こちら、桐生探偵事務所。(争奪編)

 
 「あっ、下垣内サン…」
 「ちわッス。」
 校門を出た少年達は、目の前に現れた少女に慌てて挨拶をする。
 彼らとは無縁の存在だったが、去年、女子空手部を全国制覇の偉業に導いた元主将であるこの少女に、畏敬の念から出る挨拶だった。
 「こんにちは。一昨日、拓也と居たのは君ら?」
 「はい。」
 「ちょっといい?」
 昨日も今日も拓也は学校に出ていなかった。別に珍しい事ではないが、少年達は只ならぬ気配を察した。
 『またアイツ、何かしでかしたんだぜ。』
 不安と好奇心が交錯する中、少年達は少女の背中を追った。

 「将馬か?久しぶりだな。」
 桐生恭介は赤い受話器に向かって話していた。
 「恭介、どうするんだ?」
 「どうもこうもない。向こうからの連絡が無い限り、こちらも動きが取れないんだ。」
 「相変わらず呑気な奴だな。息子が誘拐されたというのに…」
 「どうせ、色仕掛けにでも引っかかったんだろう。困ったものだ。」
 「他人事みたいだな。自分の息子だろう?」
 「俺の息子だからだ。心配するな、奴なら自分の身ぐらいはなんとかする。」
 「例のものはどうする?」
 「“デルタ”の事か… 親父も厄介な物を遺してくれた…」
 「素直に出すのか?」
 「欲しければ、くれてやるよ。」
 「だが、迂闊な行動は避けろ。イスラエルの奴らが動き初めている。」
 「ほう…」
 「奴さん達もやっきになってるぜ。なにせ、長年探していた物だからな。」
 「どうだい、将馬。一口乗らないか?これで一稼ぎ出来そうだぜ。」
 「また、そう来たか。俺はいいよ。それより倫子が学校に行ってない、手を焼いているんだ。俺は早くカタをつけたい。」
 物騒な会話の中で、思春期の子供を抱える親の悩み。
 防衛庁で鬼教官と恐れられた下垣内将馬も、一人の親。
 「倫子が…」
 「また、動きがあり次第連絡する。直通電話とはいえ、安心出来ないからな。切るぞ。」
 「ああ、頼む。」
 恭介は机に埋め込まれた、同じ赤い色をした電話機に受話器を戻した。机の上に投げ出してある一枚のマイクロフィルムに目を留める。
 コードネーム“デルタ”。
 三十年以上も前に、桐生和孝が南米から持ち帰ったものだ。
 ゲオルグ・ボーリンガー博士。父と親交のあった今は亡き天才科学者の遺品が、世界の常識を覆す事となる。
 「さて、と…」
 恭介はイスから立ち上がった。
 窓ガラス越しに、向かいのビルの屋上の一点に目を留める。
 恭介の口元から、静かに笑みがこぼれた。

 目が合った。
 今となっては隠れる訳にも、まして目を逸らす訳にもいかない。
 初めて、あの男と対峙した。
 キョウスケ・キリウ。MI-6と内調を渡り歩き、今でこそフリーだが、その筋の裏世界の者なら誰しも名前を知っている。
 高林哲男に恐れは無かった。
 むしろ、至福ともいえる念に囚われていた。
 噂の男と、今同じスタートラインに立っている。それが彼の勲章とも言えた。
 ユダヤ人との混血だった父を持つ哲男は、組織に参加したのは彼が12歳の時だった。それから12年、才能による頭角を現した彼は現在、日本支部のエース的存在だ。
 祖父の祖国となったイスラエルへの忠誠。
 今はその為ではない。
 ナチス・ドイツへの復讐。
 興味は無い。
 彼の目指していた目標は、今、目の前にいる。
 尊敬とも言える熱い敵対心と興奮に、体が火照るのが分かる。
 いつか、この男を越える。俺の今まで歩んだ人生の意味が、この瞬間スパークしたのだ。
 ポケットの中で、小型の携帯無線が振動した。
 「テツ、どうだ?キリーのほうは…」
 無線機から英語が流れてきた。
 英語圏の仲間が多い為か、哲男はテツと呼ばれていた。
 “キリウ”とは発音しにくいのか、英語圏の仲間内では誰もが恭介の事を“キリー”と呼んだ。偶然にも敵となったこの組織でも、その愛称が通っていた。
 「今、事務所にいる。動きは無い。」
 「オーケー。監視を続けてくれ。」
 発見された、とは報告しない。
 “モサド”とは関係無く、これは俺の戦いだ。
 プロフェッサー・ブゴウとの争いに、漁夫の利を狙う日本支部。
 この機に乗じて、俺は名誉を掴む。
 待っていろ!桐生恭介。

