SCARLET DRAGON 緋龍

 

碧き双眸の鷲 娯

 

 福洲路を抜け、大通りから外れた路地には、多くの露店商が軒を連ねていた。
 陶器、掛け軸、玩具、外套と、それぞれの店に陳列された品目も様々だが、そのほとんどの出所は盗品だ。
 庶民の常食である青菜の漬物と、道端に捨てられた洗濯水の石鹸のにおいが鼻を突いた。
 狭い路地で、重そうな麻袋を担いでよろよろと歩く苦力(クーリー)とすれ違う。
 リーザははたと歩みを止めた。路上に放置されている大きな薦(こも)の包みを、二人の男が荷車に乗せている。
 薦の破れ目から、やせ細った腕がだらんと垂れた。薦の包みを荷車に乗せた男の一人が、うんざりした顔で垂れた腕を荷車に持ち上げる。
 男達は死体回収業者だった。役所に雇われているらしい。
 餓死した阿片中毒患者のほとんどは、仮に身内がいたとしても土葬するには金がかかるので、このようにして路上に放置されるケースが多い。
 これを役所が拾い集め、ゴミのように川に捨てているのだ。
 リーザはその光景を一瞥し、再び路地を歩き始めた。
 未だ陽が真上に昇りきっていない時間である筈だが、路地の隅で水兵二人が売春宿の客引きと交渉をしていた。
 「ユダヤの教典に出てくる“背徳の町”… きっと、この町のことね…」
 独り呟いたリーザは、皮肉な笑いを唇の端に刻む。
 リーザはラジオを修理するための電子部品を扱う店を探し、青い瞳をその欲望と背徳が支配する町に巡らせた。
 奇妙な気配に気付いた。
 尾行されている。
 リーザは再び皮肉な笑いで、美しい唇の端をきゅっと吊り上げた。
 それは、満更でもない自信に満ちた笑顔だった。
 「ふふ… 何処まで私に付いて来れるかしら。」
 精密機械を内蔵したような美しい人形は、悪戯を企てる小悪魔のように無邪気な顔で呟いた。

