「きも〜い!」悲鳴続出
ジェンダーフリーに汚染されるセンター試験
現代文に登場したジェンダー小説
今年のセンター試験・現代文を読んで唖然としたのは筆者だけではあるまい。松村栄子氏の『僕はかぐや姫』という作品の一部なのだが、作者は無名の上に、登場する二人の女子高生は死への憧憬を抱き、自らのことを<僕>と呼んでいるのだ。十年近く前によくいた、いわゆる〈僕っ娘〉の物語である。これまでは著名作家の作品が多く、家族愛や友情といった一般的なテーマを扱っていただけに、今回の作品はいかにも異質に感じられる。
筆者は現在、都立高校で三年生を教えているが、試験を終えた生徒たちが真っ先に語ったのが「あの小説、きもい」「訳がわからない」という言葉だった。生徒たちとっても、それほど予想外の内容だったのだろう。
問題文の解説には「千田浩生(ちだひろみ)と辻倉尚子(つじくらなおこ)は文芸部の同級生で、自分のことを<僕>と呼んでいた」とあり、辻倉尚子が書いた一節(死への憧憬を暗示したもの)に主人公の千田浩生が興味を抱くところから始まる。その冬に行われた文芸部の合評会で、浩生は好きな作品として『かぐや姫』を挙げる。鬱陶しい現実から逃れて月に帰るかぐや姫が羨しいというのだ。浩生と尚子は互いに共感するものを覚え、それから二人の付き合いが始まる。二人に共通しているのは、自己否定や孤独を気取る心であり、自らを高潔だとする自己陶酔だった。(以下「 」内は本文)
「こんなマイナス勘定の多い自分なら、いない方が理に叶うと思い詰め」、自分たちの魂が弱々しいことを承知としているがゆえに、<僕>と呼称することで「純粋でもっと硬く毅然とした固有の一人称を得ようと」する。
やがて尚子は部会に出てこなくなり、恋人ができたらしく自らを〈あたし〉と呼ぶようになる。浩生は思う。「女らしくするのが嫌だった、優等生らしくするのが嫌だった。(中略)どれも自分を間違って塗りつぶす。器用にこなしていた〈らしさ〉のすべてが疎ましくなって、すべてを濾過するように〈僕〉になり、そうしたらひどく解放された気がした」と。
もちろん、筆者がいかなる考えを持とうと自由だが、ここで問題になるのは、なぜあえてこの時期に、ジェンダー小説が出題されたかということである。
広がるジェンダーパッシング
ジェンダーフリーは現在、痛烈な批判を浴びており、ジェンダーやジェンダーフリーという言葉を使うことすら控えるようになっている。ここまでジェンダーパッシングが広がったのは、これまで行政や学校を通してあまりにも非常識な実践が行われてきたからである。男女混合名簿に始まり、混合体育、混合騎馬戦に過激な性教育。男女の呼称を「さん」で統一し、「男・女らしさ=悪」と決めつける。ランドセルやトイレの色分け、ひな祭りや鯉のぼりといった慣習や伝統文化まで差別の温床だと否定する。頻繁に行われるセミナー等では、「男女に性差はない。固定的役割分担は差別の温床。女性は働くことこそ望ましい生き方で、子供は保育園に預ければいい。三歳児神話は嘘だ」と教えられる。これに異論を唱えれば、男女平等を否定する封建主義者と罵られるのだから、批判が起きたのも当然である。
ジェンダー論の基本は「元来男女に性差はない」という非科学的な思いこみがある。性差がないにもかかわらず、「男・女らしさ」(ジェンダー)が存在するのは、男が女を都合良く支配するためである。よって、ジェンダーから解放されることで真の自由がもたらされるというのである。
しかし、多くの生徒が違和感を覚えたように、これらは根拠のない俗説にすぎない。「男女に性差はない」というジェンダー文化決定説は、かつてマーガレット・ミードが南方の原始部族に性差の逆転した社会があるという研究を発表して広まったものだが、それが間違っていたことは後の検証によって明らかにされている。最近の脳研究によっても男女に生得的な性差のあることが判明しており、どの社会においても似たような「男・女らしさ」があることはすでに実証されている。ジェンダーは差別をもたらすものではなく、社会をよりよく営むための内的規範のようなものであり、男女の特性に応じた役割分担も当然あってしかるべきものなのだ。
