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こちら、桐生探偵事務所。(跋扈編)
赤いダッジ・バイパーは道端に静かに蹲っていた。
歩道の並木は、葉が落ちる前の最後の青を必死で保とうとしている。
サングラス越しの街の風景は、色彩を欠いた淡々とした昼下がりのパノラマを手嶋の視神経に流している。
…日本。本当なら俺の国…
アメリカに生まれた手嶋は、アメリカで育ちアメリカの為に働いている。
…何のために…
アメリカのため?
No…
金のため?
No…
名誉のため?
No…
士官学校で優秀な成績を修めていた手嶋は、その日本人的風貌と流暢な日本語、そして子供の頃から続け、学生チャンピオンの名誉をも手にした得意とする格闘技のムエタイ、また射撃部に所属しこちらでも数々のトロフィーを獲得している。CIAが眼を付けた訳だ。
地獄の様な訓練にも耐えた。東西の冷戦が終結した後ではあったが、その世界警察としての面目を保つ為の国家の威信を賭けた情報組織である。
セックスさえも道具として使う。多数の研修生の目の前で数々のテクニックを教え込まれる授業には、手嶋は辟易していた。どちらかと言えば、目隠しをしてサブマシンガンを30秒以内に組み立てると言った訓練の方が性に合っていた。
…俺は一体、何のために…
全てが『No!』だ。
成り行きだったのか?俺の人生は…
俺には任務がある。任務に全てを賭け全力投球をして来た。
そして任務が終わった後、俺の手元には何も残らない。
何をしても全ては無に帰すのか?
何のために俺は生きている?
手嶋の脳裏にふと、『カオリ』と名乗る少女の顔が浮かんだ。
俺と同じ組織の歯車の筈だ。だが、あの少女…
眼が違った。今まで見たエージェント達と、そしておそらく手嶋自身とも同じ、死んだ眼では無い。
何があるのだ?何が彼女を突き動かしているのだ?
手嶋は口元を歪めて笑う。
…そうか、きっと俺は…
…彼女の中に、失いかけていたものを見たのか…
右手を脇に差し込む。
手嶋の体温に暖められた堅い手触りが伝わってくる。
ベレッタM92FS。
アメリカ軍のコルト・ガヴァメントに替わる制式拳銃として、テスト・トライアルを重ねられ、グロッグ、SIG、スタームルガー等のライバル達の中から選ばれた9ミリ口径の大型自動拳銃だ。
耐久性、製造コストともにコルト・ガヴァメントを上回り、ダブルアクション機構と装弾数15発の大容量を誇るダブル・カァラム・マガジン、高い命中精度とメンテナンスの容易さは、大口径を信頼しきっていたアメリカの国民性にも徐々に受け入れられている。本来イタリアのメーカーであるが、現在この銃はアメリカベレッタ社で生産が続けられている。
手嶋はルームミラーから目を離さない。
待つ。
…嫌な仕事だ…
「どうしたんだよ?ガッコの前で待ってるなんてさ。」
拓也は歩を進めながら聞いた。
「しばらく監視するわ。また喧嘩されたら困るもの。」
倫子は歩きながら、真っ直ぐに前を見て答えた。
「あれは大和が暴れたせいだぜ。」
「いいの… 私と一緒にいて。」
「?」
陽の角度が低くなった秋の日差しは、二人の背中を押すように照りつけていた。
「拓也…」
「ん?」
「一緒だよね?」
「何が?」
「ずっと、ずっと一緒だよね。」
「だからさ、何が?」
「何でもない。」
倫子は笑った。寂しそうな笑顔だった。
二人の目の前、道端に赤く低いマシンが蹲っている。
拓也と倫子は気にした風もなく、街路樹に区切られた歩道を歩いていた。
その赤いマシンの左ドアが開き、男が降り立った。
「何だよ、あんた。何か用か?」
拓也は進路を阻む様に目の前に立ち塞がった男を見た。
年の頃は20代中半だろうか?だが、ひやりとするこの雰囲気は…
「君に用がある。一緒に来てくれないか?」
男の唇が動いて唐突な要求が出てきた。
「俺、あんたに用はないぜ。」
「いや、君じゃない。彼女だ。」
男の手が倫子に伸びる。
「何よ!いや!」
「何しやがる!」
拓也が男の腕を掴んだ。
男と目が合った。こいつ、できる。
拓也の判断は正しかった。男は掴まれた腕を肘を軸に回転させ、拓也の手を振りほどくと同時に空気を裂く衝撃波を見舞って来た。
拓也の今までいた場所を男の前蹴りが空しく弧を描く。
だが…
油断する暇を与えない、男の蹴り技の連続攻撃。拓也はガードするのが精一杯だ。
高い蹴りを放って来た。チャンス!