 「女、何のつもりだ?」
 「俺らにケンカ売るのか?それも、一人で…」
 倫子を取り囲んだ男子高校生は、言葉で次々に脅しをかける。
 拓也の同級生から聞き出した証言で、彼らの居場所を突き止めるのに成功した。話を聞こうとしたのだが、別な成り行きに進展している。
 ゲームセンターの隣の路地裏は、夜気に混じって湿った空気が漂っていた。
 「へへ、いい女だな。もったいねえよ…」
 「やっちまうか?」
 くだらない。口だけだ。次の動作への準備も出来ていない。
 「話、聞きたいだけなんだけどな… やるんだったら、私、強いよ。」
 倫子は呆れている。バカを取り合っている暇はない。
 「何言ってやがる…」
 やっとやる気になったか。普段は口だけの、人数に任せた威圧のケンカしかしていないのだろう。拓也の同級生達の方がまだましだ。
 倫子は三人の力量を探った。正面のデカい奴、コイツは一番手。だがデカいだけ…
 左隣のあばた面、コイツは論外。右のパツキン野郎… コイツだ、コイツが真打ち。格闘技などの気は無いが、何か呑んでいる。ナイフ?
 正面のデカい奴が迫って来た。
 だが、彼らにとって倫子は意外な行動に出た。
 彼らから向かって左方向に飛んだのだ。
 目指すは、金髪に染めたツンツンヘアー。
 倫子の急襲に金髪男は、得意とする武器をポケットから取り出すのさえ忘れていた。
 懐に飛び込んだ瞬間、金髪の右臑を足刀で蹴り降ろす。
 脳天を突き上げた痛みに耐えかねた金髪は、前にのめり込もうとする。
 瞬間、倫子の右の裏拳が金髪の鼻を捉えた。
 軟骨の折れる音。
 堪らず倒れ込んだ金髪は、押さえた鼻から大量の血が吹き出ていた。
 突然の事態に、呆気にとられていた残りの二人。
 本物の恐怖。
 逃げ出したい。だが、足がすくんで…
 あの時と一緒だ… あの中学生と同じ…
 だが、あの時と違うのは…
 「いえぇぇぇぇっ!」
 少女の裂帛の気合いが、路地裏に轟いた。
 俺達を逃がしてくれなかった…

 金髪に染めた少年は腰が抜けたまま、冷たい路地を膝と手を使って後ずさっていた。
 二人の仲間は、既に地べたに叩きつけられている。
 背中が壁に当たった。もう後が無い。
 ポケットから、普段得意としている脅しの道具を取り出した。
 何でも良かった。この瞬間から逃れる事が出来るならば…
 手が蹴り飛ばされた。
 飛んだ銀色の光は、アスファルトに転がり澄んだ音を立てた。
 倫子はそれを拾い上げる。
 下のロックを外し、片手で器用に回すと鋭く光るエッジが現れた。
 バタフライ・ナイフ。またはバリソンともいう、器用に扱う事が格好いいとされ、若者に絶大な人気を誇った凶器だ。
 「いいもの持ってるわね…」
 倫子は少年の前にしゃがみ込む。
 「私、忙しいの… お願い、早く喋って。耳がいい?それとも鼻?」
 美少女といえるランクに属する少女の目から、残忍な言葉とは裏腹に必死の感情が見えた。
 「判った。口にしましょう… よく喋れるようにね。」
 口に鋭く光るエッジが差し込まれた。唇の端に痛みが走る。唇が少し切れ始めている。
 「じゃべる…わがっだ、じゃべるがら…」

