相生橋
(あいおいばし)
八月の太陽が、容赦なく街を、人を、アスファルトを焦している。
背広の下のワイシャツの中で、汗がむずむずと滴り落ちる感触が不快だ。
陽炎に歪む街は、あたかも太陽熱の照射で溶け出しているようだった。
街路樹からセミの鳴き声。地上でのわずかな命を賭け、力の限り鳴き続けている。
私はいつものように自宅を出て歩き、十日市町の電停から広島駅行きの路面電車に乗る。
電車の振動に身を預け、窓の外を眺める。
電車が本川町を過ぎて相生橋に差しかかる。
私は思わず窓から目をそむけてしまう。
私の目に、口では形容し難い程の惨澹たる光景が飛び込んで来て、私はそれに耐えられなかった。
今、太田川の本流に浮かぶ人の群れ。それは芋の子洗うほどに密集していて、その殆どが息絶え、川の水は血の色で赤く染まっている。
焦熱地獄の中で水を求め、川に飛び込んだ人たち。
一人の女が、子供を抱いて橋を歩いていた。その、既に動かぬ子供を抱いた母親の背中には、ケロイド状の火傷に衣服の模様が焼け付いていた。
電車の中を見渡せば、疲れた顔をした働き盛りのサラリーマンに、下着が見えるほど肌を露出した若い娘達。
彼等には、この光景は見えない。きっと私にだけ見えるのだ。
この時期、盆が近づくにつれて、この惨状が日増しに酷くなってゆく。
そう。思い起こせば三年前の夏から、私はこの“見えてはならないもの”が見えるようになった。
吊り革に掴まった私の隣に中年の女。その向こうには、頭に包帯を巻いた軍服姿の男が、軍刀をつえのかわりにして立っていた。
きっとこの軍人も、電車の乗客には見えない筈だ。
彼等は、既にこの世の者ではないから…
六十年前。人類が造り出した悪魔の太陽は、まさにこの上空で殺戮の産声を上げた。
それが今日、八月六日。
私の乗る電車は八丁堀を通過し、銀山町に着く。
電車が停車してから、私は先ほどの軍服姿の男の後から電車を降りる。
私が電停に立った時、既にその軍人の姿は無かった。
彼にはきっと何かの目的があって、この区間をいつまでもいつまでも電車で往復しているのだろう。
私の勤める会社は、この電停から歩いて四・五分の場所にある小さな商社だった。私はもう定年を過ぎて五年になるが、会社に希望してアルバイトという形で仕事を続けさせて貰っていた。
長年染み付いた会社員の生活が、私にとって安心できる場所なのかも知れない。
時計を見ると、七時四十五分。余裕の出社だ。
馴染みの顔ぶれに挨拶をして、いつもの席に着く。
デスクは事務員の女の子が気を利かせ、毎朝きれいにしてくれている。そして、書類棚の脇には一輪挿し。
傍を通った事務員の女の子にお礼を言って、私はいつもと同じ仕事を始めた。
ところが今日は、いつもと違っていた。
八時十五分にサイレンが鳴る。事務所の全員が黙とうを始める。
私も静かに目を閉じ、今朝も実際に見て来た被害者達の冥福を心から祈った。
六時過ぎに仕事が終わり、少しではあるが涼しくなりかけた街に出る。
今日は歩いて帰ろうか。
そんな気分になって電車に乗らず、鞄を抱えて人込みで賑わう電車通りを歩き始めた。
鉄砲町に差しかかった頃だった。私はふと、林立する建物の隙間に人の気配を感じて足を止める。
ビルとビルの間の1メートル程の隙間に、人の姿が見えた。
子供だった。四・五歳くらいの女の子だろうか、もんぺ姿で頭から防空頭巾を被り、その柔らかそうな頬は煤で黒く汚れていた。
私はしゃがみ込み、女の子の顔を覗き込む。
「どうしたん?お母さんとはぐれたん?」
私の問いかけに、女の子はこくりと小さくうなずいた。
私はポケットからハンカチを取り出し、そっと女の子の顔を拭いた。
