ここは「教育」に関する様々なテーマを討議したり、情報提供を行ったりするページです。
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江戸時代の庶民は天皇の存在を知らなかったか?
絶対評価の導入は教育を救うか?
仮想「日の丸君が代論争」
「新指導要領」導入前に学力低下が始まっている?
奉仕活動の義務化は是か非か?
成人式の混乱は日教組のせい?
「新指導要領」導入前に学力低下が始まっている?
問題提起(管理人)
●以前、日経のこんな記事を紹介したことがあると思います。
「漢字が消えた」
全国で13万人ものアルバイトを雇用する日本マクドナルド(東京・新宿)。接客に当たる高校生やフリーターに言葉遣いや注文の受け方を教えるマニュアル(手引書)が昨年夏、大きく姿を変えた。
「お客様に挨拶(あいさつ)をする」。旧マニュアルでは文章一行で片づけられていたくだりが、女性店員のイラスト付きで「(朝なら)おはようございます。(昼なら)こんにちは」と記されるようになった。漢字は少なく、絵で直感的に理解させるのが新マニュアルの特徴だ。
「最近の若い世代の読解力は信じられないくらい落ちている」と、同社の藤田田社長は語る。高校生の大半が日常的に本を読まなくなっているなか、日本では文字による知識の伝承すら危うくなり始めている。
この漢字力の低下はここ数年のことだと思います。指導要領が変わったわけでもないのに、なぜこんなになったのか。思い当たることが二つあります。
一つは「大学入試の易化」
推薦枠の拡大、入試科目の減少、少子化等によってそんなに受験勉強しなくてよくなったこと。
二つ目は「要求水準の低下」
何年か前に高校中退が大きな問題となり、文部省や各教育委員会から「中退を出さないような指導」があった。その結果、中退率はかなり減ったが、それは、ついて行けない生徒を丁寧に指導して理解させたわけではなく、ただ要求水準を下げたけだった。つまり、難しいことを教えず「出席さえしていれば卒業できる」状態となった。
漢字が読めないマックのバイト君は大学に行く生徒ではないでしょうから、漢字力の低下は「二つ目」が大きな要因ではないかと思われます。
高校中退の問題が騒がれたとき、中退率は4〜5%だったと思います。要求水準を下げたことで現在はそれが1〜2%低下しましたが、たったそれだけの生徒を中退させないために、残り95%の生徒の学習レベルを低下させたと考えられるのです。(まぁ、進学校では中退の問題はそんなにないでしょうから、95%というのはオーバーかもしれませんが、少なくとも中堅校以下には当てはまると思います)
いつだったか、大隈さんが「できない子をわからせようとしていると、できる子の指導がおろそかになる」ということを仰っていましたが、同様のことがじわじわと進行しているようです。いわば「低次元の平等化」が新指導要領を開始する前に始まっていると思われるのです。
絶対評価の導入にも議論がありましたが、単純な到達度評価にすればこの傾向にさらに拍車をかけるのではないかと思われます。ただ、相対評価のデメリットを承知しているだけに、絶対評価の導入にはある程度は賛成しますが、その方法は「相対評価を加味した絶対評価」すなわち、学校の平均値を3,0辺りに設定して正規分布させるような評価にしないと、とんでもない結果を招くと思います。
絶対評価の運用はついてはまだ詳しく発表されていませんが、充分に警戒する必要がありますね。
ともあれ、受験や競争、管理強制の排除、低次元での平等といった(イデオロギー的な)要素が知らぬ間に浸透している怖さを感じます。日教組の組織率は低下し、その種の言説も支持を失い、国旗国歌の実施率も急増して、一見戦後のイデオロギー支配から脱却しつつあるように見えますが、その実、「彼ら」が蒔いた種はしっかりと芽吹き、花咲かせようとしているのではないかと思えてなりません。
大隈さん
●私の高校でも、十月中旬に同じく中間考査がありました。31日に成績伝票を提出して、採点作業が済みました。今回は、公民科の政治経済の
100点分の試験問題の作成を担当しました。試験範囲のテーマは、政治の分野の「民主政治の基本原理」についてで、記号記入式で70点分を、任意記述式で30点分を用意して、平均点60点をねらってみました。
結果は、3年生3クラスと2年生3クラスの計6クラスの総平均が50点と出ました(本年度はカリキュラム変更の途中で、両学年に跨って政治経済の授業を受け持っております)。以前は、同様の試験をすると、どんなに悪くても55点には達していたように思います。が、ここ数年は、どんなに良くても50点くらいしか取れず、今回もそうでした。ここ数年の高校生の学力は確かに低下していて、具体的に数字で表わせば、100点分の5点分くらいのダウンがあるのではないか。たったの一例で、すべてを押し測ってしまう愚を犯してはいけませんが、どうしてもこういう感じがいたしております。
点がさほどあがらない理由の一つは、答案の内容を反省検分してみると、いわゆる「点取らせ問題」の得点をゲットできないことにあります。例えば「つい最近、大統領選挙をきっかけに、民主化の波が押し寄せた国が東ヨーロッパにある。それはどこか。次より選べ」とやって「イラン、ミャンマー、ユーゴスラビア、イスラエル、フランス」と並べました(登場させた国名はすべて、教科書の予め指定された範囲に出ているものです)。2点分の時事関連問題なのですが、たとえ全く目下の新聞報道等に接していなくても、「東ヨーロッパ」と限定されているので、そこそこの地理の知識さえあれば、「ユーゴスラビア」と、ひょいとたやすく出てくるはず。そう考えて出題してみたのですが、結果は、ごたごたした騒ぎのある国というイメージからか、ミャンマーだのイスラエルだのと答えられて散々でした。正答率は、5割くらいかと思います。以前ですと、
この手の問題の正答率は8割以上あったという印象が残っております。かならず得点はあるもの、というふうな安心感を伴っての印象ですが。
以前と比べて、学力は落ちていないという言い訳は無理がある。荒っぽい独断ですが、自分自身の担当している教科の試験の結果に思いを致すかぎりでは、そう私はどうしても思わざるをえません。
もちろん、わずかですが90点以上をクリアする者もおりますので、上位者の層がひどく薄くなっているようには見えませんが、それにしても、知識をたくさん持つことそのものを、軽んじるような雰囲気が若い世代にあるのかな、との思いを禁じることもできません。先生がお持ちの教科での手応えは、いかがでしょうか。
系統立てて知識を習得させる教科の時間と、そんなことをしない、したがって評価を下さない、例えば総合学習みたいな時間を同一の学校で並立させる。すると、児童生徒は力を後者に注ごうとし(それに比べれば、教科の学習ははるかに骨が折れるものですから)、そのありさまを見た教師は、やはり後者に力を尽くそうとする(教える手応えがありますから)。結果、学力の低下という恐るべき事態を招来し、かつてナチスやボルシェビズムが引き起こしたような文明の破壊となるかもしれない(実際、ヒトラーユーゲントは「授業みたいなつまらんことは、学校で止めにしよう」と唱えて、青年の支持を取りつけていったという記録を読んだことがあります)。こういう道理が、今や十分に見抜かれるべきだと強く思うのですが。
塾屋さん
●我が塾では年々生徒たちの学力が低下しているという現場の声が強く、3年前から中学3年生のほぼ全校の生徒に前年度の受験生達が受けた模擬試験を一斉に行い、昨年度の生徒との学力との差を具体的に点数ではかっています。
それで驚くことに3教科(英数国)合計で確実に前年度より12〜3点低い平均点が出ます。
調査を始めて3年ですから3年前の受験生に比べるとなんと40点近くのマイナスになっています。
この事実に関しての私どもの結論はこうです。
一つとして「我が塾に入塾してくる生徒のレベルが年々低下している」ことが考えられます。
しかしこれに関しては我が塾の合格実績がここ3年間ほとんど変わっていない。特に首都圏の最難関の学校(国立附属・開成・早稲田・慶應・中大附属系など)の実績はほとんど横ばいです。
ですから年々「昨年なら合格しなかったであろう生徒」が救われているわけですね。
要するに「中学生の学力が年々4〜5%の点数減という形で低下しているということを証明している」訳です。
ある公開模擬試験業者の方と話しますと「最近はデータが全く役に立たなくなっている。うちの模試で合格可能性10%未満という判定を出した生徒が実際には志望校に合格しているなんていう例がごろごろある。ですが、点数は合格の可能性を示していない以上とても合格の可能性があるという結果は出せない」と仰います。
実際に現場で受験生を送り出す方としては「嬉しい結果」が出るわけですが、受験全体を考えると何か物凄い不安感があります。
ですが、さらに恐ろしいのは今の小学生です。
なにせ「都道府県名」と「県庁所在地」をきちんと覚えている生徒がまず皆無です。さらにほぼ全員が日本の八地方の組み合わせがわかりません。また地図の見方などとても出来ませんし、歴史に至っては縄文時代から昭和・平成までの各時代を順番通り言える生徒など殆どおりません。
また漢字の書き方を全く指導しない学校が多く、新たに入塾してくる生徒の殆どが「何を出すのかが分かっている漢字テスト」で0点をとります。(ですが一ヶ月もするとほぼ全員が満点近い点数をとれるようになります。)
算数で言えば旅人算・流水算・植木算といったちょっとコツのいる問題は理解するのさえ半年とか一年もかかります。受験までもう3ヶ月を切っている小6生に未だに簡単な四則混合計算ができない受験生がゴロゴロいます。
理科で言えば、四季で星座の位置が変わるということさえ知らない、天体の運動に至っては殆どの生徒が理解できていません。
少なくとも10年前はこれらは学校で覚えてくるもので、それがあって初めて「塾の授業=中学受験勉強」ができていた訳ですが、今これらを塾が必死になって教えているような状態です。だから忙しいことこの上ない、というのが現在の塾の状況です。(ですがそれらを教えられきちんと覚えた生徒たちは小学校で担任の教師から「知っていることに関して」何らかの嫌味を言われます。「○○ちゃん(君)は塾に行っているか」と「出きることを窘められるのです。逆にうちの生徒が問題ができないことがあると「塾に行っているのにこんな問題もできないのか」などと言われ大抵の生徒は一度や二度は嫌な思いをしています。)
ここまでお書きになれば先生もお気づきでしょうが、これらの小学生が2002年から今の3割減の内容しか中学校で教わらなくなる訳です。「知っている=出きること」が「知らないこと=出きないこと」より「悪い」と感じるような状況に慣らされている生徒たちがです。そしてその3年後2006年に彼・彼女らは高校生になる訳です。
今年、「不況」「少子化」の逆境にも関わらず中学受験生が増加しました。丁度10年前にピークを迎えた首都圏の中学受験生は年々減り続けたものが10年ぶりに増加に転じた訳です。
これは「2002年問題」に不安を持った親たちが現れていること以外に説明がつきません。
実際、以前の中学受験家庭は大学合格実績を一番重要視していましたが、現在の親は「中高6ヵ年」でどのようなことを学ばせてくれるのか、ということを最優先とします。実際に昨年SS60・SS55・SS50の3つの中学校を合格しながら「校風」と「教育内容」でもってSS50の学校に進学させる家庭が私の教室にもありました。
親は「2007年から大学は全入になる」ということは皆充分知っています。ですがそれでも敢えて私立を選ぶのは「公教育への不信」以外の何者でもありません。
本来無償で受けられる筈の義務教育ですが、子供にまともな教育を受けさせるために年間100万円近い大金を出費しなければならないなんていうのは全くおかしな話です。
また首都圏や近畿圏や福岡・名古屋・札幌といった大都市圏以外には私立校そのものがないため、地方によって教育の均等化が図れないなんていうのはあってはならない事だと思います。
私も塾屋という立場を離れて考えても「何とかしなければ」、と思っていますが、ここで長尾氏も語っておられたように「道は険しい」というのが本音です。
管理人
●学力低下の問題ですが、塾屋さんのデータはかなりショッキングですね。大隈さんが懸念されているように、学力低下が新指導要領導入前に進行しているしているのは確かなようです。2002年からさらに学習内容が3割減らされるわけですから、日本人の知的水準が大幅に低下するのは必至でしょう。
以前、マクドナルドのバイト君が漢字を読めないために、マニュアルから漢字が消えたという日経の記事を紹介し、その原因を、
・大学入試の易化
・要求水準の低下
で説明しましたが、これはあくまで高校生を対象とした分析であって、小学生までも学力低下が起きているとするならば、別の要因を考えるしかありません。それらを思いつくままに列挙します。
・受験や競争=悪、ストレスを与えてはいけないといった論調がずっとつづき、学校や家庭での学習量が減った。(宿題なども以前に比べて減っている)
・バブル期の享楽的な文化が今も社会を覆っている。(子供たちの観るテレビ番組でも、勤勉さや真面目さを茶化すものが多い。優等生がヒーローになれないのは日本だけとか)
・大量消費文化が学校に流れ込んでいる。(一連の管理教育批判によってこれは顕著になった)
・若い親たちの家庭の問題。(勉強させるという家庭環境ではない)
等ですが、いかがでしょうか。
私が勤務しているのは「偏差値的に低い学校」ですが、前任校は「もって低い学校」その前は「さらに低い学校」だったので(つまり、教える生徒のレベルが少しずつ上がっているので)「まぁこんなものかな」という感じで学力低下を実感するまでには至っていません。
ただ、漠然と感じるのは、生徒がマンガも読まなくなった(もちろん本も読んでいない)、家庭学習はほぼ全員がゼロだろうな、ということです。
私は今、学校の「生徒会誌」を作っていますが、20年以上前の生徒会誌を見ると、生徒の論文等も載っており、そのレベルの高さに驚かされます。また、図書室のちょっと難しそうな本の貸出カードを見ると、大体が昭和50年代止まりです。
昭和52年から「ゆとりと充実」というスローガンによって学習内容が2〜3割減らされましたが、その影響は知的水準の低下という形になってはっきりと現われているようです。
今、学力や知的水準が着実に低下してるのは間違いないでしょうし、それと逆行するように性体験率は急増しています。これは日本の子供たちが「動物化」しつつある証拠ではないかと思えてなりません。
「学力と愛国心の剥奪は革命を起こす必須条件である」というのを何かで読んだことがありますが、この国の現状を見ていると、あながちヨタ話と笑えないものを感じてしまいます。
塾屋さん
●なぜ子供達の学力の低下が起こっているのか、その原因を長尾氏が推察していますが、実際に小学生・中学生を担当していて「これかなあ」と思うのは次のご指摘です。
@・受験や競争=悪、ストレスを与えてはいけないといった論調がずっとつづき、学校や家庭での学習量が減った。(宿題なども以前に比べて減っている)
これが私も一番大きいと思う。なにせ今の学校は宿題がほとんどでない。子供は元気に遊んでいるのが一番、と考える先生が本当に多いです。
そして絶対に無視できないのは
A・若い親たちの家庭の問題。(勉強させるという家庭環境ではない)
です。特に今の親の態度は目を疑うばかりに酷い。私立では今学校説明会が花盛りですが、「遅刻をしても悪びれない」「ガムを噛みながら話を聞く」「幼い子供を会の間中ほったらかしにし、奇声を上げても注意しないほっておく」という親が本当に目立ちます。(これは私立の先生方が必ず私共に訴えてくる実情です)
で、私が推察はこうです。
教師は大抵自分が学生時代に学んだ教師に大きな影響を受けている。
私達の世代(OVER30)が教育を受けていた時の先生は戦前の教育を受けていた教師に教えられ影響を受けていたので、結構道徳的な考えは戦前の思想が入っていたのではないでしょうか。
ところが今の教員は戦後教育を受けた教師の影響を受けている、というあたりに何かあるのではないでしょうか。
私達が小学生の頃、先生たちは戦争を経験している世代ですが、実際に今教壇に立たれている先生たちで戦争を経験している世代は60歳近い方以上の世代ですよね。
ですから戦後教育(いわゆる子供の人権だとか、個性尊重とかのあたりの良い言葉)がじんわりと浸透した世代が親の世代になっている。
そこのところが表面に現れ始めているのではないでしょうか。
私が実際に接している親にも「バカ親」(親ばかを通り越しているという意味です。頭が悪いという意味では決してありません)はおりますが、以前に比べて比率が上がっているような気がします。というか確実に増えています。
そろそろ日本人には「学校は勉強する場」であって、道徳とか社会常識は「社会全体が教えていく」という自覚が芽生えてもいいと思います。私は先生は「勉強を教える専門家」であるという姿が優先されると思うのです。
塾にはまだかろうじてこういう人が残っています。社会的な常識は全くないのにこと専門教科の知識に関して正に舌を巻き、教え方がすこぶる上手で子供達の人気もある、という教師です。勿論、これらは極端な例で学校の先生にするのはちょっと問題の多い「人種」ですが。ですがほとんど40代50代ですね。30代にはまずいないし、20代ではお目にかかったことはありません。
特にいじめの問題や少年犯罪が起こるたびに「学校が悪い」というマスコミの論調にも違和感を感じる。「このような子供を生み出した社会が悪い」なんていうのも違和感がありますが、少なくとも「学校が悪い」というよりはまだマシかなとも思います。
何か「親の責任」というものをもっと考える姿勢というのも必要だと思いますが。
つまりそれぞれの「個人」が少しずつ変質していっているものが形として現れているのではないでしょうか?
