こちら、桐生探偵事務所。(不沈編)

 
 日本時間、16時03分。東シナ海、マグニチュード4。
 「起こった…」
 モニターに写し出される波形。
 「主任!」
 観測に従事していた係員は後方を振り向いて叫ぶ。
 観測室主任は内線電話の受話器を取り上げる。
 「起こりました。予告通りに…」
 昨日の14時32分、ベーリング海でマグニチュード3。
 一昨日の3時24分には、ハドソン湾でマグニチュード5.5。
 世界各国の地震計は、海底で起こる地震の数値を弾き出していた。
 それらの記録は、ランダムに発生する地震として片づけられる筈であった。
 だが、ほんの一握りの上層部の関係者達を悩ませていたのは、その地震が予告通りに起こっていた事だった。各国の政府機関を通じて流される予告は、地震発生の場所と時間を正確に告げている。
 犯行声明。
 だが、現時点での犯人側からの要求は何も無い。
 奇妙な事件であったが、その中でただ一つ、世界中の政府機関を震え上がらせた事がある。犯行声明の主の名は、その昔、地下に姿を隠した有名な科学者だったのだ。

 
 成田行きJAL404便は8時10分発。
 女は時計を見る。十分に時間はあった。
 体にフィットしたダークスーツに小さなボストンバッグを一つ下げ、腕時計を覗く仕草が妙にセクシーだったのだろう。通りすがりのラテン系の青年の集団が、これ見よがしに口笛を吹く。
 女の名前は《神塚江里佳》と云った。
 日本女性特有の幼さを含んだ容姿に加え、その美貌とスタイルは実際の三十代中頃の年齢を感じさせない程の美しさを保っていた。
 事実、二〇代と言っても通用する若さだ。
 さらりと肩まで伸びた栗色の髪、白い肌に小さな唇、すっと通った鼻筋に挑発的な目が印象的で、人種の坩堝となった空港のロビーを歩く男達の目線を釘付けにしていた。
 急に横から飛び出してきた黒人青年が、江里佳の前を歩く老夫婦にぶつかる。
 よろめいた婦人の肩を、江里佳は後ろから受け止めた。
 突然のハプニングであったが、更にヒールの高いパンプスを履いていた江里佳は、なんの動揺も無くスムーズに対処していた。
 肩のミンクの手触り。歩く宝石箱のような脂肪の塊は、身長こそ江里佳の肩までしかなかったが体重は二倍近くはあっただろう。
 「Oh… sorry…」
 済まなそうに婦人の落としたバッグを拾い手渡す青年に、婦人は口から唾を散らして差別語を言い放ち黒人青年を罵倒した。
 「君、止めなさい…」
 上品な身なりをした老亭主の制止は遅かった。
 青年は一瞬驚きの表情を見せ、怒りに任せて拳を握りしめる。
 青年は周囲を見渡した。『この場での抗議は、所詮自分の首を絞めることになる』そう察したのだろう、悲しそうな目線を残してその場を去っていった。
 老婦人の肩を支えたまま事の一部始終を眺めていた江里佳は、そっと後ろから婦人に耳打ちをする。
 「貴女のプッシーにはクモの巣が張っていてよ、マダム。」
 きっ!と、睨んだ老婦人に江里佳はぺろんと舌を出す。
 おどけたその表情は、十代の少女の様であった。
 片手を振りながら去って行く、スラリとした東洋美人の後ろ姿を老婦人は目で追っていた。普段から高血圧に悩まされている為か、軽い目眩を覚える。
 だが、あの東洋人の女のおどけた表情に、老婦人のヒステリーは徐々に収まりつつあった。
 むしろ黒人青年に対しての言動に、後悔の念が沸き上がって来ていた。

 …私、いい気になりすぎていた…
 
 
 拓也はウインドウ越しに、バーガーショップの中の壁に掛けられた時計を覗く。
 約束の時間である四時を既に十分ほど経過していた。
 「遅っせーな…」
 その時、横合いから聞き覚えのある声がした。
 「ごめーん!拓也ぁ。待った?」
 紙袋を抱えた倫子が息せき切って駆けてくる。
 「待ってるだろ。」
 「ごめん、ごめん。機嫌直して。ほら、今日は何月何日だ?」
 「2月14日」
 「何の日だ?」
 「?… さあ…」
 「もう!これだから。ガッコでチョコ貰った?」
 「ああ、そういや貰ったぜ。」
 「貰ったの…?」
 「貰った。」
 「どれくらい?」
 「たくさん。」
 「たくさん…」
 「食いきれねぇんで貰えなかったヤツに分けちまったよ。アホくせー。」
 「ばーか…」
 倫子は安堵の表情でクスと笑い、抱えた紙袋を拓也に手渡した。
 「ほら!あたしから。」
 倫子に手渡された茶色の紙袋は、意外と見た目以上に軽かった。
 「さんきゅー。」
 「開けてみてよ。」
 紙袋に突っ込んだ手に毛糸の感触。
 拓也の手で引っぱり出された物は、鮮やかなピンク色の手編みのマフラーだった。
 「おい… これ…」
 「へへ… 夜なべして編んだんだよ。」
 「長くないか?」
 「こうするのさっ。」
 倫子はマフラーの片端を拓也の首に巻き付け、もう片方を自分の首に巻き付けた。
 「おい…」
 「あったかいでしょ?さ、行こ。」
 「恥ずいぜ、これ…」
 「文句言わない。こうして腕組むといいんだよ。」
 組んだ上腕に倫子のふくよかな胸の感触。お互いの体を通して、行き交う体温が心地よい。
 拓也は柄になく、何故か妙な思考に捕らわれていた。

