こちら、桐生探偵事務所。外伝

女豹の紋章
perfect cybernation


 Chapter 1

 微かにセピア色を帯び始めた銀杏並木。
 学生の出入りで賑わう、丈薙大学の正門から遠く離れた裏道。
 塀沿いに幾つかの研究棟が見える。その向こうに拡がるキャンパスから聞こえる筈の、学生達のざわめきもここへは届かない。
 二台の車が辛うじてすれ違う事が出来る程度の細い道を、今一台の赤いR34スカイラインが徐行していた。
 エグゾーストを変更しているのか、エンジンがアイドリングに近い回転数ながらも低く野太い排気音を吐き出している。
 アスファルトの僅かな起伏を拾い固く揺れる車体は、明らかにサスペンションやショックにも手が加えられていた。
 主翼部と可変翼部で構成される、大きく張り出したリアスポイラーを持つそのボクシーなボディは、檻に放り込まれた虎の如く窮屈そうに細い路地を進んでいる。
 前方道路の中央で、五人の高校生と思しき集団がたむろしていた。
 周囲の迷惑も省みずに、バカ陽気に騒いでいる。
 彼らに接近したスカイラインは停車し、派手にクラクションを鳴らした。
 せっかく盛り上がっていたのを遮断したクラクションの主を、彼らは一斉に振り返って睨み付ける。
 日焼けサロンに通いつめて褐色の肌を手に入れ、髪を丹念に巻き上げラップ歌手を気取った少年の一人が、スカイラインの運転席側に走り寄る。乱暴にウインドウを手の平で叩きつけた。
 「なんだこらぁ!文句あんのかぁ!」
 パワーウインドウがモーターの唸りを立てて、フィルムを貼ったガラスを下げる。
 凄みを効かせて怒鳴りつけた少年の顔が、突然驚愕に固まる。
 開いたウインドウの中でスカイラインのステアリングを握っていた者は、明るい色に染めたショートカットに、グラビアモデル顔負けの整った顔と精悍な光を放つ瞳を持つ超絶美人だった。
 「どけ。ひくぞ。」
 形のいい唇から転がり出た言葉。
 少年は相手が女と知った途端、女の美貌に吸い寄せられると同時に舐めてかかっていた。
 「おお、おもしれー!やってみなぁ、おねーさん。」
 少年は憎々しげに唇を歪めて女に噛みつく。
 「なんだよぉ〜♪歩行者優先だろーがぁ!」
 調子に乗った連中が更に焚き付ける。
 女はゆっくりと少年を睨み付けた。その凄みに、少年はウインドウを叩いた手を退ける。
 「三度目は言わないよ。どけ、クソガキ。」
 「なんだとぉ〜…」
 少年が凄む前に、スカイラインの車体ががくんと前進した。
 少年達の群にフロントノーズを突き刺す。
 「わあぁぁぁぁぁっ!」
 「マジかぁっ!」
 少年達が逃げまどいながら口々にわめき散らす絶叫を、スカイラインの急ブレーキのタイヤの悲鳴が切り裂いた。
 フロントバンパーに突き飛ばされて、アスファルトの上に転がった二人が慌てて立ち上がる。
 ばたんとドアの閉まる音。
 赤いスカイラインの閉じた運転席側ドアの横に佇む女は、すらりとした長身にノースリーブの黒いハイネックセーターを着て、ヘソどころか腰骨まで露出した股上の浅いローライズのベルボトムジーンズを履いた、当にグラビアモデル顔負けの美人だった。
 ただ、右手に握られたモンキースパナが、間違いなく彼女の本業はモデルではない事を物語る。
 「文句あるヤツぁ前に出ろ。歩行者優先だと?どいつだ、言ったのは?あたしもこれで歩行者だ。みっちりオトシマエ付けようぜ。」
 女の凄みは脅しではない。気配がそう物語る。
 少年達は顔色を変え、一斉に走り去る。
 足をもつれさせ転がりながら、それでも懸命に仲間の後を追う者もいる。
 「やれやれ… どこの国も変わんねーな。」
 女は一つ溜息をつき、握ったモンキースパナで自分の肩を軽くぽんぽんと叩いた。
 再びスカイラインの運転席ドアを開くと、長い足を折り曲げて乗り込む。
 ひらりと舞った銀杏の葉っぱが一つ、スカイラインのボンネットに落ちる。
 赤いR34スカイラインは低音の効いた排気音を立てて、再び細い道を進み丈薙大学の裏門に吸い込まれていった。

 彼女の名は、風見沙織。(*注1)