アライグマさん
●昨日、たまたま小学校の教員を数年前に定年退職した方(最近はいろんなとこで顧問みたいなことをして活動されている方です)と別件で話していたら最近の小学校教員の指導力低下に関する話に話が飛んでしまい、興味深い話をうかがうことができました。
ってなわけで、ちょうどタイムリーみたいなので、書いちゃいます。
「私(その元教員女史)のころは、”この時間にこれを絶対教えきる”というのを確実に意識している人が多かったように思うけれど、最近の小学校の教員は”どうやって楽しくするか”とか”クラスの運営”や”興味を持たせる”ということばかりに関心がいってしまっているから指導力が低下しちゃうのよ。要は”教科指導”に関する意識が低いのよね。それに、たとえちゃんと指導としている人でも、行事などが肥大化してしまっていて疲弊している人も多いのよね、もう、運動会もなんとかコンクールなんてのも、時間潰すだけなんだからもう全部やめちゃえばいいのよ!」
とのことでした。
いやはや結構過激なおねーさまです。(^^;)
紅緒センセイ
●やっぱり学力低下は統計的なデータでも現れているのですね・・・
私も日本では大学1年生の時から家庭教師とかうちで1グループ3〜6人ぐらいの子供(小学校中学年から高校生まで)を集めて勉強を見ていたのですが、そして現在勤務中の補習校は今年で7年目なのですが、年々学力の低下を感じていました。特に顕著なのが国語力の低下です。これはアメリカで生まれ育った子供に限らず、渡米1年前後の子供にも共通した問題点です。
具体的には、以前は漢字は正しく書けなくても教科書に出ている漢字ぐらいはなんとか読める(漢字の読み取りテストとちがって教科書の漢字は文脈から推察することがかなり可能ですから)子供が大多数だったのですが、今はこれすらもできない子供が増えてきました。それから、ボキャブラリーが年々乏しくになってきて、簡単な文法事項の問題(例えば、主部や述部、修飾句を指摘することなど)もできない、読解問題も真新しい問題を出されたらお手上げ、作文はめちゃくちゃ・・・などなど、枚挙にいとまがありません。
国語力の低下は学力全体の低下に繋がります。なぜなら、どんな学問であっても言語を介して存在するのですから。(日本の場合は当然日本語ですね)ゆえに、私は学力低下の要因の一つは間違いなく国語力の低下であると確信しております。そして、この国語力の低下を引き起こした原因はいろいろ考えられますが、私なりに考えられるのは以下のようなことです。この中には今までにこの件に関して意見を述べられた方とも共通するところも多いと思います。
@日本語軽視の風潮
言語は不断の変化にさらされるものとはいうものの、ここ20年ぐらい
の日本語の乱れは万人の指摘するところでしょう。これは反日教育とも密接に繋がっていると思います。
A本離れ
活字に限らず、今は私たちが子供の頃に比べて漫画や絵本といったビジュアル・アシスタンスのある本ですら読まなくなった大人や子供が多いですね。テレビゲームやビデオなど他に娯楽物がありふれているこのご時世、親が子供に本を読んであげる時間も激減しているように思うのですが。(アメリカでは親がうちで子供に本を読んであげる時間と子供の学力とは比例するというケーススダディの結果が数多く紹介されています。)
B親や教師の期待の低下
これも他の論客の皆さんが指摘なさっていますが、最近では「漢字が読めない、作文が書けないのもその子の個性だ」などという珍論が日○組教師の間で蔓延しているようですし、親も子供にプレッシャーを与えてはいけないのでテストの点とか作文がどれだけひどいものであろうと子供を叱咤激励するのを躊躇しているような気がします。このような低い期待のもとでは当然国語力は伸びるわけがありませんよね。
私は、国語教育はすべての学問の基礎であると考えておりますので、特に小学校低学年では何よりも国語教育に力を入れるべきだと信じて疑いません。(厳密に言えば未就学の段階から家庭においてできるかぎりの国語教育を行うべきなのですが。)それゆえ、まず学力低下を防止・修復するために手っ取り早い方法は「本を読むこと」だと確信し、実際に私の学年では今年は例年にもまして特に読書に重点をおいています。もちろん一朝一夕に効果の現れる方法ではないでしょうが、長期的には効果があると信じて教え子達のおしりをたたいて図書室に送っています。
(もちろん小紅緒にも「本読まんかったらアホになるで。」と念仏のように繰り返し、読んであげています。そして、私自身もこのことを意識しはじめてからはかなりの読書家になりました。)
管理人
●学力低下の問題が議論されていますが、その原因についてさらに2点ほど指摘したいと思います。
「公的意識の欠如」
戦後、国家を考えることは「戦争につながる」としてタブー視されるようになり、国民から「国のために」「社会のために」という意識が失われた。第四回世界青年意識調査によれば、日本の若者は「自分の国の役に立ちたい」という意識が他国に比べて極端に低い。「自分の利益を犠牲にしても」という条件を加えれば、韓国54%、アメリカ57%に比べて日本はたったの5%しかない。これはまさに日本という国家や国旗国歌を悪として教えてきた日教組教育、あるいは戦後教育イデオロギーの「負の遺産」である。「公」よりも「私」の利益のために生きることが正しいという考えが支配的になれば、当然「国(社会)のために」「社会に貢献するために学ぶ」という姿勢は消えていく。さらに飽食の時代になったことで、「学び」の必然性も意義も感じられなくなった。簡単にいえば、この豊かな時代に自分のためだけに生きるのなら、面倒な勉強などする必要がなくなったということ。(フリーターの増加はその象徴)
「公立学校の凋落」
都市部では「進学するなら私立へ」という傾向が顕著になり、「勉強するには金がかかる」ようになった。公立優位の時代には「勉強して国公立に行けば、親に負担をかけない」「だから頑張って勉強する」という図式があったが、現在では「経済的に余裕がないので私立にはいけない」「だからそんなに勉強しなくてもいい」あるいは「私立に行けば親に迷惑がかかるので公立でいい」「だからそんなに勉強しなくてもいい」となった。
これまで指摘された原因をまとめると次のようになります。
@入試の易化。
A要求水準の低下。
B若い親の問題。
C受験競争=悪という認識の一般化。
D公的意識の欠如
E公立学校の凋落。
F大量消費文化の学校への流入
G享楽文化の一般化
H「授業は学習よりも楽しく」という風潮。
I日本語軽視の風潮
J本離れ
K親や教師の期待の低下
上記の理由を見ていると気づくことがあります。これらは日教組教育、あるいは戦後教育(左翼)イデオロギーと関わりがあるではないかということです。試しに以下のように分類してみました。
密接な関わりがあると思われるもの。@CDEF
ある程度関係があると思われるもの。ABHIK
それほど関係がないと思われるもの。GJ
何のことはない。今問題になっている学力崩壊はやはり日教組教育、あるいは戦後教育(左翼)イデオロギーの影響によるものだと考えられるのです!!
しかも、こうしたイデオロギーの総決算ともいうべき新指導要領が2002年から開始されるわけですから、子供たちのは学力は壊滅的な打撃を受けるでしょうね。やれやれ……
江戸時代の庶民は天皇の存在を知らなかったか?
(問題提起)管理人
●「天皇は庶民に知られていなかった論」についてですが、実は私もずっとそう思っていました。(何かの本で読んだ記憶があるのです)ですから、星野さんが反論されたとき「やばいな」と思ったのですが、やりとりを見ているうちに、もしかしたらこれもいわゆる「反日史観」による植付けではないかと思うようになりました。「天皇なんて江戸時代は忘れられた存在だったんだ。だから、天皇なんて大した存在じゃないんだ」と思わせるための・・・。今の段階ではなんとも言えませんが、これについてはいろいろと資料を調べてみるつもりでいます。
読者のみなさんの中で、この問題に関してコメントできる方がいらっしゃれば、ぜひお願いします。結果はどちらだっていいのです。ただ真実を知りたいだけですから。
塾屋さん
●私の場合、世界史が専門で(中でも一番役にたたない経済政策史何ぞを専門としていますが)日本史はあまり得意ではありませんが、世界と日本の近代にはある大きな違いがあります。それは時代劇によく見られる街中にある高札を民衆が見ているシーンなのですが欧州や中国など世界の国々では一般の民衆があのように「お上」が「御触れ」を発行するなどということが殆どないのです。なぜかというと欧州や中国では文字を使うことは支配者階級の特権であって民衆は例外無く文盲なのですね。(日本の明治維新の成功は識字率の高さにもあったのは事実でしょう)ですから出しても読めない。ところが日本では高札が今も一杯残っている。この事実から推察します。
ドイツ人でありながらロシアの女帝となったエカテリーナはフランス革命の報に触れたとき「文字も読めないものが政治など出来る訳がない」と激怒したといいます。
またさらに時代は古いのですが、マルティン・ルターはかの有名な「95か条の意見書」の発表方法は別にバチカンの本部に出した訳ではなかったのです。ではどうやったのかというと、彼はサンピエトロ寺院の正門に意見書を貼りつけたのですね。本人はなにも「宗教改革」を目的として意見書を書いた訳ではなく(でも結局キリスト教の大分裂を引き起こすのですけれどね)、単にカトリック内部へ意見を言いたかった訳なのですね。でも当時のカトリック内部の人々は自分たちへの耳の痛い内容の文なんか受け取ってくれないかもしれない、それで門に貼りつけた訳ですね。内容は歴史に残るほど「革命的」な内容だった訳ですが、そんなのを門にペタッて貼りつけちゃった。でもこれで当時は良かった訳ですよ。なぜなら民衆は文盲なので何を書いてあるかは分からない。だから文字を読める人は当然支配階級なので意見書は確実に支配者に届く訳ですね。しかも下級役人にも「ルターがこんなの出した」と皆知らしめた訳ですね。なぜなら門に貼っちゃったわけですから。ですからバチカンはこれを無視する訳にいかず、ルターを破門にせざるをえなかった。(その後ザクセン公に保護されて宗教改革を始める訳です。)
それでもフランス革命で民衆は「国王を知っており」それを絶対に打倒すべきだと考えた。またルターの宗教改革も民衆は支持し、バチカンの不正を皆が知ることになった。
つまり識字率に関係なく情報は伝わった訳ですね。
さて振り返って日本ですが、江戸時代には慶安の御触書が出される。慶安の御触書だけではなく、何度も何度も「お上」から民衆に向けて出される。小学生でも知っている通り「生類憐れみ令」なんかもそうですね。その他にも近松門左衛門や井原西鶴、十返舎一九などが民衆にも広く読まれている。かなり識字率が高い訳ですね。ですから相当知識レベルは高かった。
これは寺小屋の存在が一番大きかった。寺子屋は大抵の町にあり、そこでお役のない武士が読み書きやそろばんを教えていたわけですね。教師役の武士は幕府御用達の「朱子学」、もしくは武士が好んだ「陽明学」にしろとにかく儒教は「覇道」を基礎に置いているわけですから、当然、天皇‐将軍の関係を把握しているに違いない。というか知らない方がおかしい。だからこのことについて寺子屋で庶民の子に触れない方が不自然です。幕府が「寺子屋で天皇について教えるな」というお達しを出しているなら別ですが、征夷大将軍が「天皇の臣下」という形式である以上それは考えられない。(「禁中並公家諸法度」だって「公家はあまりにも恐れ多いので政治なんて下世話なものは我々武家がやります」という文調で書かれてあるはずですので)
また江戸時代はそれこそ武士(支配者)が町民と一緒の町で暮らすという、支配者がお屋敷に住んでいた奈良・平安時代とは違った生活形式をとっていたため、武士と庶民の生活が近かった。これは西洋でも見られない形式です。いわゆる支配者は荘園を中心とした城に住んでいたので、庶民とは繋がりが殆どなかった。
もちろん将軍や大名は庶民とはほとんど繋がりがなかったも知れませんが、天皇のことを充分に知っている武士は庶民と密接に結びついた生活をしている。ここから導き出せる事実は「江戸や大阪や京都といった町の人々は天皇のことを知っていなければ不自然である」ということです。また江戸時代は想像以上に人の往来が自由であった。よく「関所でもって往来を制限した」なんていいますが、あれは「入り鉄砲」と「出女」を取り締まるためであり、許可さえ貰えば庶民は各地に自由に行けた。
また「お伊勢参り」が江戸時代に大流行していたことから、相当人々の「情報の共有」が発達していたと見て言い訳ですね。なおかつ伊勢神宮は当然「天子さま」「天帝さま」(どんな呼び方をしていたのか解りませんが)の関連だと皆知っていた訳ですね。ですからかなりの当時の日本人が「天皇」の存在を知っていたのです。
なおかつ江戸時代の関東の人間は京都のことを「上方」といい、この「上」とは天皇を指しているのは明らかですね。ですから当時の民衆が天皇のことを知らない、なんてことは絶対に有り得ないと思われる訳です。
事実を検証した訳ではありませんが、江戸幕府の支配の形態=征夷大将軍も朝廷の一臣下という形式である以上、支配の上で天皇の存在を隠すことなんか絶対に出来ない訳です。また江戸時代から邪馬台国論争が広く人々の話題になり、日本武尊のお話などが御伽草子などに書かれ、子供たちにも知られていることなどから考えても「某氏」の言っていたことははっきりと事実とは違うと思われます。
なにより江戸時代は農業さえやっていれば農民の生活は相当自由であった。男女の関係も同等というかむしろ女性は子供を産めるということで相当立場も高かったと推察されます。また百姓一揆の文章も「だいたい武士ごときが農民様に意見を言うなんて身の程知らずだ。本当に農民を皆殺しにして困るのはお前たち武士だろう。」というような内容のものがほとんどなんですね。
ですから教科書にあるような「暴力的な方法で支配する武士VS虐げられるものも言えない農民(民衆)」という対立構造は潜在的にはあっても実際には違っている訳ですね。このへんの事実は日本史を勉強している人には当たり前のことらしいですね。
以上、全くなんの資料もありませんが今の持ち合わせの知識だけで推察する見解ですが如何でしょうか。
私も拙論にはこだわりません。どなたかの意見を聞いて事実が知りたいだけです。
管理人
●「江戸庶民は天皇を知っていたか」の件です。
「例の人」は「天皇が何なのかがほとんど知られていなかった」と述べていますが、天皇の存在を知ればその職能は自ずと分かるでしょうから両者は同義と捉えておきます。
まず、今日、日本史の先生に聞いたところ「京の人は御所があるから当然知っていただろうけど、江戸の人はどうかなぁ。あんまり考えたことがないからわからないなぁ」とのこと。日本史の先生ですらわからないのだから、これはかなり高度な問題のようです。
そこで、図書館に行き「日本の歴史、明治維新」小学館(田中彰著)という本を借りてみました。さっそくありましたね。
P174「それにしても、天皇の存在すらほとんど知らなかった民衆の中に、なぜかくも急速に天皇の権威が浸透していったのか」
ここで問題なのは「ほとんど」という表現ですね。「まったく」と書いていないところに、筆者の推量であろうという推理が成り立ちます。つまり、「おそらく知らなかったであろう」ということで、知らなかったことを論証する資料はないように思われます。
その少し前にはこんなことが書かれています。
P172「関東以北の旧朝敵藩の多かった地方では、天皇のことを天公、禁公とよんでいた」「東北地方では子供まで天皇の権限を論じる者がいる」
明治8年の記述なんですが、「天公」「禁公」といった呼称がこの当時にあったこと事態、天皇に対する知識が以前からあったことを伺わせます。(この主語はわかりませんが)
また、天皇は威光を示すために東北行幸をするのですが「下層階級の者は彼の足がふんだ部分の土を丁寧に集め、神聖な土だから病気を治してくれると信じた」そうです。
こうした「急速な天皇の権威の浸透」を筆者は生き神信仰に求めていますが、単にそれだけではなく伊勢信仰とセットになった神道、天皇に関する素地があったのではないかとも思われます。
塾屋さん
●さて、問題の「江戸庶民の天皇認識論争」ですが、今日かなり説得力のある意見をお聞きしました。
実は私どもの教室に予備校教師歴30年で現在も大手予備校で浪人生の日本史を担当されている超ベテランの先生おります。彼は週3日予備校で日本史を教え、2日間私共の教室でなぜか中学生の「国語」をご担当です。(なんでも遊んでるよりなんぼかまし、という考えでらっしゃって「タバコ銭」程度の安いペイで授業をご担当頂いています)その方に今回の経緯をお話ししたところ一刀両断で、
「そんなの皆な知っているにきまってるじゃないですか」と仰います。その根拠として先生が仰るのは、
「江戸時代の幕府の命令の多くに天皇の名前で出したものがある」
ということで特にキリスト教の禁教政策の際には神社・寺院を自陣に取りこむには天皇の存在が欠かせなかった。
「二条城では定期的に将軍が天皇に会っており、同様に御所でも将軍は天皇に会っていた。また新嘗祭などに大名も貢物を送ったり、特に大嘗祭には大名も参加しなければならず、当然市民には年貢の加増がありその際に『帝が新しくなったのだから』という理由がはっきりと市民に伝えられているし文献も残っている」
