SCARLET DRAGON 緋龍

 

RED SCORPION 冥府への弾道 娯

 

 「よぉ。いい夜だね。」
 連絡に向かっていた男の足が、川に掛かる橋に近づいたとき。突然、背後から呼び止められる声に歩みを止める。
 周囲には通行人どころか、猫の子一匹いない。
 男は振り向いた。
 そこに、一人の男が立っていた。年格好は三十代後半から四十近くのようだ。オルシア系の男から見れば小柄に感じる背丈に加え、ひょろりと痩せた体躯に、遊び馴れた優男と言った顔が印象的だった。
 酔っぱらいか?
 男は小さく舌打ちをする。
 こういった輩は無視に限る。
 男は無言で橋に向けて歩を進める。
 「なぁ、兄弟。ちぇ、つれねぇなあ…」
 酔っぱらいと思しき男の声が、後を追って来ている。
 「急いで何処へ行く気だい? 分かった、女の部屋に夜這いか?」
 その男の足は速かった。酔っぱらいとは思えない程の速度で、男の背後にぴたりと貼り付く。
 「その様子じゃ、大層いい女だろうな。でもね、サソリの毒には気を付けなよ…」
 背後の男を無視して、早足で歩く男の肩がぴくんと揺れた。
 「貴様!」
 男は何時でも抜けるように準備してある、ベルトに差した飛び出しナイフを電光石火のスピードで引き抜いた。
 一挙の動作で、飛び出しナイフの握りの安全弁を外し刃を開く釦を押す。
 ぱちんとバネの力で刃が開く。
 しゅっと夜の闇を切り裂き、男の手の先から銀色の光が閃いた。
 男はスメルシュの中でも、特にナイフ・ファイティングを得意とする選り抜きだった。
 だが、男の放った一閃は見事にかわされていた。
 充分にナイフの射程内に、相手を引き付けていた筈だった。
 「おっと… 危ねぇ、危ねぇ。何するんだい、いきなり…」
 ナイフの軌道を読んだように、間一髪でその凶刃から避けて飛び退いた男は、未だにとぼけた表情で軽口を叩いている。
 「何者だ?」
 男は険しい表情で聞く。ナイフを正面に構え、前足は猫足の形を取る。
 これは瞬時に次の動作に移れ、上体の移動と同時に相手の懐に刃を突き出す為の構えだ。
 相変わらず呑気な態度を見せる男は、武器も持たずにだらんと両手を下げているだけだ。
 「名乗る程の者でもねぇやな。まあ、あんたらはご存知かも知れねぇけど。なぁ、北の国の殺し屋さん。」
 けぇーっ!と奇声を発し、男はナイフを突き出す。
 呑気な態度の男は、見事な歩法ですっと背後に身を引く。
 右足が閃いた。
 予備動作さえなく一瞬に繰り出された脚のつま先を、男がナイフを突き出して伸びきった瞬間の肘に吸い込ませた。
 ごきり。
 肘の砕ける音が響く。
 ナイフが宙に舞い、男が苦悶の表情で肘を抱きかかえようとする瞬間、素手の男の顔が男の目の前に現れた。
 どくっ。
 肉と肋骨が叩き潰される音。拳が男の胸板にめり込んでいた。
 胸に突きを食らった男は、たたっと数歩後退し石畳に倒れ込む。
 突きを見舞った男は、全身の力を拳に集中する為の発勁を放つ構えを静かに解いた。
 風が吹いた。
 男は倒れた男に歩み寄る。
 「貴様… 李、箔石…」
 仰向けに倒れた男の口から、男を冷ややかに見下ろす男の名と同時に、ごぼと血の塊が溢れ出す。
 心臓を潰されて男は絶命した。
 ひょろりと痩せた男は跪き、倒れているオルシア系の男の脇に腕を回し、橋の近くまでその死体を運んだ。
 自分より大きな男の体を、軽々と川に放り込む。
 ばしゃりと音を立て、男の体が川の流れの中に沈んでゆく。
 落ちていた飛び出しナイフを拾い上げ、男の死体と同様に川に放り込んだ。
 「あの女はな、この俺様が先に目ぇ付けたんだよ。てめえらの好きにはさせねぇぜ。」
 李箔石と呼ばれた男は、その遊び人風情の顔に笑顔を作る。
 

