箱根を愛したミッドナイト、米谷伸一氏が語る

1970年代後半。
ここは、K県某市にあった、トタンの看板も錆びた名も無い゛町工場″。
犬が大好きだった温和な老夫婦が経営する、本当に小さな町工場でしたが、一生忘れることができない場所でした。
ご夫婦の息子さん(以下G氏)は後に「C●S」と呼ばれた暴走続の前身でもある「●国」の元メンバー。
10代の僕らが、その゛工場″に出入りする頃には、彼も゛卒業″し、プロダクション・サニー(110)でFISCOを走っていましたが、゛ストリート″も忘れられないのか、何時の間にか、趣味が本業になっていたようです。
ゆえに、整備工場とは名ばかりで、昼間、近所の住民が乗る一般自動車の整備をしているのも、あくまでカモフラージュ、、、本業は閉店した瞬間から始まる。
少し離れた駐車場には、゛怪しい雰囲気″の30Z、LB、ダルマ、ケンメリ、SA、スリー、が人目を拒むようにシートを被せて置いてあり、゛作業″に取りかかるマシンは、そこから゛手押し″で工場に入れられる。
閉店後の工場内に溜まる者達は、努めて人の気配を消し、シャッターを完全に閉ざしてからはじめて゛いつもの団欒″が始まる。(現代のように、おしゃれで威風堂々としたショップが当然のようにあるのを考えると信じられないような光景でしたが、それだけ当時は、改造車に対して、世間の目は冷たく、お店に対しても警察の取り締まりは、極めて厳しい時代でもありました)
会話といっても、今思うと、本当に他愛無い内容でしたが、何事にも人一倍好奇心旺盛だった10代の僕らにとっては、G氏の言葉の一語一句のどれもが新鮮かつ刺激的でした。
G氏はあまり話好きではなかったので、溜まっている僕らの会話には、よほど気が向かないと入ってきませんでした。
今、思うと、G氏は心の中で「ガキ共が生意気言ってんじゃねぇよ!」くらいしか思ってなかったかも知れません。
そうとも知らず、僕らは、黙々とG氏が作業をしているのを横目に、いつも通り、マシンやチューンの話、箱根の話、、、はてはオンナの話まで、゛声を殺しながら″かつ゛G氏の機嫌を伺いながら″楽しんでいました。
その日は、噂の東名レース、新木場ゼロヨンといった当時の僕らにとっては、雲の上の話題で盛りあがっていました。
数時間がアッという間に過ぎると、珍しく気が向いたのか、G氏か僕らの会話に入ってきました。
「お前ら知ってるか?まな旧(真鶴道路旧道)の、伝説LBと240ZG、、、萩原 光(以下 アキラ)さんの事・・・」。
その場にいた誰もがG氏からは、初めて聞いた話だったので、全員の視線がG氏一人に注がれました。
「アッ、また面白い話が聞けるぞ」と誰もが期待しました。
タバコを吸っていた奴は゛ピストン灰皿″でタバコを消し、雑誌を読んでいた奴は無造作に雑誌を゛ダンスリ(使用済みのDUN●OPスリックタイヤ)テーブル″に戻す、、各々が゛聴力全開″で聞き耳を立てているのを確認?するとG氏は話を続けました。
「今は、FISCOで勝てなくて苦労しているけどアキラさんは俺の先輩にあたる方なんだ。TSサニーに乗る前は、ベタベタにシャコタンにしたLBや240ZGでまな旧や箱根を征したんだぜ。東京や神奈川から挑戦する奴らが後を絶たなかったけど、誰一人としてアキラさんには勝てず、無敵の街道レーサーだったよ。 突然、レースに転向した理由は知らないけど、あの人独特のキレた走りは、厳しいレースでいつか必ず成功すると思う・・・」。
バイクに乗っていた族?時代から箱根を走っていた僕らはクルマに乗る頃になると、目を閉じても走れるくらいコースを熟知していたので、それなりには走れました。
たんに負けず嫌いの無謀な仲間達だっただけですが、「俺達は速い」と大きな勘違いをしているのも自覚せず、毎晩のように走りまわっていました。
僕らは、「どこどこで誰かが速い」という風の便りには、異常なほど敏感に反応しましたが、雑誌やメディアの情報は極端に少なく、実際に噂のステージに行き、収集するしか手段はありませんでしたので、G氏から聞く話や情報は、まさにリアルそのものでした。
萩原アキラさんと言う人物の話を聞いた僕らでしたが、内心、半信半疑でした・・・。
翌日の晩、僕らは、まな旧に向かいました。熱海に向かう湾岸線に沿った山道。アップダウンも少なく、直線もほとんど無い、ワインディングが長く続くコース。 G氏が休日の時、先導をお願いし暇さえあれば通い続けましたが、G氏が本気で走るとすぐに2〜3コーナーも離され、前方の視界から消える。 ある日、G氏が僕らに言いました。
「俺でも、萩原さんが操るLBのテールを20秒以上見た事無いよ・・・これで萩原さんの速さがわかっただろ?あの人は、マジに速かったんだから信じろよ」。
「速い不良はカッコイイ。男の憧れ」、、、純粋かつ短絡的思考だった僕らは、その日以来、萩原さんの箱根伝説を崇拝するようになりました。