 麗華は蒸しパンをひと千切り口に運び、湯飲みから熱い鉄観音茶を啜った。
 箸を持った手を伸ばし、茶に漬けた梨を頬張る。
 「どうも私には、ここの食事は合わないようだ。」
 ザクマンは溜息をつき、手に持ったコーヒーカップの中身に目線を落とした。
 朝食のルームサービスを頼んだ麗華の部屋に、先程ザクマンが半ば強引に押しかけて来ていた。
 「そうですか? これでも軽くて食べやすいものですが…」
 麗華は鉄観音茶の湯飲みをテーブルの上にそっと置いた。
 同じくテーブルにコーヒーカップを置いたザクマンの手が、再び蒸しパンを乗せた皿に伸びる麗華の手を捉えた。
 麗華の手を包み込むように強く握る。
 「何のつもりですか?」
 麗華は手を握っているザクマンを、冷ややかな視線で睨む。
 「レイカ・ダイドージ。一目見た時から貴女は、私の心を捕らえて離さなかった。どうか、私の気持ちを察して欲しい。」
 「お気持ちは有り難く頂いておきます。ですが私の使命は、あなた達を無事に八洲に送り届ける事。それ意外は何もありません。」
 麗華は片方の手で、絡み付くザクマンの手を掴んで離しそっと押しやった。
 「何故だ?君のような美しい方に巡り会えた事は、私の生涯にとって最高の恵みだと思っている。この私の燃える思いを叶えさせてくれ。」
 「およしなさい。一夜のお相手が所望なら、他を当たって下さい。もし宜しければ、その筋をご紹介致します。この町は、そういった享楽で溢れかえっていますから…」
 麗華は湯飲みを取り上げ、鉄観音茶を啜った。
 「町の淫売なぞに興味は無い!私は君が欲しいだけだ!」
 プライドを傷つけられたザクマンは、顔を赤くして麗華に食ってかかる。
 「ザクマン博士。言っておきますが、あなたの計画は成就しません。」
 「何の事だ?」
 一瞬、ザクマンの顔に困惑の表情が走る。
 「合修国への亡命があなたの希望ですね。“D機関”は総力を挙げて、あなたと合修国の間で交わされた密約を阻止します。」
 「何を言い出すかと思えば… 私は身に覚えは無い。」
 ザクマンの顔色が、赤から青に変わった。
 「あなたは、カイザー・ウィルヘルム理学研究所の機密を握っている。最新の研究理論ですね。」
 「知らないと言ったら、私は知らない!」
 ザクマンはテーブルをどんと叩いた。
 ザクマンのコーヒーカップと麗華の湯飲みが、もう少しで倒れそうな程に揺れた。
 「ジェフ・プリングルに会う予定だったのは、彼が合修国への橋渡し役だったからです。」
 麗華は冷ややかな表情で詰問を続ける。
 「彼は殺された…」
 吐き出すように言ったザクマンの表情は、怒りから失望へと変化している。
 「ジェフ・プリングルを謀殺したのは、この私です。」
 麗華の言葉にザクマンは凍り付いた。頭を抱えた両手が、がくがくと震え始める。
 「おお… 何という事だ…」
 「ご理解頂けましたか。あなたを合修国の手に渡す事は出来ません。それから、私たち“D機関”と同様に、海軍の諜報部が動いているようです。ですが彼らの行動から推測するに、私たち“D機関”とは異なった指令を受けているようです。」
 「どういう事だ?」
 ザクマンは顔を上げる。エリートが初めて人生の壁に突き当たった、悲嘆と絶望の表情がそこにあった。
 「おそらく、あなたの抹殺です。あなたの亡命計画に気付いた軍の上層部は、あなたを合修国に渡してしまうくらいなら、この想海で消去する方法を選んだのでしょう。たぶん、プロシア側と共謀の上で…」
 「私まで殺そうと言うのか!本当に君たちは悪鬼の集団だ!」
 ザクマンは己の命が狙われている事を知り、怒りと嘆きに満ちた叫び声を上げる。
 「ご安心下さい。私の言うとおりにしていれば、八洲で研究を続ける事が出来ます。何も知らされていないリーザの為にも…」
 「リーザ… あの女のとの出会いが、私の人生の破滅の始まりだったのだ。」
 ザクマンは頭を両手で抱えて激しく振る。
 「それは、あなた自らが選択した道です。」
 麗華はテーブルの向かいで今にも泣き出しそうなザクマンを、真っ直ぐに見据えて言った。

 …選択した道?
 …私もそうじゃない?…
 …私も自らが破滅への道を選んだのよ、きっと…

 リーザは何気ない振りをして、前方を歩く二人の男に全神経を集中していた。
 昼が近い福洲路は人が溢れ返り、荷車と人力車が人混みの中を器用に縫って走っている。
 リーザは相手の尾行を見事に巻いてかわし、逆に尾行者の帰路を追跡していた。
 リーザを尾行していた男達は全くの素人だった。地回りのチンピラに違いない。
 通りに面した徳興茶館の裏に、男二人の姿が消える。
 リーザは通りの向かいにある戒煙院(阿片の吸飲所)の建物の影から、茶館の裏口に男達が入って行くのを確認した。
 「敵の本拠地を見つけたわ。レイカに報告しなくては…」
 小さく呟いたリーザはくるりときびすを返し、その場を立ち去ろうとする。
 突然、目の前に一人の影が迫った。
 はっとしたリーザは目線を上げる。反射的に脇に吊った革ケースのベレッタの銃把に指を伸ばしていた。
 「気付くのが遅い。腕は満更ではないが、もう少し周囲に注意を払う事だ。」
 南部十四年式の8ミリ口径の銃口が、静かな威圧を込めてリーザの胸を真っ直ぐに捕らえている。
 年の頃は四十歳ぐらいの八洲人だった。男の冷徹な目の光りに、リーザの体は硬直した。
 「カール・フォン・ザクマン博士の助手… いや、プロシア軍事調査廠のリーザ・ルスカだな?」
 リーザは答えなかった。答えない代わりに、脇に滑り込ませていた右手をゆっくりと抜く。
 掌を開き、手に何も持っていない事を男に伝えた。
 「利口な選択だ。一緒に来て貰うぞ。」
 男はしっかりとしたプロシア語で言い、南部十四年式の銃口でリーザを促す。

