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SCARLET DRAGON 緋龍
RED SCORPION 冥府への弾道 弐
茶館が立ち並ぶ大馬路から一つ外れた通りに、『青蓮閣』と看板を掲げたナイト・クラブがある。
店の構えもやや地味だが、勘定もそこそこに安く、主に遊び馴れた実業家や士官クラスの軍人達が、仕事の話は抜きでショーや食事を楽しめる場所だった。
ムードを演出した薄暗い照明の中をボーイの案内されて、でっぷりとした体格の男が入って来た。
五十を過ぎた年齢に相応しい貫禄が、その体型から発散されていた。歩みや動作も見るからに緩慢だ。だが、顔の脂肪の中に埋まった両目は、従えている三人の用心棒のそれより、遙かに精悍で冷血な光を湛えている。
名は周甲醍と言った。秦播団の武闘派幹部の一人だ。
若い頃は相当の無茶をして、その名を上げていったのだろう。誰よりも冷酷非情になる事が資本を持たないチンピラにとって、この世界で唯一の出世の手段だからだ。
案内された奥の席に付く。秦播団の息が掛かったこの店で、周は顔パスで特等席が用意された。
ここからはダンス・ショーのステージは勿論、周囲の客のテーブルも見渡せる。
周はスコッチを瓶ごとと、アヒルの丸焼きを注文した。
店の隅のテーブルで女給に囲まれて大麻たばこを吸っていた男が、周の顔を見るなり立ち上がった。
周の座っているテーブルに向かう。
接近して来る男を見るなり、周の側に腰を下ろしていた用心棒たちが殺気づく。素早く左脇の下に右手を差し込む。開いた背広の襟から、拳銃を納めたホルスターの黒い革紐らしき物がちらりと覗いた。
にたにたと愛想笑いをしながら近づく男を見た周は、差し出した手を横に振って用心棒たちを制し、ゆっくりと豪華なソファーから立ち上がる。
「これはこれは、周大人。ご無沙汰しておりました。」
周は握手を求める男に、満面の笑顔で答え握手を交わす。
欧州系の男だった。アヘンの商取り引きで、周とは以前にも幾度か顔を合わせている。
「こちらこそ。今日はお一人で?」
周の右手を両手で握り、男は更に愛想笑いを浮かべる。
「ええ、今日は仕事から離れてのんびりと。」
「そうでしたか。最近物騒な事が多いので、貴方もお気をつけ下さい。」
ふと、男の顔に不安の色が走る。
「陳大人は、本当にお気の毒でした。一体何物が?」
「当方としましても、只今調査しているところです。“紅蠍”などと名乗ってはいますが、所詮はどこかの鉄砲玉でしょう。いずれは、さらし首にでもしてお目に掛けますよ。」
周は豪快に笑った。その笑いは決して虚勢を張ったものではなく、確かな画策に裏付けされた自信のなせるものだった。
男が去った後、周はゆったりとソファーに身を沈める。
「女は、どうなさいます?」
側にいた用心棒が周に聞く。この店は気に入った女給を呼ぶ事が出来るうえ、チップを弾めばそのまま店の外に連れ出す事も可能だ。
「いや、今夜は止めておこう。遊びではないのだからな。」
周の目に一瞬、ぎらりとした凄みが走った。
料理を用意する厨房からホールの側を通って、ステージ裏や勝手口に抜ける廊下に、宮中貴美子の姿があった。
ほんの十日前、人里離れた山荘で陳詳勳と、そのお付きの用心棒をまとめて射殺し、床に“紅蠍”というサインを残して消えた女である。
今の貴美子と言えば、大きく背中をはだけた黒いドレスの女給の姿だ。
一週間前から、ここ『青蓮閣』で女給として働いていた。当然偽名であるが、貴美子の幼さを残しながら、どこか寂しさを漂わせる美しい容貌を一目見たマネージャーは、快く雇い入れた。
“D機関”から手渡された情報と秦播団幹部の顔写真によって、周がよくこの店に出入りしている事に目を付け潜伏していたのだ。実際に、三日前にも周がこの店に訪れていたのを貴美子は見ている。
ふと、廊下の向こうから歩いてくる人影に目をやり、貴美子は歩みを止めた。
赤いチャイナドレスが目にも鮮やかに、貴美子の視線を奪う。
均整の取れたボディラインは艶めかしくも美しく、そのチャイナドレスに包まれている下の裸体に、誰もが妄想の火を点けられてしまいそうだった。黒く長い髪、そして端正な顔立ちと憂いを含んだ瞳、ふっくらと咲いた桜の花びらのような唇が、一瞬にして貴美子の心の全てを奪い取ってしまった。
…なんて奇麗なひと…
女は貴美子の顔を見て、にっこりと笑顔で軽く会釈をする。
流れ者の歌手だろうか?
