ジェンダーフリーに隠された「セックスフリー(男女の無性化)」という狂気!
管理人
●管理人は,「彼ら」の究極の目標は「性別をなくすこと(セックスフリー)」であり,ジェンダーフリーはその本音を巧みにカムフラージュしつつ密かにそれを実現するための巧緻極まる手段である,と考えるようになりました。
【その理由】
@大沢真理の第2段階論。『ラディカルに語れば』より
「つまり男女を区分している線、これは人工的に作りだされたものだから、人の意識的な営みによって崩していくことができる。だから性差よりは個人差という社会を作ることができる。これが第一段階ですよね。
ここまでは、かなりの人が、そうだねと言うわけですけれど、二段階目というのは、セックスが基礎でその上にジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えているけれど本当はあなたのセックスはわかりません、ということです」
A大沢真理の福岡県での講演。「世界日報」より。
いつの間に、セックスとは違う「性別」が生まれたのか。大澤氏は、ジェンダーという言葉は「一九六〇年代から七〇年代にかけてこの新しい意味を与えられた」(同)などと言ってのけている。
実に無責任な説明だが、政策の根本概念だから事は重大。言葉の大混乱をもたらしている。
大澤氏は共著『ラディカルに語れば…』(平凡社)の中で「はっきりした区分だと思われていたセックスが、実はあいまいで流動的なもの」「私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」と言っている。
このことから、むしろ大澤氏は、男女の性別(セックス)自体が社会的・歴史的に作られたものと考えているフシがある。
【傍証@】
ジェンダーフリーは「男・女らしさにしばられることなく自分らしく生きよう」ということだが,具体的なジェンダーフリーの実践例の多くがこの概念には当てはまらない。
(例)鯉のぼり,ひな祭りの否定。呼称を「さん」で統一。男女別学の廃止。混合名簿。男女別漫画の否定。看護士,保育士などの呼び換え。男女混合体育,混合の着替え,男女同室の宿泊。男女別の色の否定、かたつむりの理想化など。
これらが「性別の否定を狙ったもの」であるとすると,すっきり理解できる。
【傍証A】
下にも書いた過激な性教育。
「性から恥ずかしさ(羞恥心)をなくす」という理由で性器の名称や性行為を早くから教えようとするが,「羞恥心」こそは男女の認識を明瞭にするものであり、羞恥心が消えれば男女の肉体の相違は顔の相違レベルとなって、まさに「セックスフリー」が完成する。
【傍証B】
ブラをし,スカートをはく男性など,これまでの女装趣味とは違う現象が起きている(のでは?)確証はないのですが・・・。
なんだか「ムー」に出てくるような話で恐縮なのですが,どうにもそう思えてならないのです。
神名さん
●この問題は以前にも何度か書いているのですが、私は「ジェンダーフリー」も「セックスフリー」も共にフェミニストの狙いであって、どちらが「真」でどちらが「方便」というものではないと思います。
これはフェミニズムの思想史の輪郭がわかると理解できると思うのですが、以前は「ジェンダーフリー」だけがフェミニズムの主張だったんですね。つまり、身体的な性差(セックス)は客観的にあるものとみなした上で、しかしジェンダーはなくして行けると考えられていたわけです。そこからは、およそ次のような主張がなされていました。
ジェンダーは後天的なものであり、また時代や文化によって異なるので、セックスに根拠を持つものではなく、恣意的に作られたものである。したがって、これを廃止することは可能である、…と。したがってこの主張では、「ジェンダー」と「セックス」が無関係なものであるということに、重点が置かれていたわけです。海外の事情は知りませんが、日本のフェミニズムでいえば、これが80〜90年代の主流だったと考えてよいと思います。
ところがこの主張でゆくと、「ジェンダー」と「セックス」とが無関係なものであるがゆえに、身体レベルの性差は認めざるを得ないわけですね。これが、海外のフェミニスト内部で問題になったわけです。そこで、バトラーやデルフィといったフェミニストが、「セックスフリー」(という言葉は使っていないと思いますが)を打ち出すわけです。これが日本では数年前から、徐々に出回り始めているわけです。
「ジェンダーフリー」にしても「セックスフリー」にしても、これらの主張はソシュール言語学(や、それを援用したポストモダン)を換骨奪胎したものなので、まずそちらの説明を簡単に書きます。
「ジェンダー」が「セックス」に根拠を持たない、恣意的に作られたものであるという(ジェンダーフリーの)主張は、ソシュール言語学をモデルにしています。要点だけいうと、ソシュールの言語学では、言語の恣意性についての指摘があります。たとえば犬を、日本語では「イヌ」といい、英語では「ドッグ」というわけですね。しかし、「イヌ」という音も、「ドッグ」という音も、その語によって指し示される対象(指示対象)である「犬」とは何の関係もなくて、これをどう呼んでもよいわけですね。ただ、その呼び方が他者と共有されていれば、言語としては意味が通じるわけで、「イヌ」とか「ドッグ」という音でなければならない必然性はありません。これが言語の恣意性です。