「幕府の江戸の治世は『朝廷の軍事部門』が独立したものであり、形式的には天皇が国家の『王』であった。これは後に日本が開国した際に諸外国の人々が天皇はエンペラーと訳せたのに将軍は適当な訳語がなかった。だからTycoon(大君)という言葉を使わざるを得なかった。また開国の相談を禁を破って朝廷にも相談したのは米大統領のフィルモアの国書が国家元首宛であったことが一番の理由である」
まだ後、いろいろお話をして下さったのですがとりあえずここらへんで自分なりの形が見えてきました。あとはこの掲示板でどのような意見がでるか楽しみです。
最後に先生の言葉を記します。
「多分、天皇のことを知らなかった人々は沢山いたとは思うのですわ。ただそれは今の人間だってな〜んも知らん者もおる。ただ幕府は別に天皇の存在を隠していた訳ではなく、むしろ都合のよいときは利用していたと思うのですわ。これは力対力の関係から朝廷にはしょうがないことですわなあ。ただ朝廷自身も天皇を出来るだけ神秘な存在としたかったから実際には天皇がどんな顔をしとったかはだれも知らんのですわ。それが後の人々からみたら、『庶民は天皇のことなんか何も知るわけが無い』という思い込みにつながったのだと私は思うのですけどねえ」
私はこの言葉に納得でした。
作家の鈴木輝一郎さん メール ホームページ
●「『江戸期の庶民』と『江戸市中の庶民』とでは若干事情は違うでしょう。江戸時代でも京都・大坂は当然御所の存在を知っているわけですから、公家のなかの偉いさんだという認識はあったでしょう。ただ、家光以降、将軍宣下は江戸城内でやっているので、天皇の存在理由を理解していたかどうかまではわかりません。『江戸市中の庶民』については、軍記読み・講談のたぐいが娯楽として存在していた関係上、まあ、天皇の存在自体を知らないとは考え難いのですが、それに関心があったかどうかは別。幕末まで織田や足利といった徳川の主筋(織田はちょっと違いますが)も存在はしていましたが、それと一緒で『昔偉かった人がどこかにいるらしい』という認識ぐらいでしょう。
どちらにしても、江戸期の庶民にとって天皇の存在は生活にはあまり関係ないので、現代のわれわれにとっての徳川家、みたいなものじゃないですかね。一世一元は明治以降のもので、天皇の生死と元号はイコールではないし、そもそも庶民にしてみれば天皇と元号の関係もわかっていないでしょう。徳川家が今でもある、ってのは確かですが、あれを忘れ去られた存在といえば確かにそうですけどね」
インターネット歴史作家協会のみなさん
●「これは、アンケートの取り方次第じゃないでしょうか。現代でも、首相が誰か、アメリカ大統領が誰かを知らない人間が相当数、存在しま
す。天皇を知らない人間も、いても不思議ではなかろうと思います。
江戸時代、全日本人を対象にアンケートを取ることが可能であれば、知らない人間が大多数を占めると思います。もちろん将軍に関しても同じで、知っていたのは直接的な利害関係のある、すぐ上の支配者だったのではないでしょうか」
●当時は、江戸の庶民も伊勢講なんかを組んで、交代で出かける仕組みができていたみたいですね。とはいえ江戸の町人たちにとっては、伊勢神宮よりも神田明神や深川の八幡さまの方が重要だったのでは……と思われますが。
ただ、将軍宣下のときや、天皇の名代の公家が江戸城に参内するときは、町人は道中を見ていなかったんでしょうか? お堀端を江戸城に向かう公家の行列の絵はありましたが、京から江戸までの道中などは、どうだったんでしょう? 朝鮮通信使などは、あちこちに足跡を残していますが、公家の道中って、江戸でも品川や高輪あたりでは目撃されていたのではないでしょうか? もっとも、お公家さまと天子さまの関係が認識されていたかどうかは不明ですが。
●当時元号で年齢を言っていたろうと思うのは間違いで、十二支十干の組み合わせを使っていました。だからこそ「丙午の女は男を食い殺す」という迷信の言い方があるわけです。これ以上(十二支十干の組み合わせ)の長い時間のスパンというのは庶民の生活には必要なかったと思われます。
>また「お伊勢参り」が江戸時代に大流行していたことから、相当人々の「情報の共有」が発達していたと見て言いわけですね。なおかつ伊勢神宮は当然「天子さま」「天帝さま」(どんな呼び方をしていたのか解りませんが)の関連だと皆知っていた訳ですね。ですからかなりの当時の日本人が「天皇」の存在を知っていたのです。
という記述もありましたが、伊勢神宮にお参りしたから天皇の存在を知っていたとうのも短絡的で、天神様やお稲荷さんとどのくらい区別が出来ていたか程度の物と思われます。富士信仰もあれば権現様もいるし・・・。お伊勢参りは今の海外旅行みたいなものですが、海外に行ったからどれほどのことが分かるか、ってことですね。
そこで断言してしまいますが。江戸時代の庶民にとって、天皇の認識というものは八百万の神の一人程度の認識であった。(無茶いうわ)
●江戸の庶民たち、やはり太平記などの軍談を日常の娯楽としていたこともあり。「天子さまは、いまでもいなさるそうだ」くらいの認識は持っていたと思います。将軍の代替わりなどに、公家が下ってくるということも知られていたようですし。将軍家より偉い、などと位置づけしている人は、高山彦九郎のような特殊な人だったでしょうけど。
シュートさん
●どこのだれだか知らないけれど、誰もが皆知っている。いささか古い言い回しですが、江戸時代の天皇について私はそう思っています。
ここ千年のベストセラーを国文学者に聞けば「平家物語」と答えるでしょう。帝、平氏、源氏の織り成しこの物語は江戸初期(?)に一般化し多くの慣用句を生み出しています。
・栄枯盛衰世の習い、盛者必衰
・奢れる者は久からず
・判官びいき
・立ち往生
・etc
慣用句は誰に言っても理解できることを前提としており誰もが平家物語を知っていたことを物語っています。また、琵琶法師の平家ものの流行は原作を知っている庶民にとって「映画」のようなものであったと思われます。芭蕉は奥の細道の中で「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んでいますが、この「兵」の意味を説明していません。
江戸期の庶民(農民を含む)は、容易に天皇(帝/みかど)を理解できたと思います。
明治帝の全国巡幸に多くの庶民が集まったそうですが、彼らは帝のご威光にひれ伏したのでしょうか、否、彼らは自分の心にある幼くして波間に沈んだ安徳帝のイメージを明治帝の面差の中に見つけようとしたのではないかと思います。
私にとってのミスチルコンサートのようなもの(見てきたような嘘かな)
CHRDさん
●>江戸期の天皇は宮中から外に出るときはまずなく、民衆にとって
>「天皇とは何か」が殆ど知られてない存在でした
教育を正す掲示板に、この最近よくみる朝日・岩波一派の主張を
おかしなはなしだ、と最初に書いたものです。
こういう主張を始めた最初の学者は、江戸期の事情を調べたうえで結論を出しているはずで、調査結果も発表されてる筈ですよね。
学会で、その調査及びそれから導き出した結論に異論はでてないのでしょうかね。
『忠臣蔵』の勅使饗応の「勅使」、桃の節句のお内裏様、源平の戦の、為朝、義経、義仲、安徳天皇の悲劇、弓削の道鏡、菅公の芝居、百人一首のなかの帝の歌、楠公の忠臣化とブームは江戸時代ですよね、
漁師の、アンジロウだかは、ザビエルに帝と将軍の存在を説明したていたのではなかったかな
太閤の、関白は誰からさずかったと当時の読み物にはかいてあるのですかね、
明治になるまでの年表記は、元号干支両併記が一般ではなかったのかな
素人の私には、朝日・岩波一派の、例によっての天皇をことさら低くみせる継続した作業の一環におもえますが、学会の事情に詳しい方に説明願えたらとおもいますね。
管理人
●CHRDさん、はじめまして。私もまったくCHRDさんと同じ考えを持っています。例の掲示板でCHRDさんや星野さんのご意見を読むまで「江戸の庶民は天皇の存在をほとんど知らなかった」と思いこんでいたのですが、どうもそうではないらしいことにハタと気づいたのです。みなさんのご意見を参考にして考えると、「状況証拠は真っ黒」ですね。シュートさんは「どこのだれだか知らないけれど、誰もが皆知っている」と巧みな比喩を使われていますが、「将軍より偉い人が京にいることをみんな知っていたのではなかろうか」とすら思うようになりました。
CHRDさんの指摘された百人一首を庶民は知らなかったのでしょうか。「源氏物語」や「竹取物語」をまったく知らなかったのでしょうか。「かぐや姫」の話には「帝」が重要なキャラとして登場しますが、こんなに有名な話が江戸時代の庶民の間で受容されなかったというのでしょうか。
サンカや木挽きといった山を住処とする「山人」は、天皇家との密接なつながり自らのアイデンテイテイとしてを受け継いできたと言います。下界と隔絶した暮らしをしていた山人ですらそうなのだから一般の庶民においては・・・・となりますね。
ともあれ、この問題は実に興味深いので、自称超三流泡沫歴史作家としては、何とか「証拠」を探し出して、みなさんに提示したいと思っています。乞うご期待!
管理人
●例の歴史問題は簡単にけりがつきそうです。
百人一首は「足利時代末期に、ポルトガル人によりカルタが伝えられ、これが伝統的な貝覆の遊びと結びついて歌かるたが生まれたといわれる。元禄の頃には木版刷りの安価な百人一首かるたが出回るようになり、庶民の間にも『百人一首』が急速に浸透していった」とか。だったら、江戸庶民の多くが天皇の存在を知っていたのは当然です。「かぐや姫」の話も「古くから庶民の間で親しまれていた説話」であると様々な解説書に書かれているので、「帝」の職能まで知られていたのは明らかですね。
では、なんで「天皇はほとんど知られていない存在」などといわれるようになったのか。調査はさらに続きます。
塾屋さん
●その子は現在「海洋生物学」を学ぶ大学4年生で来年からはクジラの研究で大学院に進むのが決定している女の子です。
彼女は先日、クジラの研究のため和歌山県太地町に行き、太地の捕鯨の歴史を調べたそうです。
かいつまんでいうと太地の捕鯨は1606年和田忠兵衛頼元なる網元により急速に発達していったそうです。ですがまだまだ捕鯨はギャンブルに近く確実な捕獲が出来なかったそうです。
ですが1675年に和田角右衛門頼治(のちの太地角右エ門)が網取法を考案して大いに成果をあげるようになり、安定した捕獲数を確保できるようになり、捕鯨は太地の産業として確立されていきました。
で、その2年後の1677年に太地鯨方(株仲間のようなものですかね?)は初めて「その名」で朝廷にあてて鯨肉を献上しているという記録が残っているそうです。その後、同様に幕府にも鯨肉を献上し、両者の面子を保っていたという記述があったそうです。(右上のHOMEをクリックして下さい。太地町のWページにもその記述が確かにありました!)
それ以前も太地でクジラがとれると地元の人は「神様からの授かり物」と考え、敬意を払ってクジラを「勇魚」と呼び習わしていたそうですが、1675年までは「自分達が食べていくのが精一杯」という状態だったため、「献上」はしていなかったようです。ですが初献上後は安定した捕獲が出来るようになったこともあり、定期的にも太地の鯨方は鯨が水揚げされる度に朝廷と紀州徳川家に「献上」を行なっていたそうです。
それでその時に一番美味とされる「クジラの尾の身」は朝廷に献上され、次に美味しいとされる腹回りの肉が紀州藩に献上されたとのことです。
この時、鯨方は「神様からの授かりものをお返しする」という意識で朝廷に献上を行なったというのです。
少なくとも太地の漁民達は天皇の存在を知っていたと考えた方がいいみたいですね。
シュートさん
●江戸の識字率は約80%で世界一の水準と教わりました。当時の西ヨーロッパは2〜30%程度、我が国との一番の違いは農民階級がほとんど文盲であったことです。(記憶に頼っているので数字の間違いはご容赦)
江戸農民の識字率の高さ(世界に例のない)は何に由来するのか
@戦国の終了により職場を失った武士の農民化
A娯楽としての読書の普及(出版業成立の土壌/蔦屋)
B教養としての歌詠み(旅の俳諧師、大歓迎)
C武士に次ぐ階級としての矜持 等かな
さて本題です、農村での教育機関は寺子屋ですが、文字どおり寺の中にあり、教師はとゆうと「和尚/僧」と考えて間違いないでしょう。
ではこの僧たちはその教師スキルをどこで身につけたのか..
末寺子弟または僧を目指す人の教育機関は現在と変わりません「本山」です。そしてそのほとんどが京都に集まっています(現在は仏教系大學)。武士階級教育システムのサーバーが江戸にあったのに対し、農民のそれは京都にあったことになります。
僧/教師は京で身に付けた教養を、嬉々として田舎の子供たちに語ったのではないでしょうか。
江戸農民の識字率の高さの由来について一点追加します。これが一番大きな要因かもしれません。
D農民からの脱出(人材供給階級/次男・三男)
江戸時代の農家は長子相続が基本ルールになっており、次男・三男は所謂「ひやめしぐい」と呼ばれ、あぶれた存在でした。
(分割相続は無い訳ではなかったが数は少ない、特に東海地方では「たわけ」と呼ばれた?)
彼らが一人前の男として将来を切開くには、商・工或いは士・僧への階級移籍が必要です。自分の商品価値を高めるには「読み書きソロバン」に秀でた成績を残すしかなく、一生懸命取組んだものと思われます。
大店の採用担当番頭さんは田舎の寺子屋へ出かけ、「いい子はいませんかネェー」とリクルート活動を展開しました。「青田刈り」とはこのころ生まれた言葉です(?)。
仮想「日の丸君が代論争」
(問題提起)仮想左翼の生茶さん
●今の国旗国歌擁護者にとっての弱点とは以下のものと考えられます。
(1)少数民族(アイヌ、琉球など)への配慮
被征服民である少数民族(ここではアイヌを例にとることにします)にとって征服民である日本の旗を仰ぎ見ることは苦痛である、と考える人も存在するかもしれません。ここで少数意見は抹殺されてしかるべきなのか?と問う左派も多いことでしょう。では、どこまでが拒否できる範囲内なのかが問われるところです。私はアイヌではないのでその気持ちは容易に想像つきませんが、形式だけでも日の丸を仰ぎ見、起立し、敬意を払うことすら拒絶するものは国籍を変えねばならないのでしょうか?そこまでのものとはとても思えませんし、かと言って卒業式などで日の丸に対して起立するのが当たり前という状況がいつの日か来たと仮定して一人だけ着席することが許されるほど日本人は少数民族に対して寛容であるとも思えません。
これにはマイノリティーへの配慮を徹底するしかないように思えますが、最大限の努力をしたとしても現在学生であるアイヌの人々が卒業するまでに状況が変わるとも思えません。ともすれば少数民族への蔑視につながりかねない国旗への敬意を本当に学習指導要領にまで盛り込む必要があるのでしょうか?
(2)体制変更(立憲君主制から象徴天皇制への移行)時になぜ国旗を変更しなかったのか
ナチスドイツはその崩壊と共に国旗を元に戻しました。帝政イタリアは共和制への移行に伴い国旗から王家の紋章を外しました。ではなぜ立憲君主制であった大日本帝国から象徴天皇制へ体制移行した日本は国旗を変更しなかったのでしょう?50年も経った今殊更に変更を求めるのも時代遅れかもしれませんが、かと言って消極的に「変更する必要がなかった」では「体制移行に伴う国旗変更」という観点から見ると変更するのが当然という論を論破できないのではないでしょうか。
(3)(国内式典での)国旗国歌不要論
そもそも国旗国歌は絶対必要不可欠なものなのでしょうか。文化的な意味(例えばオリンピックなど)では国家の象徴として必要でしょう。また所属国家を明らかにするためにも必要でしょう。しかし、式典及び祭典などでは本当に必要なのでしょうか?国家間の祭典ではその参加国家を明示する意味でも「あっても良い」かもしれません。しかし国内の祭典(例えば高校野球)においては参加者が全て日本人(少数民族含む)である場合、国旗の掲揚は不要であるとも言えます。海外(ここでは米国を例にとる)の場合は事情が少し異なります。米国は他民族国家であり、国内の祭典でもその帰属国家を明示する意味でも国内の祭典(例えば野球の試合など)で国旗を掲揚し、試合前に必ず国歌を斉唱することに大きな意義があると考えられます。翻って日本の場合、例えばプロ野球の試合では一応国旗は掲揚されておりますが、試合前に国歌は斉唱しない。これは帰属国家を明示する必要がそれほどないからであって、逆に言えば国旗の掲揚すら必要ないのではないでしょうか?
しかし子供達に教えない訳にはいきません。ある者はオリンピックに出場し、ある者はサミットに参加し、ある者は国際捕鯨委員会で弁論することでしょう。ですが、卒業式などの式典で掲揚しなくても国旗に対しては敬意を払わねばならないことは教えることができます(教えないのは論外)。式典での掲揚が最も効率が良い、と言われればその通りですが(1)の点を考慮すれば、比較的拒否しやすい場で教えるのが適当であるとも考えられます。
いかがでしょう?