正面をガードしていた腕を交差させ、蹴り足を挟み込む。懐に飛び込まない事には拓也に勝機は無い。
体を変え男の顔に正拳を見舞う。男は左腕で拓也の突きを瞬時にはじき返し、先程まで取られていた左足が着地すると同時に右回し蹴りを放った。
拓也の脇腹に男の蹴りが食い込む。拓也の体は横に吹き飛んだ。
「拓也!たくやぁ!」
倒れた拓也に駆け寄る、倫子の今にも泣き出しそうな声。
「お前… ただ者ではないな。」
男は呟き、二人に歩み寄る。右足を軽く引きずっている。男が回し蹴りの体勢に入る前に、拓也が臑を蹴り込んでいたのだ。顔面への突きはフェイント。つまり、男の蹴りはタイミングを崩し、威力は半減されていたのだ。
だがそれでも、拓也を吹き飛ばす程のパワーを秘めた蹴り技だった。
「な、何するのよ…」
倫子は男を振り返る。
きっ、と睨んだ少女の眼が痛々しかった。
「手荒な真似はしたくない。俺と一緒に来てくれ。」
「出来ないわ。」
倫子は立ち上がった。
男は呼吸を整える眼前の少女に驚きを感じた。
この子供達は一体…
「いやぁぁぁぁぁっ!」
少女の裂帛の気合い。来る!
手嶋は少女の突きを腕で弾き、左足を蹴り上げた。
同じく少女の左足が、手嶋の蹴りのベクトルを変える。
低く構えた姿勢から繰り出される技の数々。
これは、空手? いや、少し違う…
手嶋の脳裏に軽い危険色のパルスが走った。
『遠慮していては、やられる』
仕方ない。子供とは言え、女とは言え、任務だ。
手嶋は少女の突きをかわし、一気に懐に飛び込んだ。
右膝が鳩尾を捉えた。
ぐぅ、と呻く少女の首筋に手刀を落とす。
ぐったりとして倒れ込む少女の体を、すかさず左肩に担ぎ込んだ。
「くそったれ…」
あの少年が起き上がって来た。左脇腹を押さえて立ち上がる。
手嶋は右手を脇に差し込み、ベレッタを抜き出した。
「悪く思うな。」
銃口を少年に向たまま少女を担ぎ後退した。手早くバイパーの助手席に少女を乗せると、運転席側に回り込み乗り込んだ。
アイドリングで道端に蹲っていたバイパーは、待ってましたと言わんばかりの咆吼を上げる。
「ち、畜生…」
拓也は走り去る赤いマシンのテールを睨んでいた。
脇腹の痛みは既に和らいでいる。肋骨は折れていない。ヒットする瞬間に体をひねり、相手の蹴りにより架かる力を分散した成果だ。喧嘩慣れした拓也の本能的な体技と言えるだろう。
車道に低い排気音。ブレーキの音。
拓也の横を、地を這う様な赤いマシンが急停車した。
「拓也っ!乗れっ!」
「おうっ!御都合主義!」
フェラーリ360モデナ。
運転席ウインドウから叫んだのは桐生大和だった。
「野郎、逃がさねぇぜ。」
大和はアクセルを踏み込んだ。フェラーリのファンを魅了して止まない、宝石のような排気音が響き、車重が1.4トン近くあるとは思えない爽快な加速が始まる。
スポーツモード時のシフトワークは、少しだけアクセルを抜く事でスムーズで早いシフトアップを実現できる。パドルシフトという、油圧によってMTと同一のギアボックスを制御するものだ。
3.6リッターV8、4カム40バルブユニットが発生する400PSと38.0mkgのトルクが叩きつけるパワーは鮮烈極まりないが、その挙動は驚くほどソリッドで、路面からの情報はダイレクトにドライバーに届き、思い通りに操れる様な操縦感覚が体感できる。
「大和。どうしたんだよ、これ?」
「親父のコレクションだ。たく、道楽野郎が…」
「見えたぜ。」
「ああ、行くぜぃ!」
赤いバイパーを射程距離に捉えた。
赤信号を突っ切る二台。日本の道路にはあまりに不似合いでセクシーな二台の赤いマシンに、クラクションの非難が飛ぶ。
イタリアンスーパースポーツらしい堅めなシートも、4本のエグゾーストパイプから吐き出される吐息も、ステアリングへの愛撫に示す敏感な反応も、そんな贅沢な悦びを堪能している余裕は今の拓也と大和には無かった。