それから、フェミニズムを考える上で無視することのできない、ソシュール言語学のもう一つの重点があります。それは、人間の世界分節の原理が言語であるということです。たとえば、A地方では「犬」と「山犬」と「狼」をそれぞれ、「イヌ」、「ヤマイヌ」、「オオカミ」と呼び分けているとします。ところがB地方では「犬」と「山犬」を区別することなくどちらも「イヌ」と呼んでいるとします。そうすると、「犬と山犬と狼」の総体を、A地方では3つの概念で切り分け、B地方では「イヌ」と「オオカミ」の二つの概念で切り分けていることになりますね。したがって、世界分節は言語に規定され、その言語は恣意的なものであるのだから、世界分節も恣意的なものだ、という話になります。
「ジェンダーフリー」は前者の考え方(言語の恣意性)を利用した考え方で、ソシュール言語学の、言語を「ジェンダー」に、指示対象を「セックス」に置き換えます。そうすると、常識的には、セックスレベルの「男」と「女」に、それぞれ「男性ジェンダー」と「女性ジェンダー」を対応させているが、それは何の根拠もない恣意的な割り当てに過ぎない、という話になります。ミードのサモアやニューギニアについての論文は、この主張の根拠たる実例のように扱われてきたわけです。
あとから出てきた「セックスフリー」では、「世界分節の恣意性」が利用されています。つまりもともと、人間に客観的な「男女」の別があるわけではなく、それは人間がジェンダーという概念を使って「世界分節」をした結果として、セックスレベルで男女二分法が客観的事実であるように見えるのだ、ということですね。
これらに対する批判は簡単です。まず「セックスフリー」についていうと、それならばなぜ時代や文化を超えてジェンダーが二分法であることが普遍的なのか、その説明が出来ないということです。これは「ジェンダーフリー」の考え方についても当てはまる批判ですが、どちらにしても「セックスがジェンダーの根拠なのではない」と主張しているという点では同じです。しかし、ジェンダーが恣意的なものであるならば、なぜこれまで三分法や五分法といったジェンダーが存在しなかったのか、それを説明することが出来ません。
これを現象学的に考えると、こういうことになります。まず人間には、自他の身体についての認識があり、その認識(身体観)に基づいて人間をさまざまな基準で分類する。性別もそういった基準の一つです。では、この性別という概念は、何を根拠にしているかというと、上に述べたように人間自身の「必要・関心」との相関性の問題ですね。時代や文化が違っても、人間の身体性や、性愛に関する欲望のあり方はそれほど変わらないので、時代や文化の違いを超えて性二分法が普遍的に成立する。
もちろん、私達は古代の人間に向かって直接に、彼らの性的な関心が何であるかを確かめることは出来ません。だけど、たとえばギリシャ神話を読んで、そこに描かれている、性に関するさまざまなことを私達は容易に理解します。恋愛、夫(ゼウス)の浮気に対する妻の嫉妬、自分の美貌を自慢する人間の女性に対する女神の怒り、ナルシシズムなどですね。それに対して、古代ローマの「戦車」なんていうのは、当時の「戦車」がどのようなものであったのかを調べないとわかりません。これは二輪の軽快な馬車なのですが、そういう知識のない子どもに「戦車」といえば、砲塔とキャタピラのついた戦車を思い浮かべてしまうかもしれないわけです。
したがって、人間が「セックス」を男女二分性で捉えることの普遍性は、身体性と性愛的関心との普遍性に根拠があるといえる。これが一点。
次に「ジェンダー」についていうと、これはやはり「セックス」を性二分法で捉えることに根拠がある。物質としての身体(遺伝子や脳の性差など)の問題というよりも、まず私達が性二分法による「身体観」を持っているということ。そして、この「身体観」と「性的な欲望・関心」とが、ジェンダーのあり方をさまざまに作ってゆくということ。そのために、やはり「ジェンダー」も性二分法をとることと、性的なエロス性への配慮を含むものになるということ。
「ジェンダー」の具体的な内容は時代や文化によって異なるとしても、「ジェンダー」が子のような特徴を備えているということは、時代や文化の違いを越えて普遍的に観察されるわけですね。
もちろん個人レベルで見れば、100%の人間がすべて性的な関心を持っているとはいえませんが、しかし共同体単位で考えれば、性的関心を持たない共同体はありません(仮にあったとしても子孫を残せずに滅んだでしょう
^^;)。したがって、「ジェンダーフリー」や「セックスフリー」はそれを強行しようとすれば、必ず「ジェンダー」や「セックス」の根拠である、人々の「性的な欲望・関心」を禁止せざるを得ません。
なおこの問題については、私のHPでも、以下に詳しく述べています。
・「ジェンダーと言語」(2002/01/26)
(http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign62.html)
・「言語は性別の『底板』ではない」(2003/08/16)
(http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign86.html)
管理人
