昨 日

 
 僕はドアの鍵を開けた。
 西日をまともに受ける僕の部屋は、夕方の熱気でむっとした空気が漂っていた。
 誰もいない僕の部屋は、無言で僕を迎えた。

 僕は教科書の入ったバッグをテーブルの横に放り投げる。
 「ダメだよ!ちゃんと片づけないと…」
 「休講だったの?」
 「今晩、何にしようか?」
 「あのさ、明日どこ行く?」
 彼女の声が耳に届きそうだった。
 今晩、何にしようかな?
 
 学食で僕が彼女に声をかけたのが始まりだった。
 レポートを写させてもらったり、一緒に映画を観に行ったり、離れてまた出会う機会が最高に楽しかった。

 彼女が僕の部屋に転がり込んで来たのは、一月前の事だった。
 雨の降る夜、彼女はずぶ濡れでドアの前に立っていた。
 「親とケンカしたの…」
 手荷物を抱えた彼女は淋しそうに笑った。

 雨に打たれた彼女の体は冷え切っていた。
 僕は風呂の湯を入れながら彼女に聞いた。
 「どうして?」
 「…」
 彼女は答えなかった。
 「ほら、タオル。着替えあるかい?」
 首を振る彼女に、僕は自分のシャツを渡した。

 僕のシャツを着た彼女と僕は、黙ってテレビを見ていた。
 無言。長い沈黙と、つまらない番組。
 「…どうするのさ、これから…」
 僕はやっとの思いで会話を作った。
 「分からない…」
 彼女と付き合って、始めて経験する気まずい雰囲気だった。
 今まで僕たちは何もなく、友達の関係だったから。
 「寒くない?」
 「ううん…」
 下心、バレバレのセリフだ。
 でも彼女の横顔を見ていると、僕は彼女の全てが欲しくて、気が付くと彼女の半乾きの髪をそっと撫でていた。
 彼女の肩は細く柔らかくて、強く抱くと壊れそうだった。
 あの晩、僕は始めて彼女を抱いた。
 僕も彼女も始めてだった。
 僕も彼女も寂しかったんだ。

 彼女の胸は柔らかく、鼓動の音が聞こえた時、胸を締めつけられる思いがした。
 きっと彼女も同じだっただろうか?
 「痛い…」
 そう言った彼女の目に、小さく涙が浮かんでいた。

 目が覚めると彼女がいた。
 僕の腕の中に彼女がいた。
 夢でなくて本当に僕の隣に彼女がいた。
 
 
 ベトベトした顔を洗い流そうと、僕は台所の流し台に向かう。
 今日も暑かった。シャワーを浴びたかったけど面倒くさい。
 蛇口をひねり水を手に受けながら、ふと窓際の台に目をやる。
 二本の歯ブラシ。
 僕は蛇口から勢い良く流れる水の音を聞きながら、顔を洗うのを忘れてピンクの歯ブラシを見つめている。
 彼女の痕跡。
 彼女は昨日まで、確かにここにいた。
 この僕の部屋にいた。
 
 
 僕たちはコンビニで必要なものを買い揃えた。
 嬉しそうな彼女の顔が、今でも目に浮かぶ。
 「あっ、そうだ!歯ブラシ、歯ブラシ…」
 彼女が買い物かごに放り込んだピンクの歯ブラシを見た時、期待と不安と後ろめたさの中、僕は彼女と暮らす事をその時始めて実感した。
 「おはよう」と、
 「おかえり」と、
 「おやすみ」の、僕たちのままごと遊び。
 でも、本当にままごと遊びだったら良かったのに。
 「また明日」で終わっていたのに。
 
 
 テーブルに彼女の置き手紙。
 昨日僕が帰った時、置いてあった場所のまま。

 家に帰ります 今までありがとう
 そう書いてあった。

 もう会えないの 
 そう書いてあった。

 ごめんなさい
 最後にそう書いてあった。

 彼女に何があったのか判らない。でも、もう会えない事は僕にも判った。
 今日の講義に彼女の姿は見えなかった。
 キャンパスには彼女は出てこない。
 そんな確信が僕にはあった。
 二度と会えない。
 そんな確信が僕にはあった。
 親に連れ返されたの?
 電話で確かめる勇気は僕には無かった。
 きっと彼女は彼女の意思で、僕の部屋を出ていったんだと思う。
 確かなことは、僕は彼女を失ったという事実。
 追いかけるだけますます辛くなる、惨めになる、そんな気がした。

 窓を開けると見慣れた風景。
 箱庭の様な町並み。
 この眺めが彼女は好きだって言っていた。
 この風景を眺める彼女が、僕は好きだった。
 風呂上がりに扇風機の前で髪を乾かしていた彼女が、僕は好きだった。
 ゴキブリを異常に怖がっていた彼女が、僕は好きだった。
 スーパーの日替わり特売を買って得意げに話す彼女が、僕は好きだった。
 でも、未来が見えない今だけの二人は、やっぱりままごと遊びだったのかな。

 僕は、壁に立て掛けてあったギターに手を伸ばす。
 どうしても寂しい歌しか思い浮かばない。
 途中でコードが思い出せなかった。
 ギターの音が止まったまま。

 ギターのボディに水滴が落ちた。
 僕は泣いていた。
 手紙を書きながら、きっと、彼女も同じように泣いただろうか?
 格好悪いと思ったけど、今泣いておかなくちゃと思った。
 僕は声を上げて泣いた。
 子供の頃の様に泣いた。
 今泣いておかないと、これから先、ずっと心の中で泣き続けるだろう。
 明日から、何も無かったように、僕は笑いたいから

 彼女との楽しかった思い出だけを、僕の部屋に留めておきたいから

 

END