バイパーが左折。続いて360モデナも。
パワーを乗せた後輪がブレイク。たちまちテールスライドによって起こるオーバーステアは、ミドシップならではスリリングな桃源郷だ。
車線変更で次々と国産車の群の中を泳ぐ二台。薄汚れた4車線道路は、赤いドレスを着た美人ダンサー二人の華麗なるステージだった。
「拓也…」
大和は脇に突っ込んだ右腕を抜いた。
その手の中にはワルサーP99が握られていた。ワルサー社は名銃P38やPPKを輩出し、そのオートマチック拳銃でのダブルアクション機構は今では世界中の拳銃メーカーの常識となったドイツのメーカーだ。この新製品P99は、ポリマー、クロームモリブデンを多用して作られ銃本体は軽く、また斬新なシングル&ダブルアクション機構が組み込まれている。そしてダブルアクション・オートゆえの携行時の安全性も充分に考慮され、スライド後部のデコッカーや、射手に判りやすいコッキングインジケーター等の機構も採用されている。
装弾数16発の.40S&W弾は9ミリパラベラム弾の弾道低進性と.45ACP弾のストッピング・パワーを併せ持つ弾としてFBI向けに開発されたものだ。
大和は拓也にワルサーP99を突き出した。
「どうしたんだよ、これ?また、おっちゃんのコレクションか?」
「お前に人の事が言えるか!かまうこたぁねぇ、ヤツに近づいたらブッ放せ。ただし!倫子に怪我させたら承知しねえぞ。」
「無茶言いやがるな。」
拓也はフッと笑ってワルサーを受け取った。
「判ってるな、拓也。倫子を取り戻すんだ…」
「おう。」
拓也は、フェラーリのハンドルを握る二歳年上の従兄弟の横顔を見ていた。
変わってない。昔から神童の名を欲しいままにした天才少年だったが、破天荒で凶暴な性格も倫子に寄せる想いも…
赤いバイパーがすり抜けたセドリックの横を、大和の駆る360モデナが追い越しにかかろうとした時だった。
セドリックが車線を阻む。無意味に車高を下げた、いわゆるシャコタンと呼ばれる品のない改造車だ。ドライバーの知能指数の程度が知れる、リヤウインドウに貼られた派手なステッカーが目に飛び込む。
隣の車線には、同じく下品な原色カラーに塗装され直した旧式のクラウンが走っていた。
「どけ!クソガキっ!」
大和は派手にクラクションを鳴らす。
からかっているのか、二台は更にスピードを落とした。対向車線は中央分離帯で区切られており、二台の追い越しは不可能だ。
既に頭に血が昇っている大和は、信じられない行動に出た。360モデナのノーズで、セドリックのテールを突いた。後ろから押すような形でパワーをかける。
後車の意外な行動に、泡を食ったセドリックのドライバーはブレーキを踏む。セドリックと360モデナは止まった。
クラウンも止まり、三台は公道を塞ぐ形で次々にドアが開いた。
セドリックとクラウンから降りてきた青年達は、想像通りの元気盛り世代だった。
「あ〜あ… 逃がしちまった…」
拓也は助手席にふんぞり返って言った。
「ガキ共が… くそったれ!」
大和の怒りは頂点に達していた。運転席から滑り降りる。
「ガキっつったて、俺らよか年上だぜ。」
「拓也!お仕置きタイムだ。」
「やれやれ…」
拓也も助手席から降りる。
その時、三台の小競り合いにより渋滞が始まった道路を駆け抜けてゆく、一台のバイクがいた。
歩道すれすれの間隙を、Vツインの軽快な排気音を立ててすり抜ける銀色のマシンには、細い体つきとフルフェイスから流れる長い髪のライダーが跨っていた事に、拓也は気付く由もない。
望月香織は更に右グリップを捻った。
Vツインならではのピックアップの良さを発揮して、マシンは軽快に加速する。
異形2灯式ヘッドライトを装備したハーフカウルが印象的だ。水冷90°V型2気筒エンジンを搭載したこのマシンは、中低速からの力強いトルクと俊敏なレスポンス、そして乾燥重量166kgと理想的なバランス配分を誇る。
