私、KENSEIが語る

●読者のみなさんは「萩原光」という人物を御存知だろうか?一般の人にとっては日本有数の観光地として知られている箱根。そこを通る某有名ワインディングで彼の出したタイムは驚異的だった。後に彼はストリート出身のレーサーとして歩み始め、誰もが彼の未来を応援した。しかしその彼はもういない。
アウトロー達さえも虜にされる峠・・・それが箱根・・・
箱根とえいば、芦ノ湖、温泉街、ゴルフ場・・・といった日本でも有数の観光地として有名です。
1年を通じて、その広大な景色は、来る者の心を癒すように迎えてくれる。
昼間の青い湖面には遊覧船が浮かび、深い森の中からは、小鳥達の囀りが聞こえる。優しく頬にあたる風と新鮮な空気が心地よい。しかし、箱根にはもうひとつの顏がある・・・
今から16年以上前に箱根を走り始めた頃、箱根のアウトローの間で、ある伝説が存在していた。それは、「箱根・萩原伝説」。六甲の片山伝説同様、この話は、レーシングドライバーだった故萩原光氏が、プロドライバーになる以前に、240ZGやセリカLBを駆り箱根を走っていた時の話です。
神奈川と静岡の県境にある゛箱根と呼ばれる範囲″は非情に広く、伊豆方面(湯河原、熱海など)のコースも含めてくみ合わせると、その数は知れず、低速、中速、高速コーナー、無数のワインディング、アップダウン、バリエーションに富んだそのテクニカルコースは、まさにアウトロー屈指の聖地。萩原氏も、その中にある某コースを日夜走り、人知れずバトルを繰り広げていたそうです・・・。
夜中の箱根には、今も昔も各地からアウトロー(走り屋)がたくさん集まってきます。走り、ドライブ、夜景・・・求めるものは人それぞれですが、共通する事は誰もが「箱根に魅せられた」者という事。人の人生を変えてしまうほど素晴らしい魅力を秘めた箱根。時には冷酷非情な牙を向けてくる箱根。そこの地元に生まれ、四季を問わず、25年間以上そこを走り続けている知人が、笑いながらこう言っていました。「若い頃は、速さだけを求めて無茶ばかりしていたけど、今は気楽に走っているよ。この歳になっても週末の天気が気になるんだよねぇ。走りに行く前の日なんかいまだにワクワクしちゃって仕事も手につかないよ」と・・・・
1980年初頭。
箱根にはコンビニなども皆無。現在の混雑とは程遠く、週末でも夜の9時を過ぎれば、観光客や一般車は激減し、闇と静寂の世界が訪れる。
当時は一匹狼的なアウトローも多く、チームや徒党を組むのを極端に嫌い(皆、族で飽きた?)、ツルんでも小人数の仲間内だけだった。と、いうより他人に干渉されるのを苦手にしていた連中が多かった。
口には出さないが、誰もがアウトローを自覚し、目立たずコソコソと走っていた。
真夜中。ライトを消し、暗闇のコース脇道に潜りひたすら゛相手″を待つ者、ゆっくりと走り続け、後方からの゛追撃″に期待する者、バトルの始まりに合図やルールなど一切無かった。ハイビームを浴びるか、浴びせるかの二つにひとつ。あるのは「あいつ速そうだな・・・」という経験から生まれるお互いの゛勘″のみ。
当然弱い者イジメ(一般車や初心者をアオる)など厳禁だが、ここでは゛外観ノーマル車″ほど侮れない場合も多々ある。明らかに速いと感じ、相手もそれを受け入れた時のみ仕掛けた。
″好き者同士″走ってなんぼの世界では、クドクドとした社交辞令の会話など誰も求めない、陰口も言わない、走れば自ずと相手のすべてがわかる、速さだけでなく、意外な面に気付く時もある。気が向けば、軽い会釈も交わすが、お互い名前も告げずに別れるのが常だった。相手のマシンの特徴が分かれば、それだけで十分だった。その理由?奴は、また必ず来る、そのうち仲良くなるさ・・・。
とにかく、マシンを停めている時間がもったいなかった。そこに道がある限り時間が経つのを惜しんで走って走って走り続けた。朝陽が昇る頃、その晩のドラマは終焉を迎える・・・それを、ほとんど毎夜繰り返す。徹夜で走るので、出勤場所が溜まり場の駐車場だった奴もいた。
皆バカになりきっていた。来る者拒まず、去る者追わず・・・いろんなドラマが繰り返されていた箱根。
今回は、そんな時代を知る一人、地元に住み、現在も箱根を走り続けている元TSドライバーのKENSEI氏に当時の箱根や現在の心境を語って頂きました。
K氏が言った。「箱根といわれて一番最初に思い出すのは、15年前のある夜の出来事だ」と。
某上りコースの途中に通称゛左300R″別名゛便所コーナー″と呼ばれる大きなS字コーナーがあった。
そのコーナーを、3速全開カウンターを当てながら走り抜けた白い930ターボ。あの夜の出来事から全てが始まった・・・
もうすぐ40になる私は友達が少なくなった。敢えてつくらないといったほうが正しいかも知れない。
