こちら、桐生探偵事務所。(蠕動編)

 
 「手こずっているようね、立花君。」
 カフェーの椅子の背もたれに寄りかかり、沙織は足を組み替えた。
 すらりと伸びた足に履いたジーンズの裾から、編み上げのワークブーツが覗く。
 「俺には俺のやり方がある。あんたの指図は受けねえ。」
 テーブルの向かいに座っていた大吾は、沙織の目を真っ直ぐに睨みながら答えた。
 「あなたが直接手を下さないとダメみたいね。」
 沙織は腕を組み、大吾の目線を正面から睨み返した。
 「ああ、そのつもりだ… ひとつ、聞いてもいいか?」
 「なぁに?」
 「なぜあんたは桐生を狙う?」
 「そうね… きっと、悔しいからだと思うわ。」
 「くやしい?」
 「私には腹違いの妹が二人いるの。そのうちの一人だけが、恵まれた環境を与えられていてね… あたしは誓ったんだよ。親父と爺さんに復讐してやるってね。足下に跪かせて詫びさせてやるってね。」
 「それと桐生と、どう関係があるんだ?」
 「関係なんか、ないわ。」
 「妙な話だな。」
 「答えは単純よ。その妹を泣かせてやる。ただ、それだけ。」
 「それだけの事で俺を雇うのか?」
 沙織はテーブルの上に乗ったカップの取っ手に指を廻した。
 カップの中身の紅茶を一口啜り、そっと静かにカップを戻す。
 「ええ、そうよ。必要なものがあれば何でも言ってちょうだい。戦車だって巡航ミサイルだって用意するわ。」
 「本気かよ? あんた、一体何者なんだ?」
 沙織は笑った。大吾に送った不敵な笑みが、その答えだったのかも知れない。

 
 「桐生拓也、だな…」
 拓也の帰り道を塞いだ高校生の集団。
 その中には、数日前に倫子と姫子が叩きのめした顔ぶれもいる。
 「何だい?」
 聞くまでもない。用件は判っている。
 「俺は中洋高校の立花ってモンだ。ちょいと付き合ってくれねぇか?」
 集団の中から一人だけ前に出てきた、長身の高校生が言った。
 「俺はホモじゃねーぞ。」
 「いや、俺もだけどな。」
 「忙しいんだ。手っ取り早く済ませてくれ。」
 「ああ、そうするよ。」
 その立花という高校生は顎をしゃくった。
 “付いて来い”そう言っている。
 くるりと拓也に背を向けた。広い背中だった。
 拓也は高校生の集団に囲まれて、その背中を眺めながら黙って歩いた。

