SCARLET DRAGON 緋龍

 

RED SCORPION 冥府への弾道 刺

 

 大きな客間だった。そこには贅の限りを尽くした調度品が並び、壁には見事な角を持つ牡鹿のトロフィーが掲げられていた。
 「シーロフ、あんたが付いていながらな…」
 部屋の奥のソファーにゆったりと身を委ねた男が呟く。
 「黄大人、あの場では致し方なかったのだ。私の部下も殺された。」
 テーブルを挟んで男の向かいに立つ男が言った。ソファーに座らず背筋を伸ばし屹立としたその姿は、明らかに厳しい訓練を受けた軍人のものだった。
 身長は見上げるように高く、羽織った背広がはちきれんばかりの筋肉の圧力を発散している。
 それらの男の持つ体から発する威圧感とは裏腹な、極寒の平原を思わせるような冷たく白い容貌が、怒りと屈辱で歪む。
 一目でオルシア系と分かる男だった。
 ソファーに腰を下ろしていた男、黄軒功はテーブルの上にあった葉巻ケースの蓋を開き葉巻を一本取り出した。
 豪奢な飾りに彩られた卓上用オイルライターを取り上げ、くわえた葉巻の先端に火を点ける。
 小刻みに口の中で息を吸い込み、葉巻の先端が赤く光った。
 黄は口の中に溜まった煙を吐き出す。上等な葉の匂いが煙に乗って流れた。
 黄はシーロフと呼んだ男から目を合わせない。
 実は葉巻に火を点けるという行動で、黄はこの男の眼から逃れる事が出来たのだ。
 恐いのだ。この男、シーロフの眼。
 何の感情も映していない眼。だが、この眼を見るだけで身の毛もよだつ程の恐怖を覚える。
 秦播団のボスである、黄ほどの男がだ。
 この男、クラスノ・シーロフはルナシーだ。
 月に操られた殺人者。満月の夜、どうしても人を殺したいという欲望に駆られる特異体質だった。
 貧しい山村で生まれたシーロフは、家の農業を手伝う傍らで子供の頃から町へ出てボクシングやレスリングの稽古に励む。父親譲りの立派な体格を持ち、年上で彼を上回る体格の持ち主でさえ敵わない程の強さを誇っていた。
 それは彼の力や技術もさることながら、実は彼の持つその凶暴にして残虐な性格のなせるものだったのだ。
 失神したスパーリングの相手をなおも締め続け、周囲の選手が止めに入った事も一度や二度ではない。
 だが、彼が十七歳の時、彼の運命を左右する出来事が起こる。
 満月の夜、突然何かの衝動に誘われるように、家の外で唸り続けていた盛りの付いた雄猫を絞め殺した。
 殺戮の快感が心を癒し、また満月の夜が来るのが楽しみだった。
 鶏の首を捻り、牧場の牛の喉を包丁で掻き切る。
 そしてある日の晩、家の使いに出ていた村娘を森の中で殺した。
 性的な暴行を加えた訳では無い。ただ、娘の白い喉に手を廻し徐々に締めつける力を加える。
 娘が息絶え動かなくなった瞬間、若きシーロフはズボンの中でおびただしい量の射精をした。
 翌朝、草むらに投げ出されていた娘の死体が発見される。
 村人や警察が犯人を躍起になって捜した。そしてシーロフの名が、捜査線上に浮かび上がる。
 だが、スメルシュの前身である軍の一部のセクションが、以前から村で起こる猟奇的殺戮の主に目をつけていた。
 彼らは逮捕されたシーロフの身柄を、一方的にさらうようにして連行していった。
 それからのシーロフは、うんざりするほどの精神科医の診察を受け、軍とは違う施設に送られる。外国語や政治知識の授業に比べ、武器・暗号の使用、実戦訓練等では優秀な成績を修める。
 後にスメルシュ二課に配属された彼は、数々の任務を正確に手際よくやり遂げ、その悪魔的と言える冷血な性格と能力により多くの手柄を立てた。
 ただ問題なのは、満月の夜では作戦に使えない事だった。満月の時期、彼のあらゆる理性が吹き飛ぶ事は上官も周知の事で、その時は彼を作戦のメンバーから外す事を余儀なくされる。
 スメルシュ二課は彼に催眠療法で、己の欲望を押さえる訓練を繰り返した。結果現在の彼は、その持って生まれた狂気を幾分かコントロール出来るようになっていた。
 最高の素質を持った殺人機械が誕生したのだ。
 勿論、そのような経歴を黄が知る由もない。黄は本能的に、シーロフ中に潜む殺人衝動を嗅ぎ取っているのだ。
 シーロフは金口の付いたたばこ、トロイカのケースをポケットから取り出して一本口にくわえる。
 マッチで火を点け、ふーと煙を吐き出した。
 「あの男がいたのですよ。青蓮閣に…」
 黄は先程から目を逸らしていたシーロフの顔を見上げる。
 その顔は未だ無表情のままだ。
 「あの男とは?」
 「李箔石。名前はご存知でしょう?」
 「李箔石…」
 黄の表情が強ばる。
 「私も奴の素顔は知りません。が、本部から李が動いているという情報が入って来ています。どうやら奴の狙いは、秦播団と私たちを潰す事にあるらしい。」
 「何故?」
 「理由は奴自身にとってもどうでもいい事。奴は金次第で動く傭兵だからです。」
 「“紅蠍”との関係は?」
 「目下捜査中です。実は私、あの青蓮閣で、ちょっと怪しい女を見かけましてね。現在私の部下を張らせています。」
 「そうか… 頼んだぞ。七日後には、俺の息子の結婚披露宴が控えているのでな。ついでに戴の奴も怖じ気づいてしまって、家から一歩も出ていないらしいからな。」
 言いながら黄は、再びシーロフの眼から視線を逸らす。
 「それまでには尻尾を掴んでみせますよ、黄大人。」
 タバコを横ぐわえにした、シーロフの薄い唇が笑いに歪む。

