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こちら、桐生探偵事務所。(左袒編)
「大和!判ったぞ。行くぜ!」
携帯電話を切った拓也は、大和に振り返った。
そこには、頭にタオルを巻いた青年の襟首を、見せしめの様に高々と掴み上げている大和の姿があった。
青年は既に気を失っている。口から血の混じった泡を吹いていた。
「よっしゃ!どこだ?」
大和は片手で青年を放り投げ、蹲っている青年の尻を後ろから蹴飛ばした。
「邪魔だ!チャンガラ車、とっとと退けろ!ボケッ!」
「ひっ!」
尻を蹴られた青年は慌てて飛び上がり、下品な改造セドリックの運転席に逃げるようにもぐり込む。
拓也は赤いフェラーリの助手席に乗り込む。
大和が長い足を伸ばし、優雅な身の屈め方で運転席に滑り込んできた。
ケンカをしていた時の凶暴な表情は、今の大和の顔からは想像できない。今は恩師の消息を尋ねる、留学から帰ってきたハンサムな科学者の卵だった。
フェラーリ360モデナのV8エンジンが背中で息を吹き返す。
美しいエグゾーストノートの音色がこだまする。ドライバーの復帰を祝うかのように優雅な野獣が目を覚ました。『このマシンは、この少年の為に造られた』そんな錯覚さえ思わせるような風景だった。
桐生大和。
この美貌、才能、財力… どれを取っても申し分ない、完全無欠の貴公子だ。
突然、大和は派手にクラクションを鳴らす。
「どけぇぇっ!轢かれてぇのかぁ!」
これさえ無ければ…
渋滞道路を避け、細い裏道を軽快に疾走する銀のワゴンがいた。
そのレガシィ・ツーリングワゴンGT-Bには、中年の二人の男が乗っていた。
ハンドルを握る、上品だがどこか飄々とした雰囲気を持つ男は拓也の父、桐生恭介。
大人一人充分な居住空間の筈の助手席で、窮屈そうに座る筋肉質の男は倫子の父、下垣内将馬。
「聞いたか?将馬。」
「ああ、バッチグーだ。」
「死語だよ。」
「うるせい。しかし、大したもんだな。」
「拓也の携帯は傍受できる仕組みだ。他にも色々チャンネルはあるけどな。」
「畜生、俺の娘に何て事しやがる!」
「大丈夫さ、倫子は人質。本命は大和だ。」
「なぜ、あの甥っ子が?」
「沖本晋太郎博士の居場所だ。そいつを大和は知っている。」
「一年前、武郷の組織に拉致されたと言われていたが…」
「どうやら、武郷組織に裏切り者が出たみたいだな。そいつらが新兵器と沖本博士を連れ出したらしい。」
「何処かに監禁されているのか?」
「間違いない。大和は俺には言わなかった。たぶん博士本人から連絡を受けたか? だが、俺達が乗り出したら博士が危ないと踏んだんだろう。一人で解決を考えていたのかも知れない。大和らしい… あいつとは大違いだ。」
「拓也だって捨てたモンじゃないぜ。羨ましいよ。」
「ヒゲ、似合わんぞ。」
「俺は気に入ってるんだよ。さて、久々に暴れるぜ、恭介。」
「ああ…」
銀のレガシィは更に加速を見せて、ナビゲーションのディスプレーの示す目標地点へと接近を開始した。
望月香織は、清掃道具を納める錆びたロッカーの影に静かに身を伏せる。
ラバーソールのブーツは堅い床でも足跡を立てない。
三階の廊下は閑散としていた。これはCIAの支部では無い。おそらく、この計画の為にCIAが臨時に借りたものだ。
貸事務所の部屋は三つ。奥から小さく響く笑い声を香織の耳はキャッチした。
香織は歩を進めた。
姿勢を低くし、一気に中央の女子トイレに滑り込む。
外の様子を伺う。
香織が狙いを点けたのは右手奥側の部屋。正面中央の部屋には、留守番兼見張りが数人。笑い声の雰囲気から察するに、雑談か賭けポーカーにでも興じているのだろう。
あの男がいたら厄介だ。
留守番兼見張りの奴らは正規のCIA局員ではない。取るに足らない臨時雇われの雑魚に過ぎない筈だ。下品な笑い声と、用心のなさからもその事が伺える。
香織は薄手の革グローブをはめた右手で左袖を摘んだ。袖から三本、先端に微妙な角度が付けられ、焼き入れを施された細い針金が現れる。
ピッキング・テクニックは香織の得意とする分野だ。ドアノブの真ん中に見える鍵穴は古いタイプのシリンダー錠。開けるには30秒も必要ないと踏んだ。
香織は静かにトイレから出る。目星を付けたドアの前に立ち、感覚を外部の警戒に向け、神経を鍵穴の中のシリンダーの配列に集中した。
突き込んだ二本で鍵の回る方向に力を加え、シリンダーを針金の先端で押さえ、合う深さを探って行く。気の遠くなるような繊細な作業を、発見されず短時間でこなさなければならない。
ぎじっ、と手応えが針金を伝わってきた。
ドアノブを回し、すかさずドアの中に滑り込んだ。瞬時にコルト・キングコブラを脇のホルスターから抜き構えるのも、流れるような一連の動作だ。
後ろ手にドアを閉め鍵をかける。入り口から室内の気配を伺うが、動く者の気配は無し。
足音を殺して進む香織の直感が見事に的中した証明は、奥の部屋でソファーに横たわっていた。
自分と同じ歳の少女。一度戦った時、武術の腕は対等だった。
だが香織は、その執念に負けた。
愛している事の強さ。
同じ相手が好きなのに、何故…
自分の場合は恋の領域を出ていない。
香織は今、このライバルと言える少女の寝顔が愛おしくて堪らなかった。
ここで殺してしまえば、望むものが自分の手に入るか?
