こちら、桐生探偵事務所。外伝

女豹の紋章
perfect cybernation


 Chapter 5

 丈薙大学のキャンパスには、冬の訪れを告げる風が吹き渡っていた。
 渡部啓介は研究棟の側に直列4気筒油冷エンジンの400ccバイク、メタリック・シルバーのスズキ・イナズマを停めてサイドスタンドを下ろす。
 キィでシートのロックを開き、シートカウル下のユーティリティ・ボックスからU字型の車輪ロックを取り出して前輪に掛けた。
 シートを閉じ、被っていたフルフェイスを脱いでヘルメットホルダーに掛けてロックする。
 最近学内でバイクの盗難事件が頻発している。念には念を。このスズキ・イナズマは、アルバイトで何とか頭金を貯めて購入したものだ。
 「最近、遠乗りをしてないなぁ…」
 渡部は暇さえあればワックスをかけて磨いているガソリンタンクを見つめて、独り呟く。
 ローンを組んで買った時、真っ先に「後ろに乗せてっ!」と石橋教授の娘、有紀にせがまれたものだ。
 「慣らしが終わったら」そう言って逃げたまま、もう四ヶ月が経過していた。
 教授が無事に帰って来て、また元通りの暮らしに戻れたら。
 冬が過ぎ、風が暖かい春の匂いを運んで来たら。

 その時、背後から人が接近する足音に反応して渡部は振り返る。
 「こんにちは。大事に乗ってるのね。」
 声の主は、ファッション雑誌から飛び出て来たような、モデル顔負けの美女。
 黒いレザーのジャケットと、それに合わせたレザーのミニスカート。下に着たボタンを二つ外した白いブラウスが、鉛色の空とは対照的に眩しい。
 「あ、こんにちは… えっと…」
 面食らった表情で、その美女の名前を思い出そうと渡部は焦る。
 「国際科学思想社の者です。なんてね… 嘘だよ。会うのは二度目かな?いや、三度目?」
 「二度目です…」
 美女のからかうような問いかけに、渡部はうつむいて答える。
 相手の目線から逃れる為に下を向くと、胸元が開いたブラウスと、ミニスカートから伸びる見事な脚線美。
 目のやり場に困る。
 「静かに近寄ったのに… あなた、後ろにも目がついてるような鋭さね。あたしの名前は沙織。風見沙織。」
 「僕に一体、何の用でしょう?」
 沙織は渡部の問いを無視して前を通過し、スズキ・イナズマに近寄る。
 「ピッカピカだねぇ。これならマシンも喜ぶよ。」
 沙織は手が写り込むようなガソリンタンクを優しく撫でる。
 「ちょっといい?」
 渡部の返事を待たず、沙織は左手でハンドルのグリップを握り、長い脚を優雅に伸ばしてスズキ・イナズマのシートの跨る。
 バイクに跨った直後、沙織がブレーキレバーとクラッチレバーに人差し指と中指をかけるのを渡部は見た。
 バイクに乗り慣れた者なら当然の動作だ。
 「うん。ポジション的にもいい感じ。あ、そうだ。大きいほうはどうしたの?」
 沙織は屈託のない笑顔を渡部に向けて問う。
 「大きいほう… って?」
 渡部は沙織の笑顔と、ブラウスの開いた胸元と、スズキ・イナズマのタンクに寄せた膝が一度に視界に入って来て、顔を赤らめながらそっぽを向いて答えた。
 「とぼけても無駄だよ。あの、ハヤブサ… 独りで勝手に走るって、どういう仕掛けなの?」
 「な、何の事ですか?」
 沙織はハンドルを握った前傾姿勢からゆっくりと体を起こし、バイクに跨ったまま腕を組む。
 「話したくないなら、あたしはそれ以上の詮索はしないよ。実はあんたの力のほうが興味はあるんだけどね。取りあえず今日は、助けて貰った礼を言いに来たんだ。」
 「……」
 渡部は暫く考えた後、すっと沙織を真っ直ぐに見据えて聞いた。
 「どうして?どうしてあのような、危険な事をしているんですか?」
 「危険な事って?」
 今度は逆に沙織が困惑する。
 「前にここに来られた時、僕は見たんだ。あなたの人差し指、タコがあるでしょう?ロス市警にいる友人の手で、僕は同じものを見た事がある。それは相当な射撃の訓練をしている証だって聞いた。」
 沙織は自分の右手を目の前にかざして見つめる。
 マニキュアを塗った爪に、盛り上がったトリガーダコが似合わない。
 「ふーん。確かに並の女の手じゃねぇよなぁ…」
 沙織は呟き、くすりと笑った。
 「お互い様かぁ… ま、いいや。有紀さんはこちらで預かってるから。」
 沙織はジャケットの胸ポケットに二本指を差し込み、一枚のメモをつまみ出して渡部に手渡す。
 「ここが住所。有紀さんも、ウチの妹も会いたがってるよ。晩飯くらいご馳走するからね。」
 「有紀さんを… どうして?」
 「あんたがあの埠頭で助け出した後、家に帰したみたいだけど、そのままだとまた奴らに狙われて危険だとあたしが判断したの。大丈夫、ウチの妹と仲良くやってるみたいだから。」
 「そうだったんですか…」
 「そういうこと。」
 沙織はひらりと身軽にバイクから降りる。
 ショートカットの髪が風に揺れた。
 「あんたも気を付けてね。暫く外出は控えたほうがいい。」
 沙織の相変わらずのぶっきらぼうな言葉の中に、有紀や渡部の事を心から心配している気持ちがこもっていた。
 颯爽と去って行く沙織の後ろ姿を、渡部は目で追う。
 まだ体温の残るバイクのシートに、そっと手を触れてみた。
 実はこのシートに女性を乗せたのは初めてだった。
 心が、揺れ動いていた。