 「いいか。誰も手出しするんじゃねえぞ。」
 既に使われていない飯場のプレハブが建っている工事現場だった。
 その飯場のガラスというガラスは跡形も無く割られ、壁にはペンキのスプレー缶による猥褻な言葉を綴った落書きがあちこちに貼り付いていた。
 若者達の鬱憤。そんなものの一部が形になった状態なのだろう。
 「タイマン勝負かい?やっと真打ち登場って訳だ。」
 拓也は制服のブレザーを脱ぎ、地面に置いた鞄の上に覆い被せる。
 「そんなところだ。」
 大吾も制服の上着を脱ぎ、横にいた仲間に渡す。
 そこにいた全員がかたずを飲んで見守る中、大吾と拓也はゆっくりと歩み寄った。
 突然、大吾の蹴りが横合いから拓也を襲う。
 拓也は後退して避けるどころか、大吾の胸板に向けて飛び込んでいた。
 力で押されては拓也に勝ち目はない。その事は始める前から分かっていた。
 懐に飛び込む事。それが拓也にとっての勝機だ。
 固めた拳を大吾の鳩尾に叩き込む。
 当たった瞬間、大吾の拳が拓也の横顔に叩きつけられる。
 拓也は後方にはじき飛ばされた。
 反射的に起き上がるが、足下がフラついた。頭の芯が痺れている。これをあと二・三発喰らったら、確実にヤバい。
 長期戦に持ち込む事は不利と判断していた。ここは短期決戦で決めるべきだ。
 立ちはだかっている大吾も腹部を押さえている。拓也の体重を乗せた一撃が確実に効いている。
 相手がダメージから回復する前に勝負に出る。
 大吾はこみ上げて来る吐き気を必死で堪え、拓也を見据えた。
 確かに強い。
 小柄な体を活かしたスピード戦法だ。
 背筋にぞくぞくと戦慄が走る。強い相手と対峙した時の、この感覚が好きだった。
 これが好きだから喧嘩は止められない。
 立ち上がった拓也が突進して来るのを大吾は視界に捕らえる。
 来る。
 「来い…」
 無意識に呟いていた。
 嬉しかった。手加減は無しだ。
 迫ってきた拓也に、大きく振りかぶった拳を放つ。
 それが分かっていたかのように、突進するスピードの中で軽快なステップを決めて、横に体を流した拓也は大吾の拳を避ける。
 大吾にとってもそれはフェイントだった。
 リーチに入った拓也に、もう片方の腕からフックを見舞う。
 だが、そこに拓也の顔は無かった。
 瞬時に大吾の足下で身を縮めた拓也は、大きく伸び上がり空しく空を切った大吾の腕の中に現れた。
 「?!」
 大吾が戸惑う瞬間、拓也は指を伸ばした両掌を合わせ、その指先を大吾の喉仏に突き込んでいたのだ。
 「ぐは!」 
 大吾は喉を押さえて身をよじる。
 如何に体を鍛えていようとも、確実に攻撃されるとヤバい急所は存在する。そこは場合によっては死に至る事さえある。
 それはほぼ体の中心に集中していた。
 脳天、眉間、鼻の下、顎、喉、心臓、鳩尾、丹田、金的。
 拓也は攻撃目標をそこに絞った。力で勝てない以上は急所にピンポイントの攻撃を加える事だ。肉を切らせて骨を絶つのだ。
 大吾の目の前が一瞬、真っ白になる。
 だが気力を振り絞り、必死で拓也の姿を視界の中に探す。
 その時、両足に奇妙な感覚を覚えた。
 大吾は反射的に後頭部で両手を組んだ。
 襲って来るであろう衝撃に対して頭部を守る為だ。
 案の定、大吾の視界がくるりと返る。
 拓也は大吾の足下にしゃがみ込み、両足首を両手で抱えて両膝の部分に肩でタックルをかましていた。
 体重75キロに180センチを越す身長が、地響きを上げて倒れた。
 大吾は地面でしたたか腰と背中を打ちつけたが、なんとか頭を守ることは出来た。
 起き上がろうとする大吾の上に、すかさず拓也が馬乗りになる。
 大吾の顔面を滅茶苦茶に殴りつけて来た。
 ところが既に、大吾は痛みすら感じてはいなかった。
 あるのは喜びだけ。屈辱と歓喜が入り交じった不思議な喜びだった。
 嬉しかった。ここまで自分を追い込んだ男は始めてだった。
 大吾の両手が拓也の両手首をがっしりと捕らえる。
 拓也がその呪縛から逃れようと力んでも微動だにしない。
 「桐生… てめえ…」
 「へ… まだやれるかい?」
 それでも両腕に力を込めて、大吾の手を外そうとする拓也の顔にも歓喜の色があった。
 だが突如、目の前の拓也は白目を剥き、ぐったりと大吾の体に倒れ込む。
 何が起こったか分からない大吾は、拓也の体を跳ねのけて立ち上がる。
 一人の少年が角材を手にして立っていた。
 「マサ!てめえ!何てことしやがる!」
 大吾の怒号が、その少年に叩きつけられた。
 「いや、危なかったもんで… つい…」
 少年は角材を手におどおどとしている。良かれと思って取った行動が、逆効果だった事に気が付いていない。
 「誰も手ぇ出すなと言っただろうが!」
 怒鳴った大吾は突っ伏して動かない拓也を見下ろす。
 ぴくん。と拓也の肩が動く。
 「!」
 大吾は本能的に一歩退いた。
 「く… くそったれぇ…」
 地面に貼り付いた体を剥がすように拓也が起き上がって来た。
 「どいつだぁ〜っ!」
 雄叫びを上げた拓也の顔は、既に人知を越えた怪物の形相だ。
 「ひ!ひぃぃぃぃぃぃっ!」
 拓也を背後から殴った少年は、泣き顔で今まで手にしていた角材を放り出す。
 拓也は一歩踏み出す。
 だが二歩目が接地する瞬間、その体は崩れ落ちるように倒れ込んでしまった。
 「お、おい…」
 大吾は倒れた拓也に駆け寄る。
 仰向けに寝かせて呼吸の有無を調べる。
 「軽い脳震盪だ。誰か救急車を呼べ。」
 「その必要はないわ。」
 突然沸き上がった声の主を探す大吾の目に、風見沙織の姿が写った。
 黒いシビック・フェリオが背後に停まっている。
 「ご苦労さん。よくやってくれたわね。」
 「あんた…」
 「そいつはあたしが丁重に預かるわ。誰か車に積むのを手伝ってくれない?」

