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鋼の夜
居酒屋に付き合わされての帰り道、浩一は苛立っていた。
何もかもが面白くない。先月の営業成績は最悪だった。営業課長のゴマジオ頭がゲキを飛ばす。無能なヤツは辞めろだと。それなら、お前が真っ先に辞めろ。お前らの様な無能な管理者が蔓延るから、景気は回復しない。努力だの、根性だのほざいておいて、自分はワープロのキーも満足に叩けない。全て事務の女の子任せだ。なぜあの年代は、自分に優しく、他人に厳しくなのか。人に努力を強要することだけに専念している。見習うべき手本があれでは、俺達はどうすればいいんだ。
そんなことを考えながら、コートの襟を立てて繁華街の裏通りを歩く。同僚たちとの二次会は断った。今日はとてもそんな気分じゃなかった。
一ヶ月前、別れた優子の事が頭に浮かんだ。「別れましょう。」フラれたんだ。見事に。
今頃、優子は他の男の腕の中。
ツイてない。
この経済大国は、俺達の痛みを肥やしにして飽食を貪っている。
そして、バブル時代に調子に乗っていたやつらのツケが下から回ってきて、俺達ヒラのサラリーマンが路頭に迷う。家庭は崩壊する。女にはフラれる。
ふざけた構造だ。
浩一はそこらの看板を、蹴り廻して歩きたい衝動を押さえて歩いた。
ふと、路地の端に小さな新聞の包みが目に入った。
足で軽く蹴ってみる。大きさの割に重たい物だった。
普段、その様な得体の知れない物を意識することは無いのだが、何故かこの日は違っていた。精神状態と状況と、少しアルコールのせいもあったかも知れない。
周りに人の気配が無いのを確かめて、コートのポケットに滑り込ませた。
だれも出迎えない一人のアパート。鍵を外してノブを廻す。玄関に入って灯りをつけた。さっき拾った包みは下駄箱の上に置いた。
風呂の湯を入れながら、部屋着のジャージに着替えた。テレビを付けて、アパートの前の自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開く。
さっきの拾いものが気になって、下駄箱に取りにいった。
リビングの床で新聞紙の包みを解く。厳重に包まれていた。新聞紙の中から更に黄色い油紙が出てくる。
油紙の中から蛍光灯の光を黒く反射して、一挺の拳銃が現れた。S&W M36。.38チーフ・スペシャルだ。浩一には銃の知識は皆無だが、ドラマや映画で見る拳銃の種類であることは解った。
モデルガンか?
小柄でずしりと重たい拳銃は、浩一の手の中で怪しく光った。
いろいろ角度を変えて眺めてみた。たしかこのタイプは、弾倉が横に出るやつだった筈。触っているうちに、横に付いたマガジンラッチを押した。カチンと乾いた音がしてマガジンシリンダーが動き出す。蓮根状の弾倉が横に開いた。スイングアウトされたマガジンの後ろに、.38スペシャルのカートリッジのリム部分が、円を描いて5つ並んでいた。
これが弾なのか。どうするんだ?
シリンダーの前に付いたロッドを押すと、弾が突き出されてくる。
全部抜いてみた。.38スペシャル弾は、先端に穴を穿ったホーローポイント弾が3発装填されていた。残りの2つには弾頭が付いていない、撃った後のエンプティケースだった。
浩一はモデルガンではない事に気が付いた。スナブ・ノーズの銃身は見事にライフリングを刻んで開いている。
これは人を殺せる道具だ。この国では所持しただけで罪になる道具だ。
誰がこんな物を…疑問がかすめる。それより、拾った瞬間を誰かに見られなかったのかが気になった。大丈夫、あの時は誰にも見られなかった。
弾を抜き取った銃の弾倉を戻し、トリガーを引いてみた。ハンマーが上がって、乾いた音を立てて落ちる。「ここが動くのか。」浩一はハンマーを親指で引き上げてみた。上がった時点で止まった。トリガーを引いてみると、先程より軽く引けた。浩一は始めて、ダブルアクションとシングルアクションの使い方が解った。
武者震いがする。
怪しく光る小さな悪魔を、浩一は憑かれたように眺めていた。
ふと、我に返って目を上げると、優子に渡すはずの指輪が、鏡の前でケースに入って自分を見ている。
好きだった。
取引先の受付で一目見たとき、心がときめいた。思い切って声をかけて、食事に誘った。趣味は合って、話も弾んだ。四度目のデートの夜、遂に彼女をモノにした。
それから、一年間交際が続いた。浩一は26歳、身を固めてもいい歳だった。真剣に結婚を考えていた。
