風のなかで…

 
 海沿いの田舎の小さな町並みを抜けた。
 膝の間の2サイクルエンジンは、正確な鼓動をRZのボディに伝えている。
 直人はクラッチを切ると、左足のペダルを二回踏んだ。
 今までの町並みの混雑でスピードをセーブしていたが、今では道が開け前を走る車もいなければ信号も無い。
 水を得た魚のようにRZは加速を始めた。
 それでも直人は、5000回転あたりをキープしてギアを上げてゆく。6000回転あたりからの爆発的なパワーを制御しているのだ。
 ピーキーなエンジン特性を持つバイクは、ツーリングには不向きだ。扱いの難しさとエンジンが生み出す震動で、慣れない者はすぐに参ってしまう。
 町乗りも直人にとっては日常的な事だった。『アバタもエクボ』とは言ったもので、惚れ込んでしまった相手の全てが愛おしい。
 この先のカーブを曲がると海の景色が広がる。
 直人は滑らかに自分とマシンを傾け、コーナーを曲がってゆく。
 青い景色が眼前に広がる。
 陽光に輝く波と、遠くに広がる島の影。漁船と飛び交う鳥が直人を迎えた。
 今までの町並みを走っていた時の、アスファルトから立ち上るむっとした熱気が嘘の様に消えた。涼やかな海の風が、直人のブルゾンをはためかす。
 磯の匂い。
 直人はフルフェイス越しに、肺一杯に空気を吸い込んだ。
 この瞬間が好きだった。
 風になれた瞬間…

 サイドスタンドを立てたRZ250は、静かに午後の光の中に佇んでいた。
 白いタンクとヘッドランプが陽光を反射している。
 直人は防波堤に座り、時間の流れを満喫していた。
 海沿いの寂れたレストランの駐車場は、直人のお気に入りの場所だった。天気さえ良かったら真冬でも来る。ここから見渡せる海の景色が好きだった。季節ごとに様々な表情をみせる風景が好きだった。
 黒いバイクが駐車場に入ってきた。単気筒特有の排気音は、直人のRZから車一台分離れた場所で止まった。
 スタンドを下ろし、マシンとは不釣り合いな程の華奢なライダーは、跨ったままフルフェイスを脱いだ。
 流れる長い髪が直人の目に焼き付いた。
 「女か…」
 直人は口を動かさずにつぶやく。
 女は直人のRZと直人を一瞥し、マシンを降りて自動販売機に向かった。
 直人はブルゾンをまさぐり、煙草を一本口にくわえる。リーバイスのジーンズのポケットに手を突っ込み、愛用しているジッポを取り出した。
 フタを開けた親指でヤスリを回転させる。こいつはあらゆる天候に左右されず、確実な着火を約束してくれる。
 煙を肺に吸い込み、再び海に目を向けた。

 「こんにちは。どう?」
 直人の視界の横に、コーラの赤い缶が飛び込んで来た。
 「あ、ありがとう…」
 受け取った缶の冷たい汗が、掌に広がってゆく。
 「よく来るの?」
 黒いバイクに乗って来た女は、直人の座ったコンクリートに寄りすがって、缶コーラのプルタブを起こした。肩より少し伸びた髪が、白いTシャツの上に羽織った革ジャンバーにかかっている。直人と同じ位の年、二十三・四だろうか?
 「うん。たまに…」
 「凄いわね。RZでしょ、これ? 初めてナマで見たわ。」
 「君も、じゃない? SRXなんてさ。」
 「私、キックじゃエンジン掛けられなくて…」
 「あはは… なるほど。」
 直人は顔の横にコーラの缶を上げた。
 「頂くよ。」
 「どうぞ。ここっていいわね、何だか落ち着けて。」
 「僕のお気に入りなんだ。」
 「どうして、RZ? 昔から乗ってるって歳でもないでしょ?」
 「昔、隣の家のお兄さんが乗っててさ。憧れだったんだ…」
 「それで、Q車探したの?」
 「そ。見つけたよ。しかも初期型!」
 「キレイに乗ってるわね。」
 「極上車だったよ。ウンコマフラーもばっちり。」
 「ウンコマフラーぁぁっ? あはは!言われてみればそうね。」
 「シートがちょっとアンコ抜きされてたぐらいで、後はきれいなままのノーマル仕様。」
 「ふふ… 好きなのね。」
 「うん…」

 白と黒の二台のバイクは、海から吹く風の中で佇んでいた。
 「気持ちいいよね…」
 バイクを眺めていた女がつぶやく。
 「暖かくなったお陰でさ、オーバークールの心配しなくていいんだ。」
 直人は答える。
 「どうして?」
 「初期型は、ラジエーターにサーモが付いてないんだ。だから、冬場はガムテープ貼ったりとか大変だよ。」
 「維持するのって大変だよね。でも、それがいいんだね… 私、やっぱりコイツがいいわ。親も友達も危ないって反対するけど。」
 女の髪が潮風に流れた。
 「乗ったモンでないと、判らないよな。この感じ。」
 「そう… 車じゃ違うのよ。」
 「なんて言うか… 自由っていうのかな…」
 「風になれるの…」

 
 どれ程の時間が経っただろうか…
 風と自由と、そして心に芽生えた小さな気持ちを満喫した時間。
 「さて、帰るか…」
 女は空き缶を捨ててきて、自分のバイクに向かおうとしていた。
 「あ… あのさ…」
 「ん?」
 直人はありったけの勇気を絞り出した。
 面識の無い他人同士、ダメで元々。
 「今度、違うところ走らない?」
 女の顔に一瞬の驚きが走った。
 風になびいた髪の間から笑顔が広がった。
 「うん。」
 直人は自分のバイクに走った。キィを差し込みシートを開いて、工具箱に入れてあるボールペンを取り出した。
 メモ用紙が無かった。残った二本の煙草をブルゾンのポケットに押し込むと、空になったパッケージに自分の電話番号を書き殴った。
 「オレ、直人。小野直人。」
 電話番号を書いた煙草のパッケージを女に突き出した。
 女は直人から煙草のパッケージを受け取ると、タンクに乗ったツーリングバッグからメモ帳を取り出し、書いた一枚を破って直人に渡した。
 紙には電話番号が書いてあった。
 「あたし、さやか。野上さやか。 へへ… 思い切って声かけて良かったな。コーラのモト取れたよね。」
 さやかはバイクに跨ると、ミラーに架けていたフルフェイスを取り上げた。
 頭を小刻みに振って顔にかかった髪をよけ、フルフェイスを被った。顎のベルトを締め、グローブを手にはめた。
 セルの音で息を吹き返した単気筒は、小刻みなアイドリング音を奏でている。
 「じゃあ、またね。」
 フルフェイス越しに、さやかの声が響く。
 「うん。日曜日、明けてるから。」
 答えた直人はシールド越しに、嬉しそうなさやかの目を見た。

 去って行くSRXを目で追っていた。道路の彼方に消えるまで眺めていた。
 直人はRZに跨ると、軽快にキックを踏み降ろす。
 2サイクル特有の甲高い音が、直人の胸の高揚を祝福するかの如く駐車場に響き渡る。
 初夏の風は、マフラーから吹き出すオイルの匂いを運んでいった。

 

END