 「連れて帰ってどうするの?沙織おねーちゃん。」
 シビックの助手席に座った詩織は後部座席を振り返る。
 気絶している拓也の両手と両足を縛り上げ、更にガムテープで口を封じ、上からキャンバスシートをかけている。
 「暫くウチで飼うとするか。」
 沙織はシビックのステアリングを軽快に操り、小刻みにシフトチェンジを繰り返し、道路を走る一般車両の群を次々に抜き去っていた。
 このシビックは日本の狭い道では最適なサイズで、しかも多く出回っているので目立たない為に沙織たちの機動力としては申し分ない。
 4ドアセダンのボディながら、ハイパワーなVTEC仕様のエンジンを搭載し、後輪にもディスクブレーキを採用しているフェリオSiだが、後部ドアとトランクリッドに貼られているグレードを示すステッカーは剥がされている。
 「わぁ、賑やかになりそうね。」
 詩織は心底嬉しそうにはしゃいでいた。

 
 拓也は目を覚ました。そっと起きあがり辺りを見回す。
 見慣れない風景だった。
 コンクリートが剥き出しの壁に窓は無く、見るからに殺風景な部屋であった。
 完備された空調システムのお陰で部屋の中は適温が維持されているらしいが、その殺風景さをより引き立てるものは、部屋を二つに区切っている鉄格子の存在だ。
 粗末な簡易ベッドに寝かされていた事に気が付く。
 「いてて…」
 後頭部を鈍器で殴られたのまでは覚えている。喧嘩の怪我は後になって気が付くものだ。
 額に手を当てた時、ガーゼが絆創膏で貼り付けられている事にはじめて気が付いた。
 擦れて破れたズボンから覗く膝や、肘の擦り傷にもバンドエイドが貼られている。
 「お目覚めかしら?色男さん。」
 鉄格子の向こうから声がした。
 声のほうに目をやると、そこに二人の女が立っている。
 背の高い一人はショートカットの髪にグラビアモデル顔負けの整った顔、そして精悍な光りを放つ瞳で拓也を見据えている。
 もう一人の背の低い方は、ボブ・カットにした黒髪に幼い顔立ちと育ちの良さを伺わせる清楚な雰囲気を持った少女だった。
 「ここはどこだ?あんたらは?」
 「ようこそ、我が“ヴァルチュアー”のもとへ。」
 背の高い女は拓也に笑顔で答えた。
 「ヴァルチュアー?何だい、そりゃ?」
 「新聞、読まないの?桐生拓也君。」
 「読むわけねーじゃん。それよっか、何であんたら俺を知ってる?俺に何の用があるんだ?」
 「あはは、あなたらしいわね。私の名は沙織。そして、この子は詩織。あなたの手当をしたのもこの子よ。」
 拓也はベッドから起き上がった。ゆっくりと謎の女達との間を遮っている鉄格子に向かう。
 目の前の二人には、何処かで嗅いだような匂いがした。いや、正確に言えば誰かに似ている。
 拓也には、その『誰か』が思い出せなかった。
 「どういうつもりだ?何が目的だ?」
 拓也は二人を睨み付けながら、低い声で呟く。
 「へぇ、よく見るといい男さんだね。先が楽しみだよ。あいつがノボせるのも無理無いか。」
 「納得いかねーってんだよ。答えろよ、何が目的なんだよ?」
 「おやおや、鼻息の荒いこと… いいのよ、あなたはそこでゆっくりしててくれたら。」
 「なんで俺が、動物園のトラみたいに扱われるんだよ。」
 「あはは!そのまんまだわ。」
 「てめー!」
 「やめなさいよ、沙織おねーちゃん。言い過ぎだよ。桐生くん、可哀相だよぅ…」
 始めて詩織が口を開いた。舌足らずな喋り方が、その幼く見える容姿を一層引き立てる。
 「この惨めな姿を写真に撮って、あいつに送ってやってもいいかな? …へへ…ちょいとサービスしてやるか。」
 沙織は鉄格子にむけてゆっくりと歩み寄る。気取ったモンロー・ウオークだ。
 鉄格子の前で立ち止まった沙織はやにわに腰を振り、スリットの入った黒いレザーのミニスカートの裾に指をかける。
 焦らすように裾をずり上げてゆく。
 「滅多に拝めるもんじゃないよ、拓也くん…」
 色気を含んだ猫なで声と、艶めかしい視線を沙織は拓也に送る。
 「それがどーした!なめんなよ!」
 拓也の一言で、沙織の中の何かが切れた。
 それは、沙織のプライドを微塵に砕いてしまったのだ。
 沙織は堰を切ったようにまくし立てる。いつもの調子だ。
 「てめえ!退屈するだろうと思って、人がせっかくズリネタを提供してやってるのにっ!なんてー言いぐさだ!」
 「頼んでねーよ!」
 「珍しい雄犬だね。欲情しないのかい?」
 「相手によるぜ!てめーのクサレまんこに用はねえ!」
 「黙れっ!この、童貞ポコチン!」
 どん!と音を立て拓也との間を遮っている鉄格子に、沙織はヒールを踏みつけるように乗せる。
 レザーのミニスカートから、すらりと伸びた足が露わになる。
 「ぱんつまる見えだぞ!」
 「やかましい!ついでに三途の川も拝ませてやる!」
 沙織はスカートの腰に差したグロッグ26を抜き出す。
 飛び退くように一歩後退し、9ミリの銃口を拓也の顔面に向ける。
 「おお!やれるもんならやってみろっ!」
 「上等だぁ!そのへらず口も二度と叩けねぇ様にしてやる!」
 独自の設計によるストロークの短いダブルアクション機構は、既に激発の瞬間を待っている。トリガーにかかった人差し指は、トリガー前面に配置された小さなセフティレバーを押し上げていた。
 「もうやめなさいってば、沙織おねーちゃん。大人げないよぅ…」
 詩織の哀願に反応するように、沙織はグロッグの銃口を床に向けた。大きく深呼吸をしてグロッグを腰に戻す。
 くるりと背を向け部屋の出口、正確に言えば地下室の階段に向けて歩き始めた。
 階段の前でふと立ち止まり、振り向く。
 「あんた… いや、桐生拓也。気に入ったよ。」