 無愛想なガラスのコップに、なみなみと葡萄酒の紅い液体が注がれる。
 麗華はチーズの切れ端を口にした。舌の上で溶けるチーズを味わいながら、コップの葡萄酒を口に流し込む。
 ふうと満足そうに溜息をついた。
 粗末なテーブルの上に置かれた葡萄酒の瓶と二人分のコップ、ナイフで雑に切り刻んだチーズと蝋燭。
 沈黙が支配する。
 最後の晩餐とは、このような空気であったか。
 「遠慮しなくていいのよ。」
 麗華はテーブルの向かいに座った貴美子に言う。
 貴美子はうつむいたまま、静かに炎を上げる蝋燭の明かりを見つめていた。
 「しっかり食べて力つけとかないと。それに、私たちは何時何が起こるか分からないんだから…」
 麗華の言葉に、貴美子はこくりと小さく頷く。
 そっと葡萄酒のグラスに手を伸ばした。
 口をつけるや、途端にグラスの中身を一気に飲み干す。
 「あ、いきなりそんなに飲んじゃ…」
 麗華の制止は間に合わなかった。
 貴美子はふうと溜息をつき、空になったグラスをテーブルに置く。
 しずしずとチーズの切れ端に指を伸ばし、ひとつまみ口に頬張る。
 その様子を見て、麗華は小さく笑った。
 「初めてなんです…」
 貴美子は口を開く。
 「えっ?」
 「初めてなんです。お酒…」
 「そうだったの。大丈夫?」
 「大丈夫です。」
 再び重い沈黙がテーブルの上に降りて来る。
 麗華は貴美子の空になったグラスに葡萄酒を注ぐ。
 自分のグラスにも注ぎ足し、無言でグラスを口にした。
 貴美子は黙々とチーズを食べ、グラスを口に運んでいる。
 突然、がたんと沈黙を破る音。
 貴美子が、座っていた椅子から床に滑り落ちた。
 麗華は慌てて貴美子に走り寄る。
 床に跪き、貴美子の顔を覗き込む。
 「ほら、言わない事じゃない…」
 「大丈夫。大丈夫です…」
 「何が大丈夫なの。もう寝なさい。」
 麗華は貴美子の寝床の用意をしようとして立ち上がろうとした。
 途端に右腕が強い力で引っぱられる。
 右腕に貴美子がしがみついていた。
 「ほら、立てる?」
 麗華の声が届いていないのか、貴美子は床に座り込んだまま麗華の腕を放そうとしない。
 麗華の腕に何か伝うものがあった。
 見下ろした麗華の目に、床に小さな水滴が一つ、二つ。
 涙…?
 「寂しかった…」
 貴美子の押し殺したような呟き。
 麗華は立ち上がるのを止め、再び床に跪く。
 「ずっと、ずっと一人で生きて来た… 寂しかった…」
 麗華は左手でそっと貴美子の髪を撫でる。
 貴美子はその涙に濡れた顔を上げ、麗華の顔を見上げる。
 重ねた唇は芳醇な葡萄酒の味がした。

 脱いだ衣服が床に広がり、貴美子はその上で仰向けになる。
 ぼんやりと眺めた天井は、どこか非現実的な感じがした。
 貴美子は親指の爪を噛んだ。
 期待と不安に胸が高鳴り、上向きに尖った乳房の先が震える。
 麗華の髪が貴美子の胸に覆い被さり、そっと乳首が口に含まれる。
 「あ…」
 舌に弄ばれながら、次第に先端が固く尖り始めた。
 電流が全身を貫き、子宮が蠢動する。
 「イヤだ…」
 貴美子の胸から首にかけ、麗華の唇が這って来る。
 麗華の黒髪が貴美子の顔にかかる。
 花の香りがした。きっと八洲(やしま)に咲く花の香り。
 未だ見ぬ祖国の花の香り。
 頬をつたう麗華の唇を貪るように求めた。
 絡めた唇は柔らかく、舌の温もりが二人の心を伝え合う。
 唇を放し、そっとお互いの眼を見つめ合った。

 奇麗なひと… なんて奇麗なひと…
 私はこの人を独り占めにしている。
 夢なんかじゃない。
 もう、放さない。

 貴美子の右手が麗華の左手を探る。
 麗華はそっと貴美子の手を取り、自分の頬に寄せた。
 頬の温もりが貴美子の手に伝わって来る。
 手の甲を唇が這い、貴美子の小指をくわえる。
 舌の動きの中で小指が吸われ、小さくかりっと歯を立てられた。
 「はっ…」
 貴美子の背筋がびくんと反応した。
 再び麗華の唇が、貴美子の首筋を這う。
 貴美子は麗華の乳房に手を伸ばし、優しく下から撫であげる。
 柔らかい手触りが、貴美子の掌の中で滑り踊る。
 「んんぅ…」
 麗華の熱い吐息が、貴美子の首筋を撫でていった。
 麗華の指が貴美子の下腹を這い降り、徐々に茂みの中に分け入る。
 「駄目… ダメ…」
 貴美子は麗華の頭を両手で抱えて、襲い来る痛みと快感に顔を歪ませる。
 あのナイトクラブの廊下で出会ったときの胸の高鳴りは、今も同じく貴美子の胸を貫き続けていた。

 この腕に抱かれて、深い深い闇の底に堕ちて…
 お願い、早く…
 朝は来ないの。永遠に来ない…
 だからもっと、壊れるくらいに…
 あなたに埋もれて、もっと、もっと…

 何度も、何度も、貴美子は譫言のように呟き続けた。

 …愛してる…
 …愛してる、愛してる、愛してる…