家 路

 
 「ちょっと、お客さん。」
 スーパーを出たところで、香奈子は追いかけてきた店員に呼び止められた。
 「はい。」
 「バッグの中、見せて貰えませんか?」
 「え?」
 「レジを通ってない商品があるんですよ。」
 屈強な店員の、確信に満ちた言葉だった。

 スーパーの事務所の机の上に香奈子のバッグが口を開き、隣にマニキュアの小瓶と生理用品が並べられていた。
 これで、捕まったのは三回目。以前は他のデパートだった。
 「お名前とご住所を…」
 店員の見下した態度、冷たい質問に淡々と答える。
 「家の方に来てもらいます。警察には突き出しませんから…」
 店員は電話で主人を呼んでいた。
 机の上のマニキュアの瓶を眺めながら、なげやりな気持ちは更に大きくなってゆく。
 お金が足りなかった訳ではない、別に欲しかった訳ではない。
 発端は商品のボールペンを、うっかりポケットに入れたままレジを通過した事。
 故意に始めた時、最初は手が震えた。一度知ってしまうと、抜けられなくなっていた。
 その行為は香奈子にとって、日常的な刺激になっていた。

 主人の背中を眺めながら付いて歩く。
 一通りの手続きを済ませ、主人は平謝りをして解放された。
 日曜日の商店街は親子連れや若いカップル、様々な人が通り過ぎる。香奈子は自分たち二人だけが、別の空間を歩いているような錯覚を覚えた。この商店街の風景は別の世界の出来事。幻…
 香奈子たちが住んでいる、マンションが見える公園まで帰ってきた。
 今どき日曜日の公園で遊ぶ子供の姿はない。ブランコは冷たい風の中で、時間が止まったように沈黙していた。
 主人は立ち止まって、初めて香奈子に口を開いた。
 「びっくりしたよ。家でビデオを見ていたら、急に電話が鳴るんだから。」
 「…」
 「もうしないって約束してね。」
 「ごめんなさい…」
 「今夜何にしようか?外で何か食べようか。」
 「いいわよ…」

 叱ってもくれない。
 優しい人。
 優しすぎる人。

 香奈子たちは、結婚して三年になる。
 子供には、依然恵まれなかった。
 年収はそこそこにある主人のお陰で、このあたりでは高級と言われるマンションに住み、何不自由なく生活できた。
 友人の紹介で合わされた時から、香奈子に一目惚れした主人は猛然とアタック続けた。香奈子にその気は無かった、流されたと言ってもよかった。
 「私の人生、こんなものね。」
 自分に言い聞かせる独り言だった。
 このまま歳をとって消えてゆくの…

 平日の午前中は、オーバーに芸能人のスキャンダルをあおり立てる番組が続く。
 居間のソファーに沈んで、お気に入りの紅茶を飲みながら香奈子はふと、主人のジャケットのボタンが外れかけているのを思い出した。
 今日こそは買い物に行かないと…
 またあの悪癖が出るのを恐れ、部屋に隠って三日になる。
 裁縫箱から剃刀を取り出し、ジャケットのボタンを探って外れかけたボタンの糸を切った。
 剃刀に視線を移す。
 ピンクの握りはあの時と同じ。
 香奈子は左手首をかざした。九針縫った大きな傷が袖から現れた。

 湯船に浸かって手首に剃刀の刃を滑らせた時、不思議と痛みは感じなかった。
 すっと開いた皮膚から小さな赤い固まりが吹き上がり、徐々に手をつたう血の流れとなり、風呂場の床を染めた赤い流れをぼんやり眺めていたのを覚えている。
 父親に発見され、堅く腕をタオルで縛られ救急車の担架に乗せられたらしい。
 ボタンの穴に糸を通しながら、今日は実家に帰ってみようと香奈子は考えていた。

 電車に乗って30分足らずの距離にある香奈子の実家は、住宅の隙間に畑が残る静かな町だった。普段、主人の車で来ることに慣れていた為か、駅からの道のりは長く楽しいものだった。
 子供の頃学校に通っていた道は、今では細く小さく感じる。途中に通っていた小学校を覗いてみると、校庭はひどく狭かった。校舎が増築されていたりして、少し変わっていた。
 道沿いの小川には、当時メダカがいた。メダカを見ていたら蛇が出てきて驚いたこともあった。
 よく友人達と隠れん坊をした通りを過ぎると、香奈子の実家が見える。

 家には誰も居なかった。
 鍵を隠している場所も昔と同じ。
 鍵を開けて玄関に入ると、懐かしい匂いがした。実家の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ香奈子は、家に帰った実感を味わった。
 母は、買い物にでも出かけているのか?
 香奈子は階段を登り、二階にある自分の部屋のドアを開いた。
 懐かしい自分に出会えた瞬間だった。
 机もベッドも、本棚に並んだ教科書やコミックスもそのままだ。
 学生時代の手垢に汚れた英和辞書を引き出し、ベッドに腰掛けてめくっていった。赤いラインが次々と目に飛び込んでくる。
 愛読していたコミックの単行本や写真集などを引き出し、当時の感情や価値観を次々と再生させていった。
 どれ程時間が経っただろう。
 何気なく手にした昔のアルバムの隙間から、一枚の写真が落ちた。
 写真には長い髪をした自分と、忘れることの出来ない人が写っていた。
 夏の写真だっだ。ドライブをした先で、他の観光客に撮ってもらった一枚。
 忘れようと努力した記憶がまた蘇り、楽しかった思い出が香奈子の表情をゆっくりと溶かしてゆく。
 くだらない事でも、涙が出るほど可笑しかった。
 あの人のおどけた顔が、今でも瞼に焼き付いている。
 初めての夜は、身も心も全て彼に投げ出した。
 朝が来るのが怖かった。
 この写真の日、この日の為に用意した接着剤で張り合わせた25セントのコインを二人で海に投げた。
 絶対に離れないようにと。
 砂浜の二人の足跡が、潮が満ちて消されるまで海を眺めていた。

 帰らぬ日々。
 帰らぬ人。
 もう一度あの時に戻れたら…
 後を追うつもりで手首を切ったが、逝くことは叶わなかった。
 あの日の誓いは二人で破ってしまった。
 写真に水滴が落ち、レンズのように写真の香奈子の顔を歪めた。

 香奈子は泣いた。
 泣き続けた。

 何に泣いているの?
 過去の自分に?
 いや、現在の自分に。
 自分の境遇に?
 いや、きっと自暴自棄だった自分に…

 写真に落ちた涙を、指先でそっと拭った。
 涙と嗚咽が収まったとき、初めて冷静に自分を見据える事ができた。

 何をしてるの私?
 過去に引きずられ、魂を抜かれてしまったの。
 悲しい事だらけじゃない。
 楽しいこともあったでしょう。
 もう何も見たくないの。
 今まで、いろんな事を見てきたじゃない。
 もう何も感じることが出来ないの。
 感じようとしないだけ。
 私の生きる事に意味があるの?
 意味の無い人生など有りはしないわ。
 こうして、生きている事に意味があるのだから…

 「香奈子。香奈子、帰ってるの?」
 一階から母の呼ぶ声に、香奈子は我に帰った。
 返事をしようとした時、胸のあたりから強烈な吐き気がこみ上げてくるのを感じた。

 

END