 駐車スペースにスカイラインを停めた沙織は、小さなバッグを肩に掛け、あらかじめ調べておいた研究棟へ向かう。
 昼下がりの丈薙大学のキャンパスは行き交う学生の数もまばらで、この研究棟の密集するあたりに至っては一部の研究生の姿しか見えない。
 それでもすれ違う研究生や学生達の視線が沙織に集中する。
 男女問わず発せられるまとわりつくような視線を無視して、沙織はB1棟にあるという石橋敏朗教授の研究室に向かった。
 年季の入った廊下を抜け、“石橋”とプレートの掛かったドアの前で立ち止まる。
 ドアをノックする。
 暫く間をおいて、部屋の中から返事が返って来た。
 静かにドアが開く。
 ドアの中から覗く青年と沙織の視線がぶつかった。
 「あ… あなたは?」
 どこかおどおどとした、頼りなげな青年だった。
 「初めまして。私は石橋教授に取材を申し込んでいた、国際科学思想社の者です。」
 沙織の明るく流れるような自己紹介に面食らった青年は、救いを求めるように背後を振り返った。
 「石橋教授なら只今不在です。」
 青年の背後からぬっと現れた、三十過ぎの年格好の男がつっけんどんに言い放つ。
 「国際科学思想社?一体、何の用でしょう?聞いていませんが。」
 青年を押しのけドアの前に立った男は、改めて沙織の美貌に驚き目を丸くする。
 「え?そうですか?おかしいですね。社の方からアポイントはありませんでしたか?」
 沙織は腕を組み、わざとらしく人差し指を頬に当て、小首を傾げて困った風を装った。実はアポイントなど、最初からある筈が無い。飛び込みもいいところだ。
 沙織の仕草に刺激されたか、男は半開きだったドアを全部開く。
 「ま、立ち話もなんですから。どうぞ。」
 男は沙織を石橋教授の研究室に招き入れる。
 「渡部君、お茶を入れてくれたまえ。」
 男は気取った命令口調で青年に指示を出す。沙織に部屋の中央にあるソファーを指し示す。
 青年はあたふたとしながら、給湯室へ向かう為に部屋を出ようとしていた。
 「待ちたまえ。コーヒー、それとも紅茶が宜しいですか?えっと…」
 「お構いなく。私はこう言うものです。あ、ではコーヒーをお願いします。」
 ソファーに腰を下ろした沙織は、向かいに座った男の前に名刺を差し出す。
 青年は部屋から出て行った。
 「国際科学思想社… 藤田典子、さん…」
 男は沙織の偽装名刺を摘み上げ、厚いメガネ越しにじろりと沙織を睨む。
 頭の天辺からつま先まで舐め回すような、好奇と欲情の入り交じった視線だ。
 沙織はバッグから大ぶりの手帳を取り出し、テーブルの上で開く。右手に握ったボールペンの尻をノックして、いかにも取材者らしく振る舞う。
 「私の名は迫田。石橋教授のお手伝いをしている者です。彼は研究生で渡部と言います。私と同じように時々教授の研究を手伝っています。さて、どのようなご用件でしょうか?生憎、石橋教授は出張で何時帰って来るかも分からない状態なのですが、帰って来たら私が取り次いでおきましょう。」
 沙織は残念そうな表情で迫田という男に話す。
 「当社の月刊誌“ノートン”で、今度『遺伝子工学の最前線』という特集を組む事が決定しまして… でも、石橋教授がご不在なら仕方ないですわ。」
 「せっかくですが、申し訳ありません。」
 「研究論文の転載許可も頂きたかったのですが…」
 「先生が不在の間に勝手な事は出来ませんので。」
 「どうしよう… 締め切り、間に合わないなぁ… 石橋教授は何処に行かれたのでしょうか?」
 「申し訳ないですが、それも言えません。」
 「う〜… 編集長が今回の取材は任せると言ってくれたのにぃ〜… やっとあたしも記者デビューが出来るのにぃ〜…」
 思い切り落ち込んだそぶりをみせる沙織の手帳の上に置いた左手を、迫田の手がそっと包み込んで来た。
 「あの、宜しかったらお力になりますよ。内緒という事で…」
 迫田は沙織の左手を両手で握り、二人の目の高さまで持ち上げる。
 メガネの奥の普段はどんよりとしている筈の瞳には、堪えがたい欲情の光がらんらんと輝いていた。
 沙織の顔はぱぁっと希望の光に輝き、迫田の顔を見つめる。
 「研究資料の殆どは私が管理しています。もし不都合がありましても、私が揉み消して見せますので。そのかわり…」
 沙織は迫田の要求に答えるように、握られた左手で迫田の右手を握り返す。
 いや、握り返す風を装い、人差し指で迫田の人差し指の付け根を包み込み、人差し指と中指の間に残りの中指と薬指と小指の三本を差し入れ、親指を親指で押さえ込んだ。
 瞬間的に力を込める。
 「ぎゃあぁぁぁぁっ!」
 迫田の絶叫が研究室に響いた。
 手首と人差し指の付け根の関節を同時にねじ上げ、更に人差し指と中指の間を裂く関節技だ。これは痛い。
 めきめきと関節が悲鳴を上げる。
 手を放した沙織から飛び退き、真っ赤な顔で右手を抱え込んでソファーに蹲っている迫田がいた。
 「ど、どうしました…?」
 ばたんとドアが開き、先程の渡部という青年が顔を覗かせる。
 慌てている筈なのに、どこか緊迫感の足りない青年だった。普通に歩いていれば女の子の二・三人は寄って来ても不思議はない、スポーツ会系の美声年だった。育ちの良さとおっとりとした性格が、その外見とは全く違うアンバランスさを醸し出していた。
 「な… 何でもない!君は早くお茶を入れたまえ!」
 痛みの余韻を和らげようと右手を振りながら、迫田は渡部を怒鳴りつける。
 「は、はい…」
 ドアが静かに閉じられた。
 ソファーの背もたれにふんぞり返り、足を高く組んで、沙織は冷ややかな視線で迫田を睨み付け言い放つ。
 「勘違いなさっては困りますわ。私は石橋教授に用がありますの。」
 「《お前のような、チャラチャラした小娘に何が分かる!偉大な研究は貴様らの玩具じゃない!》」
 迫田は陰険な視線を沙織に向け、ドイツ語で罵る。
 「《小娘で悪かったな。あんたのようなスケベ野郎が、一体何の研究だ?聞いて呆れらぁ!》」
 沙織の口から滑り出した流暢なドイツ語を聞いた時、迫田の表情が固く凍結した。
 「また石橋教授がいらっしゃる時に伺いますわ。失礼しました。」
 沙織は静かにソファーから立ち上がり、迫田に一礼する。
 手帳をバッグに仕舞い、後を振り向きもせず研究室を後にした。
 廊下で渡部という研究生とすれ違った。
 手に持った盆には、二人分のコーヒーカップが載っている。
 「あ、もうお帰りですか?」
 戸惑う表情で沙織に聞く。
 「迫田さんに、お大事にとお伝え下さい。」
 沙織は言った。コーヒーカップから昇る湯気と香りに鼻腔を刺激される。
 「ゆっくりしていらしたらいいのに…」
 残念そうな青年の顔にふと微かな笑顔を取り戻した沙織は、青年が持つ盆の上のコーヒーカップを取り上げ口に運ぶ。
 「あちち… あら、いい豆使ってるじゃない。」
 「はい。近所の喫茶店から取り寄せているんですよ。僕の趣味ですけど…」
 「また今度ゆっくり頂くわね。じゃ。」
 ぴしっと敬礼を残し、沙織は颯爽と廊下を歩き去ってゆく。
 渡部という青年は、その沙織の後ろ姿が見えなくなるまでぽうっと見とれていた。

