こちら、桐生探偵事務所。外伝

女豹の紋章
perfect cybernation


 Chapter 6

 渡部は広い邸宅の門の前に400ccのスズキ・イナズマを停めた。
 マシンを降りる。フルフェイスを脱ぎ、アゴ紐を持ち右手に提げる。
 門には“川本”という表札が掲げられていた。
 あの人は一体、いくつの偽名を使っているのだろう?
 そんな疑問が湧いて来る。
 一体幾つの名前を使い、幾つの国を渡り歩いて、幾つの危険をくぐり抜け、幾つの人達と関係したのだろう?
 風見沙織。果たして本名だろうか?
 渡部の中で、嫉妬に似た羨望が沸き上がって来る。
 あれ程の美人だ。世の男どもが放っておく筈がない。
 所詮自分には手の届かない存在。そんな思いがひしひしとこみ上げて来る。
 だけど、この家に彼女がいる。
 そう思うだけで胸が高鳴って来る。少なくとも、あの笑顔は自分に向けられていた。
 そう信じたい。
 ふと、インターフォンのボタンを押そうとした指が止まった。
 帰ろうか。会うのは止めようか。
 彼女と有紀と、二人同時に会ってしまって、自分はどんな顔をすればいいのだろう?
 後ろめたさと罪悪感。
 僕は有紀に一体どんな顔をすればいいのだろう?
 思い切ってボタンを押した。押してしまった。
 「はい!」
 インターフォンの向こうから、始めて聞く少女の元気な声が帰って来る。
 彼女の妹だろうか?
 「あの、渡部と言います…」
 渡部はインターフォンに向かって話しかける。
 「お待ちしてましたよ〜♪ 玄関に廻って下さい。」
 好感の持てる明るい声が即答する。
 「はい。」
 渡部は再びフルフェイスを被り、スズキ・イナズマに跨ると門から続く広い庭へ乗り入れた。

 「いらっしゃ〜い! って、渡部さんね? はじめまして、私は結城詩織と言います。」
 玄関で出迎えたエプロン姿の少女がぺこりと頭を下げた。
 中学生だろうか? 妙にテンションは高いが、その奥に秘めた知性的な雰囲気を持つ少女だ。
 ばたばたと玄関に向かって足音が響いて来る。
 「渡部さぁん!待ってたよ。」
 「やあ、遅くなってごめん。」
 渡部は笑って手を上げる。
 笑う事が出来た。いつもと変わらない有紀への挨拶。
 「ささ、上がって、上がって。」
 有紀は玄関に立つ渡部の腕を掴み引っぱろうとする。
 「あ、ちょっと… 靴脱がなきゃ…」
 渡部は抱えていたフルフェイスを下駄箱の横に置き、踵を使ってスニーカーを脱ぐ。
 左足にチェンジペダルの跡を残し、すっかり形の崩れた年季の入ったナイキが、玄関の床に転がった。
 「う〜ん… 来てくれたんだぁ…」
 渡部の腕のブルゾンの袖を通し、ふくよかな有紀の体の感触が伝わって来る。
 いつもと同じ、いつもと変わらない風景。
 先日あの埠頭から助け出した時も、半年前にバイク事故で生死の境を彷徨った後も。
 有紀はその事には何も触れず、ひたすらに変わらない態度で接してくれていた。
 それが渡部にとっての救いでもあった。

 僕は… 怪物なんだ…
 きっとこの子は知っている。

 「遠慮なさらず上がってください。今、晩ごはんの支度をしていたところなんですよー。」
 詩織という少女が二人の背中を押す。
 「さて、問題です。今日のおかずは何でしょう?」
 有紀は渡部の顔を覗き込み、悪戯めいた表情で聞く。
 「トマトの匂いがするなぁ…」
 渡部は顔を上げて答える。
 「ご名答。今日はロールキャベツで〜す!」
 正解を述べる有紀の笑顔が眩しかった。
 この研ぎ澄まされた嗅覚、鍋の煮える音さえキッチンから聞こえる。
 あの事故から生還して以来、全ての感覚が常人のものとは桁違いに鋭くなっていた。
 「沙織おねーちゃんはもう少しすると帰って来ると思います。それまでゆっくりなさっていて下さいね。」
 背後から詩織と言う少女の声がした。

 あの人、いないんだ…

 そう思うと、がっかりした反面、少しだけ気持ちが楽になった。
 
 「よし、お前達はここで待機しろ。我々は裏手に回る。くれぐれも本隊が到着するまで怪しまれないようにしておけ。」
 金髪の男、ドルフ・マクファーレンは、携帯電話を懐に仕舞いながら隣にいた男に指令を出す。
 「ナメた真似をしてくれたな… 餓鬼ども…」
 ベンツのトップに肩肘を付き、ドルフ・マクファーレンは沙織たちの邸宅を睨み口元で笑った。

