残された男の体を、ルームミラーで一瞬だけ見た。即死である事を願った。
 意図的に人を轢く場合は、バンかトラックの様にボンネットの無いものを選ぶべきである。セダンやクーペでは対象者を跳ね飛ばしてしまい、ボンネットに乗って来てフロントガラスに直撃する事となり、殺害者自身も危険な場合があるからだ。ところがこの手のボンネットの無い貨物車だと、対象者を下側に巻き込んでしまうので確実な殺傷が可能だ。
 星野は巧みにバンを操り、夜の住宅街を後にした。

 町外れの小さなモータースへと、星野はバンを乗り入れた。
 油に汚れたツナギを着た、初老の小柄な男が詰め所から出てくる。
 「首尾は?」
 ツナギの男が聞いた。
 「いいだろう、多分…」
 星野はバンのドアを開け、降りながら静かに答えた。
 「だろうな。」
 白髪が混じった角刈りの頭を掻きながら、ツナギの男はバンのフロントを点検する。
 「即死だよ、こりゃ。」
 ウインカーが壊れ、血がべっとりと付いた左側フロントを差して言う。
 「もういいよ… 早く処分してくれ。」
 軽い疲れを見せる星野の肩を、ツナギの男は軽く叩いた。
 無言で去る星野の背中をツナギの男は暫く見送り、今しがたまで星野が乗っていたバンを振り返る。
 「さて、今晩中に解体だ。」
 ツナギの男は小さく言った。

 自分の車に乗り換えた星野は、夜の街を静かに走らせている。
 ラジオからは未だ、轢き逃げ事件に関する報道は無い。
 警察は即座に捜査を開始するだろうが、一週間以内に捜査はうち切られる筈だ。
 上からの圧力によってである。
 一度会社の事務所に寄り、今日の報告書類をまとめなければならない。連日の残暑は厳しい。星野は帰ってシャワーを浴びたいと思ったが、それは許されないだろう。
 星野の勤務する会社は、全国にチェーンを持つ中古車販売業者だった。
 セールス担当の表向きの肩書きは、実行班としての動きが取りやすい。
 それは、『国際憑依調査委員会』の日本支部の表向きの顔だったからだ。

 
 人類は過去より何千年もの永きに渡り、正体不明の侵略者と戦ってきた。
 未だにその敵の正体は掴めないでいる。

 判っている事は、奴らは異次元または外宇宙(仮にそう呼ぶ)から来る事。
 人間に対し、“狂気”と言う形で“憑依”する事。
 “憑依”された者に関わると“伝染”する事。
 
 
 男は駅の改札の前で尿意をもよおした。
 男の名は藤谷勉。大手の外食産業の会社で、チェーン店を開発するスーパーバイザーだった。
 今年で49歳。大学に通う娘と妻の三人暮らし。
 仕事の都合で家には殆ど帰る事がなく、ビジネスホテルを渡り歩く毎日だ。
 今日はこの駅から乗って、新幹線を乗り継ぎ次の町へと向かう。
 藤谷は数ヶ月前から、己を蝕む願望に悩まされていた。
 トイレは何処だ?
 目の前を通過する人の群。
 邪魔だ。どけ!俺の邪魔をするな。
 殺すぞ…
 何故、殺さなくてはならないのか? ただ、目の前を歩いている人を…
 此奴らを皆殺しにしてやったら、どんなに清々しいだろうか?
 何を考えているのだ、この俺は?
 理性で押さえ込むのがやっとの、強烈で暗い衝動。
 男子トイレに入る。午後二時の公衆トイレに他の利用者はいなかった。
 むっとするようなアンモニアの臭い。
 小便器の前に立ち、藤谷は大きく息を吐いた。
 疲れているのだ… 多分。
 人が入って来た。
 気にせずに用を足す藤谷は、次の瞬間、首に回った細い輪に釣り下げられて自分の体が宙に浮くのを感じた。

