冬の幻
 

 
 空はうっすらと灰色に染まり、寒さがコート越しの肩に覆い被さって来た。
 年の瀬も押し迫った夕方の街。
 
 「今夜は雪かな。」
 
 そんな事を独り小さく呟いてみた。
 ふと僕は、目の前の学生の集団のその前、黒い革コートの後ろ姿に目を止めた。
 背中にかかる長い髪。
 颯爽と背筋を伸ばして歩く姿。
 僕の歩調はいつの間にか早足になり、それにつれて心臓の鼓動も早くなる。
 狭い歩道いっぱいに歩いている制服姿の男子高校生の群れの中に割り込み、強引に彼らを追い抜いた。
 目指す黒い革コートに数メートルまで接近したとき。
 僕は唇を噛んで首を横に振った。
 黒い革コートに長い髪。この街にどれだけの数が存在する事だろう。
 
 幻は、所詮幻に過ぎない。
 
 彼女は取引先の受付嬢だった。
 出会った瞬間、彼女の明るい笑顔に魅せられた僕だった。
 仕事上、週に何度もその事務所に足を運ぶ度、急速に彼女との距離が縮まっていったのは間違い無かった。
 その事務所の連中と仲良くなり、何度も飲み会に誘われた僕は仕事の付き合いは上の空で彼女を見ていた。
 そんな僕の気持ちに気づいていたのか、彼女も積極的に僕の話を聞き会話に加わっていた。
 去年の忘年会と称した飲み会の帰り道。
 既に深夜の街角。彼女は黒い革コートの背中を丸めて僕の隣を歩いていた。
 二人きりになったとき、先に切り出したのは彼女だった。
 
 「私の事が好き?」
 
 「決まってるじゃない。大好きだよ。」
 
 酔った勢いがあったのかも知れない。
 抱いた彼女の肩は細く、暖かかった。
 
 「もう別れるつもりでいたんだ。」
 
 僕はベッドの隣に腰掛けて、彼女が別れようとしている彼氏の話を聞いた。
 彼女には恋人がいて、その恋が終わろうとしていて。
 そして、僕も寂しかった。
 
 合わせた手の平は柔らかく、僕たちはお互いに絡めた足から何かを貪ろうとしていた。
 一体何が欲しかったんだろう。
 
 カーテンから差し込む朝日の中で、彼女はシーツの隙間から顔を覗かせ悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 僕は両手に持ったコーヒーカップを、静かにサイドテーブルに置いた。
 
 「タバコ、ちょうだいね。」
 
 彼女は僕のタバコを一本抜き取り、火を点ける。
 そんな彼女の仕草が愛おしくて、僕はふざけて背後から彼女を抱きしめる。
 
 「またぁ… だめだよ。」
 
 彼女はタバコの火を灰皿でもみ消し、僕に向き直りぺろんと舌を出した。
 そんな彼女のおどけた表情が、僕はたまらなく好きだった。
 
 今年の春、彼女は会社を辞めた。
 僕は仕事で彼女と顔を会わす事なく、関係は続いていた。
 気が向いた時に食事して、ベッドで朝を迎える。そんな事が続いていた。
 僕は一体彼女に何を求め、そして彼女は僕に何を求めていたんだろう。
 
 些細なことで喧嘩して、それでも表面上は忘れたつもりでいた。
 お互いの鬱積したわだかまりは、消える事もなく。
 お互いにつけ合った傷は深く、埋める事すら叶わないところまで来ていたのかも知れない。
 
 「もう別れようか。」
 
 そんな彼女の申し出に、僕は黙って頷いた。
 
 いつの間にか季節は、一年前にお互いの気持ちを確かめ合った頃に向かっていた。
 同じように食事をして。
 でも、もう彼女を抱く気になれないし、彼女も同じ気持ちだったに違いない。
 あの夜と同じ黒の皮コートを着て、彼女は僕から目を伏せる。
 
 「じゃぁね。」
 
 いつもの『またね』と違う挨拶が、僕たちの永遠の別れを告げていた。
 僕は何も言えずに、彼女の皮コートの背中で翻る髪を見ていた。
 彼女のしっかりとした足取りの後ろ姿を、僕はきっと忘れないだろう。
 
 「今でも好きだよ。」
 
 そんな事を独り小さく呟いてみた。
 
 幻は、所詮幻に過ぎない。
 でもきっと、彼女を想う気持ちは一年前のまま。
 
 僕はコートの肩をすくめ、足取りも早く歩き始めた。
 追いかけてくる思い出を振り切るようにして。
 
 僕の鼻の先に、小さく冷たいものが落ちて消えた。

 

 

END