|
SCARLET DRAGON 緋龍
RED SCORPION 冥府への弾道 参
それは一瞬だった。
麗華の右手の中で銀色の光はくるんと向きを変え、逆手に握られて小指の付け根から細長い刃が現れる。
錐刀(スティレット)と呼ばれる短刀は、麗華の手に隠された爪の如く体の一部と化している。
音も無く男の背後に忍び寄る。
優美な細長い刃が、無防備に背を向けた男の首筋に滑り込んだ。
首の後ろの窪み、通称“盆の窪”(ぼんのくぼ)と呼ばれる部分に差し込まれた刃はそのまま延髄に達し、男の中枢神経を破壊して瞬時に絶命させる。
首筋に錐刀を突き立てたまま前に倒れようとする男を、麗華はそっと背後から支えた。
少し引くと男の全体重が麗華の腕に移る。
男の脇に手を廻して、麗華はそのまま後方の大便所へと引きずってゆく。
男の片方の靴が、床にこすれて脱げ落ちる。
構わずに麗華は男を大便所へと引きずり込んだ。既に動かない男の体を便器の上に横たえ、脱げ落ちた男の靴を拾う。
男が倒れている上に靴を放り込み、自分も素早くその便所に滑り込む。
後ろ手にドアを閉め、静かに鍵を下ろす。
男の首に突き刺さったままの錐刀を抜いた。殆ど出血は無い。
男の背広で錐刀に付いた血と脂を拭うと、左手でチャイナドレスのスリットをまくり上げる。
露わになった右の太股に、ガードルで金属製の鞘が固定されている。
その鞘に錐刀を納めた。鞘についたラッチは錐刀の鍔を噛み、ロックの掛かる音が小さく響いた。
麗華は既に骸(むくろ)と化した男の体を踏み台にして、便所の仕切り壁の上端に手を掛けた。
隣は女用便所となっている。
しなやかな体を腕の力だけで軽々と持ち上げ、女便所の様子を探る。
誰もいない。
腕の力で壁上端に腰まで体を持ち上げた麗華は、チャイナドレスのスリットをまくり上げて、天井との隙間を抜けるようにして壁を乗り越える。
ひらりと音もなく、隣の女便所の箱の中に着地した。
なにくわぬ顔をして扉を開き、女便所を後にする麗華。
「まずはひとり…」
小さく呟いた。
周甲醍に付き添う用心棒を一人でも多く減らしておけば、後での襲撃が楽になる。
しかも今は、あの宮中貴美子が如何なる手段で出て来るか分からない。
突発的な事態を想定した上でも、用心に越した事はない。
ステージでは賑やかなダンスショーが終わり、踊り子たちが退場すると同時に幕が閉じられていた。
「孟稜の奴… 遅い…」
周の側にいた年輩の用心棒が呟く。
小便に行くと言って離れたきり、もう二十分近く経過していた。
「心配するな、おおかた腹でも壊したんだろう。」
周はのんびりと用心棒に言った。脂臭いげっぷを吐き出す。
「はい。」
油断無く周囲を伺いながら、用心棒はソファーに深く腰を下ろす。
突如ホールの照明が薄暗くなり、その中を優雅なピアノの旋律が流れる。
ステージの幕が開くと同時に、交差したスポットライトがステージ上のグランドピアノとピアニストを照らし出した。
甘いメロディに乗せて、一人の女がステージに現れた。
客席から感嘆の声が漏れる。
赤いチャイナドレスに施された刺繍が、スポットライトの明かりに光る。
そういったナイト・クラブの演出以上に、その女の美貌は客席の目を惹きつけるのに十分だった。
優雅な一礼の後、女の歌声がホールに響き渡る。
切ないブルースが五月雨のように、ゆっくりと静かに、客席を隅々まで濡らしはじめた。
客は一人残らず、女の美貌に目を奪われたまま、会話を止めてその歌声に酔いしれていた。
例に漏れず周もその用心棒たちも、ステージ上に目が釘付けとなっている。
「新顔か… 畜生、陳の件さえ無かったら…」
周は悔しそうに呟いた。
ベッドの上でこの女を独占している情景を、想像するだけで涎が出そうだった。
きっと、これ以上のいい声で歌うだろう。
貴美子はカーテンの隙間から、周の位置を伺った。
正確に距離を目算する。
この部屋は以前から目を付けていた。
だが、ここへ忍び込んだ時、足下に転がっている二人の死体を見た時は一瞬ぎょっとした。人がいたのなら片づけるつもりでいたが、手間が省けた事になる。何よりこの位置が最も周を襲うのに適した場所で、今更計画を変更する事は出来なかった。
“D機関”の手回しか?
