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こちら、桐生探偵事務所。+10
薔薇の標的
Chapter
3
香港。22時35分。
埠頭に並んだコンテナの上を、音もなく駆け抜ける影があった。
全身を黒い戦闘服に包み、同じく目だけが開いた黒いマスクをしている影は、男にしては小柄でしなやかな影だった。
軽量のボディアーマーと弾帯を身に着け、肩からはスリングでステアーTMPサブ・マシンガンを吊っている。
影は女であった。
その身のこなしは、訓練によって作り上げられたもの以上の身軽さだ。
女の前方、コンテナの下からタバコの煙が立ち上っていた。
女はその埠頭の明かりの中で見える煙に、そっと接近する。
煙にむせるのを防ぐ為に息を止め、コンテナの下を覗き込む。
下に男がいた。
港湾労働者の作業用ジャンパーを着た男であったが、肩に旧式の中国製53式サブ・マシンガンを背負っている。
男が見張りである事は明白だった。
現在、この埠頭で麻薬密売組織の取引が行われており、それを一網打尽にしようと中国公安部とICPOが共同で捜査官を各所に展開していた。
彼女は中国公安部の捜査官だった。
コンテナの上から飛び降りる。着地にも音を立てない。
風のように男の背後に近付き、指先で男の肩を叩く。
男が振り向いた瞬間、下から襲って来た女の左掌底が男の顎を砕く。
「はっ!」
女は短く呼吸を入れると、瞬時に地に這うようにして両手を地面に付ける。
縮めた左足を軸に、伸ばした右足で弧を描くように体を旋回させた。
踵から足払いを食らった男は、後頭部を地面に打ち付けて失神する。
女は素早く倒れた男の両脇を抱え、男の体を引きずるようにして、コンテナの影に移動する。
男が肩に吊っていた53式サブ・マシンガンを取り上げる。
旧ソビエトのPPS43を、中国でライセンス生産されたものだ。至って簡素な作りである。
女は薄闇の中で手早く、半ば手探りで53式を分解し、レシーバー部からシリンダーを抜き出して遠くに放り投げる。
これで仮に男が目を覚ましたり、他の者に見つかったとしても、サブ・マシンガンは使用不能となっている。
女は次のポイントに移動する。
コンテナの影から覗くと、三人の男が見えた。
三人が円を描くようにして、何やら談笑していた。
女は一瞬考え、先程倒して失神している男の方へと戻る。
女は黒いマスクを脱いだ。
脱いだマスクの中から腰まで伸びた黒髪が現れ、埠頭の明かりを反射して艶やかに光る。
何より驚くべきは、その女が絶世の美女だった事だ。
白磁のような白くつややかな肌に、エキゾチックで吸い込まれそうな黒い瞳。東洋の美神とは、まさしく彼女の事であろう。
更にその色香は凄絶なもので、全身の毛穴からフェロモンを発散しているような、魔性の艶を周囲に放っている。
それが女の生まれ持った、天性の素質であった。24歳という年齢を迎え更に磨きがかけられている。
女は倒れている男が着ていた作業用ジャンパーを脱がせて、自分の戦闘服の上から羽織る。
肩から吊ったステアーTMPサブ・マシンガンは、女には大き過ぎる作業用ジャンパーの下にすっぽりと隠れた。
ポケットを探り、男のタバコのパッケージを取り出すと、一本抜き出してフィルターを口にくわえた。
ジャンパーのポケットに両手を突っ込んで、悠々と先程の男達の背後に歩いてゆく。
「失礼。火を貸して下さらない?」
火の点いていないタバコを指に挟み、頭一つ分背の高い男達の背後から声をかける。
流暢な広東語だ。
男達は振り返った。一瞬女を見て驚き、一斉ににたにたと好色そうな笑い顔になる。
突然目の前に現れた美女に、その素性を怪しむより先に色香に惑わされる。
女は差し出されたライターの火を、口にくわえたタバコの先端に点ける。
喉まで入れないよう、口内だけに煙を溜めて吐き出す。
女の煙を吐き出すふっくらとした形の良い唇に、男達の目線が集中する。
淫猥な妄想をかき立てられ、雄としての発情メカニズムが起動寸前までに来た瞬間だった。
女の右手の指からタバコが弾け飛んだ。
その開いた右手の手の平、小指下の部分が、女に火を差し出した男の鼻の下に食い込む。
女はもう一歩踏み込み、拳に変えた右手の裏拳で男の顔面を打った。
連続で顔面の急所である鼻の下と眉間に打撃を受けた男は、後方に倒れる前に意識を失っていた。
女の動きは素早く、男の体が倒れる前には、その長い脚で一足飛びに左隣の男に迫っていた。