 
 「クラスノ・シーロフ?どういう奴なの?」
 大道寺麗華は大通りから外れた路地の隅に構えた、古ぼけたタンメン屋台の椅子に座り、屋台の主人に上目遣いの視線を送る。
 「殺人狂さ。スメルシュの中でも、かなりヤバい奴って話だ。」
 屋台の主人は血色のいい禿頭を、片手でつるんと撫でる。
 「そいつの手の者だった訳ね。でも、殺されていた。D機関の仕業じゃ無いんでしょう?それとも土井中佐が…」
 「へへ… 姉さん、土井の奴に会いたくなったかい?」
 「馬鹿なこと言わないで。」
 「李箔石。知ってるかい?」
 「李…?」
 「“白虎”と呼ばれている暗殺屋だ。金次第で音もなく後も残さず、確実に標的をバラす… らしい。」
 「そいつがやったの?あいつらを。」
 「らしいな。そういう報告だ。」
 「目的はスメルシュかしら。なんにせよ、敵が増えた事に間違いは無いわね。」
 麗華は屋台の台の上にある、今しがた平らげた丼に目を移す。
 残ったタンメンの汁が小さく揺れた。
 「そういう事。用心しなよ。」
 「そうね… あなたも気を付けて。」
 「分かってるって。」
 麗華はすっと立ち上がる。しなやかな肢体がチャイナドレスの中で妖しく蠢く。
 タンメンの代金を台の上に置き、静かに屋台を後にする。
 想海の夕方の風が、麗華の黒髪をなびかせた。
 
 貴美子は、銃把の中の弾倉室から弾倉を抜き、ルーガーの銃口を机に強く押し当てる。
 銃身を後退させ、復座バネの張力を弛めておいて、銃体の左前にある釦を下に回して分解板を引き抜いた。銃身を前に引くと、遊底機構と一緒に銃身が銃体から抜ける。
 遊底の機関部を分解し、先端にたっぷりとオイルを染み込ませた、柔らかい布が付いている棒で丁寧に銃身の内部を掃除していた。
 粗末な部屋のドアにノックの音が響く。
 三回と一回、三回と一回。
 麗華の合図だった。
 ルーガーは分解中だったので、貴美子は側に立て掛けてあった水平二連式の十二番ゲージの散弾銃を取り、ドアに向かう。
 貴美子は二回と二回、ノックを返した。
 今度は三回、ノックが返って来る。
 貴美子はドアの閂を開く。
 ドアノブが回り、開いたドアに麗華の姿が現れた。
 貴美子は散弾銃の銃口を下げる。
 貴美子を一瞥した麗華は部屋の奥に向かう。
 机とテーブルを兼ねた台の横にある、粗末な椅子に腰を下ろす。
 「分かったわ。あの連中を倒した奴の正体。」
 貴美子は再びドアに閂を掛け、無言で麗華の座るテーブルに歩み寄る。
 「どうやら秦播団潰しを狙っているのは、私たちだけじゃなさそうね。」
 貴美子は散弾銃を元の位置に立て掛け、麗華の向かい、今しがたまで座っていた椅子に腰を下ろす。
 黙々とルーガーの分解掃除を始める。
 この麗華のアジトへ来て、貴美子は必要な事以外は何も喋っていなかった。
 重い沈黙だけが二人の女を支配していた。
 遊底から外した撃針を、オイルを染み込ませた布で磨き上げている貴美子の手元を見て、麗華はふっと溜息をつく。
 左手に下げていた瓶を机の上にそっと置いた。
 「後で飲む?上等な葡萄酒を見つけたの。」
 貴美子の手が止まる。
 「はい…」
 小さく返事が返ってきた。

 闇が全てを支配し、想海の街に棲む者には平等に、金持ちにも貧民にも平等に夜が来る。
 麗華と貴美子が潜む、古ぼけたアパートメントの三階の一室の窓にも明かりが灯った。
 路地の裏からその灯りを睨む、二人の男の陰があった。
 「どうする。我々だけで踏み込むか?」
 「いや、もし本当にあの女が“紅蠍”なら、用心したほうがいい。シーロフ少佐の指示を仰ぎ、加勢を頼もう。」
 「そうだな。」
 男達はオルシア語で囁き合う。
 「俺が連絡に行く。あの部屋から目を離さないでくれ。」
 「分かった。」
 一人の男が路地の奥に去って行く。
 残された男は油断なくその窓と、アパートの出入り口の監視を続ける。