 沙織は渡部と別れた後、別の目的地に向かっていた。運転しているカリーナGTを、とあるマンションの前に停める。
 安普請なマンションの階段を登り、三階にある一室のドアの前でブザーを押した。
 ドアが開き部屋の中から、三十歳くらいの日焼けした肉付きのいい男が出てきた。
 「やあ、待ってたよ。沙織ちゃん。」
 男は嬉しそうに沙織を部屋に招き入れる。
 沙織は玄関でブーツを脱ぎスリッパに履き替えて、勝手を知ったように部屋に上がり込む。
 マンションのリビングには常時動き続けているサーバー・コンピュータや、ビデオカメラなどの撮影機材が所狭しと並んでいる。
 「嬉しいなぁ。沙織ちゃんが来てくれるなんて久しぶりだよ。」
 男は今にも沙織を抱きすくめそうな勢いだ。
 「お久しぶりだね、高橋さん。また太った?」
 沙織の挨拶に、高橋と呼ばれた男はしょげ返る。
 「それはないだろ〜、沙織ちゃん。」
 「急いでるんだ。手っ取り早く済ませたい。」
 沙織は黒いレザーのジャケットを脱いで、モニターの前に据えられたイスの背もたれに掛ける。
 シルクの白いブラウスの下から浮き出る肌の色が、男の欲望をそそる。
 それ以前に、脇の下に拳銃を吊ったショルダー・ホルスターが男の欲望を萎えさせる。
 「どこを使っていいかしら?」
 「あ、ここをどうぞ〜!」
 高橋は気取った手つきで、一つのモニターに向かったイスの埃を払う真似をする。
 「じゃ、遠慮なく。」
 沙織は高橋が指したイスにどっかと腰を降ろし、ミニスカートの脚を組む。
 右手に掴んだマウスを小刻みに動かし始めた。
 警視庁のデータベースに入り込む。
 ここは公安警察の非公開の調査拠点であり、高橋という男も公安の刑事だった。
 公安の上層部に顔が利く沙織は、過去に何度か調べ事で使わせて貰った事がある。詩織に頼めば不正侵入も可能だが、最近はセキュリティも強化されているうえ、厄介なもめ事に巻き込まれるのは避けたい。
 あの埠頭で会った金髪男。沙織の記憶の片隅に引っかかっていた。
 翌日の新聞には埠頭での事件は取り上げられておらず、沙織が爆破した貨物船は他の船に曳航されて埠頭から姿を消していた。
 おそらく船に残っていたと思われるベティの工作員達が、事件の証拠を全て隠滅したのだ。
 「沙織ちゃんは何飲むの?どっちがいい?」
 高橋は右手にネスカフェ、左手にブレンディの瓶を持ち、にこやかな笑顔で沙織に話しかける。
 「…」
 沙織は無言で右手のネスカフェの瓶を指差す。
 「砂糖はいくつ?ミルクは?」
 高橋の質問に、沙織はモニターから目を離さずに答える。
 「ブラックで… ブランデーを少しだけ落として…」
 沙織の背後でインスタントコーヒーの瓶の蓋を開く音がする。
 「ぶらんでぇ〜?ないよ、そんなもん… 焼酎じゃダメ?」
 「ダメだっ!」
 張り込み専用の男所帯というものは、得てしてそのようなものである。
 沙織の前のモニターに、一人の人物の顔が浮かび上がる。
 「みぃつけたぁ〜… こいつだ。」
 沙織は唇の端で笑い、詳細データを引き出す。
 あの埠頭で見た金髪男の、正面からと横顔の写真が並んでいた。
 既にインターポールのデータベースに入っており、詳細事項は英語で並んでいる。
 「ドルフ・マクファーレン… 三年前、モスコーでの領事館爆破事件以来、世界中のお尋ね者だぜ。」
 沙織のデスクに湯気の立つコーヒーカップを置いた高橋が呟く。
 「うん。目の辺りを整形してるけど、確かにコイツだ。」
 沙織は腕を組み、モニターに映し出された顔写真を睨みながら言う。
 「去年のパキフスタンでの教会爆破もコイツの仕業らしいな。」
 「ああ、あれね。冷戦下にある対抗勢力同士を、わざとあおり立てる算段らしいじゃない。やることがえげつないねぇ。ベティ…」
 「漁夫の利か… そう言えば、チェルブミンスクの原発事故騒ぎも…」
 「ええ。聞いた話によると、当時のソヴィエト政府が敵対国のテロ行為に見せかける為に雇ってやらせたのが、ベティの前身機関だったそうじゃない。まさか炉心溶融まで破壊されるとは、さすがのゴルビーも計算外だったみたいだけどね。」
 沙織は高橋と喋りながら、それでも目だけはせわしく動き、詳細事項を隅々まで読む。
 「なるほどね…」
 沙織はコーヒーカップの手を伸ばし、高橋の煎れたインスタントコーヒーを一口飲む。
 「ドルフ・マクファーレン。本名ではないだろうけど… 沙織ちゃん、知ってるの?」
 「この前、会った。」
 事も無げな沙織の答えに、高橋は目を丸くする。
 「だ、ダメだよぉ〜!そんな危ない事に関わっちゃ!沙織ちゃんはボクの宝物なんだからぁ〜…」
 「何時からあたしがあんたの宝物になった?」
 「何と言われようと、ダメなものはダメ!」
 「邪魔したね、高橋さん。たまには家に帰って、奥さんと一緒にごはんを食べなよ。」
 沙織はイスに掛けていたジャケットを掴み、足早に部屋を出てゆく。
 高橋は沙織の後を追って玄関まで走る。
 「あ、コーヒーごっそさん。ちょっと薄かったぜ。」
 玄関で沙織はブーツを履きながら言う。
 「また来てね〜。沙織ちゃん。」
 高橋の言葉が終わらぬうちに、玄関のドアがばたんとが閉じられた。
 玄関に残された高橋は、ふぅと溜息をつきリビングに戻る。
 「もう帰っちゃったよ。滝さん。」
 高橋はリビングを仕切っている扉に声をかける。
 その扉の向こうは、マンションの設計上は寝室になっているのだが、高橋達は写真を現像する暗室に利用している。
 扉がゆっくりと開き、その扉の向こうの部屋から初老の男が現れた。
 あの埠頭で沙織を見つけた男だった。
 「滝さん。何も隠れなくても…」
 高橋の呆れた声に、初老の男は頭を掻く。
 「いやぁ、年甲斐もなく恥ずかしくてな。この歳で久々に恋ってヤツをしてしまったみたいじゃわい。」
 冗談か本気か。滝と言う初老の男は「がはは!」と豪快に笑った。
 タバコと現像液の臭いが支配する張り込み専用の男所帯に、ふと女の残り香が漂っていた。