 「沙織おねーちゃん、遅いなぁ…」
 詩織は呟く。
 リビングでの渡部と有紀を交えた三人の会話は弾んでいた。
 有紀の学校であった事、渡部の大学での研究の苦労話や、詩織が南米で見た奇妙な習性を持つ蟹の話。
 特に渡部が手がけていたという人工知能の開発の話に、詩織は熱心に聞き入っていた。
 「車の音がする。誰か来たよ。」
 渡部の鋭い聴覚は、接近して来る二台のトラックのエンジン音を捉えていた。
 「沙織おねーちゃんかな?」
 座っていたソファーから腰を上げた詩織を渡部は制す。
 「待って。塀の外に止まった。足音がする…」
 その時だった。サブマシンガンの発射音が、玄関と裏庭から同時に響く。
 邸宅全体が揺さぶられるような衝撃。
 天井から漆喰の粉がぱらぱらと落ちて来る。
 反射的に詩織は有紀に飛びつき、有紀の体をかばうようにして身を伏せた。
 どたどたと土足で踏み込んで来る、幾つもの足音。
 どん!と、リビングの扉が蹴られ、蝶番を飛ばしながら開いた。
 見知らぬ男が三人、ミニ・ウージーを室内に向けて構える。
 ゆっくりとリビングに侵入して来た。
 渡部は躊躇していた。
 あの埠頭の時と同じだ。
 あの時は無我夢中で、自分でも何をしたか覚えていない。
 でも、これは明らかに身に迫った危機だ。
 何より僕は、この二人の少女を守らなくてはならない。
 次の瞬間、渡部は電光石火のスピードで動いていた。
 ソファーを飛び越え、着地した足で床を蹴る。空中で横から振った足のつま先が、手前の男が待つミニ・ウージーを叩き落とした。
 体を捻りながら着地。更に体の回転を利用して、ミニ・ウージーを叩き落とされた男の横っ面に裏拳を叩きつける。
 男の体はフッ飛び、隣にいた男にぶつかって二人は同時に昏倒する。
 慌てて背後の一人がミニ・ウージーを渡部に向けるが、正面からの蹴りをまともに受けて壁に叩きつけられる。
 開いた扉の向こうを、渡部が睨んだ瞬間だった。
 轟音が家の中で木霊する。
 渡部の体が吹き飛び、床に転がりソファーの背に叩きつけられた。
 「ぐ… あ…」
 床に這いつくばり渡部はもがく。
 口からごぼと血の泡が溢れた。
 「甘っちょれぇんだよ。銃に敵うとでも思ってるのか?」
 開いた扉から現れた金髪の男。ウールのコートの袖の先に握られた、ルガー・スーパー・レッドホークがステンレスの不気味な光を放っていた。
 「い… いやぁぁぁぁぁぁっ!」
 有紀の絶叫が響く。
 渡部は有紀の叫び声を聞きながら、意識を失わないように必死になって耐えた。
 キノコ状に開いた.44マグナムのホーロー・ポイントの弾頭は、腹部の筋肉で留まっている。
 腹に焼け火箸を突っ込まれたような感覚だ。
 だが、その痛みは瞬時にして消える。裂傷した内臓も既に修復を始めていた。
 見る見る再生した筋肉と皮膚組織が、.44マグナムの弾頭を押しだそうとしている。
 「一発二発じゃくたばらねぇか… さすがは改造人間だ。」
 ぎちり。
 ドルフ・マクファーレンは、親指でレッドホークのハンマーを押し下げる。
 シリンダーがそれに合わせて回転し、新たなカートリッジを銃身の後方に送り込む。
 「いや!いやだっ!やめてぇっ!」
 狂ったように泣き叫ぶ有紀を、詩織は渾身の力を込めて抱きしめていた。
 有紀の頭を抱きかかえ、目の前の惨劇を見せないようにする。
 同時に回した右手で、左手首に巻いた時計のリュウズを引き出し再び押し込む。

 沙織おねーちゃん… 早く帰って来て…

 「心配しなさんなよ、お嬢さん。コイツは大事な商品だから、殺したりはしねえよ。」
 再び轟音が、恐怖に支配された空気を切り裂く。
 今度は背中に.44マグナム弾を食らい、渡部の体が仰け反る。
 渡部の意識は深い闇の中に吸い込まれてゆく。
 
 カリーナのステアリングを握っていた沙織は、ジャケットのポケットで突然鳴った着信音に慌てて携帯電話を取り出す。
 液晶のディスプレイが暗号名を表示している。
 これは詩織の身に危険が迫った時に使う緊急回線だ。
 会話こそ出来ないが、詩織の腕時計から発信されたコールナンバーが携帯電話の回線を経由して、沙織に知らせる仕組みになっている。
 「ちきしょうっ!やられたっ!」
 沙織はクラッチを踏み込み、乱暴にシフトダウンをする。
 チューンされた4A-GEエンジンが唸りを上げ、タコメーターの針が跳ね上がる。

 蛍光灯の電源を落とされ、既に人の気配もない丈薙大学工学部の実験室には、空調機の音と精密機械を調整している機材の発する冷却フィンの音だけが、闇の中で静かに響いていた。
 突如、その静寂と闇が引き裂かれる。
 窓一つ無い実験室の暗闇の中で、ヘッドライトの光芒が輝いた。
 外観は通常の1.3リッター水冷4気筒エンジンに偽装された、水素融合タービンエンジンがくおんと独特の唸りを上げる。
 透過光の灯ったタコメーターの表面ガラスに映し出される、未知のオペレーティング・システムのプログラム言語が凄まじいスピードで流れる。
 超電磁振動装置R-H-Vが、その車体の周囲に防御シールドを張り巡らせ、メンテナンスの為に周囲の機器に繋がれたコード類をはじき飛ばした。
 ききっと後輪が白煙を上げる。
 どんという衝撃音の後、実験室に再び闇と静寂が戻った。
 ぶち抜かれて大穴が開いた壁と、もうもうと立ちこめる漆喰の埃。そして床にホイールスピンの跡を残して、工学部の実験室からスズキ・GSX1300Rハヤブサが姿を消した。

 

To be continued …