ジェンダー論の嘘や非常識な実践が知られるようになると、2002年に政府は公式見解として、男女参画行政はジェンダーフリーを目指すものではないと述べ、東京都は2004年にジェンダーフリーという語を使用禁止にした。2005年には自民党内にジェンダーフリー実態調査プロジェクトチームが設けられ、この問題に対して政府が乗り出すまでになっていた。
こうした状況の中で、ジェンダー小説が出題されたのは単なる偶然ではあるまい。
ジェンダー論と新学習指導要領
今回のセンター試験にジェンダー小説が登場したのは、今年(2006年)が新学習指導要領実施後初めての受験であったことが考えられる。新学習指導要領はゆとり教育として批判されてきたが、「ジェンダー論の導入」という側面があったことを忘れてはならない。今年の受験生は新学習指導要領で学んだ第一世代であり、彼等の使っている教科書の多くにはジェンダーに関する記述があるのだ。しかも、ほぼすべてがジェンダーを抑圧ととらえ、ジェンダーからの解放(ジェンダーフリー)こそが理想であるとしている。
高校の教科書にジェンダー論が登場したのは、1999年に成立した男女共同参画社会基本法(以下「男女参画法」と表記)を受けている。同法の立役者である大沢真理氏は『21世紀の女性政策と男女共同参画社会基本法〈改訂版〉』(ぎょうせい)で次のように述べている。
《「男女共同参画」は、gender equality(筆者注・ジェンダーの平等)をも越えて、ジェンダーそのものの解消、「ジェンダーからの解放(ジェンダーフリー)」を志向するということである。……ジェンダーという用語が登場してからも、生物としての自然であるセックスが基盤で、そのうえに文化がジェンダーを発達させたという理解が暗黙のうちに常識だった……そのような「常識」は、1990年代初年までに、分子生物学や性科学、そしてジェンダー論の発展によって、くつがえされたわけである》
つまり、セックスはジェンダーが規定したものであり、性差の根底にあるジェンダーそのものを解消しなければ、男女差別は解消できないというのである。およそ正気の沙汰とは思えないが、数年後にはこれと同じような記述が一斉に教科書に載り、学習の成果が試されるセンター試験においてもジェンダー小説が登場したのである。ここには、ジェンダーフリーを推進しようとする者たちの明白な「意図」が伺えるであろう。
「公民」のトンデモジェンダー問題
国語にジェンダー論が登場したのは初めてだが、ジェンダーと関係の深い「公民」(現代社会と倫理)では1999年に男女参画法が成立すると同時に出題されている。その後、今年に至るまで「公民」では欠かさず出題されているが、その変遷を見ていくと、ジェンダー論者(フェミニスト)が周到な計画性を持ってジェンダー論を組み入れようとしているのがわかる。以下、年度に従って紹介しよう。
センター試験に初めてジェンダー論が登場したのは、2001年「現代社会」の第4問である。(2001年の問題は2000年に作成されている)
〈問題文の一部〉
1979年に国連総会で採択された女性(女子)差別撤廃条約は、こうした現実を変革するために、A男女の役割に関する固定観念を見直し、意識や慣習の中にある性差別を根絶することで真の男女平等を実現しようとしている。
性差別をなくそうとする努力は、女性のみにかかわるものではない。B「男らしさ」の押しつけは、「女らしさ」の押しつけと同じように、個性を伸ばし自由な生き方を実現する可能性を損なう。(傍線は筆者)
これに対して次のような問がある。
傍線Aに関連して、社会・文化的に作り上げられた性差をジェンダーという。ジェンダーに関する記述として最も適当なものを、次の@からCのうちから選べ。
@「男らしさ」「女らしさ」は文化によって異なるが、「男は仕事、女は家庭」の性別役割分業は、近代以前にはどの社会においても広く見られた。
A「男らしさ」「女らしさ」は時代によって変化するが、女性は情緒的、男性は理性的という違いは生物学的性差に発するものだから、普遍的である。
B「男らしさ」「女らしさ」を学び、身につけるのは、第二次性徴のあらわれる思春期になってからである。
C「男らしさ」「女らしさ」は個人の行動様式だけではなく、物事の感じ方や考え方にも影響を与える。
今では徹底的に批判され、論破されているジェンダー論の典型である。当時はまだパッシングが起きていなかったせいか、「ジェンダー」という言葉を使い、傍線Bのように「男・女らしさ」を完全に否定している。正解はCだというが、では他の設問はどうなのか。