●「セックスフリー」が事実があることを以下を読んで確信しました。この件、もっと広く周知させるべきだと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【 書 名 】『思想』、1994年12月号、1995年1月号に分載
【 著 者 】ジュディス・バトラー、荻野美穂訳
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1994年、1995年
【 価 格 】1400円(1994年12月号)
【 ISSN 】0386-2755 雑誌 04203-12(1994年12月号)
【KeyWords】ジェンダー、ポスト構造主義、主体
【 内 容 】
【コメント】
ジュディス・バトラーの GENDER TROUBLE(Routledge、1990)の第1章を訳出
したものです。
「フェミニズムは女のものか」(瀬地山角)についての紹介で言及しましたが、フェミニズムの担い手としての女性の集合的アイデンティティというのは、実は保証されたものではない。集合的アイデンティティを創出するためのある種のアイデンティティ・ポリティクスが展開されてはじめて、担い手としての女性カテゴリーが成立するわけですが、このことによって今度は女性内部のマイノリティが抑圧され、多様性・差異が意味を失うということが結果します。
あるいは「セックス/ジェンダー」の区別は、通常、前者が生物学的な差異に基づく性別であり、後者が文化的・社会的な意味での性差であるというのが通説でした。しかし、バトラーが批判するのは、セックスを生物学的な意味での性別であると想定することによって、実はセックスを科学的言説に委ねるとともに、ある種の本質論の領域へとおしやってしまっているということで。
フェミニズムのセックス/ジェンダーについてのロジックは、生物学的な意味での性の区分があり、そしてその上に社会的、文化的なジェンダーがかぶさっているということになっているわけですが、本当にそうなっているだろうかというところからバトラーは出発します。
彼女が依拠しているのは、フーコーのディスクールの理論です。実は、1994年12月号はフーコーの没後10年の特集号だったりします。(亡くなったのは、1984年6月)
ジェンダーが文化的に生産されるもの、言説(ディスクール)によって構成されるものであるということは、まず認められていると思います。「女はスカートをはいている」というのはある「事実」であると考えられていますが、これは実はディスクールであり、ジェンダーはこうしたさまざまなディスクールから構成
されているわけです。しかし、セックスと呼ばれるものはどうなのかというと、実はこのセックスもさまざまな科学的言説によって構成されているわけで、それならばセックスというものは、実は政治的に中立のものとして、「自然なるもの」あるいは「言説以前のもの」という特権的な地位を与えられた存在として、まさ
に「作られたもの」に他ならないことになります。
そうすると、先程のフェミニズムのロジックは、実はセックスという政治的にニュートラルな場を作り出すためのものでしかないということになります。セックスとジェンダーというものがあるのではなく、セックスのディスクールとジェンダーのディスクールがあることになる。そして、それぞれのディスクールの領
域でさまざまな衝突はあるわけだけれども、セックスとジェンダーの区別によって、そしてフェミニズムの政治がジェンダーの領域を舞台としてしまうことによって(もちろん、フェミニズムは必ずしもこのように役割を限定しないこともありますが)セックスのディスクールで働く(フーコーが言うような意味での)権
力関係や、セックスとジェンダーを区別する権力関係は隠蔽され、手の届かないところへ行ってしまうことになるでしょう。それは、まずい、ということですね。
もしジェンダーが文化的なものであるなら、必ずしも「女/男」という二項対立的な構造に囚われている必要はないのです。しかし実はそうなっている。それは、政治的にニュートラルであると見なされるセックスの領域で二項対立が前提とされていることをジェンダーの領域が逆に反映しているということなのではな
いでしょうか。
だから、セックスというものの産出は、ジェンダーと呼ばれるものに対してある種の影響を有する、ジェンダーからの一つの作用であると理解されるべきであり、その意味ではセックスもまた文化的な領域であるということができます。ちなみに歴史学の方では、女性の身体というものの認識がある形で「捏造」された
ものであるということが以前から指摘されていたりします。
オルタナティブとしては、ジェンダーがディスクールによって構成されることを前提とした上で、多様なディスクールによって多様なジェンダー、二項対立的に「女/男」の枠に閉じこめられないジェンダーを創出していくことが考えられます。必ずしも性は二つではないし、また、女という性は一つではない(リュス
・イリガライ)のです。この認識に至って、最初で触れたアイデンティティ・ポリティクスの危うさについて、わたしたちは十分に理解することができるようになるでしょう。
フェミニズム理論の最前線の一つです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大沢真理が目指しているのはまさしくこれですね。