 渡部啓介はスズキ・イナズマのイグニション・キィを回し、セルスターターのスゥイッチを押す。
 軽快なセルモーターの音と共に、4気筒のエンジンが息を吹き返した。
 石橋教授の研究室の整理を終え、届いていたメールをチェックして来たばかりだった。
 今日はもう用事はない。
 アルバイトも休みだし、これで自由の身だ。
 渡部はブルゾンのポケットに突っ込んでいた、沙織に渡された住所のメモを取り出す。
 先程マップを検索して場所は確認済みだ。
 渡部は嬉しくも複雑な心境で、メモの走り書きの住所を見つめる。
 
 あの人の字だろうか?

 有紀に会える。今日はゆっくり出来る。
 そう思うと、気持ちがほんわりと和んで来る。
 妹のように思っていた。彼女も兄のように慕ってくれている。
 突然、渡部の心に横から別な者が割り込んで来た。
 ぶっきらぼうでありながら、何故か心を惹きつけて離さない仕草。
 乱暴な中に、どこか優雅な優しさが漂う。
 見事なプロポーションと魅力的な笑顔。

 あの人の字だろうか?
 それにしても、汚い字だ。

 きっと、日本を離れていたからだろう。
 渡部は勝手な想像で相手をフォローしていた。
 思い切ったようにフルフェイスを被る。
 バイクに跨り、サイドスタンドを左足の踵で蹴り上げる。
 チェンジペダルを踏み、クラッチを繋げる。
 4気筒から発生する排気音は、4in1のマフラーを通して丈薙大学のキャンパスに響き渡りながら遠ざかってゆく。

 丈薙大学の裏門の側の路上に、アウディとベンツが停まっていた。
 今、裏門から出てきたバイクを認め、ベンツの後部座席に座っていた金髪の男が静かに呟く。
 「ヤツを追え。見失うなよ。」
 バイクの後を追って、アウディとベンツが静かにスタートした。

 

To be continued …