今でも一人でコソっと暴走をするが、昔の友達と走る機会はめっきり減った・・・というより皆無に等しい。だからといって無理に新しい友達も欲しくない。
理由、そんな事は言い出したらキリがない・・・
雑誌などの受け売りを語る者が殆どで、故に説得力にも欠ける。話もコロコロと変わり、自分の事を誇張する。趣味だし考えは人それぞれなので、それはそれでいいと思う。
でも私は『若い時は俺も・・・』って奴とは、何故か友達にはなれない・・・。
歳をどんなにとろうが、どんなボロいクルマに乗っていようが、゛スピリッツを忘れない人間″のほうが好きだ。
私だけが感じることかも知れないが、いつの時代も゛本物″のマシンは、何処から見てもオーラが滲み出ていた。
それと同じで、信じ合える本物の仲間とは、口数は少なくても合い通じる価値観と感性があった。
頑固者の私にとっては、それが友達の最低条件だ。チューニングスペックの自慢やアウトローを正統(迷惑をかけない走り屋?)化する者とは、これからも知り合い以上の付き合いは出来ないと思う。
あの夜見た、ミッドナイトの白い930ターボ、その直管サウンドを思い出すと私の記憶は過去へと吹っ飛んだ。
過去といえば16歳の夏からだ。セブンスターの煙と共に始まる朝。プァーーーン集合管の音と共に過ぎる毎日。
自慢のナナハンで走ることが何よりの快感。誰にも止められない湘南道路での暴走。喧嘩も日常茶飯事。何度もパクられ、高校も退学させられた。
懲りずに土曜の夜は「目指せ江ノ島」・・・仲間と共に狂喜したワンナイトカーニバル・・・
今さえ楽しければそれだけでいい、明日の事なんて関係ない・・・どこにでもいた刹那的な不良少年だった。
18歳になり4輪を手に入れる。それは不良少年゛憧れの的″240ZGだった。この車で夜の箱根にデビューした。
エンジン、足回り・・・・・・・・・・・・・・・・・現在よりパーツは少ないにせよ、仲間に負けないようにする為には、それなりに聖徳太子(当時は福沢諭吉ではない)を必要とした。不良少年特有の短絡思考から「死ぬ気で働くしかない」がモットーになった。その為には私は夜も寝る時間を削って来る日も来る日も肉体労働に精を出した。
仲間内の合言葉は「一日一食、仕事は三つ」
箱根最速のマシン!これだけを目指し毎日夜中まで汗をかいた。愛機のためなら、どんな仕事もできた。辛いと思ったことは一度もない。
その甲斐あってか、愛機が少しずつ出来あがるにつれ私は仲間内最速となった。そう、しょせん仲間内で・・・。
その頃、土曜深夜のターン○イクには、地元をはじめ、沼津&静岡ナンバーの強者達が集まりはじめる。
彼らは、高速コーナーを駆け上がり箱根の各コースで、一晩中勝った負けたのバトルを繰り返す。
当然私も走った・・・が、「ちくしょう!なんでだよ!」SA、そして同じZのテールランプがコーナーの暗闇に消えて行く。私は、日増に自信を喪失しつつあった。
その日以来、これまで以上に゛走り″に目覚め、難しい複合コーナーは歩きながら覚えた。
目を閉じても、どのコーナーだろうが思い描けるようになり始めたハタチの頃、パーキングに集まる仲間内で一つの伝説が噂になった。「箱根最速、萩原伝説」
小田原出身のレース界のニューヒーロー・・・まだ、萩原さんが街道レーサーと呼ばれていた頃、記録したタイム・・・。ターン○イクを○分25秒!
私達の仲間もストップウォッチを持って駆け上るようになり始めた。
その夜、一台の白い930ターボは現れた!後から聞いた話では、彼も萩原さんに憧れ日々箱根を走っていたという。「速えぇー!」「本当にポルシェかよ!」・・・そんな事が箱根で噂になろうとした頃、私にFISCOで運命の出会いが起きた。
箱根最速、伝説の男「萩原光」さんとの出会い。興奮のあまり、その時何を話したのかはもう覚えていない。
ただ、その日を境に「萩原光」さんに憧れていた私は、レースで萩原さんを目標とする「俺」に変化した。
不良特有の短絡思考・・・「俺も萩原さんのようになりたい!」と思う気持ちは私の生活を大きく変えた。それまでしていた仕事を全て辞め、月給55万円以上の言葉に釣られS急便のドライバーになった。勿論!レース資金を作る為だ。とにかく1円でも多く資金が必要だった。
夜中近く仕事も終り、息抜きで向かう土曜深夜の箱根。
全てを注ぎ込んで仕上げたZで白いターボに挑む私・・・。
FISCOで16番を付けた藤沢出身のTSドライバーに挑む私・・・。
この時、上には上がいることをイヤというほど私は知った。
晴海で行われたエキサイティングカーショーで萩原さんとコーヒー牛乳を飲んだ時、彼の口から例の白い930ターボを操る男の話を聞いた。
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