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こちら、桐生探偵事務所。(通謀編)
繁華街の裏通り。その寂れた町並みはとうに人々からも忘れ去られ、往時の賑わいもその街の持つ記憶の中に留めているに過ぎない。
もう二度と開くことは無いであろうと思われる商店のシャッター、そして歩道に倒れた錆び付いた自転車。それはかつて多くの人々で賑わった街の残像であり、ある時を境にそのまま時間が止まってしまった空間だ。
路上のマンホールの蓋が、ごとりと音を立てて動いた。
蓋の隙間から覗く瞳。そのナイロンストッキングの覆面に作られた穴から覗く目は精悍な光りを放ち、油断なく周囲を伺う。
持ち上がったマンホールの蓋が横にずらされ、一人の影が素早い動作で身を躍り出した。
続いてもう一人、その地中へと続く穴から這い出して来た。
最初に現れた影が鉄の蓋をずらし、元の位置へと戻す。
その背の高い影は黒いアタック・ザックを地面に置き、手にしたラテックスゴムの手袋を外して素早くストッキングの覆面を脱ぐ。
ショートカットの髪がさっと揺れた。そのグラビアモデル顔負けの整った顔と、精悍な光りを放つ瞳のアンバランスさが、男女問わず初対面の者を惹きつける魔力を持つ。
彼女の名は《風見沙織》と言う。見た目は二十代半ばの落ち着いた風貌だが、実際の年齢は十八歳だ。
「あ〜あ、ちきしょう。下水の匂いが染み込んじまったよ。」
沙織は腰の巻いたウエストバッグのファスナーを開いた。ピッキングセットや投擲型閃光弾、催涙ガス弾等がきれいに収まった中から、一本の液体の入った細長い瓶を取り出す。蓋を外しスプレーの先を自分に向け、中身のオーデコロンを振りかけた。
パフュームの香りが夜風に舞う。
「あとは帰るだけだからいいじゃない、沙織おねーちゃん。」
隣で同じく覆面を脱いだ影が呟く。
その幼い顔立ちと舌足らずな声。育ちの良さを伺わせる清楚でおっとりとした風格も、また彼女の魅力でもあった。
彼女の名は《結城詩織》と言う。実際の十五歳という年齢以上に幼く見える。
「仕事は最後まで美しく決めるんだよ。」
ウエストバッグにパフュームの瓶を戻した沙織が言う。
「それよっかさ〜、お腹空いたよ… あ゛ぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
ボブ・カットにした黒髪を手櫛で整えていた詩織が突如絶叫した。
「どうしたの、詩織?大声出して…」
「轟天号が… ないぃぃぃぃぃぃぃっ!」
「あれ?ホントだ…」
詩織が呼ぶ《轟天号》とは、そのマンホールの蓋の前に停めていた筈のミニ・ヴァン、トヨタ・エスティマだ。全ての窓が黒いフィルムで目隠しをされ、中には無線の傍受やジャミングの為の装置、ハッキングに必要なコンピュータや戦闘用の武器弾薬を満載した沙織たちの“仕事”のパートナーだ。
詩織はエスティマを停めていた場所に駆け寄る。
道路脇のアスファルトに描かれた非情なチョークの跡が、冬の夜に一層冷たく寒々しかった。
「れ… レッカー移動されてるぅ!」
「ここ、駐禁だったんだね…」
夜風が吹いた。明るい色に染めた沙織の前髪をなぶって通り過ぎる。
「どうしよう、沙織おねーちゃん… お家に帰れないよ…」
「仕方ない。現地調達とするか。」
沙織はウエストバッグを外し、腰のベルトに手をかけバックルを外す。ベルトを弛めた戦闘用ズボンを一気にずり下げた。
だぼついたズボンの中からすらりとした見事な足と、股下ぎりぎりのヒョウ柄のミニスカートが現れる。
ズボンを脱ぎ捨てた沙織は、不燃繊維であるノーメックス製のCWU-45Pフライトジャケットの胸のジッパーを下げて前を開く。
CWU-45Pフライトジャケットと、下に着たダークグリーンのTシャツの間に右手を滑り込ませ、左脇の下に提げたホルスターの中身を掴み出した。
沙織の右手には小さく角張ったデザインの、セミ・オートマチック拳銃が握られている。
グロック26。それはオーストリアのグロック社が発売した、独創的な撃発機構とプラスチックを多用した人気の高いシリーズの中で、特にセルフ・ディフェンス及び私服警官の携行用にコンパクトに開発されたシリーズ最小のモデルである。
沙織はグロック26のスライドを左手で引き、そしてスライドを握った手を放す。
かちんと軽快な音を立てて、マガジン上端のフィヨッキ社製9ミリ・パラベラム・ルーガーのフル・メタル・ジャケット弾が、今まで空であったチャンバーに滑り込む。
別の通りへ移動した沙織たちは、路地の隅で静かに獲物を待った。
狭い道の向こうから車のヘッドライトが接近して来る。
沙織は道に出て何くわぬ顔で歩き始める。詩織はアタックザックを抱えて路地裏に隠れたままだ。