 麗華はチャイナドレスのスリットをまくり上げ、全弾装填したワルサーPPKを内股にガードルで固定した革ケースに差す。
 同じく研ぎ上げた錐刀(スティレット)を、金属製の鞘ごと内股に隠す。
 自分の部屋に引き籠もっていたザクマンに外出しないよう、また人が訪ねて来ても絶対に会わないように言い置き、ホテルを後にした。
 時間は既に昼を廻っていた。リーザの帰りが遅すぎる。
 麗華はリーザが訪れたと思われる、電子部品を扱う露店商が集う通りを探してみる事にした。

 ジム・タールは黒塗りのビュイックから降り立ち、静かにドアを閉める。
 後方で停車した同じビュイックからも、運転手だけを残して数人の男達が降りた。
 ジムはソフトを目深に被り直す。脇に右手を突っ込み、革ケースに差し込まれているコルトの銃把を掴んで脇の下で撃鉄を起こし、安全装置をかけた。振り向いて、背後のビュイックから降りた男に声をかける。
 「いいか、アンディー。俺達は裏から回るから、お前らは正面から行け。なるべく派手に暴れてくれよ。」
 男達はそれぞれが半自動式のジョンソン・ライフルや、一見トンプソンに似たハイドM35短機関銃を携えている。
 指示を出したジムは二人の男を連れ、ホテルの裏口に回った。
 麗華が外出した直後だった。OSSの精鋭部隊はザクマンの身柄を確保する為に、D機関のホテルの襲撃を開始したのだ。

 麗華はリーザの姿を見つける事が出来ず、足は福建路の脇通りへと向かう。
 そこは予言師、算命師、観相師、易者、筆跡占いなどが軒を連ねる、神秘術のマーケット通りだった。
 占いと抱き合わせて怪しげな護符を売りつけようとする呼び込みの声を無視し、麗華は一軒の手相見の前で歩みを止める。
 手相の線を解説した掛け軸の前で椅子に座り、うとうととまどろんでいた一人の老婆がいた。
 「訊ねたい事があるの。」
 麗華の声で夢から現世に戻された老婆は顔を上げ、麗華の顔を見るなり皺だらけの顔でにっこりと微笑んだ。
 目も鼻も口も、全てが顔に刻まれた皺の一部のようだった。
 「おや、あんたかい… 久しぶりだね。どれどれ…」
 老婆は麗華の手を取り、じっと掌を見つめる。
 「うーむ… 相変わらず、男運の悪いこと…」
 「私の事を聞きに来たんじゃないわ。」
 麗華は片方の手で、想海ドルの札を三枚ほど老婆に手渡した。
 「そう嫌うな。これも儂の商売じゃて…」
 老婆のシミの浮いたナナフシのような指の先端が、麗華の掌をそっと撫でてゆく。
 「見ろ、ここの線。これでは何時まで経っても、男が寄り付きゃぁせん。」
 その時、麗華の子宮から脳にかけて電撃のような快感が走った。
 「う… ふぅ…」
 麗華は堪らずぶるりと身を震わせ、甘い吐息を漏らした。
 「いくら強がっても、体のほうは正直じゃな。」
 麗華の掌と手首を這い回る老婆の指が、幾つかの特殊なツボを刺激していた。それが麗華の神経組織に直接快感を送り込み、同時に本人の意思とは関係なしに淫靡な感情を誘発させる。
 「男は嫌いか?… どうじゃ、この儂と寝てみぬか? 女同士で交わる際の、とっておきの秘術を伝授してやるぞい。」
 麗華は意思の力で、老婆の指から注ぎ込まれる快感の誘惑から自分の手を引き戻す。
 「…結構よ。それより、知っていたら教えて。金色の髪をした青い目の女が来なかったかしら? 何処に向かったのか知りたいの。」
 冷たく交際を断られた老婆は肩をすくめ、麗華の事務的な問いに細い指先でこめかみのあたりをかりかりと掻く。
 「相変わらず、つれないのぉ… はて、青い目の女とな?」
 この手相見の老婆は、麗華が利用している情報屋だった。
 ここ想海で起こった過去から現在までのあらゆる情報が、数々の口コミによるネットワークを通じて、その顔の皺の中に整然と刻まれているのだ。
 「青い目の西洋人形。確かに先程、福洲路を歩いていたのを見ていた者がおるぞ。なかなかに良い体をしておったと聞く。お前の新しい女か?」
 「そんな事を聞いているんじゃないわ。彼女が何処に向かったか知らない?」
 そっと老婆の手が差し出された。
 麗華は更に二枚の想海ドルを、老婆の掌の上に置いた。
 「徳興茶館に行け。青い目の西洋人形は、そこに囚われておる。」
 下から麗華を睨み付ける老婆の目に、凄みを帯びた光が走った。
 「礁江団。規模は小さいが凶暴な連中じゃて… 用心してかかれよ。」
 「ありがとう。」
 麗華は老婆に礼を言って立ち去ろうとする。
 「ふふ… 儂とてお前さんに死なれては、その肌を抱く楽しみが無くなるでな。」
 立ち止まって振り向いた麗華は、黒髪をなびかせてふっと笑った。
 「生きていたら、またお願いするわ。その秘術とやらを。」
 「ふむ。承知した。」
 老婆は皺に埋もれた顔で、にっこりと微笑んだ。