スズキSV400Sは香織のテクニックによって、アスファルトを泳ぐ回遊魚の如く疾走していた。
ターゲットは、赤いダッジ・バイパー。
香織は静かにSV400Sの速度を弛める。
ビルの駐車場に、目標の赤いアメリカンスーパースポーツが入るのを確認したからだ。
狭い路地へとマシンを乗り入れる。エンジンを止めた。
フルフェイスを脱いだ時、長い髪が肩になびく。グローブを外し黒いブルゾンのポケットから黒いゴムを取り出した。
バイクに跨ったままゴムを口にくわえ、両手で後ろ髪を束ねた。片手で束ねた髪を押さえたまま口にくわえたゴムを取る。作戦行動に邪魔にならないよう、長い髪はポニーテールとした。
携帯電話を取り出す。
アドレスに登録した番号を液晶に表示させたとき、ふと嬉しげな感情の光りが瞳に灯った。
非通知発進5コールの後、先の持ち主が出た。
「桐生?」
「誰だよお前?今、取り込み中だ。」
「いい、聞きなさい。田口町3丁目の高木ビル。」
「お前… 望月だな?」
「ち、違うわよ!」
「ほら、やっぱり望月だ!」
「誰でもいいじゃない!早く来なさい!切るわよ!」
携帯電話を仕舞った香織は、ブルゾンをまくり腰に手を廻す。
慣れ親しんだ堅い感触が右手に伝わる。
己の分身とも言える、コルト.22だ。
更にブルゾンの脇に手を差し込んだ。
肩から吊ったホルスターのホックを外し、ぞっとするような大型拳銃を抜き出す。
鏡面仕上げの艶やかな銀のメタリックに輝くそれは、ネオプレーン製の大型グリップを装備した6インチ銃身のマグナム・リボルバーだった。
コルト・キングコブラ・ウルティメイトステンレスは、その美しい輝きと凶暴な破壊力を秘めて、香織の手の中で静かに目覚めた。
コルト社の強力なリボルバーのラインナップにある、パイソン、キングコブラ、アナコンダと言った、ヘビ科の名称が付けられた製品の特有なヌメッとしたスタイルと美しく精巧な仕上げ、そしてその精度の良さは高性能化するオートマチックに押されつつあるリボルバーの中で、スポーツピストルとして、何より所有する喜びを持ち主に与える。動作が確実である事、強力なカートリッジが使用可能な事。リボルバーは未だ廃れたりする事は無い。
左横に付いたマガジンラッチを引き、シリンダーをスイングアウトする。
シリンダーに6発、円状に並んでいる357マグナム弾が、香織の指でロッドを押された事によりリム部を浮き上がらせてきた。一発、カートリッジを引き抜く。
先端の弾頭部は一見、フラットノーズという弾頭の丸い先を切り落とした、台形の弾頭タイプに見えた。だがこれは反則とも言える、残忍な破壊力を発揮する特殊弾だった。
水銀弾。
通常の弾頭の先に穴の開いたホーローポイント弾の穴をドリルで更に広げ、水銀を流し込む、そしてハンダで蓋をする。
発射された弾頭は目標物に激突すると、それまでのエネルギーは貫通もしくは弾頭の炸裂によって発散される。だが、この特殊弾頭は弾頭だけの炸裂効果だけではない。鉄と同等の比重を持った水銀が炸裂と同時に飛び散ると…
相手はCIA。香織はこの凶悪な武器を敢えてセレクトした。
目には目をだ。
絶対に、あのシステムをCIAの手に渡してはならない。如何なる手段を行使しようとも、CIAの工作の妨害、そして奪回もしくは破壊が香織に課せられた任務だった。
香織はカートリッジを元の穴に戻し、シリンダーを銃本体に納めた。
カチン、とシリンダーがロックされる音が響く。脇のホルスターにキングコブラを納めると、再び頼もしい重量感が戻ってきた。
バイクのキーを抜き取り、身軽にアスファルトに降りる。
少女の姿はビルの谷間に消えていった。
次回、左袒編へ続く
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