「フェミニズム理論の最前線の一つ」だか何だか知りませんが、私はこれを「カルトフェミニズム」と呼びたいと思います。
管理人
●バトラーについては少し理解したのですが、その元になったフーコーについて調べていたらこんなのが出てきました。中川八洋氏のまとめたもののようです。
「性別の撤廃(セックスフリー)」という思想は、フーコー、バトラー、ラカー、バタンテールという人たちによって継続・発展(妄想拡大)しており、まさに「狂気の系譜」となっています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2.「ポスト・モダン思想」の導入
・極端なニヒリズムと、極端な相対主義が合体したもの
1968フランスで人間の人格を解体し、社会解体を実現する事を目的に作られた。
・フーコー(フランス人:重度の精神分裂症、ゲイ、「性の歴史T──知への意思」)
:絶対的な真理や、科学的知見すらも「権力」によって作られた「知」の一形態に過ぎない。
:狂人が支配し正常者が支配される社会をもって「正しい社会」と主張。
→ 真理ですら相対主義の闇に葬り去り、正常な思考を展開する基軸を持ち得なくなる。
→ 「人間の性は、生れながらに定まっている」事も「知」の一つに過ぎない事になる。
・バトラー(フランス人)
ジェンダーは人間に本質的な属性ではない。「女」というアイデンティティも存在しない。
・ラカー
:性差は「時代の想像力のおもむくままに産出される」 「男女は科学的真理でなく、変更可能」
・バタンテール(フランス人)
:男性も妊娠・出産する時代がくる。
両性具足(アンドロジナス)こそが”理想の人間”
→ 日本のジェンダー・フリーがシンボルとしているのはカタツムリ(雌雄同体)
3.「セクシュアリティ」(性的欲望)の単語への別の意味付け(性現象)
・フーコー(虚構、レトリック、詭弁を弄する)
:国家が人口を必要としたから、家族と男女間性愛を正常とみる考え方が「権力」によって「知」とされたに過ぎない。
男女間の性愛は人為的・社会的に作られた「知」に従った一つの現象の行動に過ぎない。
:生殖否定の性的欲望こそが正しい。ゲイやレズこそ正常だ。
:男女の二つの性の正常な性行為は真理でも科学でもない。
:「性器を持った無性人間」こそ理想。人間を男でもなく女でもなく「無性人間」にする。
:人間とは男も女もなく単なる身体にすぎない。身体は快楽を得るための道具だから、性現象(セクシュアリティ)の赴くままに快楽さえ得られればよい。
→ 夫婦の絆、親子の情愛、男女間の愛、文明社会の気品、倫理、道徳も全くなし。
→ 厚生労働省所管の母子衛生研究会の「ラブ&ボディ」はフーコーの「快楽と身体」を訳したもの。
→ 男女の性差を自覚する事はよくないという教育
”正常な男女間性愛”を否定し、同性愛や性同一性障害と同列に扱う教育
→ 学校教育で子供たちを精神(人格)異常者に育成する狂気の暴走 人格喪失、精神分裂症疾患、夫婦関係を持とうとする意欲に決定的な欠陥(トラウマ)
→ 日本人の正常な人格を破壊することによって、日本を滅亡さ せる事が狙い、目的。
日本では第一期、第二期のフェミニズムと、ジェンダー・フリーを掲げる第三期が同時に押し寄せ、しかも複合している。分かりづらくなっている。
管理人
●デルフィの思想】
「ジェンダー−女性と男性の相対的な社会的位置−がセックスという(明らかに)自然的なカテゴリーにもとづいて構築されるのではなく、むしろ、ジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象になり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える」
しかし「以上は仮説であり、実証(または反証)されるまでには数年かかるだろう」だから「それを証明するのは、冒険的な企てであるが,この賭を私たちはやりたいと思っているのだ」
神名さんの解説。
「まず抑圧が先にあり、これがジェンダーを作りだす。分業を決定する序列が、性別役割(技術的分業)に先行して存在する。その後に、ジェンダーがセックスを識別するというのである」つまり「〈セックス→ジェンダー→抑圧(性差別)〉という図式を逆転させて、〈抑圧→ジェンダー→セックス〉と考えるのである」
【批判】
@「もしデルフィの主張の通りにまず最初に抑圧が生じたとしても、その段階で、被抑圧者の立場は女性に与えられていたことになり、したがってこの段階において、既に性別の識別が存在していたと考えなければならない」by神名さん
→前提からパラドクスに陥っているというわけ。
A「また、男女を抑圧/被抑圧という関係のみでとらえる男女対抗図式を前提としていることが、そもそも多くの男女の実感にそぐわない。ジェンダーであれセックスであれ、人々がそれらに対して感じている意味は、対立的なものに限定されているわけではない。私達(男女とも)は、性差がエロスの源泉であることを直観的にも経験的にも知っている」by神名さん
B私の考え「ジェンダーのない動物にも雌雄の区別が明確にあり,オスメスの行動様式がは決められているのであるから,ジェンダー→セックスという図式は成立しない」