ライトの揺れ方から判っていたが、向こうから来る車は大きいだけの下品な排気音を立てる、意味もなく車高を落としたホンダ・アコードだった。
沙織は足を止め、横を通り過ぎるアコードに向き直る。徐行していたアコードは慌てたように停車した。
開いた運転席の窓から、見るからに頭の悪そうな青年が身を乗り出す。
「おねーさん!どこ行くのっ?!」
かかった…
沙織は唇の端だけで短く笑い、停まったアコードに近づく。
歩み寄る沙織の姿を見て、青年は驚きに目を丸くする。きっと彼の現在までの生涯で、これ程の美人を生で見た事は無い筈だ。
毎晩おかずにしたグラビア美人が、現実に目の前にいる。
既に青年は盛りの付いた雄犬と化していた。
「あのね。カレシとケンカしちゃってさ… アシ、貸してくんないかな?」
青年が運転席の窓から身を乗り出させるように、沙織はわざと一定の距離を置いている。
「い… いいよ… 送るから!乗ってよ!」
青年は口から舌を突き出し、荒い息を放っている。殆ど言葉になっていない。
「いいの…?」
沙織は足をそっと交差させてみた。生足の膝が艶めかしく動く。
青年の数少ない脳細胞が溶けた瞬間だった。もう既に、近づいて来る沙織の足と腰しか見ていない。
「ありがと… じゃ、遠慮なく。」
ごつっ。
グロック26のトリガー・ガードが、青年の後頭部に炸裂した。
何が起こったか分からないままに気絶した青年は、運転席のドアに垂れ下がるようにでろんと伸びていた。
「降りなさい。」
開いた運転席の窓越しより気絶した青年の背中の上から、助手席に座るもう一人の青年に沙織はグロック26の銃口を向ける。
同じく何が起こったか未だ理解出来ないでいる助手席の青年は、沙織が向けた銃口を見るなり驚きと恐怖に硬直している。
「降りなさいって言ってるでしょ!聞こえないのっ?この、あんぽんたんっ!」
「ひ… ひぃぃぃぃぃっ!」
慌てて助手席のドアを開いた青年は、抜けた腰を支えるように転がるようにして逃げ出した。
気絶した青年が垂れ下がっている運転席のドアを開き、沙織はブーツのつま先でドアに伸びた青年の体を蹴り下ろす。
路地から現れた詩織は、アタック・ザックを抱えて助手席に潜り込んだ。
沙織はすらりとした体を運転席に滑り込ませる。
ドアを閉じるとすぐにシフトをドライブ・ポジションに入れ、長い足がアコードのアクセル・ペダルを踏み込んだ。
沙織の操縦を得たアコードは、今までとは違う車のように生き生きと走り始めた。
「下品なやり方だわ… 私としては不本意ね。」
「でも、いーじゃん。これでお家へ帰れるよ。」
「ほとぼり冷めた頃見計らって、轟天号を引き取りに行こうか。」
「あれが無いと、ガブリエルが言うこと聞かないから。」
「なーに、ちょいと裏に手を廻せば済むってことさ。」
「うん。」
翌日の朝。地下金庫を破られた銀行は、紙面のトップにその名を挙げられていた。
同時に新興阿カンツリー・クラブのオーナー、小野田俊郎の汚職の数々。
そして、貸金庫の壁に残された、『VULTURE』という文字を。
冬の空にしては久しぶりの、雲一つ無い澄み渡った青い色。
今は吹きすさぶ風もなく、校庭の隅の日溜まりは暖かく心地よい空間だ。
《立花大吾》は木の幹に背中を預け、枯葉の上に腰を降ろした状態で空を仰いでいた。
昼休みの時間からここに来て、ずっとそのままでいる。
もうとっくに午後の授業は始まっているが、今更教室に帰るのも面倒だ。
体重75キロに180センチを越す身長は、怠惰な時間を満喫している大型の猫科の動物のようであった。
遠くで体育実習のソフトボールをしている連中のかけ声がする。
立花大吾は、男子校であるこの中洋高校に通う二年生だ。
その発達した体躯と彫りの深い顔は、実際私服で街をうろつけば、まるで高校生には見えない。だが、飲み歩く事やパチンコに夢中な同級生の羨望も、大吾にはまるで眼中に無かった。
大吾は実質上、この高校を背後から『締めて』いたのだ。
中学から慣らした喧嘩の腕である。この高校に入学した当日から、誰彼構わず挑みかかった。三年生に集団で袋にされた時は、頭から洗面器一杯分の血を流しながら、それでも気を失うまで手にしたバットを振り回して何人かを病院送りにした。
今では、誰も大吾に喧嘩を仕掛ける者はいない。二年生で総番に地位にのし上がり、他校の生徒からも恐れられる存在となった。
喧嘩の強さとは、力でもありテクニックでもある。しかし、決定的な事は殺気だと大吾は考えている。
後の事を考えると何も出来なくなる。勝つ為には、相手を殺す程の覚悟が必要だ。中途半端な優しさや理性は命取りとなる。
執念。そして、意地もあった。