「日の丸は穢れている」「教師の思想信条の自由が犯される」などと支離滅裂なことを言う左翼よりは(多少)論理的な反論ができたように思えるのですが(^^;
塾屋さん
●生茶会長。仮想左翼化して『論戦』を挑まれてきて嬉しゅうございます。決して皮肉でもネチケットでもなく、喜びで打ち震えております。ではとりあえずの反論を致します。
(1)の少数民族の問題
私は北海道の出身で実はアイヌ民族の友人も多くおります。ですが「活動的な人々」(ちなみに私の知り合いには一人もおりませんが)を除けば現在のアイヌの人々の多くは日本人として完全に同化しているために「日の丸」「君が代」を敵視している方はあまり多くありませんでした。ですからこのような状況は考えにくく、実際の現場ではあまり起こりえない問題だと思います。なぜならシャクシャインの乱にしろ、以前のアイヌと大和民族の隔離政策(ウタリ団地の建設とそこへの移住の強制やウタリ学校の建設といわゆる進学の際のアイヌ枠の設定など…)の問題も「既に過去のこと」として割り切っている友人がほとんどでした。まあ太平洋戦争を我々が「大変だったんだなあ」と感じる程度だと推察します。
実際、私は皆さんからみれば大変珍しいことだとは思いますが、小学校・中学校・高校・大学とも入学式や卒業式には日の丸が掲げられ、「君が代」が「国歌」として「斉唱」されたという経験をしています。
友人のアイヌ系の皆は別にそのことを問題視してはおりませんでしたので、むしろ韓国や中国を利用している左翼の方から「アイヌ民族の問題」を持ち出してそういう論調をするのは間違いないですね。
実はアイヌと我々大和民族を分けて考えるのが一番侮辱的な行為である、というのが彼らの偽らざる心境であるようです。またアイヌの人々がコソボのように分離独立を主張しているのであれば別ですが、現在「日本人」として生きている以上、「国旗として受け入れる」という態度こそ求められるものではないかと思います。勿論、式典での国旗掲揚、国歌斉唱を拒否するのは自由なのですから、民族として受け入れられないと主張するよりは、「個人の内心の自由」として受け入れられないと主張する方が論が通ると思います。
現実には国旗・国歌のことだけで「内心の自由」は主張されがちですが、実生活においてこれらの自由は結構制限を受けているように感じます。それは「好きでもない上司と仕事をさせられる」「やりたくもない仕事をさせられている」「行きたくもない国に行かされる」といったもっと現実的な「自由」が制限されている実生活からはかけ離れた論理であるというのが実感ではないでしょうか。
ですから国旗・国歌の取り扱いで少数民族に極端に配慮するという方法は逆に差別を生み出す原因となるように、つまり左翼が目に余る韓国・中国の視点にたった論調で発言したために日本人の中に「反韓・反中」「嫌韓・嫌中」の考えを持つ人が増えてしまって、逆に韓国や中国の国益をそこなってしまって迷惑を被った人も多いという現実があります。韓国なんか一時より日本からの観光客が減ってビザなし観光を認めるようになりましたよ。また韓国内にも今だに日本との取引で生活している人が多いこともあり、度を過ぎた主張は内部で抵抗を生むでしょう。沖縄県民が太田知事を再選出しなかったことにもそれは現れています。度を越した「反米」「反日」の政策は実際に米軍や本土からの観光客によって生活している沖縄の人にとっては有為ではなかったという現実ですね。
ですから「それを拒否する権利」に関してまでも我々保守は批判しておりませんので、むしろそれを拒否する姿勢を寛容するような教育も受け入れる教育と同様に必要かなと思います。また「国」に対する個人の姿勢というものも必要だと思います。この場合に絶対に忘れてはならないのは「国」=政府ではないということです。何度も私が主張してきた「同じ社会を構成する人々の共同体」が「国」であり、自分がこの社会で生きていられるありがたみや、命までも投げ出した先達や今も社会の一線で活躍している先輩たちが築き上げ、維持している社会=国への敬愛を行動して表すのが「国歌斉唱」であり、「国旗の掲揚」であるという考えでコンセンサスは得られると思います。
ですから少数民族に対する配慮に関しては「それを拒否する権利」の部分で十分対応することが出来ると思います。
(2)の国旗変更への反論
日本は戦前・戦中とも政体は「立憲君主制」としては変わっていないと思います。立憲君主制にも色々な形態がありますが、日本は「主権在民」となった点が戦前−戦後で大きく変わりますが、立憲君主国であるというのは間違いのない事実です。むしろ「なぜ変更せねばならないのか」という点に説得力がないのも、「文化」「歴史」「伝統」「社会通念」なのど様々な我々の生活を構成するファクターから見ても「的が外れている」という印象を受けるからではないでしょうか。「君が代」はここでは論評しませんが、「日の丸」に関しては「歴史的に一時期日本が侵略戦争を行なった際にも国旗」であったという事実があるだけで、その時期を遥かに上回る歴史が存在するのであり、「日章旗」そのものにはなんら民主主義を否定する要素はありません。
また対外的に見ても国旗の変更を行なったからといっても日本の評価が変わるわけではありません。アメリカでは「インディアナ・ジョーンズ」や「ロケッティア」といった映画で相変わらずナチスが敵役で扱われ、ごくごく少数でしかない「ネオ・ナチ」が活動を行なうだけで「ネオ・ナチの台頭」などと報道されることから考えても「今更の国旗の変更」はむしろ新たなナショナリズムの台頭などと捉えられ、警戒されるデメリットの方が多いのではないでしょうか。なにせ海外のメディアは正確に外国の世論を伝えることに主眼を置いていないのは明らかですから。
(3)の式典での国旗・国歌不要論
実は自分の立場で本音をいうと、一番これこそ「どちらでもいい」と思っているものなのです。ですが、現実に日々学校教育や教科書に記載されている「自虐史観」での認識で教師がヒステリックなまでに反抗する姿勢を看過することは出来ないと私は考えます。ただ、国民の血税によって運営されている公学校でその学校を運営している主体は「同じ社会を構成する人々」=「国」であるという認識が絶対に必要であるとも考えます。ですが現在の「反国旗」「反国家」の主張が反政府の立場と思想で行なわれている以上(そう断言してもいいと今は考えます)、そのような思想により立脚された行動は容認できません。つまり、巧みに「反国旗」「反国歌」の思想をオブラートでつつんでいるのです。「子供のため」「内心の自由」などのあたりの良い言葉で。
論はずれるかもしれませんが、日本の現在の教育でもっとも欠けているのは「公共の福祉」の概念です。教師の中には「公共の福祉は例外的な規定であり、それを理由に人権が制限されてはならない」などという明らかに間違ったことを教える者がいます。(事実このような間違った考え方を教え込まれている生徒が私達の教室にいて、本当に頭が痛くなってしまいます) 詳しくはいずれこのHPに書き込もうと思っておりますが、「公共の福祉」の概念がきちんと教育されていないことが今の子供達の道徳心のなさであり、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない」といった完全に間違った主張を生み出していることになっていると思います。
ですからそのような「公共の概念」がきちんと理解されればおのずと国旗・国歌の式典での掲揚は理解されると思います。また各種アンケートでも成人の多くが「入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱を望ましいこと」という回答をすることからも、実際の社会に出ると決して自分だけでは存在さえもすることが出来ない「社会人」としての自分に多くの人は気づくのではないでしょうか。ですから、将来子供達が出て行かざるをえない「社会」の通念を学ぶ(そこまで行かなくても「考える」)機会としても入学式と卒業式での国旗・国歌は望ましいといえると思います。
以上、反論をしてみました。稚拙ではありますが、今はこのように考えています。
生茶さん
●***塾屋氏の反論からの引用(以下同様)
実はアイヌと我々大和民族を分けて考えるのが一番侮辱的な行為である、というのが彼らの偽らざる心境であるようです。またアイヌの人々がコソボのように分離独立を主張しているのであれば別ですが、現在「日本人」として生きている以上、「国旗として受け入れる」という態度こそ求められるものではないかと思います。勿論、式典での国旗掲揚、国歌斉唱を拒否するのは自由なのですから、民族として受け入れられないと主張するよりは、「個人の内心の自由」として受け入れられないと主張する方が論が通ると思います。
***
恐らくそう思われているアイヌの方々は多いように思われます(想像の域を出ませんが)。しかし全てがそうであるとはとても思えません。歴史から同じようなケースを探してみると、朝鮮人への創氏改名が思い当たります。朝鮮併合後、朝鮮人にも日本人と同様の権利を与え、且つできるだけ朝鮮人の日本人化への障害をなくす目的もあって創氏改名が朝鮮人に許されました。当時はともかく現在に至って、この創氏改名は朝鮮人の民族的尊厳を侵した悪法の代表のように言われているのはご存知の通りです。このようなケースを持ち出すまでもなく、異民族の価値観というのは理解し難いものである以上、民族を分けて考えるのが侮辱的であると考えているアイヌの方々が多いとしても、分けて考えることが「できる」環境を撤廃すべきではないと言えるでしょう。
***
ただ、国民の血税によって運営されている公学校でその学校を運営している主体は「同じ社会を構成する人々」=「国」であるという認識が絶対に必要であるとも考えます。
***
公学校にも色々種類はあります。国立、都道府県立、市立、町立、村立などですね。それぞれそれらの学校を運営している主体は国、県、市、町、村です。ならば県立学校を例にとれば国旗ではなく県旗でもよいのではないでしょうか。
#こんな屁理屈を左翼はよく使いますよね。自我自賛ですが(^^;
***
ですからそのような「公共の概念」がきちんと理解されればおのずと国旗・国歌の式典での掲揚は理解されると思います。また各種アンケートでも成人の多くが「入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱を望ましいこと」という回答をすることからも、実際の社会に出ると決して自分だけでは存在さえもすることが出来ない「社会人」としての自分に多くの人は気づくのではないでしょうか。ですから、将来子供達が出て行かざるをえない「社会」の通念を学ぶ(そこまで行かなくても「考える」)機会としても入学式と卒業式での国旗・国歌は望ましいといえると思います。
***
「公共の概念」は様々な幅があります。同じ町内から国家レベルまで(世界レベルと書けない辺りが仮想左翼失格かも(^^;)理解する必要がありますが、方法論としてそれは段階を経て教えるのが有効であると考えます。小学生低学年で町内レベル、小学校高学年で市町村レベル、中学校で都道府県、国レベルという風に教えていけば理解度も高まるのではないでしょうか。小学生に国家間の話をする機会はそれほどないと思われますし、また国家に帰属するより町内レベルでの帰属意識をより高めた方が現在の道徳観の欠如という問題の解消にも繋がる可能性があるように思われます。よって上記方法論に基づけばの話であれば少なくとも小学校には国旗は必要ないと思われます。
ここまで書いて新しい主張を思いついてしまいました。
日の丸の赤い丸は太陽を表しているようですが、これは太陽信仰に基づくものと思われます。これは宗教の自由を侵す可能性はないのでしょうか?
追伸:(2)の反論として、本当なら「立憲君主」の定義の話に移って、その細かな差異を逐一挙げ、戦前と戦後で体制が変わったことをとうとうと述べるべきなのでしょうが(少なくとも左翼ならそうすると思われる)、面倒臭いのでやめました(^^;;ほほさん辺りがやってくれませんかね?結構面白いですよ、左翼ごっこ(^^;;;
紅緒センセイ
●生茶さん、なかなかやってくれますねー*
どうも本当の左翼サン達とは実のある論争は期待できないので、ここでシミュレーションして遊ばせていただきましょう*
では、早速私なりの反論いかせていただきまーす*
とりあえず、今日は(1)に対する反論をば。
(とはいうものの塾屋さんのそつのない反論の後では、せいぜい補足程度の代物ですが、かるくジャブをいれるつもりで。)
>>異民族の価値観というのは理解し難いものである以上、民族を分けて>>考えるのが侮辱的であると考えているアイヌの方々が多いとしても、>>分けて考えることが「できる」環境を撤廃すべきではないと言えるで>>しょう。
ですから、塾屋さんがおっしゃっていたように、「拒否する権利」は少数民族にも与えられているのですから、それで十分なのではないですか?マイノリティーへの配慮は、マジョリティーの「国旗に敬意を表す権利」を犯してまでも保証されなければならないものなのでしょうか?
ここで、こういう例を考えて見てください。ある連続レイプ魔がいたとします。そして、このレイプ魔はいつも十字架のネックレスを身につけており、被害者の女性の多くは同じような十字架を見るたびにトラウマにさいなまれていたとします。この場合、被害者達への配慮のために世間から十字架のネックレスを排除しますか?しないですよね。貴兄の「侵略された苦い過去を持つ少数民族のために学校から日の丸を排除しよう」というのはこのように恐ろしく短絡的な対処法のように思えるのですけど・・・
また、当事者のマイノリティーの児童・生徒達が生まれる何十年(あるいはそれ以上)も前の歴史を根拠として国旗掲揚反対を主張するのは大変ナンセンスだと思います。だいたい、世界の国々の中で征服や侵略の過去のない国があったらご提示願いたい。そんなことを言っていたらアメリカだってネイティブアメリカン(インディアンといってはいけません)ならびにカリフォルニアやテキサス州のメキシコ系アメリカ人に配慮して星条旗の掲揚をやめるべきだし、ペルーだってオーストラリアだって侵略された先住民族に配慮して国旗の掲揚は見合わせなくてはいけなくなります。貴兄はこれらの国に対してもこういった主張をする勇気がおありですか?
また、国家というものは通常複数民族・人種が結合して形成されているのが世界では一般的であり、国歌や国旗はその複数民族を団結するシンボルとして存在するのですから(これは貴兄もご指摘の通りです)、たとえ民族が違えども同じ日本国籍を持つ者同士の共通理解として日の丸を利用するとも考えることはできませんか?(ここで、在日韓国人の方々を引き合いに出して反対するのはやめてくださいよ。彼らには第二次世界大戦終結後、韓国へ帰る、日本人に帰化するなどの選択肢が与えられていたのですから。それでもどうしても主張なさりたければアフリカ系アメリカ人にも配慮して、アメリカ政府に星条旗掲揚の中止も訴えてみてはいかが?彼らの先祖も過去にアメリカに強制連行されたのですから、貴兄のお考えではアフリカ系アメリカ人は星条旗を仰ぎ見るたびに苦痛を感じているとお考えでしょうから。ま、当事者のアフリカ系アメリカ人にとっては迷惑千万でしょうけどね。)
生茶さん
●反論ありがとうございます>紅緒支部長(^-^)
多少の誤謬や論理の破綻は気にせずガンガン来てください。
どうせ私が相手です。ストレートには表現しますが誹謗中傷合戦にはなりません(^^)
さて、紅緒センセイへの反論です。今回は井沢元彦ファンの左翼(いるのか?(^_^;;)という立場でやってみましょう。
#引用は前後します。
#また、話がややこしくなるので国旗限定反論です。
***紅緒センセイの書き込みからの引用(以後同様)
貴兄はこれらの国に対してもこういった主張をする勇気がおありですか?
***
いえ、全くありません。理由は2つ。一つは国旗変更の強要は内政干渉にあたるから、というもの。もう一つは日本と海外の国(韓国、中国などアジアも含む)とは異質の文化であるからです。一つ目の理由は説明不要でしょうから二つ目の理由について説明します。
そもそも日本という国はあらゆる文化を吸収する面があります。しかし、それでいてその本質は変化しない。これは中国から漢字は輸入しても決して韓国のように母国語が中国語にならず日本語の表記文字として利用したことや仏教・儒教・キリスト教などあらゆる宗教が渾然一体となって民衆に溶け込んでいること等で容易に証明できるでしょう。そしてその本質とは「和の精神」や「穢れの精神」です(ああ、こんなところで悪用してしまってごめんなさい(^^;>井沢先生)。簡単に説明すると「和の精神」とは「話し合い絶対主義」、「穢れの精神」とは「目に見えない穢れ(けがれ)に対する畏怖」と言えるでしょう。井沢元彦氏はこの基本精神を改善しようと試みているようですが、何千年も変わらなかった性質がそんなには簡単に変わらないと私は思っています。現に今でもバタフライナイフで殺傷事件が起こればバタフライナイフが「穢れた」ものとして認識されその存在自体を抹消しようとし、殺人犯がホラー映画を好んでいればホラー映画に責任を転嫁する始末です。ですので
***
ここで、こういう例を考えて見てください。ある連続レイプ魔がいたとします。そして、このレイプ魔はいつも十字架のネックレスを身につけており、被害者の女性の多くは同じような十字架を見るたびにトラウマにさいなまれていたとします。この場合、被害者達への配慮のために世間から十字架のネックレスを排除しますか?しないですよね。貴兄の「侵略された苦い過去を持つ少数民族のために学校から日の丸を排除しよう」というのはこのように恐ろしく短絡的な対処法のように思えるのですけど・・・
***
という例は日本においては残念ながらありうる話である、と言わざるを得ません。そして、
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だいたい、世界の国々の中で征服や侵略の過去のない国があったらご提示願いたい。そんなことを言っていたらアメリカだってネイティブアメリカン(インディアンといってはいけません)ならびにカリフォルニアやテキサス州のメキシコ系アメリカ人に配慮して星条旗の掲揚をやめるべきだし、ペルーだってオーストラリアだって侵略された先住民族に配慮して国旗の掲揚は見合わせなくてはいけなくなります。
***
とのご指摘は全く以ってその通りなのですが、何も「侵略を行ったら国旗を変更する」ことを国際標準にしようと言っている訳ではないのです。あくまで日本人のメンタリティーの問題なのです。先の大戦で日本は豊臣秀吉の朝鮮出兵(正確には唐入り)以来の対外戦争の敗北を喫しました。しかも(恐らく)史上初の占領まで受けました。この状態にぴったりの日本語があります。「みそが付く」「けちが付く」というやつです。これによって日本は穢れてしまいました。では「穢れ」は拭えないものなのでしょうか。いえ、「穢れ」を払う処理を日本人は太古の昔から発明しておりました。「禊(みそぎ)」という行為です。「禊」は身についてしまった「穢れ」を洗い清めることに端を発しますが、日本人は敗戦まで持っていたものを全て「穢れ」としてしまい、「戦後民主主義」という名の水で洗い流そうとしたのではないでしょうか。これらは全て私の推測ですが、状況から判断すると一概に否定できないと思います。
ではこの容易に変えられない、他国から見れば稚拙極まりないメンタリティーをどのように扱えば良いのでしょうか?方法は2つあると思います。一つは根本的に且つ徹底的に西洋合理主義を日本人に叩きこむ。もう一つはこのメンタリティーを持ちながらうまくやっていく方法。一つ目の方法は簡単です。全ての日本人を洗脳すれば良いのですから。但し、その場合日本人の文化的な良さも大部分破壊されることは想像に難くありません。私はそんなの嫌です。ならば二つ目の方法を取った場合どうするのが自然で且つ他国とも意思の疎通がうまく取れるのでしょうか。私はこう考えます。国内では日本人的精神、他国及び他国人と接する場合は西洋合理主義を取れば良い、と。一見非合理的でありながら日本人ならばできるような気がします。具体的に言えば、国旗は穢れているので国内では掲揚しないが、海外(国内での国際的催しも含む)では象徴として使用する。そして現在無意識に持っているこの日本人的精神を日本人に理解してもらうことによって、丁度人間が家の外と中とで公私を使い分けるかのようにできるのではないでしょうか。もちろん公共の福祉についても教える必要がありますけどね。
まあ、この方法論はともかく、「和の精神」「穢れの精神」を日本人が気付かずに持っていることは不幸極まりないことです。それ故「(在日を含む)少数民族は(価値観が違うために)和を乱す」「戦争で使用された国旗は穢れている」と何気なく思ってしまうのです。そんなの馬鹿げていると一蹴できる人は幸せです。では何故国立二小の生徒達は「国旗は穢れている」などという、馬鹿げた論を受け入れることができたのでしょうか?精神構造が幼かったこともあるでしょうし、洗脳した教師の手腕もあったのでしょう。しかし根底には「穢れの精神」が流れていたのではないでしょうか。国立二小と同じことを米国でやったとしても成功するとは思えません。つまり「星条旗は多数のインディアンを殺して成り立っているから穢れているのだ」と説明しても理解されないと思うのです(本当のところどうなんでしょうね?米国でも同じことは可能なんでしょうか?>紅緒センセイ)。余談にしては下品な話で申し訳ありませんが、小学校の便所で大便をした男子生徒をまるでこの世で最も汚いもののように扱う他の生徒の姿を見たことはありませんか?これこそ正に「穢れの精神」そのものと言えるでしょう。想像の域を全く出ませんが海外ではそんなことないような気がします(あるのであればこの例は破綻してしまいますが(^^;)。誰かに教えられた訳ではないのにもかかわらずその男子生徒を汚いものと思ってしまうこのようなメンタリティーは幼い頃から自然と身についていると言わざるを得ないでしょう。
このような精神構造では「国旗が穢れている」論はなくならないでしょう。では何故50年も経ってこのような論がはびこるのかと言えば、それは不況だからでしょうね。バブル絶頂期にはこんな論は出てこなかったでしょう?。バブルが弾けてその禊をしようとした時に穢れているものを探したら戦前から禊がなされていない国旗がそこにあった、ってことではないですかね。妄想の域ですけど(^^;
とここまで書いて、最初の反論に『「日の丸は穢れている」などと支離滅裂なことは言わない』と書いたことを思い出しました。一応精神論から説明したつもりなのでご勘弁を(^^;;;
ところで「和の精神」には適用範囲が決められております。それは「仲間」と認めたものにしか適用されない、ということです。例を挙げるならば、ゼネコンの談合や密室政治などがそれです。ここで考えられるのは、少数民族を仲間とみなさない場合
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国歌や国旗はその複数民族を団結するシンボルとして存在するのですから(これは貴兄もご指摘の通りです)、たとえ民族が違えども同じ日本国籍を持つ者同士の共通理解として日の丸を利用するとも考えることはできませんか?
