こちら、桐生探偵事務所。

Explosive 特急!

 

 幸せの確率(上)

 

 女は小さく溜息をついた。
 薄汚れたカーテンの隙間から夕日が射し込んでいる。
 色あせた畳と小さな電気こたつ、そして煎餅布団の万年床と年式の古いテレヴィジョンが、彼女の住む四畳半の全てだった。
 彼女の名は三原寛子と言った。
 まだ二十歳を過ぎていないあどけなさの残った、尚かつその育ちの良さを伺わせる美貌のおかげで、勤めている店の中では売れっ子のナンバー・ワンであった。
 ただひとつ、数年前の寛子を知るものが見ると、その変わり様に驚くことであろう。
 頬がやつれ、弾性を失った血色の無い肌。
 「支度… しなきゃ。」
 寛子は独り呟いて、ブラシで髪をとかし始めた。
 テーブルと兼用しているこたつの上に、食べかけのチョコレートの包み。そして、紙に乗っている少量の白い粉と注射器が、そんな彼女を無言で見つめていた。

 「…やと… …やはと…」
 誰かが俺を呼んでいる。
 女の声。
 めぐみ?… マリ?…
 「起きなさいってばぁ!はやとっ!」
 この声、この匂い… じゅん?
 バラバラに分解されていた俺の意識が、徐々に一つの形に収束されてゆく。
 ここは俺の部屋。俺は自分のベッドに寝ている。
 そうか。俺はあれから何とか、自力で帰っていたんだ。
 昨日の夜の事を段々と思い出して来た。
 俺は飲み屋の女の子に囲まれて派手に騒いでいた。右にいた子とディープ・キスを交えて、左にいた子のおっぱいを触っていた時だった。
 何人だったかチンピラがイチャモンを付けて来たんで、一番生意気そうな奴を手近なイスでブン殴ったのまでは憶えている。
 頭が痛い。そして、今閉じている瞼を開くときっと辛い現実が、退屈な日常が俺を笑顔で迎えてくれるのだ。
 もう少し寝かせてくれ。愛してるから、優香…
 「起きなさいって言ってるでしょ!仕事なんだからっ!」
 ばさりと毛布をめくられた感覚。
 昼間はこれでも暖かくなって来たが、まだ朝の冷え込みは二日酔いの体には酷というものだ。
 たぶん俺の習慣からして、ボクサーブリーフ一枚で毛布にくるまっていた筈だ。
 急に寒気が俺の素肌の上から覆い被さって来る。
 「お客さんを待たせてるんだからっ!……あらっ…」
 突然、威勢のいい声が止んだ。
 俺はもそもそと母親の腹にいる胎児のように、ベッドの上で身を丸くする。
 こうするとブリーフの下でいきり立っている、絶好調の俺のマグナムが少しは楽になる。

 なに?…

 「ふーん… そっちだけは元気のいいこと… で、優香って誰よ?…」
 威勢のいいハスキーボイスが、冷ややかな侮蔑の声に変わった。
 もう寝てなんかいられない。
 俺はゆっくりと瞼を開く。
 そこに、夜にだけ会いたいような美人が、そして辛い現実が待っていた。
 「おはよう、じゅん。今朝は一段と奇麗だね。」
 俺は目の前の美人に微笑み、朝の挨拶をした。
 「お世辞はいいから、早くその元気な息子を仕舞いなさい。それと、めぐみって誰?」
 俺は恐る恐る下腹部を見下ろす。そこには、俺の気分とは全く正反対の元気のいいマグナムが、履いたブリーフを今にも破かんとする勢いでそそり立っていた。
 「いいじゃんかよ!アサダチもしねえようになったら男はお終いだぞ!」
 俺は反論する。いや、これは居直りかも知れない。
 「別にいいわよ、そんなこと。だから、マリって誰?」
 「客だって?どんな用件だ?」
 俺は安物のパイプベッドから起きあがり、床に脱ぎ散らかしていたリーバイスを掴み、ベッドに座ったまま履く。元気だったマグナムも徐々に萎えて来た。
 洗濯済みの服を放り込んだカゴから、洗いざらしのヘインズのTシャツを引っぱり出して素肌の上に着る。その上から黒い襟なしの長袖Tシャツの襟に頭を突っ込み袖を通した。
 「きれいな女の人よ。で、アケミって誰?」
 アケミは俺も知らない。
 俺は純子の尋問を無視したまま立ち上がり、シャツの裾を前を開いたジーンズの中に押し込みながら部屋の壁に据え付けられた窓枠に向かう。
 俺の部屋は事務所と隣り合わせになっている。事務所全体を防音パネルで仕切り、廊下寄りの三分の一を事務室に当てている。だから事務室は畳数で言えば十畳程しかないが、従業員は所長の俺、桐生隼人と、事務員の彼女、大神純子の二人だけだからこれといった不自由はない。
 空いているデスクを取っ払ってビリヤード台を置こうとも考えたが、さすがに純子の猛反対を食らって暇つぶし計画は頓挫したままだ。
 俺は壁の窓枠を覗き込む。これは事務室の壁に掛かった鏡がマジックミラーになっていて、俺の部屋から事務室が覗ける仕掛けだ。
 接客用のソファーに一人の、年の頃は五十歳近くの、上品な身なりをしたご婦人が座っていた。
 「どれどれ… なぁんだ、おばちゃんじゃねえか… いてっ!」
 後頭部を純子にドツかれて、俺は危うくマジックミラーと熱いキスを交わしそうになった。
 「“なぁんだ”はないでしょ!お金持ちのようだけど、何だかとっても困ってる感じ。ささ、早く行ってフッかけて来なさいよ。」
 「人聞きの悪いことを言うなよ。これでも俺は誠実商売で通ってるんだぜ。」
 俺は純子にドツかれた後頭部をさすり、そのついでに手櫛で乱れた髪を整えながら部屋のドアに向かった。