【なぜこんな奇矯な考えをするようになったのか】
「性差があるから差別が起きるという誤ったドグマを正当化するため」by神名さん
【私の考え】誤りがあったらご指摘ください。
「性別があるから差別があると考える」この差別構造をなくすために
@思想面では「ジェンダーがセックスを作り出す」と考える。これによって,性別を変更可能なものとする。→差別が解消されると考える。(こんなの妄想だけど)
この考えから以下のことが実施される。
A社会的な行動面で「男女の区別,女性への差別・支配・抑圧を極力なくすようにする」
セックスの面・・・・性行為は男の暴力・支配・抑圧と考えるがゆえに,女性が性的に解放されること,大胆になることが肯定される。→フリーセックス,援助交際を称揚。
社会生活の面・・・妊娠・出産・育児も差別と考え,そうならないために避妊の徹底,出産しても女性の負担を減らすために保育の社会化。家事も育児も男性を介入させる。
女も男と同様の仕事を。→男女共同参画社会。
男女の区別を撤廃するために,ジェンダーフリーの名を借りたセックスフリーを強制する。
しかし,デルフィ自身が仮説であると明言しているのだから,こんな「妄想」を9兆円も使って「人体実験」しているこの国は異常というしかない。
神名さん
●>【なぜこんな奇矯な考えをするようになったのか】
>「性差があるから差別が起きるという誤ったドグマを正当化するため」by神名さん
まず、これに少し付け足しをしておきましょう。「性差があるから差別が起きる」という考えから、フェミニストは最初は「ジェンダー否定」を目論んだわけです。これは、「ジェンダーはセックスに根拠を持たない、恣意的に作られたものである」という形で主張されていました。フェミニストはここから、ジェンダーは社会的に作られたものであるという「社会構築主義」と、ジェンダーの根拠はセックスであるという「本質主義」との対立図式を打ち出し、自らを「社会構築主義」に位置付けたわけです。
ところがこの考え方では、まだフェミニストにとって問題が残ってしまいます。ジェンダーとセックスを無関係なものと定義したことで、セックス(身体レベルの性差)を相対化ないし否定することが出来なくなってしまったのですね。そうすると、男女には体力差があるからとか、身長が違うからといった問題については、口出しできなくなってしまう。
そこで、ジェンダーとセックスの両方を否定する論理が求められることになります。そのためにフェミニズムは「転回」して、一度は自分達が「無関係」だとしたセックスとジェンダーとを、再び関連付けて考えざるを得なくなりました。そこに出てくるのが、バトラーやデルフィの主張です。
>@思想面では「ジェンダーがセックスを作り出す」と考える。これによって,性別を変更可能なものとする。→差別が解消されると考える。
「変更可能」というより「否定」ですね。ジェンダーもセックス(デルフィでは、セックスに対するあらゆる意味付け)も、客観的な「真理」ではないといいたいわけです。したがって、性差別の原因である(とフェミニストが考える)性差は、本当は存在しないものだといいたいわけですね。
>セックスの面・・・・性行為は男の暴力・支配・抑圧と考えるがゆえに,女性が性的に解放されること,大胆になることが肯定される。→フリーセックス,援助交際を称揚。
これも付け足していうと、もともとは「性欲」をどう考えるかという問題から生じていると思います。フェミニストによる理解では、昔は「性欲」は男性だけにあって、女性にはないものだと考えられていた。それに対して、女性にも「性欲」はあるんだということは、遅くとも80年代のフェミニズムでは、既にいわれていたことです。
この問題にも、やはり男女を同じに見るべきだという性差否定の考えが絡んでいます。私の考えでは、女性にも「性欲」はあるけれども、その内実が男性とまったく同じだとはいえない。女性の「性欲」の存在それ自体は否定しないけれども、そのことは必ずしも「男女の非対称性」を否定することになりません。
しかしフェミニストはそうは考えないので、下世話な表現を使えば「女もヤリまくれ」と主張するわけです。おそらくその背景には、「貞節」のように女性の性行動を制限する観念は、すべて女性の自由を奪う古臭い道徳であり、破棄すべきものだという考えがあると思います。そうはいっても、やることをやれば妊娠するので、ここから「避妊の徹底」とか、堕胎についての「性の自己決定」、あるいは育児の社会化という考えが出てくるわけです。
この考えを突き詰めれば、フーリエの提唱する、家族制度の廃止と「ファランジュ(Phalanges)」という生活共同体の考え方になるわけですね。この「ファランジュ」は性別に関係なく同じ教育を受け、子供の頃からスカートとズボンという衣服による性別の区別もやめる。一夫一婦制は否定され、いつでも解約可能な任意結婚と、これらの夫婦間による交際でさえ可能とされる。そういう乱交社会です。
管理人
●「唯物論的な歴史観=唯物史観は従来のように人間の存在をその意識から説明する方法ではなく、人間の意識をその存在から説明する方法であった」(マルクス主義説明サイトより)
唯物論→共産党系教師→養護学校・性教育。
だから、感情を抜きにした「存在=性器」そのものにこだわる性教育を行っていると考えられる、のかな?