***
ということは不可能である、ということです。もちろん「仰ぎ見る旗が同じ仲間」となる可能性も否めませんが、未だ存在する在日差別、部落差別を考えるといつの日か少数民族差別が表面化する可能性はやはり否定できないでしょう。
アイヌを例にとりますと見た目は全く日本人と変わらず、部落のように住所から判別もできません(ですよね?知識不足のため推測ですが)。ですので塾屋さんの仰ったように「現在のアイヌの人々の多くは日本人として完全に同化している」のです。そして紅緒センセイの仰るように国旗を複数民族を団結するシンボルとするならば「異なる民族であることをお互いに認識し」かつ「同じ旗を仰ぎみる」ことが必要でしょう。つまりアイヌであることを誇りを持ってカミングアウトする必要があるのです。そうなった場合先の「和の論理」が他民族に及ばない可能性はやはり在日差別を見る限り少なからず存在する、と言わざるを得ません。しかし、誇りを持ってカミングアウトしなくても発覚することはあります(全然悪いことではないんですよ、念の為)。その時のためにも
少数民族差別の可能性を少しでも排除するために私は学校での国旗掲揚に反対します。
だらだらと長くなってしまいましたが、結論としては
(0)前提として「和の論理」「穢れの論理」が日本人の根底に流れている。そしてそのメンタリティーは容易には変わらない。
(1)国旗問題はあくまで国内問題であるので他国がどれだけ侵略しようと無関係である。
(2)「国旗は穢れている」論は完全には払拭されない(と思われる)。
(3)国旗を揚げることによって少数民族差別が顕在化する可能性がある。
(4)だから精神構造が幼い学校での式典では国旗の掲揚は避けるべきである
管理人
●生茶さんと塾屋さんの論争にちょいと介入させていただきます。
1の少数民族に対する配慮に関してですが、塾屋さんの指摘にあるようにアイヌの方が現実に国旗国歌を問題視していない以上、議論のための議論であっても、あまり意味がないように思います。問題なのは生茶さんの指摘にあった沖縄の方でしょう。現に沖縄では、戦争中に多大な県民が犠牲になっており、日の丸焼却事件等も起きたように、国旗国歌には複雑な気持ちがあると推測されます。こうした県民感情の上に立てば、沖縄県民に対して国旗国歌を強制することは感情論として納得がいかないという理屈も成り立つように思います。しかし、沖縄の人の国旗国歌に対する悪感情は、内発的に生じたものであるとは思えません。
以下のデータを見てください。
昭27・4・28 米国民政府布令第26号により、米国国旗以外の国旗掲揚の禁止が改正され、公的な場以外で、政治的意味を伴わない限り可能となる。
昭27・5・26 沖縄県教職員会「国旗掲揚に就いての請願書」…学校の行事、政治的目的をもたない教育者の集会での掲揚請願
昭27・6・12 民政府、主席宛文書で琉球の主権は米国にあるとし、教職員会請願を却下。(琉球新報)
昭27・12・19 教職員会会長(屋良朝苗)名で各学校長・教育会主事宛に「新年の挙式並国旗掲揚について」の文書送付…学校での新年挙式、各戸での国旗掲揚奨励と注文斡旋、児童生徒に紙製国旗の制作指導昭28・4・29 開南小学校日誌に「天長節 児童朝礼にて国旗掲揚」の記事。
昭30・11・12 琉球新報に国体に参加した陸協役員の座談会掲載「剣道試合をご覧になった天皇に侍従が『時間です』と申し上げると『沖縄の試合が終わるまで』とおっしゃった。」
(国場幸昌氏)
「沖縄の高校生が『君が代』を知らないので、宿舎で教えてやっと覚えてもらった。学校
で指導する必要がある」(森田孟ぼく氏)
昭33・2・3 琉球新報に沖縄教職員会の連合分会校長部長会の記事。第五分科会で発表者石川保盛氏(屋我地小校長)が、民族意識高揚のため、祝日の国旗掲揚と国歌指導を行う必要を指摘。
昭33・9・5 沖縄タイムスに沖縄教職員会の新里事務局長、平敷経済部長が出席、阿波根文教部長に学校行事や祭日での国旗掲揚を求める要請文を提出の記事。
昭35・11・14 沖縄教職員会会長名で「日の丸を掲げよう運動要項」を各学校宛に出す。正月三が日の学校・家庭での日の丸掲揚、学校での日の丸掲揚の許可申請
学校で日の丸を掲揚して新年式実施、日の丸購入の推進などを実践項目に掲げる
昭35・11・15 琉球中央教育委員会、米国民政府に学校において新年に国旗掲揚することを正式に要請。
昭35・11・21 琉球新報に教職員会、青協、官公労、婦連など二十団体連名で立法院に国旗掲揚許可決議を要請、同時に弁務官、民政官、日本政府に掲揚許可を陳情する記事。
昭36・6・24 琉球新報に高等弁務官室発表として国旗掲揚許可の記事
昭41・11・14 国旗掲揚・国歌斉唱運動は本土政府の反動教育政策に利用されるとの指摘(沖縄教職員会「日教組第十六次・日高教第十三次教研集会報告書」)
昭44・3・29 沖縄教職員会第三十五回定期総会の運動方針討議で「核付返還粉砕」を主眼とすることに決定。「日の丸掲揚運動」を方向転換。国旗斡旋もとりやめの記事(琉球新報)
これは森光司さんという方から送られてきたて資料ですが、本土復帰前の沖縄で行われていた国旗掲揚・国歌斉唱運動が沖縄教職員会(沖教組の前身)が、イデオロギーによって歪められていく過程がよく現れていると思います。
本土においても、終戦後の新聞には国旗国歌を待ち望む記事が何度も書かれており、国旗国歌に対して国民としては悪感情を持っていなかったいことがわかります。現在のような反対運動が起きるようになったのは、マルクス主義を信奉する日教組によるものであり、国旗国歌に対する悪感情は彼らによって意図的に植え付けられたものであると断言できるのです。つまり、国旗国歌を嫌に思わせておいて、「嫌な者がいるからやめろ」と言っているのが、今の反対運動の本質だと思われるのです。狙いは、愛国心を剥奪して日本を共産主義化させるため、あるいは国力を弱体化させるため等が考えられますが、いずれにしろ日本に対する憎悪や反感、敵意から生じたものであることは間違いありません。こうした、策略あるいは深謀という側面のある反対運動を、国家として容認するのは愚かというしかありません。また、結果として悪感情を持っている人達がいたとしても、拒否権は認めているので内心の自由に抵触するとはいえないというのが常識的な見方でしょうし、判例などもそうなっています。
ちかみに、生茶さんが記した「日の丸の赤い丸は太陽を表しているようですが、これは太陽信仰に基づくものと思われます。これは宗教の自由を侵す可能性はないのでしょうか?」はまさにその通りで、キリスト教徒などは神道の強制であるとして強く反対しています。こうした宗教的視点に立つ方々を論駁するのは困難であろうと思われるので、国旗国歌の異議を充分に伝えた上で、宗教的感情に配慮し(上と同様に)拒否権をきちんと認めることが肝心であろうと思います。ただ、自分たちが嫌だからやめろという要求に対しては、それは「少数によるファシズムである」として断固拒否するべきでしょうね。
まあ、こんなことをいう前に、100%の国民から支持される政策などあるわけないですし、そんなのが仮にあったらそれこそファシズムと同様に不気味です。国旗国歌反対論者は「嫌に思う人がいるからダメ」つまり「100%の国民が支持するようでなきゃダメ」と言いますが、やっぱり彼らの本質はファシズムではないかと思ってしまいますね。
現在のように少数の反対がある方がより民主的なのですよ。(ちょっと詭弁ぼいか・・・)
塾屋さん
●左翼の方々は途中で自分の都合の悪い論が出ると、枝葉末節にこだわった論理で混乱を引き起こしていつのまにか「ドロン!」と消えてしまいますが、さすが「仮想左翼」なかなか引き下がりませんですな。しかもその「仮想敵」が我が敬愛するラーメンマニア協会の会長(会の象徴)であるので、議論が広がる広がる。さすが協会発足にあたり会長に指名させて頂きましたが自分の眼に狂いはなかったと思います。
さて議論の方ですが、長尾氏と紅緒センセイの反論でほとんど主旨は提示されていますので(両氏には感謝致します)、あえて次の反論を簡単に上げておきます。
生茶氏(仮想左翼)>
公学校にも色々種類はあります。国立、都道府県立、市立、町立、村立などですね。それぞれそれらの学校を運営している主体は国、県、市、町、村です。ならば県立学校を例にとれば国旗ではなく県旗でもよいのではないでしょうか。
ご心配なくと申します。実は私の卒業式はこうなっていました。
小学校・中学校は右に学校旗、中央に日の丸、左に市章をあしらった旗、高校・大学は右・中央は同じで左に道章をあしらった旗というように必ず3つの旗が式場に掲揚されていました。
また教育過程において市町村と都道府県と国を分けてどれかの旗をしか揚げないというのはそちらの方が釈然としません。また日本の地方自治が(ここで左翼はいいか悪いかの論議にスライドすると思いますが)仕組みの上で中央と分けて考えられない現状では、それらを平等に扱う方が良いと思います。
生茶氏(仮想左翼)>
日の丸の赤い丸は太陽を表しているようですが、これは太陽信仰に基づくものと思われます。これは宗教の自由を侵す可能性はないのでしょうか?
宗教をどのように定義するかという問題だと思います。内心の自由にかなりうるさいアメリカでも就任式において大統領は聖書に手を置いて宣誓します。
まあそれは置いといて、強制によって内心の自由を奪う恐れのある宗教を私なりに定義します。
@開祖が個人として特定できる。またその者に対して絶対的な帰依を要求する。
A儀式や教義が超常的なものであり科学的な検証ができない。
B極端に排他的であり、かつ宗教的な活動により営利を得るものが存在する。
まあ上げればきりがないですが、これらに該当するものを強制することは明らかに内心の自由を侵害すると考えていいでしょう。
さて翻って「太陽信仰」ですがこれを宗教と定義するのは非常に難しいと思います。もちろん神道は「天照大神」=太陽神を主神(大神)としていますが、これは上記のAとBにあてはまるため、原始的な太陽信仰とは明らかにかけ離れています。
また宗教の多くが太陽を神とするものが多く、古くはゾロアスター教のアフラマズダやジャイナ教のアートマンなども太陽信仰が宗教化したものでしょう。またイスラム教も太陽信仰をモデルとしている節があります。もちろんア・ラーはユダヤ教のエホバ(もしくはヤハウェ)、キリスト教の「天の父」と同一神であるのは明らかですが、ア・ラーの呼び名は古代エジプトの太陽神ラーの名からきているのも事実です。つまり日本人に限らず人類は自然と太陽に対する畏敬の念を持っており、それは所謂「宗教心」というものからくるものではなく、自然と意識せざるを得ない「信仰心」(こちらを取り合えず「原始的信仰心」と呼びます)のようなものであることから「太陽」をシンボルとすることを「宗教だ」とするのは無理があると思います。なぜならばこの自然発生的におこった「原始的信仰心」を開祖とされる人間が手を加えなければ「宗教」とは定義できないからです。また日の丸はこれらの勢力が意図して策定したものではありませんので、宗教的な解釈が出来たとしてもそれは「あとづけ」のようなもので、先に私が上げた「日の丸の成立の過程」を説明することによって容易に解釈できます。
例えば私がアメリカ人で「星と赤と白のストライプを神とする宗教」を作り、信者を増やしたところで、「星条旗は「星と赤白ストライプ教」を表しているから合衆国国民の『内心の自由』を犯しており、星条旗は『宗教の自由』を侵害している」と主張しても多くの人々から「バ〜カ」と言われるだけでしょう。
ですから自然発生的な「単なる信仰心=原始的信仰心」と体験や自己の良心や宗教的な体験からくる「宗教に対する信仰心」は分けて考えるべきであるというのが私の言いたいところです。
ですから、太陽をモチーフとした国旗を掲揚することは「宗教的な定義」ではなく「原始的信仰心」からくる「自然への畏怖や畏敬の念」として判断すれば良いのではないかと考えます。
これに関してはある宗教団体が作った学校の校長先生がこのような話をして下さいました。その学校には教団から多額な寄付が贈られているし校名にも教団の名前がついているのですが、内情はその教団の信者がほとんどいないという学校です。生徒に関しては実際にどの生徒が信者の家庭の子かも分からない。職員も信者の方もいればそうじゃない方もいる。別に信者・非信者という区別もしていない。また学校の行事も宗教的な行事は一切なし。私の教え子でそこに通った生徒も数多いのですが、実際に日々の学校生活で「教団」のことを意識したことは一度もないと言います。
前にその校長先生とお話をさせて頂いたことがあるのですが、先生曰く、
「別に教団は信者獲得のために学校を設立したのではないのです。自分たちがこうして宗教者として生きていける、また信者の皆さんが日々平和に生きて行くことのできるこの社会に対して何らかの形で恩返しをしなければならないという思いから学校を設立し、社会に有益な人材を育成することこそがそれだという考えからなのです。」
「それじゃ、宗教というものをどのように教えるのですか」という問い掛けに対して先生は、
「特に宗教を意識している訳ではありませんが、生徒には『信仰心というものは大事なのだよ』ということは日々話しています。たとえばキリスト教徒の生徒に対しては『キリスト教徒としての立派な信仰心を持ちなさい』と言っています。(実は毎年複数名のクリスチャンの子が入学しているのだそうです)」
宗教者というか宗教に関わりの深い方からこそ聞けた話だと私はありがたく感じてしまいました。(これも一種の信仰心なのかしら?)