@の「男・女らしさは文化によって異なる」というのはミードの文化決定説によるものであり、出題者の意図とは裏腹にこの部分は間違っている。後半は、性別役割分担を近代以降のものとして否定する典型的なフェミニズム理論によるものだが、近代以前においても性別役割分担が成立していたことは、古文献に登場する民衆の姿からも推測できる。
Aの「男・女らしさが時代によって変化する」は間違っているとはいえず、男・女らしさには普遍性がある。@Bは誤りだとしても、Aを選んだ生徒は×にされてしまうのである。
以後、「男・女らしさ」「性別役割分担」に対する攻撃は、センター試験の中で繰り返される。
2002年の「倫理」第4問にはこんな問題文がある。
これらの現象(筆者注・ストレスの増加)は、今日の労働環境においては仕事の充実と、気持ちや時間のゆとりとの両立が困難であることを示している。女性の場合、事態はさらに深刻である。性別役割分担の見直しが不十分な現状では、働く女性は、家事労働に加えて職業労働でも男性並の仕事量をこなすか、補助的な労働に甘んじるかという選択を強いられがちである。
傍線部に関して@〜Cの選択肢があり、以下が×にされている。
A女性の社会進出に伴って、家事を代行する企業が増加しつつあるが、そこには家族を解体させる危険がある。そのため、男女がそれぞれ生来持っている役割に専念することで、家族を守る必要がある。
たしかに言い過ぎの部分はあるが、この理屈に従えば「性別役割分担をすれば家族は解体する」ことになる。しかし、それを実証するデータはないし、現実には逆の事態が進行しているのではないか。
C日本では女性の就業率は、結婚後低下するが、育児を終えた後、パート就労を中心にふたたび上昇するというパターン(M字型就労)をとる。女性をとりまくこのような雇用構造は今後も維持していく必要がある。
「パート就労を中心に」とあるので、これに○をつける受験生はいないであろうが、その部分を除いても「M字型就労はよくない」「育児のために一時的にでも仕事はやめてはいけない」という考えが色濃く伺える。
性別役割分担に対する攻撃は、視点を変えて毎年繰り返される。2003年の「倫理」第4問にはこうある。
女性の場合は、結婚や出産を願う気持ちと、結婚すると性別役割分業によって家事・育児の責任と負担が増えて仕事や余暇の時間を失うかもしれないという気持ちとの間で心が揺れることもある。このような葛藤のために、結婚に踏み切りにくいことは否定できない。近年の少子化傾向は、結婚後も同様の葛藤が続くことを示唆している。(筆者注・□の部分は空白で、「少子化」という言葉を入れさせる問題となっている)
つまり、性別役割分業が少子化の原因だというのである。しかし、それは本当なのか。少子化は様々な要素が複合的に絡みあって生じた現象であり、性別役割分業のみを取り上げるのはあまりに短絡的ではないのか。ここには、何としてでも性別役割分業を否定したいという悪意が見え透いている。
2004年になると、当時流行ったスウェーデン礼賛思想が登場する。「現代社会」第一問である。
〈問題文〉
次の文章は、スウェーデンに住む大学生ハンナが、日本の高校生ケンに送った電子メールである。これを読んで後の問いに答えよ。
アキコおばさんが市議会議員に当選されたと聞いて、すごくうれしかったわ。以前、日本に住んでいたとき、女性議員は少なかったと記憶しているのだけど、少しは増えた?最近は、日本も男女平等の社会づくりを進めているんだって? 去年の夏、おばさんがスウェーデンの議会政治を視察に来られたとき、男女平等が進んでいると感心されていたんだけれど、確かに女性の議会進出という点でも、他の北欧諸国と並んで先進的だと言えるわね。(傍線は筆者)
傍線部に注意してほしい。女性議員の多いスウェーデンは男女平等の国だ、つまり「女性が働くことこそ男女平等の姿であり、性別役割分業は女性に対する差別である」とはっきり述べているのだ。しかし、最近ではスウェーデンが離婚大国であり、家庭崩壊や少年犯罪が激増していることが知られるようになり、この国を礼賛する者はいなくなった。今時こんな問題を出したら大騒ぎになるだろう。
2005年(問題作成は2004年)になると、ジェンダーフリーに対する批判が広がり始めたのを意識してか、論点をずらした形でジェンダー論を出題している。「倫理」の第4問にはこうある。
