こちら、桐生探偵事務所。外伝

ドリーム・アルファ壊滅作戦

 Chapter 2

 

 有名どころのステーキハウスだった。
 しっとりと柔らかい神戸牛のミディアムを二人前平らげ、更に三人前のボウル一杯のサラダを胃に流し込んだ大和は食後のコーヒーを啜る。
 舌の上を転がるような心地よい苦みと酸味。オリジナルブレンドらしいが立派なものだった。
 食器を下げに来たウエイトレスが驚いた目で大和を見る。
 「美味しいな、このコーヒー。もう一杯頼むよ。」
 「は、はい…」
 微かに顔を紅らめたウエイトレスが去って行く。
 細胞の一つ一つに力が蓄えられてゆくような充実感だった。人間の体とは素直なものである。『美味い』と感じれるものほど、それは体にとって栄養となるものだ。知識や創作物も同様で、自分にとってプラスになるものは楽しく受け入れられるし、いくら美辞麗句を並べたところで心の何処かで拒絶しているものは、本人にとってはマイナスに転じているものである。
 これが満腹と言うヤツだろう。本当の充実感だ。
 以前、従弟の拓也と回転寿司で勝負をしたことを思い出した。38皿。2皿の差で大和は勝った。あの時の従弟の悔しそうな、もうげっそりとした顔は今でも覚えている。勝者の大和でさえも二度と寿司なぞ食うものかと誓ったものだ。
 急に従弟に会いたくなった。昔のように、また喧嘩をしてみたくなった。
 「縁があればな…」
 大和はカップに残った最後の一口を啜り、静かにテーブルの皿に置いた。