肩や背中が悲鳴を上げ、裂けた口の中で血の味がする。しかし、全身に駆けめぐるアドレナリンと相手に食らいつく攻撃衝動は、全てから解放された歓喜の瞬間であった。
だが、頂点に登り詰めた時、大吾は気が付いた。
この自分たちの世界も、所詮は薄汚い大人と同じピラミッドの社会であった。
自分より強い者には服従し、弱い者は虐げる。それを決定づけるものは、金か力かという違いだけの事だ。
エゴという言葉の意味が、なんとなく分かりかけて来た大吾だった。
「ここにいたのか? 立花。」
声のする方を見上げると、そこに薄汚れたジャージ姿の中年男が立っていた。
体育教師の尾形だ。生活指導部も兼任しているこの男を、大吾は一目置いている。
何処の学校にもいる、歴代の名物教師だ。
そして、学校中の生徒や教師が恐れて近寄りもしなかった大吾を、ブン殴った男だ。
当然、大吾も殴り返した。
殴って殴られて… お互いがへとへとになるまで殴り合いを続けた。
力とスタミナでは、当然大吾に分があった。だが大吾は、この教師に負けたと感じた。
精神だ。顔中をアザだらけにして、それでも自分に向かって来る気迫に圧倒された。
肩で荒い息を吐きながら、力尽きて教室の床にへたり込んだ大吾は、大の字に倒れたこの教師に不思議な親近感を覚えた。
結局、この教師を担ぎ上げて保健室に運んだ。
「余計なことをするな…」
大吾の耳元で小さく囁いたこの教師の声と、肩に伝わる体温のぬくもりは今でも忘れられない。
「せんせい…」
大吾が先生と呼ぶのも、この尾形にだけである。
「授業、始まってるぞ。」
「分かってるよ。何だか、かったるくて…」
「勉強が退屈なのは判るがな… 見逃す訳にはいかないんだよ。」
大吾は立ち上がった。ズボンに付いた枯葉を払う。
「あんたの顔を立てるとするか…」
「ケッ!ぶっ飛ばすぞ。」
悪態のつき合いも、この二人にとっては挨拶に過ぎない。
大吾は振り返った。そこには厳つい顔の中で、優しく笑う目をした尾形がいた。
下校時間は何処も同じ風景だ。
同じ制服を着た生徒達が、ぞろぞろと校門から吐き出される。
この中洋高校は男子校だけあって、華のない殺風景な下校風景であった。
その校門の道路を隔てた向かいに、一台のロー・アンド・ワイドな赤いマシンが停車する。
ホンダ・NSXだ。近年のマイナーチェンジを受けたそのボディは、従来のリトラクタブル・ライトが廃止され、空気抵抗係数Cd値も0.32から0.30へとアップしているミッドシップエンジンのスポーツカーだ。
最新のスポーツカーを目の前にして、男子校の生徒達が黙って見逃す訳もなく、誰もが我先に覗き込もうと必死になる。
だが、元気盛りの生徒達の欲望に、更に火に油を注ぐ事態が起こった。
運転席のドアが開く。
開いたドアから現れた、すらりと伸びた足と黒いレザーのタイト・スカート。
ドア越しに立ち上がった美女は、茶色のレザー・ジャケットに身を包んだ風見沙織だった。
あちらこちらで口笛と歓声が上がった。
男子校の生徒達の野次を頬をなぶる風ほどにも気にせず、沙織は停めたNSXのボディに腰をあずけて寄りかかり、腕を組んで校門を見つめる。
大吾は先程まで読み耽っていた少年漫画の週刊誌を机に仕舞う。
もう既に教室の中にいる生徒は三分の一。半数以上の生徒が下校してしまったり、クラブ活動に行ってしまった。
がらりと教室のドアが開く。三人程の生徒が入って来た。
その生徒達の発散する気配は、とても勉学に勤しむ為に学校に来ているタイプの者には見えない。
その三人の生徒が大吾の席を取り囲んだ。
「どうしたんだ、そのツラぁ?」
怪訝そうな大吾の声に、バツの悪い表情を作った生徒達は隣のクラスの者だった。
全員が顔という顔にガーゼや絆創膏を貼りたくっている。片足をかばうように引きずりながら歩く者もいた。
「誰にやられたんだよ?」
問いつめる大吾に一人が口を開いた。
「中学の… ムチャクチャ強ぇヤツだった…」
「何人いたんだ?」
「ひとり…」
「中坊ひとりにお前ら全員が伸されたのか?」
呆気にとられた大吾の声が思わず大きくなる。
「本当だ。あっという間だった…」
「俺… あいつの名前、知ってるぜ。」
一人が呟く。大吾を含め、全員の視線がその生徒に集中する。
「桐生… 桐生拓也だ。間違いねぇ。」
「桐生拓也…」
大吾はその名を口に出してみる。
何度か聞いた事のある名だった。あちこちで起こした戦歴やトラブルの数々が、不良グループ達の情報網を通じて広く知れ渡っている名前だ。
「確かに、桐生とか言う中坊なんだな?」
大吾は椅子から立ち上がる。
窓の外に広がる空の色は、夕闇が迫る灰色じみた色に変わっていた。
次回、暴慢編へ続く
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