 .30-06弾の轟音が、ホテルのフロアを揺るがした。
 フロントにいたボーイは拳銃を握ったまま壁に叩きつけられ、血で赤く染まった壁伝いにずるすると崩れ落ちた。
 ボーイの手から離れたウエブリー&スコットMk.I N1913自動拳銃が、血染めの床に転がる。
 ジョンソン・ライフルを構えた男は、油断なくフロア内の気配を伺う。
 このセミ・オートマチックの自動小銃であるジョンソン・ライフルは、軍用銃らしくないスマートな外観と独創的な機構を持っていた。
 これは後の開戦後、米国全軍へのM1ガーランド小銃の装備が行き渡るのに時間がかかり、急遽代用として海兵隊の一部に制式採用された。
 直線型の銃床と穴の開いた薄板鋼製の被筒を持ち、すらりと伸びた銃身は優美とさえ言える。
 大型拳銃と同じように銃身が後退する反動利用式の連発機構に加え、尾筒の下部を取り囲むように装備された回転式弾倉は、小銃の外観を全く変わったものにしていた。
 この弾倉は、右側の下げ板から一発ずつ、10発の.30-06弾が込められる。
 構造が複雑で故障が起こりやすく、軍用に適さない理由から、ジョンソン・ライフルの採用期間は短く、その後M1ガーランド小銃の供給が順調になるに従い姿を消す。
 ジョンソン・ライフルを持つ男の隣で、もう一人の男がハイドM35短機関銃を肩付けする。
 このハイドM35短機関銃には、トンプソン用の鼓胴式弾倉(ドラム・マガジン)が取り付けられていた。
 これは弾薬・弾倉ともにトンプソンと互換性を持つように設計されているが、構造的に簡略化されていて、特に円筒型の受筒と遊底は高い生産性を狙ったものだった。
 廊下の向こうから走って来たホテルボーイを兼ねたD機関の護衛が二人、拳銃で応戦する。
 ハイドM35短機関銃が機械的な発射音を吐き出す。
 再びジョンソン・ライフルが轟音を発し、D機関の護衛係の二人は廊下の上で赤いボロ雑巾のようになって倒れていた。
 ジム・タールは裏口から階段を上り、二階の客室を一つ一つ探っていた。
 他の利用客はいないようだ。
 ある部屋の、閉じられたドアの前で立ち止まる。にやりと薄い唇を歪めて笑った。
 右手にコルト1911A1自動拳銃を構え、左手で閉じられていたドアのノブを乱暴に回す。
 内側から鍵が掛けられていた。
 ジムは二・三度ドアをノックし、ドアの向こうにいると思われる泊まり客に向けて怒鳴る。
 「ドアから離れて下さい、ザクマン博士。生憎、合い鍵を預かっていないので、少々荒っぽい開け方をします。」
 ジムの右手のコルトが二度吠えた。
 .45口径の弾頭が、ドアノブの下の鍵を破壊する。
 靴の踵で力任せにドアを蹴り破る。
 開かれたドアから室内に、スミス&ウエッソンM1917の弾倉回転式大型拳銃を構えた二人のOSS局員が殺到する。
 室内には、呆然として立ちすくんでいるザクマンがいた。
 「またお会いしましたね。今度こそ、お迎えに参上しましたよ。」
 二人のOSS局員の間から、ぬっとジム・タールが姿を現した。
 荒削りな顔に刻まれた皮肉な笑みは、昨晩会った時のものと同じだった。