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こちら、桐生探偵事務所。+10
薔薇の標的
Chapter
1
「さあ、ローゼ。もういい子だから、追いかけっこは無しにしよう。」
白人の中年男がドイツ語で言った。その顔に皮肉な笑みが張り付いている。
男の背後にいた五人の男が歩み出て、白人の中年男を中心に半円を作り、ゆっくりとその輪を縮めて来た。
男達の包囲の先に、一人の少女がいた。
歳の頃は16・7の少女だった。肌の色が抜けるように白い。軽くカールした長い髪は見事なゴールデンブロンドで、その青い瞳は恐怖と怒りに震えている。
まるで動くビスク・ドールのような、現実離れをしているという表現が似合う美少女だ。
「いや…、近寄らないで…」
ローゼという少女もドイツ語で答える。今まで男達に追われて逃げていたのだろうが、息切れひとつしていない。
「大事な商品だ、傷つけないでくれよ。」
白人の中年男は、周囲の屈強な男達に言う。今度は英語だ。
男達の包囲が狭まり、少女の後ずさりが止まった。
少女の背に鉄柵が当たる。そこは、8階建てのビルの屋上だ。
突然、少女がひらりと鉄柵を跳び越えた。
フリルの付いたロングスカートが夜空に舞う。まるで体重を感じさせない、風に舞う木の葉のような軽く儚い動きだった。
「シット!」
中年の男が叫び、鉄柵から身を乗り出して下を見る。
普通の人間ならば、地面のコンクリートに叩きつけられて即死は免れない高さだ。
ビルの下の煉瓦張りの歩道に、少女の体がふわりと着地した。
落下の衝撃を縮めた足で緩和し、そのままたんっと少女は地を蹴り走り出す。
夜風にとけ込んでいるような、優雅で美しい動きだった。
しかし、その脚力は並大抵のものではない。瞬間的に時速80キロを超えるスピードが出ていた。
美しい幻想のように、少女の姿は闇に消える。
「逃げられた!追うんだっ!」
白人の中年男は脇から抜き出しかけた拳銃をホルスターに仕舞い、屋上の階段口に向けて走る。
「甘く見ていた… モンスターめ!」
男は走りながら、憎々しげに吐き捨てる。
寂れた街角に夕日が垂れ込めていた。
向かいのビルの長い影の頂点、その二階の窓は夕日に晒され赤く輝いている。
並んだ窓の一つに、小さな看板が掲げられていた。
通りすがる人は、さして気にも留めないだろう。だが、必要とする人は探り当ててでも訪れる。
看板には、角いゴシックでこう書いてあった。
『桐生探偵事務所』と。
「あ〜っ、もう。たいくつ〜。」
年季の入った事務机に頬杖をついて、女が呟いた。
ブラインドから差し込む夕日の中、綺麗に整理された事務所に女が一人。
事務所の中は、使い込まれてすり切れたソファの並ぶ応接セットと、女の正面右側に置かれた所長の机があるだけの殺風景なものだった。
流し台には出前の食器だろうか、近所の中華料理店の店名が入った大盛り用のラーメン丼と深めの皿、更に楕円形の平たい皿も二つ突っ込まれている。
この女が昼に一人で平らげた、大盛りちゃんぽんと餃子二皿、そして中華丼の残骸であった。
大食いである。女の中でも細く小柄で華奢なその体躯に、果たしてそれ程のカロリーが必要なのか。また、何処に蓄積されているのか。周囲の者は勿論、本人
さえも理解出来ない謎であった。それでも本人はダイエット中と豪語しているのだ。
女の机の上には、パソコンのディスプレイとキーボード、そして無造作に積み重ねられたコミックスと文庫本の山。
この女の愛読書であろう、白土三平や横山光輝の忍者漫画と山田風太郎の忍法帳シリーズが、その殆どを占めていた。
通常若い女が好みそうなファッション雑誌や、芸能ゴシップ雑誌等はまるで見あたらないようだ。
女は机の上にあったボールペンを摘み上げ、指先できりきりと回転させ、次の瞬間尖らせた唇と鼻の隙間に挟む。
見事な指の動きであった。
女はボールペンを鼻の下に挟んだまま、再び肘杖をついて、インターネットに接続されたディスプレイに表示されたブラウザーを眺め始める。
その顔は26歳という実際の年齢を感じさせない程で、薄い化粧を落とせば高校生と言っても通用する程の幼さと清楚な初々しさがあった。
文句なしの美少女だ。
職業は事務員なのだろうが、スーツを着ているわけでなく、その格好はピンク色のヨットパーカーに、下は胸当ての付いたオーバーオールのだぼっとしたジー
ンズ。
長めの黒髪をサイドで束ねている以外は、少年のようなスタイルで、これが逆に彼女のボーイッシュな魅力を引き立てていた。
だが、本人は自分の魅力などにはまるで興味が無い様子で、単に動きやすいからとか、大手アパレルチェーン店で安かったとか、そんな事が自慢であった。
「ふ〜…。」
女は一つ溜息をつき、左腕で頬杖をついたまま、右手で鼻の下に挟んだボールペンを再び摘み、また指先で回転させるという作業を開始した。
突然、女の表情が険しくなった。
そのぱっちりとした両目に、凄みを帯びた光が宿る。
ぴーんと、回転していたボールペンが女の指先から飛んだ。
次の瞬間、女は机の上に左掌を突き、片手倒立をする要領で机を一気に飛び越える。
彼女が今まで座っていた椅子の背後、ブラインドが下ろされた窓が破裂した。
窓ガラスを割り、二人の黒ずくめの男が事務所に侵入する。
