私の応援するドライバー、影山正彦氏が語る

影山兄弟


                        心の師、萩原光選手との運命的な出会いがオレの人生を決めた

                              この出会いをオレは忘れない。


1986年、それはオレにとって一生忘れる事の出来ない悲しい出来事が起きた年。俺が師匠とあおぐ萩原光(アキラ)さんがこの世を去った年だ。アキラさんはオレの実家の近く、同じ神奈川県の小田原出身だ。26〜27歳でメキメキと頭角を現し、「将来は間違いなく日本を背負って立つドライバーになる」、誰もがそう信じて疑わない若手ナンバー1のレーシングドライバーだった。
 オレが現在かぶっているヘルメットのデザインは、濃紺に正彦のMを青く染め抜いている。もとはといえば、このデザインはアキラさんの濃紺に青いAを継承したもの。当時オレがかぶっていた濃紺に黄色いMは、弟の正美が受け継いでいる。
 当時走り屋だったオレにとって、アキラさんとの運命的な出会いがなければ決してここまで成り上がることはできなかったはず。それだけにあまりにもでっかい存在なのだ。
 初めて会ったのは藤沢にあったタイヤショップのチャリティサイン会。その店がスポンサードしていたTS仕様の110サニーを前に、記念撮影をお願いした。そこで初めて言葉を交わした。
「失礼ですけどアキラさんって、学校はどちらなんですか?」「オレは東海大相模高校から東海大。大学3年の時、初めてレースに出たんだよ」
 東海大相模といえば、野球少年の頃憧れた学校だ。原辰徳さんが1年の時、3年でショートを守っていた杉山さん(現在の福岡工大高校の監督)の弟さんと同じチームだったので、オレは聞いた。「それじゃ野球部の杉山さんって知ってますか?」「あぁ知ってるよ、なんだシゲの後輩か?」
 そんな兄貴のような親しみやすさにオレは魅かれた。レースにデビューすることを伝えると、「なんかあったらオレに連絡しなよ」って電話番号を教えてくれた。
 その後、どれだけ世話になったことか。この出会いが今のオレにつながる。人生にはかけがえのない出会いがある。
アキラさんはいつまでもオレの大切な心の師なんだ。

「影山正彦FR最速テクニック」より、


アキラさんの告別式の日、遺影を前に止まらない涙を流す、正彦さんが印象的で、その日から私(KENSEI)は、影山兄弟を心から応援しています。

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