それにしても、鮮やか過ぎる。
このナイトクラブには一体、どれ程の味方が居て、敵が居るのか。
次々と不安が浮き出てくる中で、貴美子はカーテンの隙間からステージに目をやる。
…あの人…
先程の胸を締めつけられるような気持ちに、再び捕らえられた。
せめて最後まで、彼女の歌声を聴いていたかった。
もう会えないと分かっているから。
修羅の道に踏み込んでしまった自分にとって、手の届かない遠い存在だから。
でも、普通に生きていたならば、きっと彼女には逢えなかったのかも知れない。
ちょっとだけでもいい、話だけでもいい…
私は“紅蠍”。復讐の為だけに生きてきた女。
そう自分に言い聞かせる。
あの女に寄せる想いは、憧れ、郷愁、恋慕。
様々な思いが貴美子の脳を支配し、胸の鼓動が更に高鳴る。
「さようなら…」
抱えていた小さな手提げ鞄を床に置き、静かに開く。
優雅といえる程美しいすらりとした凶銃が、黒革のホルスターに納められて鞄の中に横たわっていた。
貴美子はまるで愛し子を抱え上げるように、静かに優しくルーガーを取り上げた。
ドレスの裾をまくり上げ、特製のホルスターに付いたベルトを腰のガードルに通して吊る。
ホルスターの先端は、ルーガーの長い銃身が抜けるように切ってあり、そこから二本の革紐が取り付けられていた。貴美子はその白い腿に黒い革紐を回して括りつけ、ホルスターを完全に右足に固定した。
広がるドレス裾を下ろすと、脚に付けたその凶器を完全に隠す事が出来る。
予備弾倉が二本入った革製のポウチにはガーターベルトが付いていて、それを左足に通して固定する。
銃が滑り落ちるのを防ぐためのホックを外し、長銃身のルーガーを抜き出す。
新たな生け贄の血を求め、ルーガーの銃身が歓喜の色に光る。
銃把の上、受筒後部を、左手の白く細い人差し指の先が撫でるように通過した。
かちっと音を立てて安全弁が外れる。
レパートリーの一つである切ない女心を歌い上げたブルースに、声に抑揚を付けて歌いながら、麗華は客席を見渡す。
感嘆と欲情と羨望の入り交じった視線の中、麗華の嗅覚は凄まじいばかりの殺気を捕らえていた。
押し殺した殺気、というべきだろうか。
自分に向けられたものではない。
だが、客席の中からその殺気の元を探る事は出来なかった。
殺気の主は、明らかにこの客席の何処かに潜んでいる。
涎を垂らしそうな勢いで先程からこちらを見ている、秦播団の周とその一味のものではないのは明白だ。
二つの敵対する力。それは既に水面下で火花を散らしていた。
倒されていたスメルシュの工作員。一体誰が?