いや。実はそれ以上に、この恋敵が好きなのかも知れない。
自分のような奸計で生きる者とは縁遠い、純真無垢な寝顔。
香織は少女の寝顔にかかった前髪を払いのけ、その額にそっと唇を当てた。
倫子の両手と両足はガムテープで縛られていた。
香織はウエンガーのポケットナイフを取り出し刃を起こす。キリやドライバー、缶切り栓抜き等が付いた丈夫な設計の実用的アーミーナイフだ。
ステンレスの刃は難なく、ガムテープの束を開いて進んでゆく。
香織は倫子の頬を軽く叩いた。
「ちょっと… 起きなさい。」
反応は無い。
「んもう…」
ぱんっ!
力を込めた甲斐があってか… しかし…
「痛いわねっ!何するのよ!」
「とっとと起きなさいよ、この寝坊助。」
「叩くことないじゃない!このオカチメンコっ!」
「言ったわねっ!せっかく助けに来てやったってのにっ!」
「頼んでないわよ!」
「な、なんですって… 可愛くないわねっ!」
「あんたに好かれようなんて、思ってもないわ!」
「機嫌悪いわね。あんた… 生理中?」
「関係ないでしょ!」
「怒鳴らなくても聞こえるわよっ!」
「怒鳴っているのはあんたじゃないのっ!」
「うるさいわね!見つかったらどーすんのよっ?」
「もう見つかってるわよ! …あ…」
開け放たれたドアの向こうに幾多の人影。
「あはは… 助けに来てくれて…ありがとう。」
「い、いえ。どういたしまして…」
一斉に銃を構える気配。
香織は床に置いていたコルト・キングコブラを掴むと、すかさず敵から死角になった部屋に倫子を誘導した。
「こっち!」
数人の踏み込む気配は、室内に響いた轟音によって止められる。
壁に穿たれた巨大な穴を目にしてしまうと、この部屋に踏み込む勇気が誰に有るだろうか?
「キクなぁ…」
357マグナムの反動と余韻を噛み締め、キングコブラを両手で握る香織がいた。
銃声が帰ってきた。飛来する弾丸の空気を裂く音と、壁の悲鳴に倫子と香織は身を縮める。
再び、357マグナムの発射音。
敵の応戦は止んだ。
壁際に座り込んだ香織は、キングコブラのマガジンラッチを引き、シリンダーをスイングアウトする。
ロッドを押さえて、今発射した後の二発のエンプティケースを抜き出すと、ポケットに入った革製のポーチから二発の357マグナム弾を取り出した。水銀弾の温存の為に取り出した変わりのカートリッジは、弾頭部が青色がかった357マグナム弾だった。
KTW弾。表面にテフロン加工が施され、目標物に命中した後も弾頭が変形せずそのまま貫通する代物だ。
空きになった穴に二発のKTW弾を押し込み、シリンダーを元に戻した。香織の唇から溜息が漏れる。
「あんたさぁ… どうしてそんな事ばかりしてるの?」
香織の隣で肩を寄せ合って座っている倫子が言った。
「私の、仕事だから…」
香織の肩から倫子の温もりが伝わって来る。
「どうして、あたしを助けに来たの?」
「この前のお礼。ふふ… バレバレの嘘ね。」
「楽しいの?」
「楽しくなんか… ないわ…」
「…」
「あんたには守るものが… 私には追い求めるものがある…」
「ねえ。今度、ちゃんとした道場でケリつけない?他流試合で良かったら…」
「いいわね。」
「その後、一緒にラーメン食べに行こう。美味しいところ知ってんだ。」
「オッケー… 生きてここを出られたらね。」
連続した発射音が響いた。遂に敵はサブマシンガンを持ち出したのだ。
「畜生…」
香織はキングコブラを構え直す。
敵の応戦が途絶えた。香織と倫子にとっては、むしろ不気味な沈黙の時間だったかも知れない。
「どうしたんだろ?」
香織は小型の鏡で壁の向こう、入り口辺りを探る。
「今度は何?手榴弾はやめて欲しいわね。」
香織の悲劇的憶測に、倫子の中で張りつめていたものが切れた。
「ひえぇぇん!拓也ぁ!」
「泣くんじゃないわよ!」
倫子の呼んだ名に、胸を締めつけられる思いがした香織だった。
…わたしだって…
…わたしだって!その名を叫んで泣きたいよ…
「あいよ。」
「!」