拭いてあげると白く可愛らしい顔が現れた。だが、その無垢で円らな黒い瞳からは、何の感情も映してはいなかった。きっとこの子も、見なくていい筈の地獄を嫌というほど見て来たのだろう。
「おじさんと、お母さんを探しに行こうか。」
私は女の子の手を取る。
小さく柔らかいその手から、名古屋に嫁いで行った娘がまだ小さかった頃を思い出した。
女の子は再びこくりとうなずいた。
私は女の子と手を繋ぎ、賑わう電車通りを歩く。
「おなか、空いちょらんかい?」
私の問いかけに、女の子は首を横に振った。
正直、私にはこの子の母親の居場所なぞ、あてすらなかった。
ただ、未来永劫いつまでもこの子をあの場所で、現れるはずの無い母親を待たせる訳には行かなかった。
あそこに行けば何とかなると思う。運良くこの子と母親の名前があれば…
私たちは地下道を通って紙屋町交差点を横切り、大手町から原爆ドームを右手に元安橋を渡った。
平和記念公園。原爆死没者慰霊碑の前に私たちは向かった。
安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから
その祈りとは裏腹に、過ちは全て国家、または思想と言う怪物の前に正当化され、現在に至っている。
そして真っ先に戦火に曝されるはいつも、この女の子と母親のように力を持たぬ弱い者たちなのだ。
私は胸の中を突き上げる怒りと悲しみに、手を繋いだ女の子の手をぎゅっと握りしめた。
その時、私の手から女の子の掌の感触が消えた。
私は手を繋いでいた右手の先を見る。そこには既に、女の子の姿は無かった。
私は夕闇に支配されようとしている空を見上げる。
その時、初めて女の子の笑顔が見えたような気がした。
よかった。よかったね、お母さんに会えて。
私は心の中で呟く。
かくいう私も被爆者だった。被爆者手帳も持っている。
思えば私とあの女の子は、同じくらいの年だったろうか。
当時、私は運良く奇跡的に助かったのだが、同時に兄と姉を失っている。
平和記念公園を中を突っ切り、私は原爆投下の目標になったという世界的にも珍しいT字型をした相生橋を渡り、寄り道から正規の家路へと足を向ける。
新築のビルの列の中、木造平屋の一軒家がぽつりと穴の開いた空間を作っていた。
私はこの、平成の街に取り残された昭和、とでも形容したくなるような我が家が自慢であった。
いい加減にガタの来た玄関の戸を開け、ただいまと言って靴を脱ぐ。
台所では家内が夕飯の支度をしていた。
長年連れ添った家内である。私が帰ってくる時間を読んでいるように、毎日良いタイミングで夕飯の準備をしてくれる。
子供たちも出てゆき、今や家内と二人だけの生活。
毎日規則正しく、会社に行き、帰って来て、家内との時間を過ごす。
私にとって、これこそが一番の幸せだった。
家内は夕飯の膳を抱え、私の前を通り過ぎる。
家内の行く先の広間には小さな仏壇があり、家内は仏前に夕飯の膳を置くと静かに手を合わせていた。
家内の背中越しに、私は仏壇を眺める。
仏壇には、この私の写真があった。
わかっていた。
子供の頃に浴びた放射線の影響で、私の半生はガンとの闘いだった。
そんな苦しみから解放されたのは、三年前。
それからあの、“見えてはならないもの”が見えるようになっていた。
他でもない、私も彼らと同じ…
ただ私が彼らと違うのは、こうして幸せな時をさまよい続けている事だろう。
変な言い方だが、私だけが幸せ者で、彼らには心から申し訳ないと思う。それでも彼らの事を理解してやれる者が、年々減少しているのも事実だ。
今年も、もうすぐ盆がやってくる。
終
|