因みに私は全くの無宗教な人間で特定の宗教というものに対しての信仰心は持っておりませんが、何らかの信仰心は持っています。
管理人
●このHPを開いて50通あまりのメールをいただきました。そのほぼすべてが応援メールでしたが、たった一通だけ国旗国歌に反対するメールがありました。クリスチャンである牧師さんから送られたもので、その内容は非常に真摯で理性的なものでした。私もできるだけ冷静に反論のメールを送りましたが、以下に転載したのがその一部です。生茶さんが神道の問題を出されましたので、あえて紹介しましたが、生茶さんおよびみなさんはいかが思われますか。仮想左翼ではなく、普通の生茶さんとしての意見が伺えれば幸いです。
私のレスはこんなものでした。
「宗教的理由から反対する思想信条は尊重されるべきである。だが、現実には法にも定められ、多くの国民が国旗国歌として容認している。国民の信託を受けて行われる公教育は、法と常識に従って運営されるべきであり、拒否する自由が認められている以上、国旗国歌の実施に問題はない」
今考えると、ちょっと単純だったかなあと反省しています。
なお、以下の部分を公開することにご本人の承諾を取っていませんが、より多くの方に反対論を紹介することになるので、その方にとって望ましいことであろうと解釈します。(もしも、これを読まれていて、不都合であると判断された場合はご連絡ください。すぐに削除します)
(抗議メールの一部)
「日の丸・君が代」の問題は、単に、その強制が、思想信条や良心の自由に反する、という問題の前に、もっと根源的な問題があります。それは、「君が代」そのものが、憲法の政教分離の原則に反するのです。
そもそも「君が代」という歌は、ご存知のように、1880年にエッケルトが編曲し、天長節で、天皇の永遠性を祈念する歌として用いられてきました。戦前、天皇は皇室神道の祭司であり、国家神道の神として、宗教的な崇拝が国民に強制されたのですが、まさに、君が代は、その天皇の永遠性を祈念する、宗教性の強い歌であったのです。君が代を歌う、ということはまさに宗教的な行為でありました。戦後、国家神道が解体し、天皇は象徴とされました。しかし、「君が代」という歌が、そもそも天皇の永遠性を祈念するという宗教的な歌として造られたことには、変わりはないのであり、そのような「君が代」を、公教育の公的儀式の場で用いる、ということ自体、教員や児童への強制の有無に関係なく、憲法の政教分離に反します。まして、「君が代」を国歌として、法制化することは、完全な政教分離違反です。また、「君が代」の君の解釈にしても、政府の解釈では、依然として天皇であることには変わりません。小渕首相が、後から、天皇という言葉の前に、いろいろと修飾語をつけてお化粧させましたが、結局は、「君」の解釈が象徴である天皇を指すことには変わりないのです。そして、天皇は象徴であると同時に、今でも皇室神道の祭司であり、神道の世界では神とされているのです。そのような天皇を讃美し、その永遠性を祈念する「君が代」が、いかに宗教的な歌であり、それを歌うことが宗教的な行為であるかは明白です。したがって、「君が代」を法制化することは、憲法20条にある、政教分離の原則に反することは明らかです。
藤本龍夫さん
●下記の牧師さんの抗議メールは、緻密に論理が組み立てられ、内容も充実していて憲法論から反論するにも骨が折れます。
しかし、庶民の常識、道理から言えば、あほな考えと思います。勉強した馬鹿の意見は、かようなものであろうというご意見のように思えます。
牧師さんが馬鹿であるといっているのではありませんよ。そのご意見を問題としているのです。
憲法論でお化粧するのは、後回しにして、我が国の歴史を先に考えてみると、どうしても皇室をはずして考えるわけにはいかないのです。西欧の歴史がキリスト教を抜きにして説明できないのと同じです。
そこで皇室を考えると、これは社会的、宗教的、法的、歴史的と全部の学問を動員してもとらえきれない(私だけか)。
神道の祭司であって日本人の幸福を祈念し、先祖神に稲を奉納する、親戚のおじさんの内でもっとも長者である、人の道のお手本であろうと思います。
そのような人の世の中が続くことは日本にとっては、まことにめでたいものです。
それを「君が代」の歌によって永遠に続くように願うのは、国民としては当たり前と言うべきでしょう。
ここで当たり前とは、常識の意味であり、道理を指しています。
道理とは日本人の歩いてきた道の理であり、歴史から抽出した理を指しています。
このような歴史を有している日本では、天皇は日本国の象徴であり、日本人の道徳のお手本であるから、これを尊重し、侮辱してはならない。と憲法に規定すればよいでしょう。
現行憲法上は、このような意見を憲法理論でお化粧すれば、解決可能だと思います。
それにしても、こんな非常識なことを言う人がいるのですな〜。感心、寒心。
塾屋さん
●政教分離を憲法によって規定する国家は数多くありますが、実質的に政教分離を実現している国家となると殆ど無いというのが実情です。ヨーロッパ諸国は民主主義の精神として「信教の自由」を保証している国家は多いですが、実際に完全にはキリスト教の道徳や常識に支配されているといってもいいでしょう。
例えばアメリカではクリスマスは休日です。またマーティン・ルーサー・キング牧師やセント・パトリックのように明らかにキリスト教に関係のある人の偉業を称えた祭日が存在します。(紅緒センセイ、St.Patrick Day は連邦の祭日でしたっけ? それともNY州だけの祭日でしたっけ?)
アメリカの例だけでなく、このように政教を分離している国は皆無と言いのではないでしょうか。
またアジア諸国は国教を定めている国も多く、多くはイスラム教を国教としているものが目立ちます。
イギリスでも信教の自由は保証されていますが、国家元首であるエリザベス女王はイギリス国教会の首長でもあります。アジアではマレーシアが信教の自由を認めていますが、イスラム教を国教として定め、各地に国営のモスクが作られています。
これは元々政治と宗教は同じものであったことからきています。「政(まつりごと)」は「祭りごと」であり、支配者は「シャーマン」であり、政治上の指導者であるとともに精神の支配者でもあったわけです。
ですが現在の日本は憲法で信教の自由を保証し、政教分離の原則で政治を行っていくとしましたが、正直に私は「これを実際に完全に分離することは不可能である」と断じざるを得ないと考えます。なぜなら「政治と宗教は実は全くの同根のもである」というか政治の“分身(エイリアス)”が宗教であるからです。
ですからあらゆる国の法の概念や道徳、社会通念や社会常識にいろいろな宗教的な思想が入りこんでいます。例えば日本では「重婚」は認められていません。ですがイスラム教国の多くは重婚を認めています。翻ってみて日本は以前は(特に支配者は)数多くの妻(ないしはそれに準ずる配偶者)を持つことは当たり前だったのです。重婚の禁止は「神より与えられた(もしくは定められた)配偶者と添い遂げる」というキリスト教の道徳からのものであり、特に後継者の必要な支配者にとって子孫を残すという常識からしたら「当たり前のこと」がキリスト教の道徳によって駆逐されたわけですね。
このように明治維新以後、西洋思想としての「キリスト教」の思想により日本に導入された常識や道徳観は枚挙にいとまがありません。
他にも日本人では常識であった公衆浴場での混浴の禁止やハワイの人々のフラダンスが扇情的であるという理由で禁止されたりしたのもキリスト教の道徳の押し付けでしょう。
ですから宗教から完全に分離した法や道徳が無い以上、受け取る側の考え方の持ちようによって「信教の自由」を考えることが最も望ましいと考えます。
私も友人の結婚式がキリスト教式であった場合、「賛美歌を歌って下さい」と牧師さんや神父さんに言われた場合は喜んで歌います。説教のあとの「アーメン」も喜んで口にします。また葬式にいったときも浄土宗・浄土真宗の場合は「南無阿弥陀仏」と唱え日蓮宗であれば「何妙法蓮華教」と数珠をもち唱えます。そしてご霊前に手を合わせご焼香をします。キリスト教式の葬式も同様です。
また禅宗の学校に訪問した際に座禅の授業を見学して「先生もどうぞ」と言われますが、折角勧められるものをお断りするのもなんなので喜んで座禅を組ませて頂いております。
さてこれらの場合に私は「信教の自由を侵害された」と感じるか? 答えは「ノー」です。というか殆どの方が「そんなの信教の自由の侵害に当たるわけないじゃないか」と鼻で笑うと思います。
なぜか? いたって簡単で「自分の心の持ちようによって信教の自由を侵されたとは判断しないから」です。つまり上記の宗教的な行為を行っているときの私の心持ちは「その方がそうして欲しいと望んでおり、自分がそうすることで相手が喜んでくれるならそうするのが当たり前だ」ということなのです。(葬式の場合は勿論ご遺族の方の気持ちを考えます)
ですから「国旗」の掲揚と「国歌」の斉唱が「ある特定の宗教の思想の押し付け」として行われているのならそれは問題だと思いますが、現在の「国旗」「国歌」の扱い方はそれらの思想とはかけ離れたものであり、むしろそういった主張でもって反対するのは多くの方には「ズレた」考え方だと受け取られると思います。
ですから「国旗・国歌法」に定められたとおり、「拒否する権利」でもって「自己の内心の自由=信教の自由」を守ることをした方がよほど建設的であると思います。
要するに「国旗」「国歌」を宗教的に受け取っている日本人がほとんどいないのが実情です。なぜなら日本人の多くが12月24日には「クリスマスイブ(=イエスキリストの生誕前夜)だ」と大騒ぎし、一週間後の大晦日には「お寺の除夜の鐘」を聞き厳かな気分になり、その数分後には「神社に今年一年のご利益」をお願いに行く、といった凄まじい「宗教心」を持っています。しかもほとんどの日本人がそれらの宗教的な意味や意義を知らずに行っていることから考えて、例え「神道」が日の丸・君が代でもって「国家神道」を復活させようと企んだとしても、それを実現するのは限りなく不可能に近いと思うのですが…。
例えば私は国旗の掲揚や国歌斉唱の際に「国や政府」を思うのではなく、「同じ社会に同時代に生きている人々」に対して「自分がこの社会で生きていかれる(生かされている)ことへの感謝」の念を持っているに過ぎません。まあ、「それがお前の信仰心だろう」と言われれば、「まあ、そうだろうなあ」とは思いますが。
星野さん
●信仰の自由を侵さないので国旗・国歌法案は憲法違反ではない。
(理由)
1.そもそも国旗を仰ぎ見て国歌を歌うことは、神道を押しつけ強制的に信仰させることにはならない。
2.もともと君が代の基になった短歌は恋歌で、明治時代に国歌を制定した(ちょっと語弊があるが)ときに後付で君を天皇の意味に変えた。
3.象徴性天皇を讃えることは日本人としての義務である。なぜなら現天皇は日本を体現している存在と位置づけられているからである。もしそれが嫌であれば改憲して象徴天皇制を破棄すべきである。
4.嫌なら仰ぎ見なくても良いし歌わなければよい。この法案は”歌うこと””仰ぎ見ること”の強制ではなく、公の場で必ず旗をはためかせ国歌を流すことを義務づけるための根拠となる物である。
というところでどうでしょう。
管理人
●この神道の押し付け論に関しては、いつも「百円玉の論理」を思い出してしまいます。これは高校の国語の教科書によく載っている「創造性としてのレトリック感覚」という論説文に書かれてあるもので、簡単に言えば以下のようなことです。
「百円玉が丸いというのは当然正しい。また、百円玉が四角いというのも、横から見たらそうなのだから正しい。つまり、物事にはいろんな見方がある」
国旗国歌を「神道の強制」とするのは百円玉を横から見ているのと同じだと思います。その見方自体を否定することは難しいが、そう見ている人が非常に少ないという点において、公教育における実施は肯定できると思います。国旗国歌の問題は個人の認識論によるというのが京都君が代訴訟の判決であり、「大勢が日の丸君が代を容認するならば、それに従うべき」とするのが民主社会における常識的な結論ではないでしょうか。(う〜ん、やっぱり単純すぎるなぁ)
それに、ものごとの成立事情や原義にこだわりすぎると、それが享受されてきた役割や機能を誤認することになり、我々が培ってきた「文化」までも放棄することになってしまうと思います。
言語に例えればこうなります。
「奥さん」という言葉は「家の奥にいる存在」という意味であり、女性蔑視の言葉だからよくない。男女平等の社会において、こんな言葉を使ってはいけない。
「こけし」は「子消し」であり、「間引き」から生まれた言葉である。これは現在の人権感覚からして好ましくないので、こんな言葉はなくすべきである。
国旗国歌を神道だとするのは上記と同じことのような気がしますが・・・。
(この件に関してみなさんのご意見をお待ちします)
デスザウラーさん
●尊師、いや牧師氏からのメールを拝読して、遅まきながら感想を。
一神教、いやキリスト教徒に特有の多神教への偏見と蔑視が漲る文章ですね。私としましては、大変疑問を感じました。
この人物の主張の要点は、
『天皇は象徴であると同時に、今でも皇室神道の祭司であり、神道の世界では神とされているのです。そのような天皇を讃美し、その永遠性を祈念する「君が代」が、
いかに宗教的な歌であり、それを歌うことが宗教的な行為であるかは明白です。したがって、「君が代」を法制化することは、憲法20条にある、政教分離の原則に反する』という点にあるのですが、私に言わせれば馬鹿臭い限りです。
まず、近代国家とは宗教とは無縁には成立しません。むしろ、宗教と一体になってこそ(平たく言えば宗教の力を借りてこそ)、近代国家は成立し、統一を維持し、存続が可能になります。私に言わせれば共産主義も宗教なら、毛思想も宗教、主体思想も宗教です(教義が邪悪過ぎたから崩壊したのですが)。戦前における国家神道は、このような万国共通の要請よって形成されたものであり、世界的に見ても少しも異常な例ではありません。国家が存続するためにはむしろ、宗教が必要であり、存続に必要な範囲での国家と宗教の関りは許されるばかりか、必要です。国家神道なくして、我国の近代化は不可能でした。
米国を見てみましょう。米国では大統領は次のように就任宣誓を行います。
「私は、合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽して合衆国憲法を維持し、保護し、擁護することを厳粛に誓います」
この、合衆国憲法に記された文章を、新大統領は、牧師立会の元、聖書に手を置いて読上げるのです。この誓約は、国民や議会に対するものではありません。合衆国を作りたもうた主イエス・キリストに対して行われる宗教的儀式です。だからといって、仏教徒やムスリムの米国民が、この儀式によって信教の自由が害されたとして、訴訟を起したという話は聞いたことがありません。米国は訴訟天国だと言うのに。
一方で修正第1条は「信教、言論、出版および集会の自由」を次のように規定します。
「連邦議会は、国教を定め、または自由な宗教活動を禁止する法律を……定めてはならない」
大統領の宣誓ばかりでなく、議会や軍隊には専属の聖職者がおり(米軍の従軍聖職者は、将校の階級を持つれっきとした職業軍人です)、軍隊基地の中に教会が設置され、堂々と公費が宗教活動に支出されています。政教分離の一方で、こうしたことが堂々と行われている。何故なら、宗教が米国の存続に必要だからです。
政教分離を徹底した結果として、日本国家が崩壊したのでは本末転倒です。
キリスト教徒は、神道へのいわれなき偏見や蔑視を捨て、まず日本国民としての自覚を取り戻すべきでしょう。日本国家が存続してこそ、日本国民がキリスト教を信じる自由も確保されるというものです。戦前でも、陸海軍高級将校に何人もキリスト教徒がおりました。大正時代、初の平民出身総理となった原敬も、キリスト教徒でした。
絶対評価の導入は教育を救うか?