そうして、唯物史観→階級闘争史観であり、容易にフェミ・ジェンフリと結びつく、さらに男女間の感情までも否定するので、デルフィらの主張するセックスフリー(男女の無性化)ともつながる、というわけか・・・。
それにしても、すごいことになってきた。男女の無性化、愛情・恋愛の否定は家庭崩壊・少子化→国家崩壊→人類崩壊とつながっていくのは必定・・・。
教育・家庭・日本というレベルをこえてとんでもない事態が進行しているのでは。
本気で怖くなってきました。
フェミ・ジェンフリは「人類を滅亡に導く狂気」なのでは。
ガクガクブルブル・・・。
神名さん
●=========================================================
『ジェンダートラブル』序文 J・バトラー
(1999、高橋愛訳、『現代思想』2000/12所収、青土社)
要約:神名龍子
10年前(1989)に『ジェンダートラブル』を書き上げたのは、フェミニズム運動の基本的用語を批判的に考察するためであった。
当時の最大の関心事は、フェミニズム文学批評に異性愛的な思い込みが広く流布していることだった。ジェンダーの境界と妥当性を仮定して、ジェンダーの意味を男らしさ・女らしさという一般的に認められた概念に制限するような見方に反駁しようとした。このようなフェミニズム理論は排他的なジェンダー規範をフェミニズム内部に生み出し、しばしば同性愛嫌悪を招くものである。フェミニズムは新たな形態の階層秩序や排除を逆に生み出してしまうジェンダー表現を理想化しないよう慎重であるべきだ。とりわけ反論したいのは、ある種のジェンダー化された表現を誤りとか派生的とみなし、別のものは本物だとか起源とみなす真実という制度である。本書の目的は、どんな可能性が実現されるべきであるかを提示することなく、ジェンダーの可能性の場を開いてゆくことだった。
『ジェンダートラブル』では、ジェンダー化された生の中で可能なものは何かと考える、その考えそのものが、ある種の習慣化された暴力的な仮定によってあらかじめ排除されてゆく様子を明らかにしようとし、また、少数のジェンダー実践やセクシュアリティ実践を非合法化するような「真実」という言説を振りかざそうとする試みを切り崩そうとした。そのような実践(たとえばジェンダーの二分法の崩壊)に直面し、それを思考できないものと考えてしまうことを憂慮する。
パフォーマティヴ(性実践)にはジェンダーを不安定化させる力があり、規範的なセクシュアリティが、規範的なジェンダーを強化する。支配的な異性愛の枠組みの中で、この枠組みに疑問を投げかけることは、ジェンダーにおける自らの位置の感覚をいくぶん失うだろう。このようにして、セクシュアリティと言語の両方のレベルで経験される、ある種の存在論的危機が構築されるのである。
女は異性愛の性行為(セクシュアリティ)でひたすら女らしさを示し、その性行為では女の従属が女の快楽となるのだと、性差別(セクシズム)の論客は主張する。それに対してフェミニズムの論は、ジェンダーは女にとって常に従属のしるしなので、ジェンダーは転覆され、排斥され、徹底的に曖昧化されるべきだというものである。
私(バトラー)にとって重要なことは、ジェンダー転覆のパフォーマンスはセクシュアリティや性実践について何も提示できないことを認めることである。
近年の私(バトラー)の論考の多くが、パフォーマティヴィティの理論を明快にし改定するのに充てられている。ジェンダーのパフォーマティヴィティとは、予想がその対象を呼び寄せることである。ジェンダーは、それが予想している現象を生産してゆくような予測である。
ジェンダーはパフォーマティヴ(性実践)であるという見解は、ジェンダーという内的本質と考えられているものが、実は持続・反復される一連の行為を通して生み出され、身体のジェンダー化された様式を通して定義されるということを示そうとした。自分達の「内的」特徴だとみなされているものは、私達が何らかの身体行為を通して生み出しているもので、極端にいえば、自然化された身振り(ジェスチャー)の幻覚的な結果である。精神という内的世界はすべて一連の様式化された行為の結果に過ぎないと言っているわけではないが、精神世界の「内面性」を当然視することは重大な理論的誤りだということである。世界像は他者(像)も含めて、自己の「内面」形象だが、そのような形象は内面化を通して変形されたものであり、その内面世界は精神が行う「内面化」の結果として構築される。
私(バトラー)自身が政治に携わっていたことにより、『ジェンダートラブル』での立場をいくつらか修正せざるを得なくなった。本書において「普遍性」に関する主張をかなり否定的で排他的な言葉でとらえがちである。しかし「普遍性」という語には、非実体的で非限定的なカテゴリーとしての重大な戦略的用途があると考えるようになった。
私(バトラー)は、ジェンダー規範という暴力についてわかるようになった。ジェンダーが軽視されると同時に、暴力的に管理されていたために、このようなのは暴力を可視化させる難しかった。ジェンダーは、セックスを自然に表明したものであるとか、人間の行為体には訂正したいと望むことなどできない文化的に不変なものであると想定されていた。私(バトラー)の考えでは、ジェンダーを「非自然化し」ようという本書の執拗な試みは、セックスという理想的な形態学が暗示する規範的な暴力に強く対抗したいという強い欲求と、セクシュアリティについての凡庸で学術的な、言説が伝える自然な、あるいは推定上の異性愛に関する広く浸透した思い込みを根絶したいという強い欲求の両方から出てきたものである。
本書は、「わたしが言うようにジェンダーを転覆せよ。そうすれば生はよいものになるだろう」という処方の形を取らないし、そうすることもできない。本書は、フェミニズム思想の規範的あるいは処方的な局面を伝えていない。