 「娘を、娘を捜して欲しいのです。お金ならいくらでも。だから、お願いします。」
 ご婦人の必死の眼差し。俺が引いてしまった程だ。
 「娘さんは失踪されたのですか?警察の方に捜索願を出されたのでしょうか?」
 俺は事務的に質問をする。
 ご婦人は、確かに純子の言うとおりのきれいな人だ。顔に刻まれた小じわはその年輪を伺わせ、嫌味のないきりりとした雰囲気に、俺達では到底手の届きそうにない豪邸が彼女の背後に見えるような気がした。
 「ちょっと… 廻りに知られたくない事情がございまして… これが娘です。」
 そう言ってご婦人は、一枚の写真をテーブルの上に置いた。
 彼女の指で高価そうなダイヤの指輪が光る。
 俺はその写真を摘み上げ、被写体の女、と言っても何年か前の写真だろう、まだあどけない女子高生をしげしげと眺める。
 「娘の名前は、三原寛子と言います。一人娘です。去年の十一月頃に突然家に帰って来なくなりまして…」
 「娘さんに何かあったのですか?」
 「それが…」
 ご婦人が口ごもる。これが一番痛い所だろう。
 「仰って頂かなくても結構です。ですが調査が長引く上に、いずれは当方の調査書に付記される事になると思います。大丈夫です、当興信所は秘密厳守ですので。」
 俺はご婦人を焚き付けた。このあたりの事情が判らない事には、調査の手掛かりさえ掴めない。
 「男… 娘にある男がまとわりついてまして。厳格な主人に対しての娘の反抗だったのかも知れません。」
 「それはいつ頃から?」
 「去年の九月だったと思います。大学に入学して暫く経った頃でした。」
 「その男の素性は判りますか?」
 「娘は大広さんと呼んでいました。何でも、芸能プロダクションに勤務しているとかで。」
 よくあるパターンだ。俺はその“自称”芸能プロダクションの名前を聞き出そうとした。
 答えの替わりにご婦人は一本のビデオテープをバッグから取り出し、俺に渡してよこした。
 「お願いです。後で誰の目にも届かない所に処分して下さい。」
 そう言ったご婦人の目に涙が浮かんでいた。
 「これは?」
 酷とは知りつつ、俺はその何のラベルも貼られていないビデオテープを取り上げて聞く。
 「一月前、そのテープが送られて来て… 多額の口止め料を請求されました。」
 ビデオテープの中身は大体の予想はつく。が、何かの手掛かりが残されているかも知れない。
 「それと… 娘の携帯電話です。居なくなる前に娘は機種変更をしてまして、古いこれが部屋に残されていたものでしたから。何かのお役に立てばと…」
 俺はその携帯電話を取り上げる。カメラ付きのタイプだ。
 「主人にも内緒でお願いに来ました。主人は家の恥をさらす訳にはいかないと言うものですから。」
 「分かりました。」
 俺は引き受けた。引き受けてしまった。
 ハッキリ言って、こんな仕事は投げ出したい気分だったんだが。