軽量ヘルメットに目のみが開いたマスクで、人相は確認できない。その男達が尋常でない侵入者である事は、ケブラー繊維のボディアーマーと、肩からスリン
グで吊ったサプレッサーを装備したヘッケラー&コック社製のMP5が物語る。
男達は床に着地すると同時に、腰のベルトに付いたカラビナからロープを外す。男達はこのビルの屋上から、ロープを伝って進入して来たのだ。
素早くMP5のストックを肩付けにし、事務所の内部を探る。
だが先程まで室内にいた女の姿は、男達のサブ・マシンガンのサイトに捕らえる事は出来なかった。
一人の男が左手をかざし、もう一人の男に指示を出そうとした時だった。
ほぼ同時に、男達の右足の臑に激痛が走る。
「ぬうっ!」
あらゆる状況を想定して訓練されている筈の男達が、思わず唸り声を上げた。
痛みを感じた右足の臑を見ると、細長い棒状の刃物が深々と突き刺さっている。
スパイク状の投擲武具。いや、これは金属製の投げ笄(こうがい)と呼ばれる手裏剣。
右側でガラスの割れる音がした。男達は右足の激痛を堪え、そちらの方にMP5の銃口を向ける。
事務所の応接セットの背後にあった、パーティションのガラスが破壊されたのだ。
次の瞬間、左側の男が首に強打を受けて吹き飛ぶ。
右側の男が振り返る暇もなく、下から足払いが襲って来た。
後ろ向きに倒れた男は、ヘルメット越しに床の打撃を受ける。
すかさず仰向けになった状態でMP5を構えるが、先に倒れた男のMP5の銃口が自分の方を向いている事を知り愕然とする。
先に倒れた男の側で腹ばいになり、男が肩に吊っていたサブ・マシンガンのグリップを握っている女が、にやりと笑った。
幼く美しい顔だけに、その凄みは凄絶としか言いようがない。
男はMP5を両手から離し、倒れたままそっとホールドアップした。
男達が進入して来た瞬間、飛び越えた机の影に潜り込んだ女は、ジーンズの胸当てに常時仕込んでいる手裏剣を投げ、男達の足を停める。
続いて自分の反対側にあったパーティーションのガラスを、親指で百円玉を弾き飛ばす指弾で割ったのは、男達の注意をそちらに引き付ける為のフェイント
だ。
後は隠れていた机から飛び出して、左側の男に空中で回し蹴り。続いて床に這うようにして右側の男に足払いをかける。
この女、並の忍者マニアではない。その優れ過ぎた身体能力と桁外れの運動神経は、もしも公式スポーツの世界で活かされたなら世界を舞台に通用する選手に
なっていただろう。
「いや、見事だ。防衛省から引き抜いた精鋭を二人を、僅か7秒足らずで倒してしまうとはな。」
事務所のドアから声がした。
女が見ると、開いたドアに一人の男が立っている。
歳の頃は五十歳過ぎの、きちんとスーツを着こなした品の良い男であった。
「どなたですか?ノックも無しに入って来られるのは困ります。アポイントは取られましたか?」
女はサブ・マシンガンのサプレッサーの先を、倒れた男に固定したままで答えた。
「いや、失礼した。噂を試してみたのだが、予想以上だった。私は公安調査庁の里田と言う。予約もなしで済まないが、桐生所長にお会いしたい。」
女はゆっくりと立ち上がる。MP5を構えたままだ。立ち上がる為に床に膝を付いた時に、素早くMP5のスリングに付いたホックを外し、倒れた男から奪い
取っていたのだ。
「生憎所長は出かけております。調査依頼でしたら、私が伺います。」
女はそう言いながら、起き上がって来た男達に油断のない視線を向けている。
「いや、降参だ。その銃を仕舞ってくれ。それも政府の備品なのでね、後で返してくれると嬉しい。」
里田という男は両手を胸の高さまで上げ、両掌を女に向けてホールドアップの格好をした。
「部下の方が壊された、ブラインドと窓ガラスの弁償をお願いします。」
女は左手でMP5のマガジンキャッチを押さえ、バナナ状の弾倉を抜いて、銃本体と弾倉を里田に突き返す。
「承知した。後で請求をよこしてくれ。事は急ぐ。連絡は取れないのか?」
女からサブ・マシンガンを受け取った里田は、ほっとしたように笑顔を見せる。
女以上にこの男も緊張していたのだ。
「それが、ここ二日ばかり音信不通で…。どこをほっつき歩いてんだか。」
女は溜息まじりに答えた。
「君なら信頼できる。ちょっと込み入った事情があって、今から渡す資料も所長が目を通した時点で、全て抹消して欲しい。」
「心得ています。あ、立てますか?」
女は先程の武装した男が、もう一人の肩を借りて立ち上がっているのに声をかける。
「君は優しいんだね。」
里田は感心したように言った。
「いえ、そちらの方も大したものです。普通なら半日は意識を失っています。頸椎の急所を狙ったので、手加減したつもりですが、念のために病院の検査を受
けて下さいね。」
とんでもない事を普通に答える女だ。
武装した男達が足を引きずりながら事務所から出て行く。
「散らかってますが、どうぞ。お茶を入れて来ます。」
女は里田にソファーを勧め、食器が突っ込まれたままになった流し台の方へと走り出した。
「先に君の名を聞いておこう。」
里田は女の背中に声をかける。
事務員の女は振り返り、にっと笑って答えた。
「桐生探偵事務所アルバイト秘書、白木姫子。職業、正義の味方。」
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