 スカイラインのシートに座った時、沙織の携帯電話がバッグの中で鳴った。
 バッグから取り出し、畳まれた本体を開きディスプレイ上の受話口を耳に当てる。
 「やっほ〜♪沙織おねーちゃん!」
 受話口から聞き慣れた声が響く。
 「詩織… 何かいい事でもあったのか?」
 相変わらずの脳天気な声に、沙織は半分呆れて答える。
 「ううん、別にぃ〜。久々の日本が嬉しくて。で、どうだった?会うこと出来た?」
 「それが、肝心の本人がいねーんだよ。助手を騙す手もあったんだけど、ヤな野郎だったんで凹ませてやった。」
 「また… 沙織おねーちゃん、相変わらず乱暴だから…」
 「違うっ!気色悪い野郎に迫られたあたしの身にもなれってんだ! でもね、あたしだったら、重要な物を到底あんな助手なんかに預けてはおかないよ。」
 「そうね。本人のみぞ知る、か… でも、早くぶん取ってやらないと、スポンサーが痺れを切らすよ。」
 「その時は競売にかけるまでだ。あれを欲しがってる奴らは、星の数ほどいるんだから。あ、そうだ。石橋教授の自宅周辺のマップをナビに転送してくれ。今度はそっちを当たってみる。」
 「りょぉか〜い!気を付けてね。」
 沙織は携帯電話を折り畳み、バッグに仕舞う。
 アイドリングを続けているスカイラインをゆっくりと発進させた。

 「はい。国際科学思想社です。」
 電話の向こうの事務的な応対に、迫田は低く話しかける。
 「そちらに、藤田典子さんという記者の方はいらっしゃいますか?」
 「いえ、当社に藤田という者はおりません。」
 「そうですか。失礼しました。」
 迫田は静かに受話器を置く。沙織に渡された名刺を摘み上げて、目の前でひらひらと振ってみせる。
 「やはり偽名か… 何者だ?」
 迫田は再び受話器を取り、今度は別のダイヤルをプッシュする。
 「迫田だ。B3セクションに繋いでくれ。」
 先方の内線が繋がれる間、迫田は苛立たしげに待つ。
 見下ろした窓の外を今、沙織の操るスカイラインがゆっくりと裏門に向かうところだった。
 受話器の向こうで、迫田の目指す相手に繋がる音がした。
 「迫田です。先程怪しい女が来まして… ええ、偽名を使っていました。大した者ではありませんが、一応マークしておいたほうがよいかと思われます。車は赤いニッサン。ナンバーは57○8… はい、分かっています。では。」
 頬に伝う汗を白衣の袖で拭い、迫田は受話器を置いた。
 再びメガネの奥の陰険な眼差しを窓の外に戻す。
 微かに色づき始めた銀杏並木が、風にざわりと揺れた。
 
 
(*注1)詳細は「こちら、桐生探偵事務所。」第六部を参照の事。
 

 

To be continued …