僕らの仲間が、G氏から聞いた話やG氏自ら実践して証明した「まな旧の出来事」を後輩や知人に伝えて1年半が過ぎた頃。萩原さんは、レースでもその頭角を現しだし、知名度もグングンと上がってきていました。専門誌にも、「FISCOの若獅子」、「TSの黒馬」等・・・と載り、芸能人顔負けの甘いマスクと長身なスタイルには一般の女性ファンにも好感を与えました。TSからフォーミュラー&GCに転向する頃には、TV出演も当たり前になるほどメジャーな存在でした。レース界だけに留まらない人気と優しい風貌、どんな人でも表向きのイメージにとらわれがちだが、彼がTS時代から歩んできた道は、プロドライバー同士が競い合う「超硬派な世界」。言い訳無用、一歩間違えると死と隣り合わせの世界で闘ってきた男です。
そこまでになるには、想像を絶する相当な苦労があったと思いますが、決してそれを表に出さない彼の姿には、「不良だ、暴走族だ、」と、陰口を叩いていた世間の人達をも完全に見返しました。
箱根を走る街道レーサー達にとっても、彼は「不動のヒーロー」。
「AKIRA HAGIWARA 16」・・・僕らは、紺と水色で彩られたステッカーを誇らしげに愛車に貼り、箱根を走り続けました。
この頃自分は、東京浅草を本拠地とする「ミッドナイト」と言う、走り屋クラブに所属していたのですが、H・●誌の「マシン・インプレ・・」という取材で、偶然にも何とアキラさんが自分のポルシェをドライブし、コメントまでしてくれると言う取材がありました。 しかも箱根の某コースで・・・。
アキラさんは、既にレイトン・チームのドライバーでしたので、自分にとっては、雲の上のそのまた上の存在。取材日の数日前から緊張と期待で、ろくに飯も喉に通らなかったのを覚えています。
当日、アキラさんは真っ白なフェラーリ・テスタロッサで登場しました。
当時の自分は,パンチパーマに髭面、、、某コースでも、一応虚栄?だけは、張っていましたが、「武闘派だったアキラさんは、今でも怖い」と先輩から聞いていたので、アキラさんがテスタロッサから降りて来ると同時に、自然と背筋はピンと伸び、直立不動で立つのが、自分が唯一できる動作でした。
アキラさんは、そんな自分には見向きもせず、鋭い視線でポルシェ・ターボの廻をゆっくりと回った後、「これ、君のクルマ?」と、初めて声を掛けてくれました。自分は緊張しつつもアキラさんに、自分達は箱根がダイスキで毎晩走っている事、G氏から聞いたLBや240ZGの事、、、を話しました。その時アキラさんは、何かを懐かしむように応えてくれたのが、とても印象的でした。
取材も終り、アキラさんが帰り際に、「レースがオフの時は、●●と●●(レース屋とタイヤ屋)に良く居るからおいでよ」と、声をかけてくれました。
オフの11月〜3月頃、そこに行くのが日課になったのは言うまでもありません。
普段のアキラさんは、怖いどころか誰にでも優しく、気さくな頼れる兄貴というイメージで、レースでの大活躍を重ねると、まさに絵に描いたような、カッコイイ「僕らのヒーロー」そのものでした。
日々は過ぎましたが、相変わらず僕らは街道レーサーを続けていました・・・。
箱根にある、僕らが溜まり場にしていた某PAには、毎週水曜日の深夜ともなると、関東各地からは、「打倒・箱根ミッドナイト、ポルシェ」を挙げた”怪しいサウンド”を奏でた、Z、セブン、ポルシェ・・・といったマシンが続々と集まり、朝方までバトルを繰り広げてきました。(現在は当時の公道レースのせいで?夜間通行止め) そこでも、以前より増してアキラさんの話題で盛り上がる事が多くなりました。
「このままいくと、アキラさん、F1にいくんじゃない」。
「ああ、俺もそう思う」。
「そうしたら、元・暴走族、箱根出身?のF1ドライバーの誕生じゃん」。
「いいねー!そういうのって!」。
「アキラさんって、俺達の代表じゃん。絶対に成功してほしいよなぁ」。
そんな会話がPAでも囁かれるくらい、アキラさんは着実に躍進していましたが、その分OFFでも多忙を極めていたらしく、以前のように気軽には会えなくなりました。
ある夏の日・・・。
珍しく僕らは、夕方の箱根ターン●イク下にいました。深夜の”怪しい雰囲気”に慣れ親しんでいた僕らだったので、、昼間の光景には何となく違和感をもちつつも、「山の緑が綺麗だ、、」などと柄にもない会話をしていました。
そこにいたのは、自分を入れて、そのコースの常連3名。”走れるマシン”に乗って来ているのは、自分だけ、、、、。
夏休み前の平日だったので、観光バスも一般車も皆無、シーンと静まり返ったPAに聞こえる鳥の囀りでさえ耳に着くほど静かな夕方でした。
と、、、、その時、遠くから「カー−ーン!バリバリ、カー−!−−−−−ン!バリバリ、、、」というカン高いサウンドとバックファイヤーらしいバラついた音が聞こえてきました。
仲間の一人が「何だぁ?国産車の音じゃないなぁ・・・」と呟くと、3人は音が聞こえる方向を見つめ、思い思いにそのマシンの姿を想像した。一体マシンは何だろう?
