次に視界を埋め尽くしたのは、広漠たる荒野であった。
硬く締まり、乾ききった大地は生き物を育む力すらない。水を撒いたところですぐに吸い取られ、種子を埋めようとしたところで幼く柔らかい根は土を砕くことすら出来まい。
見渡す限りの砂煙と砂利に覆われた地表。
そこに足を踏み入れたのは、二人の符術騎士であった。
一人は男、一人は女。
どちらも若いが、その瞳には欲望だけが鎮座している。
恐らく、二人の間には恋情などはないのだろう。その証拠に、異質な世界に放り込まれたとあっても、無理やりにでも己の精神を奮起せしめているようにも見える。
彼等は<バンディット>と呼ばれる術騎士であった。
この世界においては、通常は符術騎士となるものはそれぞれの<秩序騎士団>(ジ・オーダーズ)に所属していることになる。
だが、正規のプロセスを経ずに符術を扱えるまでに実力を磨きぬいた者の中には、わざわざ<秩序騎士団>への入団を求めずとも、己の力のみで新たな符と呪具などを手に入れようとする者たちが現れる。彼らをして、不当に呪具が破壊されることを怖れ、蔑視と敵意とを持って符術騎士らは<バンディット>と呼ぶ。
だが、この二人はその<バンディット>の中でもかなりの腕を持っているように見えた。
男の左手には、手の甲を覆うようにして奇妙な防具らしきものが嵌められていた。
防具の殆どを巨大にして扁平な形状の白い石が収められており、その表面には瑕一つない。
対する女の方にも、これまた奇妙な装備が見られた。
長衣の襟元から胸元までを覆うほどに、あたかも戦闘具の肩当のようなごつい防具を身に付けているのだ。不思議なことに、それ自体がかなりの重量を持っているように見えるにも関わらず、女はそれを負担として感じていないらしい。
見たことも無い手甲と肩当。それを除けば、二人は標準的な符術騎士らしく長衣を纏い、双の十の指にはそれぞれ魔環が実装されていた。
「・・・五つ目か?」
「そのようね」
二人はこれまでにも四回にわたり、こうした空間転位を繰り返してきたのだ。
その回数は四度。つまり、五つ目の異界を目の前にしていることになる。
彼らの眼前には、この空間で唯一の建造物が見えた。
しかしそれは、建築と呼ぶにはあまりにも古く、また崩壊していた。
ぐるりと石垣が円形に囲み、それが台座となしている。正面の部分だけが切り取られ、その箇所には台座に上る際の階段が見られた。
台座の上には、高さにして三メートルほどの煉瓦の壁がこれまた円形を成し、その内部には一つの古めかしい祭壇があった。
「まだ終点じゃあ、ないな。どこにも塔が無い」
「分からないわよ?」
男の呟きに反応し、女は唇に指を当てて含み笑いを漏らした。
「あの祭壇が、今までの門の役割をしているのかも・・・」
男は微かに首を捻り、女に一瞥を向けると、ふんと鼻を鳴らす。
「行ってこよう」
唐突にびょうと吹きつけた風が長衣の裾を巻き上げるのにも構わず、男が階段に足を踏み出そうとしたときであった。
二人は、はっきりと認識した。
目の前の祭壇の部分に、急速に魔が集結していく。
護衛か。
その正体が見えぬうちに、戦闘を仕掛けるのは得策ではない。
男は姿勢をそのままに、いつでも後方跳躍が出来る準備を整える。
<立ち去りなさい、悪しき欲に駆られし徒>
奔流の如きに溢れ出たのは、「薙ぎの魔」。
それは波紋状に拡散する空間の揺らぎの中央にて収斂し、翼ある天女と化す。
<汝、如何なる秩序に忠誠を誓いし徒か?>
「やかましい」
短くそう吐き捨てると、男は右手を大きく、力強く開いた。
反り返る指の魔環に「偽りの魔」が集束し、蒼い光が充ちる。
「紺碧にて純白の海原にて踊り遊びし妖たるCloud
Sprite、現の身欲すれば集え!」
男の背後で、女もまた態勢に入る。
だが、こちらは詠唱は無い。その代わりに肩当の中央、喉元に当たる場所にある小粒の珠に光が宿り、極彩色の光が肩当全体を覆い尽くした。
光それ自体がそれぞれ形状をなし、まるで大きく競り上がる花弁をあしらった衣服を纏っているようにも見える。
その光景を、薄物を纏っただけの天女は見えざる椅子に優雅に腰を下ろしたまま睥睨していたが、やがて瞳無き相貌に陰りが生まれた。
<聞かざる者よ・・・悔いよ>
ぎゅん、と天女の右腕に信じられない速度で「薙ぎの魔」が凝縮する。
「流石に早ぇ・・・か!」
「生まれ出でよ、呪いを退け、加護をも退ける暴虐の落し子Blastoderm」
初回にて呪を発した男に続く形で、女の声が凛として響き渡る。
妨害は無い。憂える天女の前で、女を護り威嚇するように現出した鋭角的な姿を持つ凶暴な肉食獣が擦過音にも似た声を上げる。
時間は稼げた。
男の宿す「偽りの魔」には、行使する符術自体を無効化する符も含まれていることが多い。
対峙した際の緊張感から、即座に自らの陣営を揃えるべく焦って符術を展開しようとすれば、男の思う壺となるのだ。
そして、女の召喚した従魔は一旦受肉してしまえば如何なる符術をも打ち消してしまう特殊領域を兼ね揃えた恐るべき獣であった。有する力の巨大さ故に、実体化していられる時間には制限があるが、それとて何等対抗手段を取られなければ屈強な者でもたちまちのうちに血肉の塊と化す。
二人によって召喚された、妖精の槍と魔獣の牙。
その二つが、今まさに天女の躰を引き裂かんと襲い掛かったときであった。
<遅い>
低いが美しい男の声と共に、宙空で魔獣が断末魔の声を上げる。
幾重にも覆われた甲冑のように堅固な表皮を貫いて、一本の漆黒の剱が天女の脇から突き出されていたのだ。
苦悶の声を上げ、切っ先から逃れようと身をよじる魔獣を、剱は一度は解放するものの、その躰が地に落ちるよりも早く、鮮やかな剱閃を持ってその首を刎ねる。
<・・・すみません>
天女もまた、その細い指先から放たれる光をもって妖精を消滅させたところであった。
<我が主、ベルフィート卿の御寝所を汚すのは主らか>
剱の主は、射干玉の滝を思わせる美しい髪をした男であった。
先刻の天女と同じく、その背には翼が見えたが、こちらは対照的なまでに濡れた黒曜石のような色をしている。
<人の分際で、この地を犯すとは笑止。迷い倒れよ、その徒労を嘆け>
男の言葉が終わらぬうちに、彼らの前に聳えていた祭壇は二体の天使もろとも消失していた。
もとあった場所には、痕跡などまるでなく、先程までの光景が幻であったのではないかと思わせるほどに完璧に消えうせている。
慌てた女は、急いで背後を振り返り、愕然とした。
常に彼らの背後には、潜ってきた異界を結ぶ扉が存在していたのだが。
それが、影も形も無い。
そのときにして、彼らはようやく理解した。
自分たちが、この世界から帰還する術を、全く持っていないということに。