SCARLET DRAGON 緋龍

 

暁の緋龍 壱

 

 九月の風はしっとりとした夜気を運んで来る。
 華やかなウオーターフロントの街は、表の顔で世界各国の人々を受け入れていた。
 ゴシック様式の建物が並ぶ賑やかな表通りを、仕事を終えた踊り子の集団が嬌声を挙げながら通り過ぎて行った。
 摩登(モダン)都市と呼ばれたこの街、想海(シャンハイ)は、今夜もその煌びやかな仮面に“魔都”としての本当の姿を隠して人々に享楽と夢を与えていた。
 建物全体が茶館として店を連ね、少し裏通りに入れば戒煙院と言われるアヘンの吸引所が並び、街娼が一夜の客を待つ。
 『永恒昌(ヨンフンチャン)』と看板を掲げたナイトクラブの前で、一人の女が立ち止まった。
 赤いチャイナドレスに、背中の中程まで伸びた黒髪。
 何よりその華麗な美貌が目を引く。年の頃は二十八・九だろうが、実際の年齢よりも幼さと清楚さを残した顔。それに反したチャイナドレスに包まれた見事な肢体が、道行く男達の視線を釘付けにしていた。
 余程の大物が遊びに来ているのだろう。茶館の入り口には若い男が四人、油断のない目を光らせていた。
 男達の視線が女に集中する。その美貌とすらりとした体躯に、一瞬にして魅入られてしまったのだ。
 男達の欲望に餓えたギラギラした視線を気にする風もなく、女は建物に入って行く。
 『永恒昌』は名の通ったナイトクラブであった。だがここは“紫衣団”の息のかかった店である。
 現在、この想海には一〇八の秘密結社が存在すると言われている。多くは旧王室の残党であったり、故人の思想を受け継ぐ団体であったが、地下に潜りそのネットワークを張り巡らせ、生き残る為の争いを続けた結果、現在の暴力組織としての顔と力を持ち始めた。
 理想は既に見失われ、組織はその力の拡大へと奔走していた。阿片、人身売買、恐喝、用心棒。金の為なら何でもやる。他の組織との抗争事件も頻発し、戦国の下克上の様相をこの魔都で展開していた。

 うっすらとした明かりの中、阿片の煙の匂いが鼻を突く。
 店内の客の入りは半分程だった。
 テーブルが並ぶ中を通り抜け、女は一瞬、若い娘とガード役の男達に囲まれた四十七・八歳の男に目線を送る。
 でっぷりと太った体と弁髪(べんぱつ)にした頭。“紫衣団”の資金係、沈(チェン)だ。
 沈は一瞬にして体の動きが止まった。妖艶な女の視線に魂を抜かれたのである。
 女は一人、カウンターに付く。ここからは店内のテーブルから奥のステージまで見渡せた。棚に並んだ酒のボトルを眺めながら、女はふっと気怠そうな笑顔を浮かべる。

 
 『自由が欲しいか?大道寺麗華。』

 女の名前は“大道寺麗華(だいどうじ・れいか)”と言った。

 『貴様の身柄は、今日から我々“D機関”が管理する。国家反逆罪。大罪だ。極刑もやむえないのだぞ。もっとも、刑罰から逃れられたのは大道寺財閥のお陰だ。感謝するといい。』

 …その名前は出さないで…

 『大道寺家にとって、貴様は厄介者だ。人知れず消えてしまう事が望みだろう。』

 …その名前は捨てたの…

 『我々のもとで働け。選択の余地はない。そう、貴様に新しい名前をやろう。これからは“緋龍”(ひりゅう)と名乗るがいい。』

 …私を外に出すつもり?…

 『信用などしてはいない。だがな、貴様にとって最も相応しい生き方を用意してやる。』

 …私は貴方を狙うかもよ。土井陸軍中佐…

 『果たして貴様に俺の首が取れるかな?まあ、楽しみに待っている。』

 …ふふ… 豪気なものね…

 去年、八洲(やしま)の首都で会った土井勝磨(どい・かつま)陸軍中佐は、三十歳過ぎのつかみ所の無い不思議な男であった。
 その秀麗にして端正な作りの顔に、残忍で冷酷な光りを宿す目。きっと彼に会う者は、その眼光に次々と服従させられるのだろう。
 八洲… 麗華の生まれた国。そして麗華が捨てた国。
 楽しい思い出など一つも無かった。在ったのは古来からの封建制度と拘束。
 女に生まれた以上は、死ぬまで奴隷扱いだ。またそれを美徳として、子供の頃から叩き込まれる。
 壊してやりたかった。古い体制を… 汚い権力を… 自分自身を…
 麗華にとって全てが破壊の対象であった。