 …幸せって案外、こんなことなのかも知れないな…

 派手な流行の化粧をした女子高生の集団とすれ違う。
 すれ違う拓也と倫子を見て、一人の少女が他の少女達にこれ見よがしに大きな声で振った。
 「なーによ、あれ?ダッサーい…」
 突然振り向いた拓也は、少女達に向かって突進を開始する。
 「じゃかあしいっ!まとめてイテまうぞ!ブスっ!」
 「きゃぁぁ〜〜〜〜っ!♪」
 黄色い歓声を上げて逃げ出す少女達を追う拓也。
 倫子は表情一つ変えず、首に巻かれたマフラーを掴んで引き寄せた。
 「ぐぅっ!」
 拓也はピンクのマフラーに首を締めつけられ、その場で立ちつくし悲鳴を上げる。
 倫子はふっと笑った。
 「便利ね…」
 
 
 江里佳は広い駐車場で、迎えの目印である白いランドクルーザーを探す。
 あった。送迎用の駐車スペースに、他の乗用車群から一際目立つ大きな車体を見つけた。
 ランドクルーザーの前に佇むスーツ姿の青年が、江里佳と確認して近づいて来る。
 送られてきた顔写真と同じ。だが名前のデータは伏せられていた。
 今現在スーツのスカートの中、左太股にポリカーボネイト製のナイフが一本。一般の旅客機から降りたばかりの江里佳にとって、それが武装の全てだった。
 疑うのではなく、全てを信用しない事。それが江里佳の鉄則だ。
 「初めまして、ミス・カミヅカ。」
 ミス、と呼ばれるのは少し後ろめたい…
 「初めまして。えっと、ミスター…」
 「日本支部の松岡と云います。」
 青年は握手を求めようとしない。もし握手を求められたら、江里佳は拒否するつもりだった。初対面の握手が最も危険なのだ。だがよく考えれば、この国では挨拶で握手をしない。
 「どうぞ。」
 そう言って松岡は助手席を手で示し、自分は運転席側へ回り込んで行く。
 丁寧にドアを開けられたりするのは江里佳の好みではない。必要以上の愛想を振らないこの松岡と言う青年を江里佳は少し気に入った。

 
 平日の商店街の歩道は、まばらな人通りが絶え間なく流れていた。
 拓也達の前から来る三人組。真っ当な社会人で無いことは一目瞭然のチンピラ達だった。
 「きゃっ!」
 すれ違いざま倫子は声を上げる。尻を触られたのだ。
 「何するの!」
 睨む倫子に男達はニヤニヤ笑いながら近づいて来た。
 「おじょーちゃぁん、ボクらと遊ばなぁい?こんなガキ、ほっといてさぁ。」
 「いいマフラーしてるじゃん。ボクとしたほうがダンゼンいいよ。」
 一人が倫子の首からマフラーを奪い取る。
 「それはダメ!触らないで!」
 突然、マフラーの端を持った男の手首が横合いから掴まれる。更に横から片手で肘を押さえられ、一気に外方向へねじられた。テコの力が男の肩に集中した時。
 ごきっ!
 「ああああぁ〜〜っ…」
 脱臼した肩を押さえて男は蹲る。涙と涎を垂らして泣いていた。
 「失せろ… 包茎野郎。」
 蹲って泣く男の横に佇む拓也。その発散する凄みを含んだオーラとは裏腹に、首に巻かれたピンクのマフラーが一層似合わなかった。
  