下の交差点で信号待ちをしているのか、「ボォーーー」という一定した図太い音がPAにまで聞こえてくる。ここにくるのか?
そのマシンは、ゆっくりと僕らの前に姿を現した。真っ白なフェラーリ・テスタロッサのフロントガラスには、小さな白地ステッカーが貼られている・・・「LEYTON
HOUSE RACING TEAM」。 そのステッカーを見た瞬間、僕らは心の中で大声でさけんだ「ア、、、アキラさんか!!??」。
ドライバーズシートには、、、、、、間違い無くアキラさんだ!アキラさんは、笑顔で何かを合図しているが、僕らは予想もしなかった突然の出会いに体中が固まっていたので、引きつった笑顔で応えるのが精一杯でした。
スモークが張ってあるウインドウがスーと下方に降りる。
アキラさんは、無言で左腕を使って何かの合図を僕らに送っている。合図の意味は、、、「登ろうぜ!!?」・・・・・。
自分は、アキラさんに一礼した後、ポルシェ930ターボのフルバケに座った。 5点ハーネスを締める自分の手がブルブルと振るえているのが解る。
「アキラさんと一緒に走れる。これは夢では無いのか?いや、現実だ」と何度も自問自答を繰り返した。
料金所でおつりを貰うのも忘れ、小さなGS横で待つ、テスタロッサの後ろにポルシェを付けた。
この時、自分の頭の中ではG氏の言葉、LBや240ZGの箱根伝説、TSサニーを駆るアキラさんの姿」、レイトンのフォーミュラーカー、、、の事が物凄い勢いで駆け巡っていました。
「その、アキラさん本人と走れるんだ・・・」。その興奮は頂点に達していましたが、感動する間もなく、テスタはタイヤの白煙とブラックマークを残しながら全開で発進して行きました。
当然ですが、登りも下りも結果は完敗。メタメタに叩きのめされたといったほうが適確でしたが、アキラさんと箱根を走れた感動は、言葉では言いあらわせないくらいに嬉しかった
この日の出来事は、自分にとっては、大切な・・・”宝物”・・・です。
目前で見れたアキラさんの高速ドリフトやブレ−キング、暴れ馬を従馬のごとく操るテスタの挙動・・・、
クーリングで下がる時、テスタに反射した箱根の夕陽、、、、。
この日が、アキラさんの姿を見る最後の日になるとは、そこにいた誰もが思っていませんでした。
1986年4月7日。
自宅の電話が鳴った。受話器の向こうからは、アキラさんと親しかった後輩の声が聞こえた・・・。
いつもはハキハキと元気にしゃべる後輩なのに、その声はとても小さく、、、そして言葉も失せていた、、、。
しばらく絶ったある日の、FISCO。 メインスタンドは超満員。 晴天の下、色とりどりのフォーミュラーカー達が決勝グリットに並んでいる。
その中に、アキラカラーだった紺と水色のヘルメットを被り、第1コーナーをジッと見つめる男がいた。 そう・・・影山正彦。正美。
現在でも、アキラさんが歩んだであろう道を突き進んでいる・・・。 これからも、ずっと・・・。
今日も、箱根に、走りに来る若者達は後を絶たない・・・。
今では、アキラさんの事を知っている者は、いないかも知れない。
アキラ伝説は、箱根の永い永い歴史の中では、一瞬だったかも知れない。
でも、間違い無く、昭和の時代では、アキラさんは最高の俺達のヒーローだった。
僕らの心に、そして、日本中のファンの心にも、誇りと感動を残してくれた。
今日も箱根は、誰かをまっている・・・。