 
 麗華の前に一杯のジンライムが差し出される。
 不思議そうにバーテンダーの顔を見上げると、若いバーテンダーは少し赤面して麗華から目を逸らせた。
 「あちらの沈大人から…」
 バーテンダーの指し示す方向。先程の弁髪頭の脂肪の塊が嬉しそうに手を振っている。
 麗華は優雅な身振りでグラスを持ち上げ沈に微笑む。
 グラスを口に運んだ。氷がからんと音を立て、ライムの香りが鼻腔いっぱいに広がった。
 カウンターのスツールから腰を上げる。麗華のチャイナドレスのスリットから覗いたすらりと伸びた足が、周囲の視線をいやがうえにも引きつける。
 沈が待つテーブルに歩いてゆく。
 近づいて来る麗華を眺める沈は、沸き上がる期待と欲望の中でその好色な笑顔は更に崩れていた。

 
 『自由が欲しいか?大道寺麗華。』

 …自由?そんなもの、この世には無いのよ…

 
 「ささ!ここに座りなさい!名は何と?」
 目の前に立つ麗華の見事なプロポーションを、下から上に舐めるように見上げた沈は慌てたように自分の隣を開ける。
 「緋龍と言います。初めまして。」
 にっこりと笑って麗華は答えた。
 「フェイロン?ほう、貴女らしい素敵な名前だ。」
 店に雇われている若い娘が去った後、沈の隣に麗華は腰を下ろした。赤いチャイナドレスから浮き出る腰のくびれが官能的に動く。
 麗華の組んだ足から、沈はねっとりとした卑猥な視線を離さない。
 先程席を立った若い娘が、その手にアルコール・ランプと長いキセルを持ってやって来た。
 「おお、どうですか?貴女も?」
 強引に勧める沈に麗華は笑顔で答える。
 麗華の前にアルコール・ランプが置かれた。女は慣れた手つきで蓋を外し、芯にマッチで火を点ける。
 手渡されたキセルの先の火皿をアルコール・ランプの火で炙りながら、麗華は目の前の白い紙包みを開く。中には焦げ茶色の練りアヘンが一回分入っていた。
 充分に暖まった火皿に練りアヘンを詰める。再びアルコール・ランプの火にかざした。じりじりと音を立ててアヘンは煙を立て始める。
 麗華はキセルからその煙を吸った。口先で吹かしているだけなのだが、瞬時に陶酔感が襲ってくる。
 麗華はわざと咳き込んでみせた。
 「うっ!ごほごほ…」
 「おや?あまり馴れてはいないのですね。無理なさらずに、ゆっくりとですよ。」
 わざとらしく沈は麗華の背中をさすった。助平な下心を隠そうともしない。
 「ごめんなさい… でもいい気持ちです。」
 「そうかい?それは、それは。」
 陶酔感は一瞬だった。先に飲んでおいたアヘンの成分を体内で分解する薬のおかげで、麗華は常に冷静な判断が出来る。
 「久しぶりだったのでつい… あの… お名前は?」
 「沈です。貴女は八洲人ですか?」
 「はい。母が八洲の者です。父はプロシアとオルシア。私は複雑な混血です。」
 「そうでしたか。道理でお綺麗な方だと思いました。」
 「綺麗だなんて、そんな…」
 「いや、お世辞ではありません。これ程のご婦人がこの想海にいらしたとは。」
 「お上手ですね。」
 麗華の肩に、沈は馴れ馴れしく手を廻して来た。
 触れなば落ちんと言わんばかりの麗華の風情が沈の欲情に火をつけたのだ。
 「ああ、沈大人… 雲の上に乗っているようです。」
 麗華は満足そうに呻いて沈の胸に頭を寄せた。沈の手が麗華の足を撫で、チャイナドレスのスリットから侵入しようと試みる。
 「いけませんわ。ここでは駄目。」
 沈の手をそっと押さえて拒否をする態度を見せた。
 「いや、失礼。あまりに貴女が魅力的だったもので、つい…」