 
 4.7リッターV8ガソリンエンジンのランドクルーザーは、江里佳の記憶にある昔のイメージとはまるで違い、静かでスムーズな走行で夕方の市街地を駆け抜けていた。
 ハンドルを握る松岡は前後左右に鋭い視線を配り、一定のスピードを保って走らせる。後方からぴたりと付いてくる車があれば、速度を50キロに落としてやり過ごしていた。手慣れた運転技術だ。
 「明日からこの車をご自由にお使い下さい。それと…」
 赤信号で停車させた松岡は、江里佳に大型の封筒を二つ手渡す。
 一つは重く異常に膨らんでいて、もう一つはファイルの入った薄いものだった。
 江里佳は重い封筒の中身を引き出す。
 それは、ショルダーホルスターにコンパクトに収まったモーゼルHSc。
 銃口からトリガーガードにかけて流れるラインが美しい、ドイツの産んだダブルアクション・オートマチック拳銃だ。1945年に生産中止、その後1968年にモーゼル社が若干のフレームの改良を加えた程度で、ほとんどオリジナルのままでリバイバルさせている。
 江里佳はグリップ下のマガジンキャッチを押し、弾薬の装填状態を確認する。グリップから抜け出たマガジンには.32ACP弾が8発並んでいた。更にチャンバーへも装填済み。
 革製のホルスターには、スペアのマガジンが二本入るポウチが付いていた。これも既にフル装填済みだ。
 手にしっくりと馴染む木製グリップ。江里佳は長年、このモーゼルを愛用していた。日本支部が用意してくれていたのは、事前に通達が回っていたからだろう。
 「出来たらサイティングの調整をしたいんだけど…」
 「後で地下の射撃室をご利用下さい。」
 江里佳の要望にすんなりと答える松岡。極東支部もいい人材を揃えている。

 国際秘密組織“シルフ”
 S・I・L・F Special Informal Large Factor とは、世界規模での最高機密に属する私設機関だ。
 本部をロンドンに置き、世界中にそのネットワークを展開している。
 傭兵斡旋から国外逃亡者の身柄引き渡しまたは幇助、政府要人の警護、誘拐、暗殺。営利団体である為、金次第で何でも請け負う。
 冷戦終結後の現在では、国家同士の小規模な紛争や企業の開発競争で特殊任務の要請が多く、需要は常に尽きないのだ。
 『正義と安全は金で買え』と言うのが組織のスローガンである。
 神塚江里佳は、組織の中でも凄腕と恐れられた存在だった。
 いわば切り札である。組織がその江里佳を差し向けた理由は、もう一つの封筒に入っていた。

 「プロフェッサー・ブゴウね。」
 「はい。今回は国連からの要請と聞いています。」
 「やれやれ、今度は何をしでかすつもりかしら?」
 “Top Secret”と明記された封筒から、江里佳が引き出したファイルの見出しに印字された文字は奇怪な響きを孕んでいた。

 『“ガイア”についての報告と検証』

 「着きました。お疲れのところ大変恐縮ですが、支部長が待っています。」
 白いランドクルーザーは、“シルフ”の極東支部の隠れ蓑である名の通った貿易会社のビルの駐車場の一郭に静かに停まった。
 「分かってるわ。」
 江里佳は助手席のドアを開け、スカートから伸びるスラリとした足をサイドステップに掛けてアスファルトの上に降り立った。
 この見事な肢体を見せつけられて、実は彼女が十五年前、一人の子供を産んでいたと果たして誰が信じるだろうか?
 足を止め町並みを見渡す江里佳。
 二年ぶりの日本だった。
 江里佳はふと… 昔、この日本に残してきた最愛の者の名前を呟いていた。
 「拓也…」
 
 
 「すまねえ… 許してくれ…」
 「謝って済むなら警察はいらねーんだよ。」
 「ポリ公のほうがまだましだ…」
 「なんか言ったか?」
 「なんでもねえ…」
 残された男は横を向く。左目を囲むようなアザが、男の身に降りかかった不幸を物語っている。既に抵抗する気力も萎えていた。子供だと思って甘く見ていたのだ。
 「だいたい、わざとらしーんだよ。今どき、あんなイチャモンつけてくる奴がいるかよ。誰に頼まれた?」
 拓也はしゃがみ込み、座り込んだ男の顔を覗き込む。
 「知らねえ野郎だ。前金を渡されて、お前らに言いがかりをつけろと言われた。」
 「残りは貰えるのか?」
 「ああ、約束した場所で待っている筈だ。」
 「案内しろ。」
 すっと拓也は立ち上がった。
 「行くの?拓也。」
 倫子は不満そうに拓也に聞く。
 「仕組んだ野郎を拝んでやるぜ。」
 「んもう!デートの続きは?」
 「よく言うよ。誰がコイツをのしたんだよ?」
 拓也の指し示す先、肩を押さえて泣き続ける男の横に、大の字になって倒れているもう一人の男がいた。
 「ねえ拓也。頼まれたって、まさか。」
 「話題を変えるな。」
 「何だか、やな予感。」
 「まさかと思うんだけどな…」
 

 

次回、壮図編へ続く