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SCARLET DRAGON 緋龍
RED SCORPION 冥府への弾道 壱
男のうめき声が、しんと静まり返った室内に響く。
蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、そこから放射する明かりは、床に這いつくばった男の苦悶の表情を照らしている。
それは斜め上から照らされる光の作り出す陰影で、苦痛に歪んだ男の顔はこの世の物とは思えない程の悪鬼の表情に見えた。
室内に異臭が漂っている。この臭いに馴れるまでは、誰もが顔をしかめる事であろう。
男は床を這っていた。今、死の恐怖から逃れようと最後の力を絞り出していた。
五十歳を過ぎた恰幅のいい体型と、この哀れな状態でさえ無かったら、金回りの良さそうな身なりをしていたこの男の名は、陳詳勳と言った。想海(シャンハイ)の闇の世界を牛耳る秘密結社の中で、新興勢力として恐れられている秦播団の幹部だった。
男は憑かれたように床を這っていた。
突然男は咳き込む。ごぼごぼと血の塊が口の中から吹き出した。
蝋燭の明かりは男の背中を照らしている。その背中にはすり鉢程の穴が開き、血にまみれた原色の内臓がはみ出している。
男の他に、その室内には屍が二つ転がっていた。
一つは壁際で座り込むようにして倒れている。背中の上の壁に広がった鮮血のシミの中に、二つの小さな穴が見える。
もう一つは男の横で倒れていた。頭部がぐしゃぐしゃに破壊されており、眼窩から飛び出した眼球が床に神経の尾を引いて落ちている。それは、その男を絶命させた瞬間の衝撃の凄まじさを物語っていた。
その死体と化している二人は、陳詳勳のボディガードとして常に行動を共にしていた若い男達だった。
室内に漂う異臭の正体は、血と硝煙と飛び出した臓物と、死の間際に失禁した糞尿の入り交じった臭いだ。
床を這っている陳は、憑かれたように前方の一点を見据えている。
その先に、すらり伸びた銃身と銃把を持つ、美しい一挺の自動装填式拳銃が静かに横たわっていた。丹念な焼き入れを施された特殊鋼をクロームで被膜された銃身が、蝋燭の光を受け鈍く光る。
それは磁気を帯びているかのように、見る者の魂を引きずり込むような魔力を持つ拳銃だった。
「あと少しよ。どう?どんな気分かしら。」
室内に声が流れた。感情を押し殺したような女の声。
部屋の中にもう一人、無傷で生きている者がいた。
「弾倉にはあと二発、薬室に一発、合計三発の弾が残っているわ。私を撃ち殺すには十分ね。さあ、早く掴んでごらんなさい。」
陳の側、少し離れた場所に椅子がある。椅子は陳の方に背もたれが向けられていた。
その椅子の背もたれに両手と顎を預け、女中姿の女が笑った。
黒く伸びた髪は肩の辺りでカットされ、その髪が囲っている顔はまだあどけなさの残る少女のようだった。
女中の支給着と思われる黒いスカートから伸びた足を開き、椅子に馬乗りになって跨っている。
仮に女中がそのような恰好なぞしたものなら、主人から即刻解雇を言い渡される事になりかねないだろう。
「ふふ… いいピストルでしょ? 欲しい? それはね、二十年前にあなた達がある地主の一家を惨殺した時、家主から奪って、その家主の目の前で家族を撃ち殺したピストルよ。土地の権利書を騙し取り、告訴した地主の口封じと見せしめを兼ねてね… あなたは命乞いする無抵抗な家族を、げらげら笑いながら一発では死なないようにじわじわと撃っていったのよね。あなたは覚えてないかも知れないけど…」
陳は自らの体から流れ落ちた血の海を、無心に這っていた。
女の声も聞こえていないようだ。
ただひたすら、目の前に横たわっている自動拳銃に惹かれるように、肘を使い、麻痺しかけている足をくねらせ、まるでナメクジが這うように前進してた。