権力には、「現在こうである」という話がいつのまにか「未来もこうにというなる」話に摩り替わってゆく規範的な作用がある。ジェンダーという場の記述そのものが、その規範的作用という問題と分離できるものではない。
転覆的なパフォーマンスは常に、反復することによって、特に「転覆」が市場価値をもたらす商品文化の中で反復することによって、無感覚化されるリスクを負っている。転覆的であることの基準を名づけようという試みは、常に失敗するだろう。
もしある人が異性装者を見たとして、その人は、そのような認識を表す最初の言葉をジェンダーという「現実」として持ち出してくる。しかしこの「現実」は、あるべきジェンダーと違うという意味で「現実」を失い、ジェンダーを技巧、戯れ、偽り、幻想だととらえる。しかし、このような認識を支える「ジェンダーの現実」(正しいジェンダー)という感覚とは何か。私達はその異性装者の解剖学的な性別を知っていると思っている。あるいは、その人の衣服や着こなしから、そのような認識を引き出してくる。しかし認識対象たる身体の性別が何であるかを確信を持って読み取ることは不可能であり、そのため、何のために人が依拠するカテゴリーがあるのかということにも答えられない。
このようなカテゴリーが問題になると、ジェンダーという現実も危機に直面する。このようなとき、自分達が現実だとみなすもの、ジェンダーという自然化した知識として引き合いに出すものが、実は変更・修正の可能なものだと理解するようになる。
このような洞察が、それ自体の中に政治的革命を構築するのではないが、可能なものや現実的なものについて、人が抱く概念が劇的に変化しなければ、政治的革命はあり得ない。そして時折、このような変化は明確な理論化に先行する、ある種の実践の結果として生じる。そのような実践は、私達の基本的カテゴリーについての再考(ジェンダーとは何か、ジェンダーとはどのように生産・再生産されるのか、その可能性とは何か)を促す。
本書の論点は、ジェンダーという自然化された知識が、先制的で暴力的な現実の線引きとして作動すると示すことである。ジェンダー規範(理想的な二形性、身体という異性愛的相補性、適切あるいは不適切な男らしさや女らしさに関する理想や規則、純潔等)が、明らかに人間的になるものやそうならないもの、「現実」だとみなされるものやみなされないものを確立する(線引きする)。
パフォーマティヴィティという反復可能性は、政治的行為体についての理論(権力をその理論自体の可能性の条件として否認することが出来ない理論)である。
私(バトラー)は、ポスト構造主義が自伝的な記述の死を必要としているとは思わない。私は私を構成する言語の外部にいるのではないし、この「私」を可能にする言語により決定されているのでもない。これは自己表現の束縛であり、読者が言語を抜きに私を受容できることは絶対にない。
政治化する目的のためにアイデンティティのカテゴリーを起動させることは、そのアイデンティティが、敵対する権力の道具になるかもしれない脅威に常にさらされ続ける。そのためにアイデンティティを使わないとか、アイデンティティによって使われなかったりする理由は何もない。権力を取り去った政治的位置というものはなく、権力にまみれることによって、規定的な体制に介入したり、それを転覆させる可能性としての行為体が出現することになる。
=========================================================
上掲の序文は、『ジェンダートラブル』初版から10年後の1999年、十周年記念版に付け加えられたもので、『現代思想』(2000/12、青土社)に十数ページに渡って掲載されたものを要約したものだが、さらに説明の必要があるだろう。
「フェミニズムは新たな形態の階層秩序や排除を逆に生み出してしまうジェンダー表現を理想化しないよう慎重であるべきだ。とりわけ反論したいのは、ある種のジェンダー化された表現を誤りとか派生的とみなし、別のものは本物だとか起源とみなす真実という制度である。」というのは、日本のフェミニストによく当てはまる批判であるが、その分だけ、日本のフェミニストに比較して、バトラーの論理矛盾の少なさを感じさせる。
バトラーの上掲の理論には、「ニーチェ・フーコー」の系列と「ソシュール・デリダ」の系列と、2つの系統からの思想上の影響が認められる。まず前者についていうと、バトラーのテーゼは、〈主観/客観〉図式からいえば主観が客観を作り出すという考え方に対応させることが出来る。ニーチェはどんな視点からも唯一不変なものとしての〈客観〉(=真理)は存在しないという。存在するのは、たださまざまな〈主観〉にとっての解釈だけであり、これらの解釈のうちで最も強力で勝ち残ったものこそが〈客観〉と呼ばれていたものの正体だと主張する。同様にバトラーは〈セックス〉は〈ジェンダー〉という文化的な装置の作用によって生み出されたものだという。セックスは客観的に存在するのではなく、いわば「ジェンダー化された身体」である。ジェンダーという実践の反復が、人々をしてあたかもセックスが存在するかのように思いこませる効果を持つというのである。
ここまでは他の社会構築主義の主張と同じである。フーコーの、性をめぐる様々な言説的実践(や非言説的実践)の総体である「セクシュアリティの装置」に取り込まれるという主張と同様、ジェンダーという社会的・文化的装置が、人間の身体(という物質)を〈男/女〉という二つのセックスに分節するのである。ちなみに本文中の、「理想的な二形性」とは、人間が必ず男か女のいずれか一方に分類できるという考え方(性二分制)を指している。
しかしそれだけではなく、バトラーの懐疑論(ジェンダーおよびセックスの相対化)は、デリダの形而上学批判の戦略に、より多くを負っている。