 「良かったね、はやと。これであたしの給料も出るってもんさね。」
 デスクの上にある手付け金と一週間分の経費が入った封筒の厚みを、純子は値踏みするようにとんとんと叩きながら、レンゲを使って皿に残ったチャーハンの粒を口に運ぶ。
 俺は自分のデスクの上に鎮座した出前のチャンポンの丼から顔を上げ、ビデオテープを眺めていた。
 思った通りの内容だった。俗に言う裏ビデオというヤツで、全くストーリー性のない話の中、写真で見た彼女が主演女優を演じていた。
 俺は胸くそが悪くなる中で、どうにか出演している男二人の顔を頭に叩き込む。
 更にエンディングの字幕に出ていた『とまと企画』とかいう、可愛らしくもふざけた社名を見つけた。
 正直言ってこんなもの、観て抜けるヤツの気が知れない。
 「そう言えば、はやとが爆睡していた時に大家さんが来たよ。家賃を二ヶ月滞納してた件で。それからあんたのポンコツがうるさいって、近所から苦情が来てるらしいわよ。」
 純子は事務室の隅に設置してある冷蔵庫に行き、中からコーラの缶を二本取り出す。そして一本を、俺の方に投げてよこした。
 「あのスケベジジイの事だ。お前が出て来て、さぞやニヤついてただろう?」
 俺はコーラの缶を片手で受け取り、プルタブをこじ開ける。
 今日は食欲がない。大盛りチャンポンにギョウザ二人前でもうたくさんだ。
 今日の仕事を考えると胸が一杯ってやつだ。
 「そうなのよね。あたしの胸元から目を離さないんだから。」
 純子はセーターの襟を摘み、空いた隙間を自分で覗き込む。
 そりゃそうだ。そんな胸元の空いたVネックで出て来られた日にゃ、男なら誰でもイチコロだぜ。
 純子は肩まで伸びた黒髪を手でかき上げる。ラフな感じにまとめたスタイルが純子に似合っていた。
 俺も例に漏れず、そんな純子の仕草にK.Oされたクチだが、未だに俺は純子をK.Oするまでに至っていない。
 そんな時、突然ファックス機の唸りが事務室に響き渡る。
 排出されたA4のコピー紙を摘み上げた純子は素早く内容に目を通し、俺のデスクまで持って来る。
 「来たよ。“とまと企画”は、とっくに事務所を畳んでトンズラしてるみたいだけど… それと大広という人はやっぱり偽名ね。本名は藤井だって。とんでもない奴ら。」
 純子の語尾に若干の怒りが隠っていた。
 同性として、しかも被害者と同世代の女なら無理もないさ。
 俺は缶入りコーラをあおりながら、同業者ルートの情報屋から配信されたファックスの内容を記憶する。
 「携帯の中身に何かめぼしいものがあったか?」
 俺の質問に純子は手招きをする。
 「アドレス帳に大広という名前があったけど、ちょっと前に解約されていて尻尾は掴めなかったわ。でもね、いい写真があったのでこっちに取り込んでおいたから。」
 俺は純子が指し示すノート・パソコンのディスプレイを覗き込む。
 そこに、携帯電話のディスプレイサイズの小さな写真が表示されていた。
 「メモリーの中に一枚だけ若い男が写った写真があったの。コイツじゃないかな、藤井ってヤツ。」
 ディスプレイの中で若干のピンボケではあるが、はっとしたような表情で写っている男がはっきりと見える。
 俺は手に持ったセブンスターのパッケージから一本取り出し、フィルターを口にくわえる。純子のデスクの上にあったジバンシーの電子ライターを取り上げ、タバコの先に火を点ける。灰一杯まで吸い込んだ煙を吐き出しながら、俺はその男の顔もしっかりと記憶した。
 純子のデスクの上の口紅の付いたフィルターが山積みになった灰皿で、俺はそっとタバコの先を押し当て火を揉み消す。
 「よっしゃ、ちょいと当たってみるか。」
 俺は呟き、空になっていたセブンスターのパッケージを雑巾絞りにしてゴミ箱に放り込む。
 そして自分のデスクに戻り、背の壁にハンガーで掛けていたMA-1のフライトジャケットを羽織った。
 デスクの引き出しを開け、中から薄型だが握った時の重量は充分にあるナックルを取り出し、ジーンズの尻ポケットに突っ込む。
 「なんか元気ないよ、はやと。あ、こら。」
 俺は純子のデスクの上にあったマイルドセブン・ライトのカートンから、一箱取り出してMA-1のポケットに納めた。
 「気にすんなって。行って来らぁ、留守番頼むぜ。」
 俺は純子に言い残し、事務室と住処の兼用でもある玄関で、動きやすいコンバースのスニーカーを履きドアを開いた。

 印刷所と不動産ビルに挟まれた、二十坪程度の狭い敷地に建つ安普請なビルの三階のドアに、『桐生探偵事務所』と書かれた小さな看板が掛かっていた。
 今、そのドアが開き、歳の頃は二十歳過ぎの、そんな薄汚れた建物に似つかわしくない美人が現れた。
 彼女の名は大神純子と言った。
 純子は開いたドアの隙間から、流し台で洗ったばかりの昼の出前を取った皿や丼を廊下に置く。
 置かれたコンクリートの上で、ことんと丼が音を立てた。
 純子は独り残された事務室に戻り、再び自分のデスクの上のノート・パソコンに帳簿の入力を始める。
 ふと、純子は顔を上げる。
 先程、自分より二歳年下の男がくすねて行ったマイルドセブン・ライトのカートンの残りを掴み、椅子から立ち上がる。
 男のデスクの上にそっとカートンを置いた。これは純子がパチンコで獲得した景品だった。
 くすりと小さな笑顔を浮かべ、純子は自分のデスクに戻る。
 封を開いているマイルドセブン・ライトを一本抜き取り、口にくわえてジバンシーで火を点ける。
 煙を吐き出し、純子は小さく呟いた。
 「人の気も知らないで… ばーか…」

 

 

To be continued …