「その家族に、末の娘がいたのよ。その日ちょうど、親戚に預けられていた娘がね。」
女は跨っていた椅子からゆっくりと立ち上がる。黒い支給着の上に纏った白いエプロンが蝋燭の明かりに映える。
床を這う陳の側に立ち、蔑むような、勝ち誇ったような目線を陳に送る。
自動拳銃と陳の右手の指先との距離は、もう一寸も離れてはいなかった。
「ふふ、よくここまで頑張ったわね。」
陳の右手の人差し指が、自動拳銃の銃把にかかった。
「でもね、あげない。それは私の大事な物だから。お父さんの形見だから。今日まで生きてきた私の、誓いだから。」
女はスカートの裾をめくる。そのすらりと伸びた足の先を、銃把にかかった陳の人差し指の上に乗せた。
女は体重をかけて陳の指を踏みつけた。指は銃把にかかって浮き上がっており、その上から女の靴と床に挟まれた状態になる。
ぼきりと指の折れる音と共に、陳の絶望への唸り声が室内に響く。
状況と意思に反して、陳は勃起したものから射精した。自分の最後を知った時の子孫を残そうとする空しい本能と、恐怖から来る異常なエクスタシーに陶酔していた。
女は拳銃を拾い上げる。そのスマートなフォルムは見事なバランスを保ち、女の腕と一体になったようにその手の中に収まった。
「助平心を起こして私を雇ったのが運の尽きね。私としたかったの? 今夜こそ私を手込めにする算段だったようだけど、もう思いを遂げる事も出来そうにないわね。いいわ、頑張ったご褒美にあなたをいかせてあげる。一発じゃつまらないから、残ったこの三発でね。」
女の手に移った拳銃はその女を真の持ち主と認めたか、喜びに似た光沢を放って女の腕と一体化している。
抜群のバランスを誇るその自動拳銃の、女の腕の先端のように伸びた六インチの銃身が、床に腹這いとなった陳に向けられた。
女の肩から銃口までが、一本の線として伸びる。既に蒼白と化した顔の中の、何の感情も表していない陳の目は、食い入るようにその銃口を見つめていた。
八百ヤードまで調整が可能な縮尺型の可変照門は、現在五十ヤードに調整してある。その谷型照門から見える照星を、陳の顔に重ねる。
女はふと笑い、銃身の先を陳の顔から逸らす。
銃声が響いた。それは部屋の空気を突き抜けるような、高速弾特有のぱきーんと言った感じの発射音だった。
陳が先程まで伸ばしていた、右手の甲が粉砕される。千切れて飛んだ中指と薬指が床に転がる。
女の腕の先で、自動拳銃の銃身が目にも止まらぬ速さで後退する。弾頭を吐き出した後で、遊底に付いた丸いつまみのリングが逆V字型に突き上がった。排出された空薬莢が女の頭の上を弧を描いて飛び、床に落ちて真鍮の澄んだ音を立てて転がった。
緩衝装置に当たって後退を止めた遊底は、今度は後退の間に圧縮されたスプリングの力で前進を始め、弾倉上端の弾薬をくわえ込んで銃身後端の薬室に送り込んで銃身を閉鎖する。
その一連の動作は一瞬の間で終わった。
何事も無かったように、再び陳へ銃口が向けられる。
陳は背中を折り曲げ、苦悶の声を漏らしていた。
胴体が動いた為に、腹部から背中に通った穴から一層勢いよく血が流れ、恐怖による脱糞が下腹部を濡らしている。
再び銃声が轟いた。今度は二発だったが、連続で速射された為に殆ど同時に聞こえた。
九ミリパラベラム弾の弾頭は、陳の背中から右胸と下腹部を貫通した。
着弾の衝撃で陳の体はボロ雑巾のように転がり、びくんびくんと痙攣を始めている。
女は敢えて心臓を撃ち抜かぬように狙ったのだ。だが陳が生きていられるのは、あと僅かの時間であろう。
弾薬を撃ち尽くした拳銃の遊底は後退位置で止まり、逆V字型に跳ね上がったままで止まっていた。
女は引き金の後方位置にある銃把に付いた、弾倉止めのボタンを押す。円形のつまみの付いた空の弾倉が自重で落ちてくるのを、女は左手で受け止めスカートのポケットに仕舞う。