 カードで勘定を済ませ店を出る。
 一人きりの夜をどうやって過ごそうかと考えながら、フェラーリ550マラネロのドアを開いた。

 フェラーリのパワーを持て余しがちな市街地で、大和はアクセルを開きすぎないようマシンを流した。
 目の前の信号が青に変わった。ひとたびアクセルを踏み込めばホイールスピンを起こして前に進まない。大和はゆっくりとフェラーリをスタートさせる。
 ある程度加速がついた時。前に障害となる先行車はいない。
 あの官能的な加速を堪能したくなった大和は、アクセルを開こうと右足に神経を集中した矢先の出来事だった。
 突然、目の前に人影。
 反射的に踏み込んだブレーキは、四輪のディスクを噛み、タイヤの軋む音を立てて赤いボディをストップさせた。
 アスファルトに跪く影は若い女のものだった。
 ボブカットの髪がばっさりと顔を覆っている。
 無言でフェラーリから降り立った大和は女に近づく。
 大和を見上げた女は、綺麗に整った顔の中で何処か物憂げな瞳をしていた。少女と女の中間に位置するような年の頃だったろう。
 大和はしゃがみ込み、そっと少女に話しかける。
 「どうした?死ぬ気だったのか?」
 きっ、と大和を睨んだ少女の柔らかな唇が動いた。
 「どうして殺してくれなかったの?」
 「酔っているの、君?」
 「ふふ… ごめんなさい。」
 からかわれているのか? それともこの女、常軌を逸しているのか?
 大和はその時、少女が飛び出してきた歩道の向こうに気配を感じた。
 振り向いた大和の視線から逃げるように、建物の影に身を隠す姿が数人。
 「訳アリか… 乗れよ。」
 少女はすっと立ち上がった。大和の提案を否定するように首を振る。
 「結構よ。ひとりで帰れる。」
 ジーンズにモスグリーンのカットソーを来た少女は気丈に立ち上がり、汚れたひざの辺りを手で払う。
 「そう?じゃ、気を付けて。この界隈はたまにレイプ魔が出るからね。」
 「あんたもその一人じゃないの?送り狼さん。」
 「僕は奴らより紳士的さ。」
 少女は大和の顔を見てくすりと笑う。
 「紳士の皮を被った狼さん?」
 「よく判ったね。でも口は大きくないだろ?」
 「時計に隠れても無駄かしら?」
 「君に座布団二枚。」
 「あはは… 面白い人ね。」
 突然、派手なクラクションの音。大和のフェラーリの後方に停車した派手なメッキホイールを履いた黒いセルシオが、安物のマフラーから下品なアイドリング音を立てている。
 「こらぁ!通行のじゃまなんだよぉ!」
 頭の悪そうな青年が、運転席の窓から顔を出しがなり立てている。
 「ごめん。ちょっと待っててね。」
 大和は少女にそう言うと、セルシオの運転席の側まで歩いて行った。
 どんっ!
 高級カーフ製の靴の底がセルシオのドアにめり込み。
 「な… な、なにしやがるっ!」
 大和に蹴られたドアを見下ろして信じられないと言った顔をした、給料のほとんどを借金の返済に当てている青年の怒りの混じった悲痛の叫び。
 青年はぐいと襟首を掴まれた。そのまま片手で窓の外に引きずり出される。
 「てめえらこそいい迷惑なんだよ。一緒にスクラップにしてやるぜ。」
 目の前に迫った端正なマスクはその見た目とは裏腹に、内側から沸き上がる暴力に飢えた目をしていた。
 「う…ぐぐぐ…」
 大和に掴まれた襟首と、腰は運転席のドアから宙ぶらりんにされた青年は、情けない程の苦悶の表情を浮かべていた。
 車内には他に数名の男が乗っていたが、誰一人車外に出ようとはしない。ひたすら困惑した顔で状況を見守っている。
 「ごめんなさい、は?」
 大和は掴んだ襟首を揺さぶる。
 「ううう…」
 青年の顔色が変わる。掴まれた襟首から喉の気管に圧迫を受けて窒息寸前の状態だ。
 「いちいちイチャモンつけてんじゃねぇよ。」
 大和の非情な表情が突然青年の視界から消えた。
 「わぁっ!」
 ぶらさげられた襟首を急に放され、辛うじてアスファルトに頭を叩きつけられる寸前で手を突いた。だがドアの窓から垂れ下がった無様な格好から、青年は自力で逃れることが出来ないようだった。
 慌てて車内に引っぱり込もうとする青年の仲間達の騒ぎ声を後に、大和は少女に向かって歩いて来る。
 「狼だわ…」

 オレンジ色の照明が、煉瓦張りのシックな壁を引き立てる静かなバーだった。
 初老のバーテンダーがそっと少女の前にドライマティーニのグラスを置く。
 大和は一口飲んだジンジャーエールの入ったグラスを、カウンターのテーブルに置いた。コースターがグラスの汗を吸い取って行く。
 「あなた、未成年だったの?」
 「君こそ。」
 「あたしは社会人だからいいの。」
 「おかしいよ、それ。」
 「ナマ言わない。高校生のくせに。」
 「ちぇ…」
 大和はふてくされた顔をして見せる。
 少女は楽しそうに大和の顔を覗き込んだ。
 「あなたそれに車でしょ?」
 「そうだった…」
 「車?… 車!いいの?運転してても。」
 「構わないさ、国際免許だから。」
 「そう、凄いのね。」
 「ちっとも凄くなんかないさ。」
 「留学してるの?」
 「うん、パリで。」
 「へえ。何を?」
 「今はサイクロトロンの研究を手伝っている。」
 「サイクロトロン? 重イオン加速器ってやつ?」
 「そう。宇宙物理学からガン治療まで応用できる。予定だけどね。」
 「確か加速した高エネルギーの重イオンを、さまざまな粒子に衝突させ原子核反応を調べる、ってやつでしょ?」
 「高エネルギーを持つ重イオンを原子にぶつけて、地球上では再現不可能な不安定な状態を作り出すことができる。ビッグ・バンでさえ再現できる。」
 「ええっと、あたしは詳しくは知らないんだけど、以前の加速器のシンクロトロンは重イオンをパルス状にしか発生できなかったのだけど、リング・サイクロトロンは渦巻き状に加速するので、連続したイオン・ビームを発生できるとか聞いたことがあるわ。」
 「リング・サイクロトロンから飛び出す重イオンの加速は、水素のイオンは光速の60パーセント。炭素やヘリウムのイオンは50パーセント。金やウランでも20パーセントだ。現在のところ存在する加速器の中でもたぶん最高だろう。日本はこいつに乗り遅れていたんだよ。」
 「どうして?」
 「戦後に一度GHQが解体させてしまったのさ。それに生産のための研究は尽力を惜しまないくせに、学問的研究は冷淡なお国柄だからね。」
 「言えてる…」
 「君は何をしてるの?」
 「アルカロイド。」
 「アルカロイド?」
 「そう、アルカロイドの研究。」
 「薬品関連なんだ。」
 「そんなとこ… どうでもいいわ」
 「どうして?楽しくないのかい?」
 「あたしが生きてるのと同じよ、ただ利用されているだけ。研究も…」
 ふと、少女の顔に翳りが浮かんだ。
 大和はその雰囲気をかき消すように明るく訊ねる。
 「君、名前は?」
 「澪。大下澪…」
 「僕は大和、桐生大和。」
 「やまと?変わった名前ね。」
 「そうかな?」
 「ううん… あなたらしいわ。」
 「ありがとう、みお。」
 静かにバーの夜は更けていた。