思いを巡らせながら貴美子も会釈を返す。
側を通り過ぎてゆく女の横顔をちらりと盗み見た時、貴美子の脳裏にふと、小さいが不吉な旋律の様なものが走る。
『死』の匂いがした。理由は分からない。きっと貴美子が今まで生きてきた経験の中で培われた、嗅覚が捉えたものだったのだろう。
女の後ろ姿を、貴美子は目で追っていた。いや、勝手に目線が吸い寄せられるようだった。
貴美子は想像の中で、その背中に舌を這わせていた。
背後から女を抱きしめ、掌の中で固く尖った乳首を弄ぶ。
黒い髪の中をかき分け、現れた白いうなじにそっと唇を這わせる。
女の甘い吐息。
女は向き直り、貴美子の首に両腕を廻す。
唇を重ね、お互いの舌を絡ませながら、乳房を摺り合わせている自分がいた。
愛撫の中で、無限とも夢幻とも言える悦楽と快感が交錯する。
その女に抱かれて堕ちてゆく先は、暗く深い淵の奥。
それは、黄泉の国。
貴美子は捕らえられた妄想を脳裏から追い出す為、吹き払うようにして頭を振った。
上気した頬にそっと手を当てる。手の平に異常なほどの熱が伝わって来た。
たぶんどれ程の男に抱かれても、これ以上の悦びは得られないであろうという淫猥にして甘美な想像を、貴美子は必死になって忘れようとする。
「彼女ね… 間違いない。」
ステージの控え室のドアノブを回しながら、大道寺麗華は呟く。
控え室のドアを開き、少し考えてから部屋に入らずにドアを閉め、麗華は廊下の先に進んだ。
周の座るテーブルに、丸焼きのアヒルが運ばれた。ブランデーを振りかけた炎の中で、アヒルから滲み出た脂肪がジュッと音を立てて踊る。
食欲をそそる匂いがした。
ステージでは派手な衣装を付けた踊り子達が、にこやかな営業スマイルで踊っている。
周は旺盛な食欲を見せ、グラスに注いだスコッチを水のようにあおる。
運ばれてきたサンドイッチをつまみながら、周の側にいた幾分年輩の用心棒がそっと周に囁く。
「来ると思いますかね?周大人。」
「ふ、ふ、ふ… この儂が自ら囮になったんだ。安心しろ。それなりの手は打っているし、何よりお前達の腕を見込んでいるからな。」
「はい。」
担ぎ上げられた用心棒は、誇らしげに返事を返す。
アヒルの足の肉を噛み千切りながら、周はそっとステージの横に備え付けられた部屋の閉ざされたカーテンに目をやった。
秦播団のチンピラ上がりの用心棒など、周は本心からアテにしてはいない。
本当の頼りになる用心棒は、今、そのカーテンの中にいる。
だが今、その閉ざされたカーテンの裏にいたのは、他ならぬ大道寺麗華だった。
麗華は部屋を襲ったと思われる惨劇を前に、その凄艶な顔に愕然とした表情を浮かべていた。
この小さな部屋は、『青蓮閣』の用心棒の詰め所だった。店でトラブルがあった時、瞬時に対応出来るよう、カーテンだけで仕切られた小部屋だ。
中央に据えられた小さなテーブルと椅子が三つ。テーブルの上にはワインの瓶と、食べかけのチーズとパン。
部屋に居た者はポーカーゲームに興じていたのだろう、カードと幾つかのチップがテーブルの上にばらまからていた。
壁には、右側から弾倉を装填する仕組みを持ち、木製銃床に銃身を穴の開いた鋼製被筒で覆った、ベルクマンMP35機関短銃が二挺掛けられている。
そして、男が二人倒れていた。
外傷は無く、銃器や刃物の類で倒されたのではない。
二人とも首が不自然に曲がっている。一瞬にして物凄い力で、頸椎を叩き折られていた様だった。