ポケットから新たに取り出した七発の弾薬が詰まった予備弾倉を、口を開いた銃把の下から叩き込んだ。
跳ね上がったままになっていた遊底が、ばしっと音を立てて閉じる。
女の細い指が、受筒後部に付いた細長い安全弁を後方に倒した。
鉄の肌に刻まれた“Gesichert”という文字が、安全弁の下から現れる。これは安全装置が掛かったという意味だ。
女は小さく溜息をつき、そのスマートな拳銃を見つめる。
ルーガー・ピストル。それは陸軍より先に海軍が制式として採用した、銃身が二インチ程長いマリーネ・ピストーレと呼ばれるタイプのものだった。
ボーチャード・ピストルを原型とする、尺取り虫のように運動する遊底の設計を受け継いで、小型化単純化を目指して開発され、その後発明者の名前を採ってルーガーと呼ばれるようになった。ヨーロッパ圏で使われるもう一つの名称であり、電信略号社名の『パラベラム』とは、「戦いに備えよ」という意味だ。その抜群のバランスに加え高精度の作りは、高い命中精度を誇り信頼性も十分だった。だが部品数も多く生産コストが高かった為、後によりコストの低い他の製品と交替する事となる。
「さてと…」
女は己に言い聞かすように呟き、スカートの腰にルーガーを差し込む。
突然床にしゃがみ込み、床に広がる血の海にその白く細い指先をそっと付けた。
血の付いた指先が、乾いた床の上を踊る。
女は立ち上がり、異臭と死の臭いが充満した部屋を後にした。
惨劇の後を残す山荘は、その主人の屍を抱いて静かに夜明けを待つ。
紅蠍
床に刻まれた血文字は、想海全ての人間に対しての、一人の女の恨みと怨念の挑戦状。
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暗号名:紅蠍
国籍:八洲
本名:宮中 貴美子
想海ニテ出生ス
四歳ノ時、家族ハ土地ノ利権問題ニヨリ、現在ノ秦播団幹部数人ノ手ニヨリ殺害サレル
ソノ後、親族ノ家ヲ転々トシテ育チ、二年前、殺人罪ニテ逮捕
我ガD機関ガコノ身柄ヲ引キ受ケ、今回ノ作戦ニ従事サセル事ガ決定シタ
ナオ秦播団ハ、オルシア連邦ノ政府機関“スメルシュ”ト深ク関係シテオリ、ソノ動向ニハ十分ニ注意サレタシ
※“スメルシュ”ニツイテハ別紙参照ノ事
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月明かりの差し込む室内に蝋燭の明かりが揺れていた。
窓から見える隣のビルと、そのビルの端に満月が浮かんでいた。
簡素な机の上に、粗末な紙に記された報告書が数枚置かれている。
それを女の白い指が摘み上げた。
女の纏った赤いチャイナドレスが月明かりを浴びて怪しく輝き、肩口から露わになった白い腕が艶めかしく伸びる。
蝋燭の炎の上に、数枚の紙が翳された。
炎が燃え移るのを確認した女は、静かに灰皿へ紙を置く。
機密文書が灰皿の上で赤い炎を上げて踊り、瞬く間に紙の形を保った灰に変わる。
灰皿の隣に置かれた紙巻きたばこの箱に、女の手が伸びる。
しゅっとマッチを擦る音。一段と明るさを増した室内に、両切りのたばこをくわえた女の顔が照らし出された。
マッチの炎に揺らめく華麗な美貌。その気怠げな仕草は、女の妖艶さを一層引き立てていた。
その女の名は、大道寺麗華。
たばこに火を移した麗華は、マッチの燃えた軸を灰皿に投げ込む。
赤く形のよい唇から煙を吐き出すその表情に、何の感情も映し出されてはいない。
たばこの灰を軽く灰皿に落とした。たばこの先に触れて、先程の灰になった書類ががさりと崩壊する。
「仇討ちの手助けなの? それとも、利用するだけ利用して… D機関も落ちたものね。」
呟く麗華の目線は、部屋の壁の向こう、東の彼方を見据えていた。
「紅蠍、か… 所詮私と同じ…」
續
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