 沈が手を引っ込めた後、麗華はドレスの裾を直すふりをしてそっと内股に手を差し込む。右腿の内側に、ガードルで固定された金属製の鞘のロックボタンを押した。鞘から麗華の手に移った小さな凶器は、刃渡り10センチ、柄の部分は5センチ程度の細長い両刃の短刀だった。
 錐刀(スティレット)と呼ばれるこのナイフは、錐のように細長く鋭いのでその名が付いた。刺された相手はその鋭さに暫く痛みを感じない。いや、痛みを感じることなく死に至るのだ。刺したあと体から引き抜いても、被害者の筋肉が収縮して傷口を塞ぐので出血も少ない。周囲の者も刺された者の死因が咄嗟に分からない事が多い。
 熟練した者の手にかかれば、この上ない暗殺用ナイフだ。
 錐刀を掌と手首の内側に隠し持った麗華は、まるで甘えて何かをせがむ雌猫のような仕草で、その右手を沈の胸板に這わせていった。
 一瞬、麗華の手が閃いたのを誰が見ていただろう。銀色の光りが、沈の肋骨の隙間から心臓に向けて貫通したのは瞬きをする間の出来事だった。
 胸に顔を埋めて甘えた仕草をする麗華を、満足そうに見下ろしていた沈の顔から表情が消えた。
 麗華の頭を撫でていた沈の手の動きが止まった。それは力が抜けたようにぱたりとソファーに落ちる。
 錐刀を隠し持ったまま麗華は気付かぬふりで、既に死体と化した沈にじゃれついていた。
 「大人、どうされました?」
 沈の向かいに座った、お付きとボディガードを兼ねた青年が、沈の異変に気が付いた。
 テーブルを回り込んで沈の顔を覗き込む。
 麗華は不思議そうな表情を作って沈から離れた。青年の背後にそっと回り込む。
 「大人、大人!具合でも悪いのですか?」
 周囲の者達にとって次の瞬間に展開された光景は、この世の物とは思えない地獄絵図だった。
 麗華は背後から青年の髪の毛を左手で掴んだ。同時に持ち上げられた顎の下を麗華の右手が一閃する。
 ぱっくりと開いた首から血がほとばしる。鮮血の飛び散る音に加え、開かれた気管から空気の漏れる音がした。
 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 女達の悲鳴が店内の空気を切り裂く。
 青年はそのままソファーに沈み込んだ沈の死体の上に倒れ込み、最後の痙攣を始めていた。
 麗華は青年の鮮血を浴びて赤く染まった沈の死体から、頭の弁髪を左手で持ち上げる。付け根あたりから錐刀で切断し、右手首に巻き付けた。
 既にパニックとなっている周囲の女達を尻目に、麗華は青年の服の背中で錐刀に付いた血と脂を拭き取る。
 どん!と、青年の死体に右足を乗せた。チャイナドレスのスリットから右足が剥き出しになった。
 その白い右内腿にガードルで固定された鞘に錐刀を納める。鞘についたラッチは錐刀の鍔を噛み、かちんとロックの掛かる音がする。
 麗華の右内腿には他に小さめの自動拳銃の予備弾倉が二本、ガードルで固定されていた。
 店の奥から数人の男達が、どやどやと物々しく足音を立て、その手に拳銃や短機関銃を持って現れる。
 彼らを一瞥した麗華は左手でチャイナドレスのスリットに手をかけ、一気に裾をまくり上げた。
 当然、下着など付けてはいない。露わになった黒い茂みの下、同じく左内腿にガードルで縛り付けられたホルスターからワルサーPPKを引き抜く。
 撃鉄の上と照門の間の突き出た細いピンは、既に薬室に弾が込められている事を教えてくれる。
 麗華は現れた男の一人、PPD40短機関銃を構えた男をワルサーPPKの照星に重ねた。

 
 『自由が欲しいか?大道寺麗華。』

 …自由?そんなもの、この世には無いのよ… 生きている限り…

 …でも、くれてやると言うのなら貰っておくわ。
  あと、一生遊んで暮らせるだけの金も…

 …自由?そんなものはいらない。
  私が欲しいのは、あんた… 土井勝磨…

 …悔しいけど…