聞き慣れた声がした。
壁越しに見える人影は、倫子にとって普段と変わらない顔ぶれだった。
「お父さん… おじさん… 大和… …拓也っ!」
「呼んだか?倫子。」
「拓也っ!拓也っ!拓也ぁぁぁぁっ!」
「何だよ?いてて…くっつくなって…」
「拓也ぁぁぁぁっ!」
入り口で応戦していたCIAに飼われていた三人は、恭介達の後方からの奇襲攻撃を受けて既にノックアウトされていた。
「拓也ぁぁぁぁっ… 怖かったよぉ!拓也ぁぁぁぁっ…」
「よしよし。もう大丈夫だから、泣くなって。」
「ひっ… もう、離れるの ひっ… やだ ひっ…」
「分かったから… 倫子。」
横隔膜の痙攣で言葉が出ないまま床にへたり込んで泣きじゃくる倫子を、拓也は両手で抱き続けていた。
「イマイチだったな。手応えのないトウシロだったぜ。」
将馬の不満そうな言葉に、恭介は静かに答えた。
「いや、ここのボスがいないぜ。」
「あれ。大和は?望月もいない…」
倫子から顔を上げた拓也が呟いた。
ガレージのバイパーは諦めた。何かの仕掛けを考慮した上だ。
手嶋は動かせる車を探す。不覚だった。アジトの席を空けた隙に、あの桐生恭介が乗り込んで来るとは…
今は撤収するしか方法はないだろう。防衛庁まで一緒にいるのでは、相手が悪すぎる。
「おっさん。」
呼び止められた。
声の先には、今回の任務の目標である少年が立っていた。
「俺に用があるんだろ?」
少年は右手にワルサーP99を構えている。
手嶋はゆっくりと少年に向き直った。
「その通りだ。」
「どうだい、おっさん?ここで、オトシマエつけないか?」
「おっさんでは無い。俺はまだ25だ。」
「悪りいな。俺、今ちょっとムシャクシャしてんだ。やなモン見せつけられたからな。」
「いいだろう。さて、合図は何にするか。コインでも投げるか?」
手嶋は脇のホルスターにゆっくりと手を差し入れる。
「いや、タイマン勝負で行こうや。俺、強いぜ。」
少年はワルサーをコンクリートに置き、手首のスナップを使って遠くへ滑らせた。
「…いいだろう。」
手嶋は脇からベレッタを抜き出し、少年と同じようにコンクリートの床を滑らせた。
少年は握った拳を前に構える。体を前後に振る動作は、足をウオーミングアップしている証拠だ。こいつの極意は蹴り技と見た。一体、何を使う?
手嶋は回し蹴りを放った。
大和は腕でガードして、すかさず前蹴りを放つ。
手嶋の、蹴りを入れた不安定な姿勢からのガード。
だが中段への蹴りと見せかけて、向きを変えた大和の蹴りは下段へと。
蹴り上げた足が接地した時点で、手嶋は飛び退き大和の攻撃をかわした。
この精緻な動きと剃刀のような攻撃は、テコンドー。
手嶋の胸の中で沸き上がるような歓喜が広がって来た。
嬉しかった。鳥肌が立つ実感が心地よかった。
手嶋の右回し蹴りが大和の頬にヒット。
体を入れ替えた大和の後ろ蹴りが手嶋の腹にめり込む。
更に回転を加えた右拳が横から手嶋を襲う。
くい止めた左腕が衝撃で痺れる。
お互いの顔は30センチと離れていない。
「彼女が、好きか?」
手嶋は大和の目を見据えて聞いた。
「好きだ!」
大和が目と大声で答えた。自分に言い聞かせる様な叫びだった。
手嶋のアッパーが大和の鳩尾に炸裂した。
ととっ、と後ろに下がりコンクリートに腰を落とす大和。
「どうした?ボウィ!来い!カムオン!」
手嶋は自分でも信じられない程のテンションに胸が高鳴っていた。
何がこれ程熱くするのか? 昨日までの俺は何だったんだ?
「へへ… 畜生… 上等じゃねえか!」
すっくと立ち上がった大和の表情は、手嶋と同じ歓喜に燃えていた。
薄暗く湿ったガレージの柱の影で、大和と手嶋の二人の攻防を監視する望月香織の姿があった。
髪を束ねたゴムを外すと、長く柔らかな髪の流れが肩に広がる。
香織は小さく溜息をつく。
「ばかじゃないの…」
次回、鶏肋編へ続く
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