彼女からの突然の別れ話。他の男が出来たのだ。もう自分は、彼女の興味の対象ではなかった。
好きだった。いや、愛していた。殺してしまいたい程に…
翌日、浩一は会社を休んだ。無断欠勤を堂々と続けるつもりだ。優子の行動を探る為に、仕事どころではない。そして優子と相手の男に、最も屈辱的な死を与えるのだ。社会に衝撃を与えるような、戦慄と恐怖を植え付けるような。
浩一はそれから毎日、優子と行動を共にした。いや、正確には影で行動を共にした。男と会う日は、特に決まっていない様だった。二週間付け回して、買い物をする店も、帰る道も、生活のリズムすら把握出来た。何よりの収穫は、相手の男は四十歳位の妻子がいる、同じ会社の重役。最高のシナリオが出来そうだった。
遂に、会社から出頭命令が来た。浩一は、悠然と会社のドアをくぐった。
同僚達の冷ややかな視線。営業課長の怒りに赤くなった顔。
「どういうつもりだ。お前。」
「いや。風邪をひきまして。熱を押して出てきたんですが。」
「連絡ぐらいしてもいいだろうが。それ程ひどかった様には見えんぞ!」
「ええ。あんたの顔を見たら、また熱が上がりました。」
ゴマジオ頭が焦げるのではないかと思える程、営業課長様の顔が赤くなった。
「何だと…」
「聞こえなかったのか。」
浩一は、正面から机を思い切り蹴り倒した。ぎゃっと呻いて、クソオヤジが机の下敷きになる。浩一は高校・大学と空手部の主将を務めていた事を、社内全員が知っていた。誰も止めないし、抗議もしない。むしろ状況を楽しんでいるようだ。
浩一は辞表の入った封筒を投げつけて、机に敷かれて手をばたつかせている営業課長様に深々と礼をし、そのまま営業所を出ていった。
後で考えると、何故あれ程の行動に出たのか自分でも判らなかった。ただひとつ言える事は、腰に差した拳銃の魔力だったのか。
浩一の計画を実行に移す日が来た。その日は、夕方から優子を尾行していた。
食事の後、ホテルに入る二人を見届けると、影に身を潜めてじっと待った。以前から尾行を続けながら、彼女に何故か暗い影を見た。辛そうなのだ、表情が。並んでは歩かない。後ろをとぼとぼと付いていくような、従っているような悲しげな背中。
時計を見ると12時を過ぎていた。幾つかのカップルを見送った後、目標が出てきた。ホテルはおあつらえ向きの場所だ。河に面して建ち、夜になれば辺りは人気のない並木道。心中にはいい場所だ。まず、優子の頭を撃ち抜き、それから男の口に銃口を銜えさせ、引き金を引く。後は指紋を拭き取った銃を、男の手に持たせてやる。
完全犯罪は望んでいなかった。いずれ俺は掴まるだろう。世界一を誇る、警察の捜査力を見くびるつもりはなかった。だがしばらくの間、やつらは世間のさらし者になる。それだけで充分だし、さらに加害者がいたとなれば、事件はより深刻度を増す。
浩一はふらりと二人の前に現れた。顔を上げて二人は立ちすくんだ。優子の顔色が変わった。驚愕の表情だ。
浩一は二人に歩み寄り、コートのポケットからS&Wを引き出し、ゆっくりと二人に銃口を向ける。
浩一は引き金を引けなかった。男は当然の、信じられない行動に出たのだ。
逃げた。悲鳴を上げて。優子を残して。
信じられないと言えばそうだし、当然といえば当然の行動だ。
残された優子はしゃがみ込み、わっと泣き出した。
「ごめんなさい…本当に。ごめんなさい。」
浩一は優子に近寄った。銃口を向けたまま。
「脅されていたの、あの男に。最初は何でも買ってくれた、楽しい所にも連れていってくれた。でも、変な写真を撮られて…それで脅されて。手が切れなかったの…ごめんなさい。」
哀れも憎しみも、感情の中には何も無かった。殺意すらも無くなっていた。
突き詰めると、恋愛とは被害者と加害者の関係なのか。愛情度のボルテージは均等とは限らない。どちらかかが熱を上げて、どちらかが醒めいて、醒めた方が熱を上げた方を利用することさえある。泥沼とは、そこから始まる。
S&Wを下げ、左手でポケットの指輪の入ったケースを探り、優子の前に放る。
踵を返すと、優子に背を向けて歩き出した。すすり泣く声が、いつまでも耳に残った。
右手の忌まわしい相棒を眺めた。別れを惜しむように。
河に向かって投げた。
結局、逆になってしまった。本来なら指輪がこうなる運命だった。
ネオンに光る川面に波紋を広げて、持ち主のいない凶銃は、二度と持ち主を捜すことはない。
END
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