 「ごめんなさい。沙織おねーちゃんって口は乱暴だけど、根はとっても寂しがり屋なのよ。」
 沙織が去った後の地下室に残された詩織は、おどおどと済まなそうに拓也に声をかけた。
 「あれでかい?」
 「そう、あれで…」
 詩織はくすりと笑う。
 「腹減ったな…」
 拓也の呟きを耳にした詩織は、ぱっと顔色を明るくして立ち上がった。
 「待ってて。」
 一言残し、詩織は地下室の階段に向けて駆けて行った。
 数分後、地下室に現れた詩織の手に丼の乗った盆が抱えられていた。
 「はい。残り物だけど。」
 そう言って、鉄格子の下に据えられた小さな箱の扉に、その丼と割り箸を差し入れる。
 拓也は自分側の扉を開き、その丼を取り出す。
 暖かい。
 蓋を開けると中身は親子丼だった。
 「さんきゅー。」
 拓也は割り箸の片方を歯で噛み、ぱきっと音を立てて割り箸を開いた。
 丼に箸を突き立てると、ほっくりと湯気が立ち昇る。
 毒を盛られている心配は無い。おそらく拓也は大事な人質の筈だ。
 口にしてみた。甘過ぎずしょっぱ過ぎない、微妙な味加減は絶品だ。
 詩織はしゃがみ込んで拓也の顔色を伺っている。
 「どう?」
 「…うまい。」
 「本当ぅ! よかったぁ…」
 「うん。」
 「口に合うかどうか、心配だったんだ。」
 「うまいや。」
 「詩織が作ったんだよ。おいしい?」
 「ああ…」
 しゃがみ込んで頬に両手を添えて拓也を見つめる詩織を、まるで意識もしないで丼の中身を口に流し込む拓也がいた。
 「嬉しいな。ホントにおいしい?」
 「…いいから、水持って来てくれ。」
 「あ、ごめん。気が付かなくて…」
 「それと… おかわり、あるか?」
 

 

次回、瞠目編へ続く