 既に時計は午前一時を廻っていた。
 夜の繁華街は未だ眠らず、行き交う人の流れも途絶える事が無い。
 フェラーリを停めた駐車場まで歩く道の途中、大和は不穏な雰囲気を察していた。
 尾けられている。一体何処から?
 そっと大和は澪に腕を組む。小さく耳打ちをした。
 「みお、走れるか?」
 「え?ええ…」
 「ペースを僕に合わせてくれ。」
 歩きながら徐々に足を運ぶ速度を速める。
 二人が走り出す頃には明らかに慌てた追跡者の気配が迫っていた。
 「こっちだ。」
 狭い路地に澪を誘導する大和。
 薄暗い路地を駆け抜け、別の通りに抜けた二人は建物の壁に身を寄せた。
 足音が迫ってくる。人通りの無い通りに、それは大きく響いて接近して来た。
 通りから影になった狭い路地で、大和は相手の様子を伺う。
 抱いた澪の細い肩が小刻みに震えていた。
 男が二人、路地から姿を現した。年の頃は30歳手前、二人とも安物のスーツを着たサラリーマン風。
 場合によっては襲撃の機会を狙っていた大和は、相手が右手を左脇に入れているのを見て諦めた。
 奴らは銃を所持している。サラリーマン風の外見こそが、一層の警戒を要する相手である事を物語る。
 丸腰である今はやり過ごす意外に方法は無い。
 通りの向こうに走り去る影を確認して、大和は澪に小さく囁く。
 「もう大丈夫だ。」
 「…」
 「どうしたんだ、一体?」
 「何でもないの…」
 「そうかい?」
 再び大和は澪を抱き寄せる。
 「!…… ?」
 澪の左肩に飾りのボタン。カットソーと同系色のモスグリーンの大きなものだった。
 引きちぎったボタンを澪の眼前に差し出す。
 「どうしたの?急に。」
 「気付かなかった?無理もないか。」
 足下のコンクリートに放り、大和はそのボタンを踏み潰した。
 ぱきぱきと無機質な音がする。
 大和が足を上げたその下には、ボタンに偽装された集積回路が哀れな姿をさらしていた。
 「これって…」
 「そう。君はどこに居ようが、奴らの追跡を逃れる事が出来なかった訳だ。」
 「そうだったの…」
 「何があったんだ?」
 大和は澪の顔を覗き込み優しく聞いた。
 澪の顔に変化が現れた。ぶわっと両目から涙が浮かんでくる。

 「もう… 死にたい…」

 
 

 

To be continued …