 ゲームセンターにいた少年達は、異常な雰囲気に気が付いた。
 やつら、帰ってこない。何があったんだ?
 やられた?まさかそんな筈は無い。
 ここは彼らの勢力圏。期待と不安を抱いて、残った少年達は路地裏へと殺到した。
 だが、路地の入り口で行く手を阻むように現れた中年の男。
 「おっさん、何だよ…」
 一人が凄んで、慌てて口をつぐんだ。
 男は静かに少年達を制止した。
 「家に帰れ。怪我するぞ、ジャリコ。」
 桐生恭介の凄惨な笑みに圧倒されたのだ。

 「明蘭高校一年、望月香織…」
 「望月香織。」
 倫子は反復した。
 「俺が知っているのはそれだけだ… 俺達は金を握らされたんだ、あの女を追えと言われて… でも俺はその女、前から知っていた。」
 「そう、その女ね… 判ったわ、ありがとう。」
 血が出ている鼻に、そっとハンカチがあてがわれた。
 「ごめんね、痛かったでしょう?」
 ハンカチからは少女の香りがした。
 立ち去る倫子の後ろ姿を、金髪に染めた少年は目で追っていた。
 血で染まったハンカチを少年は見つめる。レースの縁取りと、うさぎのワンポイント。“Rinko”の刺繍が目に飛び込んで来た。
 『今度、洗って返そう。』
 恋心に捕らえられた少年は、仲間に内緒でぬけがけを考えていた。

 「望月香織… あの、バカっ!」
 倫子は夜の町を歩いていた。握った拳が、ふるふると震える。
 若いカップルとすれ違う。幸せそうに喋っている女の子の表情を、倫子は立ち止まって目で追っていた。
 「帰ってきたら… タダじゃ置かないンだから…」
 言葉の後半に、涙声が混じっていた。
 五年前の約束…

 拓也は既に飽きていた。
 妙な監禁生活が始まって、一体何日経つのだろうか?
 窓が塗りつぶされた部屋は一日中蛍光灯が灯っていて、ベッドとトイレと一緒になったバスルームが部屋の全てだ。時計なども無い。体内時計もとっくに狂った状態だ。
 欲するものは何でも与えられていた。テレビや雑誌と言った外部の情報が伝わるメディアと、日付と時間が教えられていないだけだ。
 拓也の好きなアイドルのCDも、配膳に来る青年に言えば数時間で差し入れされる。だが、与えられたポータブルCDプレイヤーには、ラジオの機能を外されているという徹底ぶりだ。
 食事は最高だった。毎日が、これでもかという程のフルコース。
 運動不足を補うために毎日のストレッチと、腕立て腹筋は欠かせなかった。
 欲しいものは何でも与えられ、そして肝心な事は覆い隠されている閉鎖空間。
 「ブタになりそうだぜ…」
 呟きながら、次の食事を期待する。
 人間とは何もする事が無いと、『食』意外に楽しみは無くなるものか?
 今日は、中華料理だった。
 程良く揚がった春巻きを頬張りながら、以前食べたチンジャオロースの味を思い出していた。
 「倫子…」
 倫子のチンジャオロースが食べたかった。
 『俺、倫子のでないと口に合わねえよ…』
 そろそろだな。
 拓也は脱出計画を練っていた。ホームシックにかかったのは、本人が認めようとしない事実だった。

 

次回、猛襲編へ続く…