 憑依認証コードJ15D67953。藤谷 勉。
 星野は用を足す藤谷の後ろで手袋をはめ、腰のジャケットの裾に隠していた針金で作られたありきたりのハンガーを取り出した。
 服を掛ける三角の部分を大きく丸く広げると、突然藤谷の頭に通し首に掛け、ハンガー上部のフックの部分を掴んで背負い込む様に引き上げた。
 背中で対象者がもがいている。対象者をハンガーで背負ったまま、ドアが開け放たれた大便用の個室に向かう。
 星野は背負い込んだ左腕の時計の秒針を睨んでいた。
 10秒。
 背中の対象者が大人しくなった。
 自分と対象者の体を入れ、ドアを片手で閉める。鍵を掛けた。
 更に背負い直し、時計の秒針を見る。
 一分経過。
 これで対象者の蘇生率はゼロとなる。後は発見が遅れれば遅れる程良い。
 星野はハンガーを折り畳むと、スラックスのベルトに挟み込んだ。壁越しに外の気配を伺う。
 壁の上部に手を掛け体を持ち上げた。素早く隣の空きの個室に降りる。
 人の話し声が近づいて来ていた。ドアを閉め、外に意識のアンテナを張り巡らす。
 雑談に興じている男が二人、用を足し終わるまで待つ間、星野は殺害に使用したハンガーを小さく折り畳んでポケットに仕舞った。途中、どこかのゴミ箱に捨てる為だ。
 彼らが立ち去るのを確認し、一応便器の水を流す音を立て、星野は個室を後にした。

 
 “憑依”が確認された対象者は、抹殺しなければならない。
 他に彼らを救う手段はなく、放っておけば更に被害者は続出する。

 過去、ハーメルンで起こった三百人の子供達が失踪した事件。ロンドンで娼婦が次々とメスで切り裂かれた事件。これらの怪事件や、各国で頻繁に発生する暴動等。更に深い動機も無く、刑事責任を問う事さえ困難な発作的感情的殺傷事件。多くの場合この“侵略者”がきっかけを作っているのだ。
 国により治安状態や民族性でのばらつきがあるが、インドやネパールといった古来より防御の強い国と、アメリカやラテン系ヨーロッパ諸国の様に比較的弱い国が存在する。
 日本は本来、防御力は世界でもトップクラスだった。それは約千年前、一人の天才が成し遂げた偉業。彼が全国を行脚し構築した“結界”で更に強化されていたのである。
 だが近年、鉄壁を誇った日本の防御力は徐々に崩壊を始める。
 チベットから流れ出る浄化を伴う地球的規模のエネルギーは、高い山を伝って流れて行く性質があるのだが、日本では富士山がそのアンテナの役割を担っていた。
 その富士山より流れるエネルギーの恩恵を、最大限に受ける事の出来る場所。
 関東平野を切り拓き三百年の安泰を実現させた武将。その懐刀として有名であり、全国の忍者を束ねていたとも噂される怪僧の設計した完璧なる都市計画。
 その中心部こそが、その場所であった。
 だが、そのエネルギーの流れを遮断するかの如く建った新都庁の凶相は、富士山より現在の皇居への流れを阻んでしまった。
 そして経済崩壊、カルト教団の暗躍等の国内不安が増加。そして彼ら“侵略者”の“憑依”を容易に許す事態となった。

 防御力にも個人差がある。“憑依”されやすいタイプ、“伝染”を受けやすいタイプ。また、その時によっての精神状態や体調等のコンディションも左右される。

 国連の設立と同時にスタートした『国際憑依調査委員会』の前身機関は決して表に出る事はなく、かつ各国への影響力と情報網を広げていった。
 現在最高機密に属するこの機関の圧力は、ICPOや世界各国の警察機関の上に存在し、各国を監視下に置いている。

 星野はその調査実行人員として育成された。
 “憑依”状態を見切る特殊な能力。
 遺伝的才能と、幼少からの修験道によって鍛え上げられたものだ。
 他の国同様、日本にもこの“侵略者”を排除する組織が古くから存在した。
 “狩部”と呼ばれたこの一族は、調査により遺伝的才能を持つ者を子供の頃に攫う。そして必要な教育を叩き込むのだ。
 俗に言う“神隠し”として、それは幼児失踪事件として迷宮入りを迎える。
 星野は六歳の時に組織に拉致され、その後全国の霊山を渡り歩きながら“狩部”の教育を施された。
 現在も親兄弟と会うことは無論、生地を訪れる事も許されない。

 
 憑依認証コードJ26P03492。岡本久美子。
 星野はがらんとした夕闇が迫る事務所で、自分のデスクに座り念入りに資料に目を通していた。
 数枚の写真の中でまだ若いOLの微笑みがあった。
 憑依度一級Dタイプ。最悪の危険度。
 次の仕事だ。だが、処置は従来の方法と異なる。憑依された対象の症状とその被害が異なるからである。
 星野は静かに椅子から立ち上がった。
 夕闇が窓の外を支配し始めていた。

 
続く