〈問題文の一部〉
「男は仕事、女は家事・育児」というような社会的役割の配分のあり方は、性的役割分担と呼ばれる。しかし20世紀の最後の四半世紀からは、@それが性による差別や抑圧をもたらすものになっているという認識から、その是正を求める議論が高まってきている。(中略)しかし、妊娠・出産という身体機能において男女の自然的な差異が明らかであるとしても、それをどのように評価し処遇するか、Aさらには、様々な役割をどのように配分していくかは、自然に決まっていることではなく、文化的・社会的に決められていく事柄である。そのような視点からすれば、性別役割分担の前提として考えられてきた「男らしさ」「女らしさ」についても問い直される必要があるだろう。(傍線は筆者)
マーガレット・ミードの誤りが知られるようになり、「男女に性差はなく、ジェンダーは文化的・社会的に作られたものだ」という嘘が暴かれると、傍線Aのように「男女の役割分担が文化的・社会的に決められた」と論点をずらしているのだ。さらに傍線@に対しては、次のような設問がある。
<設問>
下線部(筆者注・どんな議論が高まっているか)の例として最も適当なものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@分業は社会的効率を高める方法であり、効率重視の現代社会では、性別による分業も効率性の観点から再編成すべきである。
A個人の選択の余地なく与えられる性別役割は、しばしば個人の人生の可能性に対する重大な侵害になるので解消すべきである。
Bこれまで男性優位に作られていた性別役割分担を、女性優位のあり方へと積極的に転換すべきである。
C自然的適性が明確である子育てなどの少数の事例以外、ただ偏見に基づく多くの性別役割分担を撤廃すべきである。
なんと、この問題は学問的な真実ではなく「どんな議論が高まっているか」、つまり「ジェンダー論者(フェミニスト)たちが今どんな議論をしているのか」を問うているのである。男・女らしさの否定も、男女に性差はないという文化決定説も、スウェーデンの例も使えなくなったがために、「ジェンダー論者の動向を問う」というように質問方法を変えているのだ。
選択肢も恣意的である。正解は当然Aだが、「性別役割分担=個人の可能性の重大な侵害」というのは、いかに彼等の本音であっても、言い過ぎであろう。@は内容としては正しいが、性別役割分担を肯定しているので、「どんな議論をしているか」という問いでは×になる。しかし、入試でそんな問題が許されるのか。また、Bが×なら「女性優位は議論していない」ことになるが、実際にはクォーター制やアファーマティブアクション等の推進を検討しているのではないか。自分たちが都合のいい議論をしているからといって、それに×をさせるのは、あまりにも姑息であろう。Cを×にするのも、いかにもという感じで笑わせる。育児を自分たちだけで引き受けるのは絶対に嫌だ、何が何でも男にさせたいという妄念のようなものが感じられる。これはもう問題というレベルのものではない。
2006年(2005年に作成)になると、ジェンダーパッシングはピークも迎える。ジェンダーフリーが家庭崩壊から国家崩壊に導く思想であるという認識が広まり、自民党内に対策チームが設けられたのもこの時期である。こうなると、以前のような出題はできなくなったのか、一見それとはわからないような形でジェンダー論を押しつけている。今年の「現代社会」第7問である。
下の表はインターネットの「ホームページや掲示板に公開してもよいと思う自分の情報」を12歳〜30歳の男女3,486名に尋ねた調査結果である(複数回答)。
ホームページや掲示板に公開してもよいと思う自分の情報
(%)
|
|
男性 |
女性 |
|
本名 |
11.8 |
3.2 |
|
年齢 |
42.7 |
34.2 |
|
住んでいる地域 |
36.0 |
30.1 |
|
メールアドレス |
20.7 |
14.3 |
|
自分の意見 |
44.9 |
43.1 |
内閣府政策統括官(総合企画調整担当)編『情報化社会と青少年―第4回情報化社会と青少年に関する調査書報告―』(2002年)により作成。
この調査結果からどのようなことが読み取れるだろうか。