麗華が目を見張ったのは、その鮮やかな手並みだった。
しゃがみ込み、倒れている二人の男を確認する。
息は無い。だが、まだ体温が残っている。
二人とも、一目でオルシア系と判る容貌だった。
襲撃者は音を立てずに忍び込み、背後から二人を襲った。おそらく一人は後頭部を素手で殴られ昏倒し、もう一人は顎が砕けているところから、次の瞬間に顎を蹴り飛ばされたと思われる。そして襲撃者はとどめに、倒れた二人の頸椎を外したか、踏み砕いたか。
麗華は二人の衣服を探る。身分を証明するような物は当然持ってはいない。
だが、二人の脇の下のホルスターから尋常ではない拳銃が姿を現した。
それは、照星が削り落とされ、その銃身を覆うように、細身のワイン瓶ほどもある巨大な消音器を装着したナガン・リボルバーだった。
このナガン・1895モデルは、弾倉回転式拳銃の中では特に独創的な構造を持ち、ダブルアクションの撃鉄が上がった時、弾倉が前進する。そして撃鉄が落ちて弾薬の雷管を叩くのだ。
つまり、弾倉前部と銃身後部の隙間をぴたりと密閉し、弾倉回転式拳銃がどうしても避けられない筈のガス漏れを防ぐ機構を持っていた。
口径は7.62mmと小さいが、7発の装弾数を持ち、その構造の為に銃口初速も速い。
ガスが漏れないという事は当然、弾倉前部と銃身後部の隙間から漏れる発射音も少なくて済む。
そして全ては銃口から吐き出される発射音となり、装着された消音器によって減殺される。
その消音拳銃を見た時、大道寺麗華の脳裏に、報告書に記されていたある組織の名が浮かんだ。
「スメルシュ…」
スメルシュとはオルシア連邦政府の公式殺人機関で、“シュミヤット・シュピオナム”(スパイ殺し)の略称である。
主に国内の反乱分子の粛正と、対外への報復処理を請け負う組織だ。
オグプ(国家秘密警察)、N・K・V・D(エヌ・カー・ベー・デー)(内務人民委員部)、N・V・D(エヌ・ベー・デー)(内務省)らの組織とは完全に独立した組織力を持ち、その局員や工作員を各国に送り込んでいた。
秦播団はスメルシュの強大な力と資金をバックに、想海でのし上がって来た組織だ。スメルシュの目的は主に極東地域の監視にあるが、他にもアヘンや人身売買等で潤う市場も狙いの一つだ。
「彼女の仕業ではないわね。一体誰が…」
麗華は静かに部屋を後にする。
周の向かいのソファーにいた、若い用心棒が腰を上げた。
用を足して来ると他の用心棒に告げ、席を立った。
便所に入り、便器に向かって小用を済ました後、手洗い場にかがみ込む。
その時、便所のドアが開いた。
用心棒の男は、鏡越しに闖入者の姿を見て唖然とする。
それは女だった。今までに見た事もないような美人。
赤いチャイナドレスの肩に翻る黒い髪。
あまりに場違いな光景に男は声も出ず、暫しの間女の美貌に目を凝らした。
「なんだぁ… ここは男用だぞ。」
男は辛うじて体裁を繕い、憮然として言い放った。
「あ、ごめんなさい。間違えたわ。」
女、大道寺麗華は白々しくとぼけて見せた。
男は舌打ちをして水道の蛇口を捻る。
男の背後に立った麗華の右手が、チャイナドレスのスリットの中に滑り込む。
内腿から抜かれた麗華の右手の指の間で、しゅっと銀色の光が閃いた。
續
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