突然の出来事で何が起こったのか把握していない左隣の男は、中国武術で旋風脚と呼ばれる、女の放った飛び回し蹴りを顔面に受け、続いて着地した女の体当
たりに近い左肘打ちを腹部に受けて後方にフッ飛ぶ。
男の体が背後のコンテナに打ち付けられる。
残りの男が異変に気付いた時は、もう遅い。
「ハイッ!」
女の気合いとともに蹴り出された左足は、男の右臑に命中し、連続して高く蹴り上げられた右足の踵が、男の顎を砕いていた。
倒れ込む男の体と、姿勢を入れ替えた女の体が交差する。
「フッ!」
女は吐く息と共に体重を乗せた左拳の小指側、空手で鉄槌と言う劈捶拳を男の後頭部に叩き込む。
ばたりと男が前のめりに倒れ、薄闇に静寂が戻った。
女は首を振って、顔にかかる長い髪を振り払う。黒髪が埠頭の風に流れた。
どこにあれ程のパワーが秘められているのか。女の中でも特に小柄でか細い体で、今この屈強な男達を瞬時にKOしたとは到底信じがたい。
腰のトランシーバーを取り、通話ボタンを押さえてマイクに英語で短く囁く。
「こちらヴァネッサ。Cエリア制圧完了。」
女は黒のメルセデス・ベンツE350の助手席から、ドアガラス越しに香港の街の明かりが流れてゆくのを眺めていた。
「相変わらずのお手並みだな、ヴァネッサ。一度もトリガーを引く事なしに、奴らの身柄を拘束してしまうあたりは、見事としか言いようがない。」
ベンツのステアリングを握る男が言った。歳の頃は40代後半の白人だ。
「何でも弾丸(ブレット)で解決しようとするのは、アメリカ人の悪い癖だわ。フォスター主任。」
ヴァネッサという女は、皮肉を込めて言う。
「一本取られたな。君があのホワイト・タイガーの娘だという噂も、まんざら嘘ではなさそうだ。」
フォスターという男は、ちらりとヴァネッサを見て言った。
「余計な詮索は無しにしましょう。私は中国公安部所属のICPO派遣捜査官。それでいいでしょう?」
よくあるフィクションの世界とは違い、ICPO、通称インターポールと呼ばれる国際刑事警察機構には逮捕権は無く、捜査と犯罪者の身柄拘束等は、主に該
当国の警察機構が行い、ICPOはその情報提供と連絡を行うのが一般的だ。
「その通りだな。せっかく一段落ついたので、君を食事にでも誘いたいのだが、上の連中がそうはさせてくれないみたいだ。君をすぐに空港に送らないとなら
ない。」
フォスターは薄笑いを浮かべて言った。
「あら、楽しみにしてたのに、残念。で、私を休ませないで、今度はどこに飛ばすつもりかしら?」
女は前髪を右手でかきあげて言った。
24歳という年齢に相応しいとも、相応しくないとも言える、艶めかしくもエロティックな仕草であった。
ここで仕事という垣根が無いなら、並の男なら理性を失うだろう。
「今夜ホテルでゆっくり休んで、明日の朝、日本に飛んでもらう。」
「日本に?」
「知っているだろう、武器商人の楊雲章。奴が密輸屋のリュック・モンテーニュと組んで、日本にいるんだ。何かとんでもない物を狙っているという情報があ
る。」
「楊雲章が… 何を狙っているのかしら?」
「大戦中の枢軸国が絡んでいるものらしいが、今は完全な実体が掴めていない。事実と虚偽が交錯していてね。また詳細は日本に着いてから連絡員が説明す
る。ヴァネッサ、君は日本語も堪能だからとの上からの指名だ。」
フォスターの言葉に、ヴァネッサは皮肉な笑みを浮かべて答えた。
「有り難くお受けするわ。今度こそ京都見物したいけど、無理かな。それに私の名前は“Vanessa”じゃなくて“Venosa”、ヴェノーサ・リー
よ、正確には。」
ヴェノーサとは、ラン科のカトレア属の品種ではないか。彼女の本名である、中国名の名残である。
「ヴァネッサのほうが呼びやすくてね。どうだい、日本は久しぶりだろう?」
フォスターは助手席のヴァネッサの横顔を盗み見る。
その美しい横顔は、何か物思いにふけっているような風であった。
そんな時24歳とは思えない、まだ年端もいかない少女のような幼い表情を見せる。
「どうしたんだ?何か浮かない顔をして。」
「ううん。何でもない。」
ヴァネッサは首を振り、爽やかな笑顔を返した。
「ニホンかぁ… またまたニホン語にベンキョーさせ直さなきャ…」
ヴァネッサはうつむいて呟いた。その呟きは、文法も用法も発音も、全て完璧に狂いまくった日本語だった。
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