(問題提起)管理人
●たまっていた新聞を読んでいたら、通知表の絶対評価の導入について各紙の社説が微妙に違っているのに気がつきました。この問題にはあまり関心を持っていなかったのですが、どうも大変な問題が起きるおそれがあるようです。とりあえず、他の掲示板から、朝日新聞の論調(絶対評価導入賛成論)に対する意見を引用しますので、参考までにご覧ください。
★文部省が相対評価から絶対評価に転換させる方針を発表しました。努力すれば全員が「5」を取れるので、毎日新聞は「努力しても報われないことがなくなる」などと評価しています。教育の場に本当の切磋琢磨が持ち込まれるならいいのですが、私はどうも胡散臭く感じます。
というのは、日教組が跋扈して全員に100点を付けたり、かけっこで同時にゴールさせるような愚挙が今まであったからです。正論を述べているつもりなら、それを念頭に置いて「逆に全員が「1」になることもあり得る」と言及すべきです。
朝日新聞はどう論じているでしょうか。たぶん称賛しているでしょう。かつ上記のような指摘はしていないでしょう。とするとこれは日教組・朝日・毎日の謀略が忍び込む可能性大です。十分な注意が必要だと思います。
★今日の朝日の社説は「絶対評価――通知表革命に賛成だ」とのタイトルで、文部省が通知票に絶対評価を導入したことを賞賛しています。これにより、『クラス全員が「5」をとることも可能になる。』
『新しい方針に賛成したい。本人の学力が落ちていないのに、できる子が転校してきただけで「4」から「3」に下がる、といったことは合理的でない。競争心からクラスの仲間を「敵」と見かねないようなゆがみは、もっと早くただされるべきだった。』
など、まさに手放しの喜びようです。
もはや怒りを通り越して脱力感すら覚えますが、こんな馬鹿な方針を採用する文部省はさておき、とりあえず朝日について述べます。
まず、クラス全員が「5」をとれば、それは絶対評価ではありません。絶対とは0を基準としたもので、上限もありません。全員5なら、それは全員が1や2をとるのと同じ事です。ここに私は運動会の徒競走でのゴール前で全員が1列になって同時にゴールするよう指導する、というのと同じ欺瞞をみます。
次に、『競争心からクラスの仲間を「敵」と見かねないようなゆがみ』についてですが、競争のないところに進歩はありません。競争を通じてしか得られない友情や理解もあるということはスポーツの分野などでも明らかなはずなのに、それを否定した後に残るのは互いの批判や向上のない、なれ合いだけのぬるま湯です。
朝日は平等を意図的に誤解しています。自由主義社会のめざす平等は「機会の平等」であり「結果の平等」ではありません。日本は受験という、身分や縁故と関係ない基準によってかなりの程度「機会の平等」を実現してきたのに、ここにきて共産主義なみの改悪を実現しようとしています。
共産主義が「結果の平等」をめざした結果現れたのは、党員とそれ以外を露骨に差別するどうしようもない縁故主義と、それに伴う共産党員の貴族化、社会階級の固定化でした。社会全体の労働意欲の低下は絶望的なまでに低下し、東側国家は自由主義陣営に比べ数十年の遅れをとりました。
朝日が喜ぶ「革命」がなんの革命だか知りたいとも思いませんが、このまま行けば日本は共産主義国家が壮大な失敗をおかしたのと同じことを21世紀に繰り返すことになります。私たちはなんとしてもこんな改悪に反対し続けねばなりません。
★今朝の朝日の社説を読んで。
「絶対評価で困るのは高校入試だ。内申書の学習の記録は相対評価である。受験者を成績順に上から入れるには向いているからだ。」
ちょっとまって、入試って入学者を通知表だけで決めるのでしょうか?試験があるでしょう。都立高校は大体のところで通知表:試験を5:5で評価基準にしています。大体、「一人ひとりの到達度を基準につける評価」だったら選抜はもっと簡単になるでしょう。
それに絶対評価は中学校が進学実績をよくするのに成績を捏造したりする恐れがあります。だから現在、中学校では、通知表での各科目の成績配分のパーセンテージが厳しく定められています。
僕は「絶対評価の範囲は、客観的な目標を示しやすく、到達度のはかりやすい基礎・基本の部分に限定すべきではないか」と書いてあるところが問題だと思います。だれでもできる問題しか解けないような応用のきかない連中が「5」を取れてしまうような基準を設けろというこの社説は狂気ですね。
(引用終わり)(引用させていただいた方には御礼申し上げます)
朝日、毎日は全面賛成。産経は慎重論(読売は未読)という感じです。この話を聞いたときは、相対評価の弊害がわかっているだけに、到達度評価になるのはいいのではないかとしか思っていなかったのですが、考えてみれば「結果の平等」を目指すイデオロギーが浸透してくる可能性が大ですね。「評価は差別につながる」と思っている教師は多く、平易な新指導要領のもとで「みんな理解したからみんな5」という事態は実際に起きそうな気がします。(どうやら、またしても文部省は日教組や朝日の意図通りに動いているようです)みなさんはどう思われますか。
PARUMAROさん
●何年か前に、この問題について朝日新聞に投書したことがあります。さっそく記者の方から、月曜日の教育欄に掲載する旨、連絡をいただきましたが、原文の1割ほどがツマミ食いされただけで、私が期待していたほどの議論は盛り上がらず、結局立ち消えになってしまいました。ちょっと長いですが、原文を紹介させていただきます。
(以下投稿内容)
東京都の高校入試に用いられる調査書、いわゆる内申書に載せられる成績評定は、54321の割合が、在籍する三年生全員の7,24、38、24、7%と定められていて、この人数枠は、ビタ一文ならぬビタ一人狂ってはならない。これは100人の生徒が全員100点を取っても、1をもらう子が必ず7人いるということを意味しており、実際にどの生徒を1にするか決めかねる事態もままある。しかし、私が中学校で理科教員として勤務していた5年間は、そんな悩みを持たずに済んだ。同僚のベテランの理科教員から、成績処理に関する次のような原則を教わっていたからである。
@定期テストの問題はなるべく難しめに作成する。
この目的は、前述したような事態を避けるためである。7%以上の子が100点を取りでもしたらそれこそ厄介である。また、50点以上取っても評価が1や2というのでは、本人も親も納得しづらいだろうから、50点を平均として、得点分布が幅広くバラつくような問題がよい。
A学期末の評価は、テストの合計点だけで輪切りし、主観的要素は加味しない。
生徒たちは点数を見せあうことがあるから、80点で5の子と90点で4の子がいる事を知れば、当然黙ってはいない。終業式が終わってホッと一息という時に、親子揃って異議申し立てに来られる。私の教科は点数という客観基準で切れるからいいが、可哀想なのは美術などの実技教科の先生たちだ。もともと評価基準が曖昧なのだから、真面目な先生は全ての作品を見比べて夜遅くまで悩んで点をつけ、そのあげく怒鳴り込まれたりする。
こんな環境の中で教員をやっていると、不思議な感覚を味わうことがある。授業をサボって非常階段でタバコを吸うような生徒は、一人もいなくなるよう指導するのがいいに決まっているのだが、いざ内申をつけるとなると、逆にそういう生徒が無くてはならぬ存在になってくる。彼らには授業不参加という名目で遠慮なく1をつけられるから、真面目ながら低学力の生徒数名が、1をもらわずに済むのである。特にツッパリ君の中でも、オール1を持っていってくれる子は、本来なら学年全体に分散してゆく1を9個も独り占めにしてくれるので、非常に貴重であり、我々は「吸収源」と呼んでいた。
結局私は、すべての生徒にわかるように教えようという意気込みで教員デビューしたはずなのに、「全ての生徒ができちまったら困るんだぞ」という悪魔のささやきによって、授業のペースを上げ、難しい問題を出し、下から7%の生徒たちに「お前は理科には向いていないんだ。お前の理科の能力は最低なんだ」ということを繰り返し言い聞かせてきたようなものである。全国の中学校の先生方が、機械的な相対評価の存在によって、いかに自分の理想からかけ離れた教育活動に甘んじていることであろうか。私も在職中の5年間、一度として自分の仕事に満足感を覚えた事が無かった。
都立高校の教員となってからの8年間は、相対評価の重荷から解放されたことだけで、私の教員生活は十分納得のゆくものになった。全ての生徒にわからせる授業を、やれているかどうかは別にしても、遠慮なく追究できるということは素晴らしい。実を言うと、高校での評価方法は、厳密には絶対評価といえない部分を持っている。就職や進学の調査書には校内での評定分布を記載するから、同じ「5」が、乱発されたものか希少価値のものなのかの判定は可能である。また各教科の評定平均値が、あまりにも極端な数値にならないようにというような申し合わせもあるから、よくよく考えてみれば相対評価的と言えなくもない。ただこれはあくまで紳士協定であって、鉄の掟では無い。教えた結果差がつくのと、初めにパーセンテージありきというのは根本的に違うのである。今の私は、テストに教えた内容だけを出題すればよく、イジワル問題を考える必要もない。良い点を取った生徒は喜び、私も共に良い気分を味わえる。みんなに良い点を取らせるために教えるという、当たり前のことができるのである。こうしたとき初めて、生徒も私を「先生」として見てくれたと思う。中学校での私は、先生では無く「審査員」か「審判員」だったに違いない。
テストを無くすことで問題は解決しない。習い事には段級審査があり、自動車教習所には検定があるように、テストそれ自体を悪の象徴みたいに扱う必要はない。内申書を無くすというのも同様である。入試当日に表れない日常の努力を評価しようという、発想そのものまで否定する必要もなかろう。諸悪の根源は、システムとして7%の落ちこぼれを必要不可欠とする評価評定のしくみなのであって、これが廃止されない限り、中学生は学ぶ喜びを、中学校教員は教える喜びを知り得ないままであろうと私は想像するのである。(終わり)
むくまろさん
●絶対評価は「地域格差」「学校格差」という「公教育にはないとされている虚構」が直視されますし、成績の趨勢値を見れば「教師の教務力」が客観的に測れるので基本的には賛成ですが、そのためには全国レベルで頻繁に客観式テストを行う必要があります。これならば「つけとどけ」「ひいき」といった「内申の不透明性」が大幅に緩和されますし、そもそも「どうしてこんな悪問で判定されなければならないのだ」といった、「中間期末の問題が生徒の実力判定に適当な水準に達しているか」という問題もクリアされます。これならば無条件で賛成です。
ただおそらくそうはならず、指導要領に「達成水準の目安」が記入され、その状況に基づいて成績がつけられることになると思われるので、厳密な判断が困難な「美術」なんかではイデオロギー先生が全員に5をつけるケースも出てくるでしょう。でも、それでも賛成です。というのは、「内申」が受験の判断資料としては「役に立たない代物(本当は現在でもそうあるべきなのですが)」になるので、高校が各々の基準で生徒の選抜を行うことになるからです。
私の学年でも開成・慶応・早大学院・桐蔭理数に合格しながら、足が遅く・不器用で音痴であったために県立3番手校と併願している子がいました。絶対評価になればトップ校は内申を「黙殺」するか、日比谷のように「独自問題」を作って(これは大学区になって、東部の高内申低学力の子が押し寄せてくるのを防ぐためだと思っています)内申が影響を及ぼさない程度まで比重を下げるなどの「自衛策」に出る動きが促進されるでしょう。唯でさえ出来る子を中学入試で取られているのですから、「内申」は都立没落を強烈に後押ししているのだと思います。
足が速いのが有利になるのは体育系だけで良いですし、歌がうまくて有利になるのは音楽系だけで十分です。この場合の絶対評価は「内申の無意味化」に繋がるので個人的にはどっちにしろ賛成です。
塾屋さん
●、絶対評価を導入すれば完全に内申は意味をなさなくなり、高校入試は当日の試験一発の勝負になります。
理由はPARUMAROさんとむくまろさんの主張の通りだからです。
またまた朝日(と今回は毎日も)は上っ面だけの主張を行っていますね。本当に「頭が悪い」。絶対評価の導入は彼らが諸悪の根源のように言っていた「受験戦争」の過熱を招くだけです。
都立高も入試に対するスタンスを変え始めています。(詳しくは時間が出来たときにご紹介します。かなり具体的な話を都立高の校長先生から聞くことができました)
入試というものは至って単純な理屈で「人を選別する作業」に他ならないのであって、その選別方法を「日々の学習の記録(内申)」と「入学(もしくは卒業)のもっとも近い時期の学力(テスト)」の2面で判断していた訳ですが、その一方の評価が全く相対性をなさなくなる訳です。そうしたらどうなるか? いたって簡単で「当日の学力」でのみ判断するしかない訳です。(さあ〜、「塾屋」の出番だ!!!=結構、マジに思っています)
しかし、絶対評価を導入した場合その評価を行う先生方の資質はどうなのか? という疑問がどうしても払拭できません。より具体的には「足立十六中」のM先生のような方、国立2小のような先生方が生徒を「絶対的に」評価するなんてのは考えただけで恐ろしい。
ですから絶対評価の導入は「朝日」や「毎日」の喜びようとは全く逆の状況を生み出すだけのような気がします。
管理人
●現在、多くの都立高校で行われている「絶対評価」は、単純に到達度評価ではではなく、相対評価を加味した「偏差値的絶対評価」となっています。クラスの平均点の辺りを3に設定し、その半分以下を1(赤点)として、全体をほぼ均等にわけて5段階評価を決めるのです。これならば、PARUMAROさんの書かれたような相対評価の弊害もなく、無理に1をつけたりする必要もありません。また常に平均点あたりが3となるので、仮に全員が100点をとったとしても、5ではなく3となり、適切な競争意識を働かせることができます。
相対評価から絶対評価へという話を聞いたとき、私はこのような絶対評価だと思って賛成していたのですが、「全員が5になる」などと朝日がはしゃいでいるのを見ると、単純に到達度だけをみた絶対評価を行うようです。これならば、簡単な問題を出して全員が満点近く取ったからオール5という事態が起きる可能性があります。
この弊害は以下の点です。
1、競争原理が働かないので生徒が勉強しなくなる。
2、(みなさんが指摘しているように)内申書の意味がなくなるので
、 入試は一発勝負になり、受験が過熱する。
1に関してはすでに指摘していますので、2について述べますが、内申書の形骸化は教員も行政側も絶対に認めないと思います。(私も反対です)なぜなら、
・内申書の弊害はあるが、内申があるから学校の秩序が保たれているという側面がある。(内申書が重視されてきたのは、受験科目以外の授業が成立しないと経緯があったから。もしそうなったら、塾だけ繁盛して公立中学は荒廃の巷になるでしょうね)
・真面目にこつこつ勉強する生徒を救えない。
等の理由からです。
絶対評価は導入するが、内申書は形骸化させない・・・この矛盾を解決するために、「入試用の特別評価」を作成する可能性がすでに指摘されています。つまり、普段の通知表では4や5が並んでいるのに、「入試用評価」は2や3ばかりという詐欺のような事態になるというのです。これでは混乱がますばかりです。
結局、「みんなが5を取れる」ような絶対評価を実施するのなら、むくまろさんが指摘するように「全国レベルで頻繁に客観式テストを行う必要があります」が、それができないのなら、「競争よりも共生をめざす」イデオロギー先生たちに活躍の場を与えてしまい、学習意欲の低下や学力低下をまねくおそれがあります、また、内申点の形骸化から様々な問題が派生してくるでしょう。
この問題に関するもっともいい解決策は、「みんなが5」ではなく高校のような絶対評価を導入することだと思うんですけどね・・・。
木村さん
●一度書き込みをいたしました広島の木村と申します。
今回、評価についての書き込みを拝見していて、議論の輪を広げて頂きたくて、原稿をまとめてみましたら長くなりました。
分けて投稿するのがよければそうします。参考までに添付しますのでご意見をお聞かせください。
小学校現場では、絶対評価という言葉を一人前に使いますが、理解の仕方はまちまちです。
今回の改定の趣旨を誤るととんでもない、という危機感を抱いています。甘い評価になり一時的に保護者は喜びますが、信頼性のあに評価にあとあと戸惑う可能性があります。先生によっては、テスト問題を教えて1週間ごにテストという笑えない話もあるのです。
ついては、書き込みを通して、特に学校に評価の仕方の意識が高まるような議論が出ればうれしいのです。
おひまのときで結構ですので、ご意見をお待ちしています。
(以下、木村様の投稿です)
管理人をはじめ、PARUMARO様、むくまろ様、塾屋さん様、kazz様、幸村様などの評価に関するご意見は参考にさせてい頂いています。わたしは年齢をご覧なればわかるように現場を離れておりますので、当地の先生方に当掲示板を閲覧して頂いております。
評価の問題は、個人的に関心があります。したがって、議論を巻き起こすためにも、当然わかりきった意見ですがお許しください。知恵(知識ではない)を働かせて読んでいただくとうれしいです。
教育課程審議会が「教育課程の実施状況の評価のあり方の中間まとめ」を発表しました。絶対評価とか個人内評価といっても評価法の特徴を知る必要があるように思います。中間まとめの中に評価の基本的な考え方を示しています。
◆
これからの評価の基本的な考え方(教育課程審議会 中間報告の概要から)
(2)学習指導要領が示す目標に照らしてその実現状況を見る「目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)」を一層重視し、児童生徒のよい点や可能性、進歩の状況などを評価する個人内評価を工夫することが重要。とある。
◆
このように「目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)」を一層重視とか、可能性、進歩の状況などを評価する個人内評価などといっても、教育現場で理解されなければ絵に描いた餅である。そこで、今回この掲示板で評価についての議論が展開されることを願っている一人です。
評価の仕方には何通りもの方法が考えられますが、どれも一長一短があり、どれか一つの方法で十分というような方法は存在しないはずです。まず、このことを理解する必要があると思います。評価法の長所・短所を総合的に理解していないと、教師の独り善がりな解釈で評価され、信頼性・妥当性の乏しい評価となることは目に見えています。
わたしたちは、教師の一方的な立場から見た狭く、主観的な見解をもちやすいというこができます。そのためには、児童・生徒の成績評価の仕方は、一通りでなくて幾通りもあるということ、並びにそれらはどれも長所・短所があるということ、さらに、その中のどれかを中心としながらも総合的に用いるのが最も正しい評価の態度であるということを十分理解していなければならないのではないでしょうか。この掲示板でも相対評価を加味した絶対評価のことを書いておられましたが、欠点を十分知ってのご意見であり、説得力があります。今後この考え方を十分検討してみることが大事です。そうしないと、小学校の成績で満足していた保護者は、中学校や高校に進学して、こんなはずではなかったと後悔することは明らかです。
この掲示板の皆さん方の投稿をみていると、十分な知識と豊富な経験をお持ちで、心配無用ですが、小学校に席をおいた経験から心配しています。全国の実情は知りませんが、言葉は同じでも評価法について十分な理解をしないままに、今まで評価しているのが実情ではないかと想像しています。評価法の個人内評価・絶対評価の長所・短所を示して、今後の議論を待ちたいと思います。