それは、あらかじめセックスが存在するのではなく、セックスが行為の言説的実践(の反復)の結果生じるというものだ。これは次のような、デリダの、意味の起源の確定不可能性という言語観に対応している。
ソシュールでは、言語表現は〈言おうとすること〉が発話される事で成立するとし、エクリチュール(書かれたもの)はその模倣に過ぎないとみなされる。だがデリダは、〈言おうとすること=根源としての現前〉が意味を持つのは言葉(再現前)が反復によって同一の意味を表示出来るからだとして、言葉の意味の始源性への遡行不可能性を宣言する(意味の起源の確定不可能性、現実を言葉で言い当てる事の不可能性)。
バトラーのいうジェンダーの「パフォーマティヴ」の反復が、デリダの主張の「言語」を「ジェンダー」に置き換えたものであることは一目瞭然である。この考え方では、ジェンダーの起源はどこにも存在しない事になり、セックスは単なる虚妄に過ぎないという事になる。だが、このバトラーのジェンダーとセックスの相対化や、その元となったデリダの言語批判は、はたして適切なものだろうか。
現象学においてフッサールは、〈意味〉とはそれ自体〈ある〉としかいえない、それ以上分析できない最終的な地点であるといっている。またフッサールは、〈起源としての意味〉=〈現前〉は〈再現前〉されて本当のものが表出されると言っているのではない。彼は、私達が「これは本当だ」という形で言葉を使用することの内には、確かに本当のことを言っているという確信が成立する(=起源としての意味)という事実を含んでいると言っているのである。
セックスに対しても、このようなフッサールの考え方を当てはめてみる。自分のセックスが何であるかということ(アイデンティティ)は自分の内部に存在する〈根源としての男〉の再現から生じたものではなく、自分自身を内省したときにその都度、自分は男(女)であるという確信が生じることを、最も基底の根拠としている。バトラーの考えは〈男/女〉というジェンダー秩序の存在を前提とする限り正しい。だが、なぜ〈男/女〉というジェンダー秩序が存在するのかという問いに対して、「男/女というジェンダー秩序が存在するからだ」という答え方では同義反復になってしまう。また、多くの人が〈男/女〉というジェンダー/セクシャリティ秩序を生きているのには、強力な根拠が存在していると言わなければならない。
バトラーに欠けているのは、人の欲望にとっての性別の持つ意味や根拠の考察なのである。
確かに、人間の持つ世界像は各人の精神において構築される。ではその世界像は、どのような分節を用いて構築されているのか。一つは、バトラーのいう反復である。「何度試してもこうなる」という経験は、彼女の指摘する通り、「おそらく次もそうなるであろう」という予想の源泉になる。
しかし、それだけが世界分節の原理ではない。重要なのは「間主観性」である。つまり、各人の世界像がおのおのの意識に現れているとして、私達はお互いの世界像を確かめ合うことで、その強度を強めているのである。自分に見えているものが、他者にも同じように見えているのだとすれば、それはたまたま自分に幻覚が見えているのではなく「現実」だと考えても(とりあえず)差し支えない。
もう一つは、欲望・関心による配視である。人間にとっての意味や価値は、単に外部からインプットされたデータなのではなく、自分の欲望にとっての有用性という判断が伴う。もし、たしゃから「これはいいぞ」と教えられても、それが自分の欲望に適わないものであれば無関心でいられるし、他者が関心を示さないものでも、自分にとって価値があると思えるものは大切にする。
したがって、「性」が人間にとって無関心事にならない限り、そして、性に関する人々の欲望に何がしかの共通性が存在する限り、バトラーの主張は成立しない。世界観が個々人の内面において構築されるものだということを全面的に認めるとしても、やはりジェンダーやセックスについての、人々の分節の仕方には共通性が生じてしまうのである。
ここには、バトラーが掲げる価値相対主義的な構築主義と、現象学の違いがはっきり現れる。現象学は「方法的」独我論を採ることによって、実は個々人の間に、認識の仕方においてある共通的な構造が存在することを明らかにする。しかし、バトラーのような価値相対主義では、どうだろうか。
もし、バトラーが欲望や認識について、人間に共通のものがあると認めるのであれば、彼女はジェンダーヤセックスが(特に性二分制が)普遍的に妥当するということを認めざるを得ない。また逆に、人間の欲望や認識に普遍性を認めないのであれば、彼女の主張それ自体もまた独我論に過ぎないということになる。したがって、そのいずれにしても、彼女の主張は広く納得を得るものにはなりえないということになる。
構築主義は、近代哲学におけるイギリス経験論やドイツ観念論、あるいは現象学などと比べて、きわめて中途半端である。構築主義では、人間の認識の構造が突き詰めて考えられていないからだ。そのために、バトラーのような一面的な認識論(=構築主義)になってしまうのである。認識論に限った話ではないが、実はポストモダン等の現代思想は、近代哲学と比較しても、はるかに後退した位置にいる。せいぜい18世紀のカントにたどり着くかどうかというところが今のところの限界であり、この行き詰まりには、ポストモダニストには自覚されていない、明確な理由があるのである。しかし、これを説明するには近代哲学の説明を展開しなくてはならないので、これについては別の機会を期すことにする。
ここで指摘しておくべきことは、バトラーが日本の凡百のフェミニストに比べて、はるかに思想上の誠実さを持っているにも関わらず、それでもなお一面的な見解しか提出できていないということなのである。