そして、それらとは異なるもう一つの殺気。
薄闇の中、先程のステージ横の小部屋のカーテンの隙間から、ほっそりとした銃身が突き出て来た。
麗華は表情を変えず、喉と体で覚えているブルースをピアノの調べに会わせて歌いながら、視界の隅でそれを見届ける。
次の瞬間、ホールに銃声が響いた。
ソファーに深々と腰を下ろしてステージ上の麗華に見とれていた周が、激しく体を震わせて仰け反り、続いて女性客や女給達の悲鳴が沸き上がる。
周の側にいた用心棒の一人は、体で覆うようにして周を庇い、一人は脇のホルスターから拳銃を抜き出して敵の居場所を探す。
ブローニング1900モデルが、男の手の中で鈍い輝きを見せる。
だが、既に周は即死していた。飛び込んできた9ミリの弾頭の衝撃で脳奬が破裂し、その勢いで後頭部の頭蓋が吹き飛ばされている。
弾道学で言えば、肉は軟体であり、水は硬体となる。つまり水は抵抗の多い分、衝撃の伝達効果が高い。水の塊と言える脳奬はその顕著な例で、弾頭が運んで来た衝撃により内部から破裂するように頭部を破壊する。
水が一杯に入ったドラム缶を大口径ライフルで撃つと、ドラム缶が跡形もなく吹き飛んでしまうのと理屈は同じだ。
現在では禁止されているが、川魚を採るのにダイナマイトを使用したり、ウナギを採るのにバッテリーの電気を水中に流すという漁法も、そういった水の性質を応用したものだ。
ちなみに、飛行機が海に墜落した場合、海面はコンクリート以上の硬度になるというのも、飛来する速度に比例した水の抵抗の凄まじさを物語る事実だ。
見事な狙撃だった。ホールの端から周の頭部を、一発で撃ち抜いたのである。
再び銃声。
ソファーにのけぞって死の痙攣に捕らえられている周の体に、覆い被さる様にしてガードしていた男の胸を9ミリの弾頭が貫通した。
弾頭に肺と心臓を掻き回され、血しぶきを上げて男は周の体の上に倒れる。
麗華は一発目の銃声が響いた瞬間に、ステージから飛び降りて前席のテーブルの下に身を隠していた。
客席にいた者は、殆ど全員が床に身を伏せている。
麗華は身を伏せたテーブルの下で、チャイナドレスのスリットをまくり上げ、左内腿のホルスターに納められたワルサーPPKを抜き出した。
テーブル伝いに周の一味に接近する。
残った用心棒は二発目で、相手が撃ってきた場所が判った様子だった。
ステージ横の小部屋のカーテンに向けて、ブローニングの引き金をガク引きしていた。
男の乱射を受け、カーテンが着弾の衝撃で踊る。
麗華はテーブルの下で腹這いになったままで、右手親指でワルサーPPKの安全弁を外し、撃鉄を起こした。
ワルサーPPKの撃鉄は、引き金を引くことで持ち上がるダブル・アクションであるが、当然前もって撃鉄を起こしておいたほうが発射時の銃身のブレは少なく、正確な射撃が出来る。
テーブルの下から、ブローニングを連射している男に照星を重ねた。
麗華の放った銃声は、男の連射音に重なって周囲の者はまるで気が付かない。
.32口径の弾頭が、男のこめかみに命中する。
頭からついと一本の血の帯を引いて、弾を撃ち尽くしたブローニングを握ったまま男は床に崩れ落ちた。
男の銃声を黙らせた麗華は、素早くテーブルから飛び出して従業員用の厨房に続く出入り口に向かう。
貴美子は、長いドレスの裾を抱えるようにして廊下を走っていた。
ドレスの裾には、右手に握ったルーガーが包まれている。
突然、廊下の脇の扉が開く。
人影が現れた。
反射的に貴美子は、その人影にルーガーの銃口を向ける。
…あ…
声にならない叫びが、貴美子の胸の中で封じ込められたまま膨張する。
…あのひと…
赤いチャイナドレスの肩に翻る黒髪。
貴美子が一瞬にして魅入られてしまった、あの女だった。
その虜となってしまった美貌に再び逢えた。
でも…
銃口を向けてしまった。
私の暗い顔を見られてしまった。
私は、このひとを… 殺さなくてならない。
しかし女は、向けられた銃口に臆する訳でなく、静かに貴美子を見据えている。
……。
貴美子はルーガーの安全弁を外す。
その時、女の形の良い唇が静かに動いた。
「あけぬれば…」
貴美子の体に衝撃が走った。
女の言葉に誘われるように、符牒である歌の下の句が貴美子の唇から滑り落ちる。
「…なほうらめしき」
續
|