比較の規準や対象をどこにおくかということで、次のようないくつかの評価の仕方が可能であると考えられます。
(1)相対的評価
〔長所〕
@学級・学校内では(または全国的に)、きわめて客観的に評価することができる。教師の主観が入る余地がない。各評点の示す価値の度合が明確であり、あいまいさがない。
A評価や解釈では、他人と並べて比べてみて、はじめて事態がはっきりするし、また教師も児童・生徒も保護者も納得がいく。(発達の差の大きい低学年では比較はいらないので、欠点になる)
〔短所〕
@能力・性格・健康・環境などの個人的事情を無視している。結果だけで相対的に評価を行うので、個性を無視した評価法であるといえる。
A努力しても進歩しても、相対評価はその状態を示すことができない。成長の遅い児童には、その進歩が評点に現われないことがあり、激励どころかかえって落胆させるおそれがある。
B優秀校や、成果をあげている学級でも、1・2の評点を一定数だけ付与しなければならないのは不都合である。逆に、成績が振わない学級でも、5・4を一定数だけ与えるから、児童・生徒をあまやかすことになる。(少子化で集団の人数が少なくなると相対評価は成立しない。中間報告でもこのことを指摘している)
C図工科や音楽科等の評価にはなじまない。
(2)個人内差異による評価
この評価の立場は、相対評価のように、個人(または一定集団)の成績の結果を、他の児童・生徒(または他の集団)と比較したりその中に位置させたりして解釈するのではない。その個人または集団自体の中で、個人内差異をみることによって解釈する方法である。本人内だけで絶対的に、個性的に評価する。その比較対象を他の個人や集団に求めることをやめて、その個人または集団自体の属性に求める評価。例
@個人、又は集団のいろいろな教科の成績の横の比較
A個人、又は集団の一定教科内における目標または諸領域の成績間の比較
B個人、又は集団の成績をその個人や集団の能力や適性との関係で評価する。
C個人、又は集団の成績を縦断的に過去の成績と比較する。進歩の概念による評価が可能になる。
D個人、又は集団の成績を、その環境・努力・興味との比較で評価する。
この方法は、他と比較しないで、その個人や集団独自の立場で絶対的に評価するのであるから、これも一種の絶対的評価である。絶対的評価とはっきり区別するために、こちらは「個人内差異による評価」とか、「個人内偏差の概念での評価」とか呼ばれる。
〔長所〕
@個性教育に即した評価の仕方である。
A個人や集団の横断面的なデコボコや長所・短所を示すので、診断的解釈が可能になる。
B縦断面的な時間的変化もみることができる。発達の評価も可能。
〔短所〕
@客観的な比較を可能にする根拠がこれだけでは欠ける。客観的で信頼のおける個人内差異の評価を可能にするためには、どうしても相対評価法の手法を借りなければならない。例えて言えば、児童・生徒の国語が80点、算数が70点だとする。この児童・生徒は国語が優れていると評価することは少し乱暴な解釈と言うことができる。この二つの得点が共通の相対評価を仲介として求められたものであってこそ、はじめて合理的に比較でききる。
A個人内差異の評価はただそれだけでは独立できない。
Bこの方法がいかに個性的、診断的方法であっても、これだけでは、独善的解釈になりやすい。
Cこれだけでは評価の重要な一面である価値の客観性に欠ける。
(3)絶対的評価
第三の評価の仕方に、絶対的評価法がある。今回、教育課程審議会が中間報告で提案している評価法である。これはカリキュラムの要求とか教師の要求とか、あるいは社会の要求とか文化の要求を規準として、児童・生徒または集団の成績をそれに照して評価する方法である。
「目標に準拠した評価」ということを抜きにしては、この評価は語れない。絶対評価をただ素点を示せばよいと考えている中学校の先生も多いようである。「目標に準拠した評価」であるから、学校全体で教科目標をどれだけ達成したか、共通理解できるように記述尺度で示しておかなければ、先生の主観が多く入り、信頼度は低くなる。また、この点を学級担任制の小学校では、学級間でばらついた評価になりやすい。
@その学校のカリキュラム要求を規準として、それに照らしての評価(ここが重要)
A予め定められた学年相応程度を規準として、それに比較しての評価(ここが重要)
具体的例でいえば、100点満点法で採点して、60点以上を合格とか、40点以下は不合格とか決めるのは一種のこの立場でありますが、共通のテストを学年内で実施することも重要です。こういう立場での絶対解釈では、たとえば、およそ80点以上とった生徒は、仮りにそれがクラスの大半を占めていたとしても、全部成功したと解釈しても差支えないことになる。逆に60点とか50点以下の者は、いかにそれが多数であっても、みな失敗したと断定してもよいことになる。
〔長所〕
@この方法が信頼できるように行われるならば、個人・集団の真の学習の成功や失敗をきめることができ、また真の進歩発達をみることができる。(仮定が重要な要件)
Aこれが正しく行われるならば、児童・生徒に自分の成績を知らせ、誤ったうぬぼれや、不安や、また無用の競争をなくすことができる。(仮定が重要な要件)
〔短所〕
@この方法の根本的欠陥はその主観性と非信頼性にある。学習指導要領が示す目標に照らしての要求とか、学年相応の程度を規準とすると言っても、それを具体的に規定する方法が存在しないならば、絶対的評価は結局教師の主観に左右されることになり、信頼がおけない。これは致命的な弱点である。
A仮にこの方法が信頼が置けたとしても、児童・生徒の能力・適性・興味・健康・環境等を無視して、客観的要求を規準に評価するから、個性を無視した評価法であると、いう点において、相対的評価法と共通の欠陥をもつといえる。
B到達基準の設定が困難である。(甘い評価になりやすい)
現在、学校で行われている評価の仕方としては、以上三つの重要なものをあげた。それらはどれも独自の長所と独特の弱点も持っている。簡単に、どの方法が良くてどの方法が悪いと決めつげられるものではない。ただ、この場合はこの方法がよく、あの場合にはあの方法がよいということはいえない。何といっても評価では、信頼性とか客観性とかいうことが重要である。そういう視点からすれば、それらの持つ欠点を理解し、欠点を補いながら評価を行うのが現実的であると考えます。学校といっても小学校から高等学校まであり、また小学校でも6年間の差があります。低学年の発達の差は実に大きい。
書店にある本に飛びつくことなく、まず評価の目的を考えて、信頼性のある評価とは何か、評価される立場にたって考えてほしいと考えます。評価には、あたたかい評価と、つめたい評価があります。
また、評価には主観が伴うのは当然です。主観がはいることは仕方ありませんが、普段から児童生徒を観察して、あたたかい評価が出来るように心がけておきたいものです。
松下幸之助さんが、松下政経塾生を選ぶ基準の一つに、塾頭が基準を尋ねると、「運の強そうな人間」をあげたそうです。これも数字では表せなし、言葉で示すことも出来ない主観的評価です。
長くなりましたことをお許しください。
むくまろさん
●「評価」が方法に関わらす問題になるのは、公立高校入試において配点に組み込まれることが最大の理由で、それ以外は何を採用しようと木村様の仰るとおり一長一短があり、大した問題ではありません。小学生は一部の面接重視私立を受ける場合(悪いと問いつめられて苦戦することが多い)、高校では推薦を受ける場合程度しか使われませんので、多数派の子には「人生に関わらない」からです。
で、ちょっと気になったのが私が「内申は高校受験の配点に組み込んでは行けない」と思っている理由がまさに管理人さまがメリットとして上げている理由だからです。
>・内申があるから学校の秩序が保たれているという側面がある。
「内申の有無によって態度を変える生徒」が、優遇されてしまいます。私は出来ることなら「こういった事で態度を変えない生徒」の方が好ましく感じます。
>・真面目にこつこつ勉強する生徒を救えない。
これで救われるのは大抵「中間期末は出来るが模試は駄目な子」
「授業態度は良く、提出物もきちんと出すがテストがふるわない子」になりますが、前者は「近視眼的な学習態度で、復習や複数単元を包括した演習から逃げている子」であることが多く、後者は「作業はするが一番しんどい『暗記』から逃げている子」であることが多いのです。つまり本質的なことから逃げて「やっているように見せかけている子」である場合が大半で、これは「救うべき」態度ではありません。
「学研」から「内申アップの方程式・・・生活態度がものをいう」という「内申攻略マニュアル」がでていますが、その内容は「骨太な基礎学力の育成」というよりは、「教師受け」を勝ち取るためのノウハウ集になっていて、
これを素直に実践している生徒がいたとしたらかなり「気持ち悪い」内容になっています。「内申によって救われる層」というのは「本来あまり救ってはいけない層」の様な気がします。
一言でいうと「内申は人間を矮小化する」というのが、最大の反対理由です。
内申による学校秩序の維持についてですが、「内申がなければ秩序が維持できない教師」は内申が人生にあまり影響を与えない小学や高校での該当科目の大半が成り立っている以上「力量不足」です。「内申によって秩序を維持させる」よりは「内申がなければ秩序を維持できない教師は淘汰される」仕組み作りの方が「あるべき姿」でしょう。
紅緒センセイ
●むくまろさんのおっしゃっていることはうなづける部分も多いのですが、結論から申し上げると私は現時点では内申は入試の際にある程度は考慮されるべきだと思っています。
>・内申があるから学校の秩序が保たれているという側面がある。
「内申の有無によって態度を変える生徒」が、優遇されてしまいます。私は出来ることなら「こういった事で態度を変えない生徒」の方が好ましく感じます。
>内申による学校秩序の維持についてですが、「内申がなければ秩序が維持できない教師」は内申が人生にあまり影響を与えない小学や高校での該当科目の大半が成り立っている以上「力量不足」です。「内申によって秩序を維持させる」よりは「内申がなければ秩序を維持できない教師は淘汰される」仕組み作りの方が「あるべき姿」でしょう。
まず、これに関しては確かに内申など気にせずに毅然と教師に意見や反論を述べられる生徒というのは確かに好感を持てますし、また、内申を楯に生徒を恐喝まがいに指導する教員もいただけません。ただし、学校の秩序を乱しても平然としている生徒というのはいくら学業優秀であれどもある程度の制裁は与えられるべきだと思います。学校は勉強をするところとはいってもそれだけではなく、ある種社会生活を共有する一面もありますので、円滑に社会生活を営む能力を評価するという意味では内申の意義は十分あると思いますが・・・受け入れ側の学校にしても受験生の成績のみではなく、素行などにも関心があるではないでしょうか。
それから、内申がなければ指導ができない教師というのはたしかに淘汰されるべきだとは思いますが、その反面授業妨害の著しい生徒を教室外に出すことすら許されない現状を改善しないことにはこれはかなり理想論に近いような気がします。現在の教員は指導の仕方をあまりにも制限され、少し厳しく指導すればやれ人権侵害だの子供が傷ついただのと子供の人権が過度に擁護され、子供もそれを察知してつけあがってるという印象があるので、この点をもう少し改善しないことには内申を全く考慮しないとなれば学級崩壊へのレシピだと思います。ですから、この件に関しては内申の功罪に関わらず教師の指導の幅を拡大することがまず急務だと思うのですが・・・(その上で内申や暴力を武器にするしかないダメ教師を淘汰するのは大賛成ですが。)
>・真面目にこつこつ勉強する生徒を救えない。
これで救われるのは大抵
「中間期末は出来るが模試は駄目な子」
「授業態度は良く、提出物もきちんと出すがテストがふるわない子」
になりますが、前者は
「近視眼的な学習態度で、復習や複数単元を包括した演習から逃げている子」であることが多く、後者は
「作業はするが一番しんどい『暗記』から逃げている子」
であることが多いのです。つまり本質的なことから逃げて「やっているように見せかけている子」である場合が大半で、これは「救うべき」態度ではありません。
この点に関しては、確かに既習内容をまんべんなく吸収することが理想ではありますが、これは入試だけでは計りきれないのではないでしょうか。たとえば高校入試の際ですが、中学三年間で学習した内容をすべて入試試験で出すのは不可能で、現状ではその中のいくつかの単元から出題されるものでしょう。もちろん、三年間に学習した内容をすべて覚えている生徒にとってはどんな問題が出されても恐くはないでしょうが、こんな生徒はそれほどたくさんいるわけではなく、たいていの生徒は単元によって得手不得手があるのが現実です。そこでもしも内申が一切考慮されず、入試試験のみで合否が判定するとなるとたまたまその時に出題されてた問題ができた生徒が合格し、同じような学力をもちながらも入試問題に出題されてた単元が不得手だった生徒は不合格の憂き目を見るといったこともおおいにあると思うのですが。
内申にはむくまろさんがご指摘のような弊害もありますが、現時点では内申を全面的に廃止することよりも、内申の持つ問題点を解決する方が
得策だと思うのですが。(たとえば、むくまろさんの御提案にあるような「スタンダードテスト」的なものを導入して、それを内申に併記するとか)
管理人
●内申に関しては紅緒センセイと同様に、やはりある程度は必要だと思っています。
都立高校には推薦制度があるのですが、推薦ではいった生徒(内申がいい生徒)と一般受験の生徒を比べると、推薦の生徒の方が成績的にも伸びているようです。私は「偏差値的に下位の高校」に勤めていますが、「内申が悪くても試験の成績のいい生徒」より「試験はできなくても内申のいい生徒=こつこつ型の生徒」が欲しいというのが偽らざる感情です。中堅以下の高校はみんなほぼ同じではないかと思っています。内申の問題点はありながらも、内申に対する需要がある以上、内申を全廃するのは難しいのではないでしょうか。
現在の中学生が内申の重圧にあえいでいるというのなら、内申の比率を少なくすれば、かなり問題は解決されると思います。
内申制度が導入されたのは、一般入試のみの弊害を緩和するためであり、内申に問題点があるからといって一気に全廃するのは、また別の問題を起こすだけのような気がしますが、いかがでしょうか。
この問題に関しては、ぜひ中学校の先生方のご意見を伺いたいと思います。もし、これをお読みでしたらよろしくお願いします。
●絶対評価導入における最大の問題点は、相対評価の弊害が広く知られているがゆえに、絶対評価のデメリットについて関心が薄いということではないでしょうか。
木村さんの書きこみによれば、教育課程審議会中間報告では
「学習指導要領が示す目標に照らしてその実現状況を見る目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)を一層重視し、児童生徒のよい点や可能性、進歩の状況などを評価する個人内評価を工夫することが重要。
とあるそうです。
これは朝日がはしゃぐように「みんなできればみんな5」を可能にする改訂であるのは間違いありません。この方法を導入すればどうなるのか、予測してみます。
・これまでの相対評価の反動から低い評価をつけなくなる。生徒はよろこぶが向上心は失われる。
・新指導要領によって、学習内容はかなり削減されており、多くの生徒がたいして勉強をしなくてもいい評価を取ることになる。競争原理が働かなくなり、いっそう生徒は勉強しなくなる。
・イデオロギー先生が5や4をたくさんつけるので、それがさらに加速される。
・当然、内申点が形骸化されるが、(下に記したように高校側の)内申の需要はあるので、入試用の評価が別に作成される。通知表は4や5ばかりなのに、内申評価は3や2ばかりということも。(教師への不信感が高まる)
・通知表の意味がなくなり、教師や学校への信頼度が低下。私塾への依存がさらに高まる。
・結果として、公立学校の学力低下と学校の荒廃・・・。
とまぁ、こんなことにならなければいいのですが・・・。
生茶さん
●素人の浅はかな思いつきなんですが、相対評価と絶対評価って共存できないのでしょうか?双方5点満点で両評価を併記した内申書を作ってやればあとは受け入れる方の学校がどちらを重視するか選択できるような気がするのですが。でもまあ根本的な問題としては5段階の評価が全てという点なんでしょうけど。
木村さん
●管理人さんがおっしゃっているように、相対評価の欠点が大きくクローズアップされすぎて、絶対評価の欠点が軽く見られている感じです。
最大の欠点は客観性にかけることである。正規分布を予想しなくてよいので、基準の立て方によって、意図的に基準を低くしたり、高くしたりして、成績の上位者を多くしたり、また少なくしたりしやすい。特に小学校では甘くなりやすい。
絶対評価は個々の教師の判断による、私的な主観性の強い評価である。評価を行うために、カリキュラムに照らして担任教師が評価基準を決めなければならない。それもできるだけ具体的でなければならない。しかしこの基準を具体的量的記述におろしていく操作の過程に、教師の個人的経験や価値観などがはいる。
オリンピック標準記録のようなものであればわかりますが、基準の作り方が現実的に難しい。
個人内評価も一種の絶対評価であるが、これにしても欠点は同じである。評定には相対評価の結果や絶対評価の結果などあらゆる角度からの評価の結果を生かすように努めないと、教師の主観に陥りやすい欠点をもっている。理想的な評価方法といっても、その具体的な方法を見つけ出すのが現状では困難である。統一テストなどを行わないと信頼できる評定は難しい。
教育課程審議会の「児童生徒の学習と教育課程の実施状況の評価の在り方について」の中間報告をとりあえずみてください。
むくまろさん
●管理人さま>納得です、今都立は内申:入試比率を4:6,5:5,6:4から選べるようですが、6:4の学校も散見されました。私の知り合いの卒業までに半数近くが退学する私立高校の先生も「内申・出席日数」はよく見るそうですので、内申にも需要があるのが分かりました。ただ、上位私立の大半は比率が0:10であり、従って進学面での都立の復権をになう学校は皆4:6と少ない比率を選んでおり日比谷などは独自入試の実施で、さらに比率を弱めようとしているようですから、各校の事情に会わせて、内申:入試比率(内申又は入試の不使用も含む)、試験科目、配点、試験問題(都立の問題完全使用、一部又は全部独自問題)などの選抜項目を完全に各校に任せることにすれば、それによって生じた状況が「最善」と言えるのではないかと思いました。全ての学校に内申を強要するのでなく、使わない学校がが「存在する」のは良いことだと思います。・・・・ということで「比率」についてはよいでしょうか(笑)
>・結果として、公立学校の学力低下と学校の荒廃・・・。
これが「バウチャー制度の導入」や「民営化」に繋がっていくのであれば一概に悪いとも言えないのですが、導入に至る過程で被害を被る生徒が可哀想になってしまいますね。民営化するにしても公立がちゃんとした状態でないとあっという間に滅ぼされてしまいますから、ハードランディングになってしまいます。20年後くらいに民営化を「していない」ということは考えにくいと思いますが、ソフトランディングの方が望ましいので「評価」はその観点から考えてみたいと思います。
木村さんの教え子Aさん
●.○子は、公立中学で三年間過ごしましたが、学校のレベルも低く先生の子供たちへの評価の仕方にも 問題があり、何度か 先生の方へ、押しかけましたが 結局、積極的でない子や、クラブに入っていない子には内申点は良くないことがわかり