すべての項目で男性よりも女性の数値が小さいことから、女性が男性より控え目だとしたら、あまりに短絡的である。例えば、「自分の意見」という項目に注目してみると、男性と女性の数値にほとんど差がない。
より妥当な解釈にたどり着くためには、他の既存の差データを調べたり、場合によっては新たに調査を実施したりする必要も生じる。また、調査を行う際の一般的な留意点が守られているかどうかにも注意しながら、調査全体についてじっくりと考える姿勢を忘れてはならない。(傍線は筆者)
傍線部に注目してほしい。「女性が男性より控え目だというのはあまりに短絡的である」とあるが、この調査は「プライバシーの公開に対する意識」を問うたものであり、「控え目(遠慮がちに行動すること)」という行動面おける傾向を示すものではない。よって調査から女性がプライバシーの公開に対して男性よりも消極的であるのがわかったとしても、それが「控え目」であることにはならない。言葉の概念が違うのだから当たり前である。にもかかわらず、あえて「控え目」という語を使って、「控え目だと考えるのは、あまりに短絡的である」と決めつけるのだ。しかも、女性が控え目ではないという論拠はどこにも示さず、「より妥当な解釈にたどり着くためには、他の既存の差データを調べたり、場合によっては新たに調査を実施したりする必要も生じる」と、根拠は「今後調査しろ」というのである。何をかいわんやである。控え目だと考えるのが短絡的だという根拠も示さず短絡的だと決めつけることこそ短絡的であろう。問題作成者が主張したいのは「女性が控え目であってはならないし、控え目であると考えてはいけない。それは短絡的で間違った考えだ」ということであり、それを問題文という形を借りて暗に受験生に強制しているのである。
しかし、受験生の中には、控え目に生きたいという女性もいるだろうし、控え目な女性を好む男性もいるだろう。そういう様々な価値観や心情をいっさい考慮しないで、特定の価値観を押し付けるのは、思想信条の自由に対する侵害にほかならない。ジェンダーフリーが思想統制という全体主義とセットになっていることが、こんなことからも伺えるのだ。
センター試験という「権威」
以上から、男女参画法の成立から今日に至るまで、形を変えながらも執拗にジェンダー論が出題されていることが理解できるだろう。しかも、設問の分析によって、問題作成者が世論の動向を伺いながら、強い意図を持って出題してきたことがわかる。公民の学習指導要領に、男女参画やジェンダーに関する記述があるわけではなく、もちろん現代文でジェンダーを学ぶ必要性があるわけでもない。にもかかわらず、あえてジェンダー論を出題しようとするのは、センター試験が高校教育の頂点に立つ「権威」だからである。
進学を目指す大半の高校生は、最初の関門としてセンター試験を受けることになる。センターを利用する私立大も多く、センターの出来で受験の結果は大きく左右される。それほど重要な試験であるがゆえに、高校や予備校の進学指導はまずセンター対策となる。センター試験の傾向が綿密に分析され、その傾向に従って指導法が組まれる。公民でジェンダー論が出題されれば、それについての知識を教えこみ、現代文で出題されたとなると、その系統の作品を読むような指導が始まる。センター試験の受験者は毎年約五十万。(公民は約三十万)。ほぼ全員が数年分の過去問を解くので、結果として二百万以上の受験生にジェンダー論を刷りこむことができるのだ。しかも、センター試験を受けるのは成績のいい生徒であり、やがては社会の中心で活躍する者が多い。そういう生徒たちに、「男女に性差はない」「男・女らしさや性別役割分担は悪」「女性が働くことこそ男女平等」(以上は「公民」)「ジェンダーフリーによって自由になれる」(今回の現代文)という偏狭なイデオロギーを刷りこんでいくのである。受験生の何割かがこうした思想を受容し、やがては熱心なジェンダー論者となってイデオロギーの敷衍に務めるのだろう。問題作成者の狙いはそこにあると思えてならない。
だが、特定の考えを受験生に強要したり(公民)、特定の生徒に有利になるような問題を出すのは(現代文)、先述した通り、思想信条の自由を侵害することになる。公的機関であり、高校教育の頂点に君臨する大学入試センターがこうした全体主義に手を貸しているのは、憂うべき事態であろう。