ジェンダーフリーってなんか変!
keyword<ジェンダーフリー批判、反対、フェミニズム批判
「ジェンダーフリー」という奇矯でいびつな思想が、行政によって教育現場に浸透しつつあります。みなさんも、ぜひこの問題の深刻さを理解していただき、知らないうちに忍び寄ってくる「ジェンダーフリー」にNOを叩きつけてください!
参考HP
「フェミニズム病のWEBクリニック」
「夫婦別姓を慎重に考えるホームページ」
まずは紅緒センセイのご意見からお読みください。
| ジェンダーフリーといえば、今回帰国した際にゲットした本の中に「アホかもしれない日本人」があるのですが、この中でかの有名な八木秀次先生がジェンダーフリーの批判論文を書いておられました。 「カタツムリがうらやましいだと?!『男女共同参画』ってカルトじゃないか!」と銘打ったこの論文の中で、八木先生は千葉市の市民局文化部男女共同参画課が発行している「ハーモニーちば」で、「カタツムリは、雌雄同体。“結婚”すると、両方の個体が土の中に白くて小さな卵を産みます。同じ一匹で雄の気持も雌の気持も良く分かるなんて、ちょっぴりうらやましいような・・・」と書かれているのを紹介し、「男女共同参画とは人間を雄か雌か分からないカタツムリのような存在にしてしまおうと言う発想なのか、でもこれってカルトじゃないの?」とおっしゃっています。この件にはまったく同感です。 そして、八木先生は「男女共同参画」だの「ジェンダーフリー」だのは「男女平等」や「男女共生」とは似て非なる発想であると論じておられます。すなわち、「『男女平等』『男女共生』が、男女の性差を前提とした上で、お互いを人格として尊重しあうという考えであるのに対して、『男女共同参画』は何より男女の性差を否定し、男女を同質にしようという極めて特殊で奇矯な発想なのである。」とおっしゃっています。(ウンウン、これまた納得。) 更に、「ジェンダーフリー」の思想的淵源も説明されているのですが、これによりますと、「フェミニズム」という言葉を発明したのはフーリエという19世紀フランスの社会主義者であり、彼女は、家族を単位とする小農経営の存在が生産力を阻害し、個人の自由を妨げ、社会を混乱させる要因だと見て、調和ある社会を実現するためには家族制度を廃止し、その代わりに「ファランステール」と呼ばれる農業共同社会の建設を提唱したそうです。この「ファランステール」では各人が男女を問わず、それぞれの能力・要求に応じて生産集団、生活集団に組織され、また一夫一婦制を否定し、男女の恋愛や結婚は従来の拘束から解放され、いつでも解約可能な契約による任意結婚、共同体が育児の責任を負う家庭生活、風俗の自由(早い話がフリーセックス?)、そして極めつけはスワッピングすらも提唱されたそうです。更にフーリエは「ファランステール」では、男女がともに同じ教育を受け、同じ経験を分かち合い、同じ職業の準備をするためには「幼年時代からスカートとズボンという対照的な衣服で男女を区別すること」を避けると主張しているらしいです。八木先生もご指摘なさってるとおり、これがジェンダーフリーを提唱している人達の理想の社会なのでしょうが、これってまさにカルト、「気持ち悪い」の一言に尽きます。(-_-;) このフーリエの構想はマルクス、エンゲルスといった共産主義者に継承され、レーニンが現実に政策化したらしいのですが(これは知らなかった・・・)、1934年頃にはこれらの政策による風俗の乱れや離婚の増加、出生率の低下、少年非行の急増(どっかの国にそっくりだなあ、これって)が社会の安定と国家の秩序を脅かすものと認識されはじめ、1936年のスターリン憲法の規定によって撤回されたとのことです。 つまり、ジェンダーフリーを主張する人達は歴史上の失敗を繰り返そうとしているわけですね。更に厄介なのはこういった主張が国や地方公共団体レベルで推進されているのが日本の現状であり、我々のようにジェンダーフリーに違和感を感じる者達やこういった思想には無関心の人達も巻き込もうとしている事です。(オイオイ、勘弁してくれよお〜!!あたしゃカタツムリなんぞになりたかねえよお!!それでなくても性格は男っぽい上に小さい頃にドレスを着ていたにも関わらず「ボク」と呼ばれたという情けない過去をもつ私、こんなジェンダーフリーの社会が実現されてしまった日には、本当に男になっちまったんじゃあないだろうかと心配して毎朝パンツの中を覗き込んじゃうようになっちゃいますよ。せめてフェミニンな恰好するぐらいの自由はくれよお。トホホ・・・) これは、真剣にジェンダーフリー思想の危険性を世に知らしめる必要があるかもしれませんね。 |
問題提起(小人閑居さん)
●ゆとり教育や反日の丸・君が代教育以外にも今の教育にはおかしな点がたくさんあります。その中でも私が危惧を抱いているのは「ジェンダーフリー教育」というやつです。
これがいったいどのようなものか先生はだいたいおわかりでしょうが、「社会的・文化的性差」であるところの「ジェンダー」を否定してしまおうというのは、まさに社会や文化そのものを否定しようということなのではないでしょうか。これはまさにこれまでの文化を「ブルジョア的」などと呼んで破壊した共産主義国家と同じですね。
このメールを書くにあたって「東京ウィメンズプラザ」のHPの中にある「ジェンダーチェック」を見ましたが、その中の「子育て編」では、女の子の「服や持ち物はいつもフリルやリボン、花模様、ピンク色などの『女の子用』だった。」(そんなの個人の自由じゃないか)とか男の子は「勉強も運動も人に負けずにがんばれ。」と教えること(だったらがんばらなくていいとでも言うのか?)すら「性差別」としてチェックされます。都民の血税で運営されている団体がこのような一方的な思想を広めようとしているのは烏滸の沙汰としか言いようがありませんが、このままでいくとひな祭りや端午の節供すらだめということになるのでしょうか。またこのような人たちは「テレビやマンガ等のメディアがジェンダーを再生産している」とよく言いますが、それをダメと言ったらまさに言論弾圧・思想統制ですね。(この人たちは小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」やモーニング娘。の「ハッピーサマーウェディング」も性差別的な歌詞だと言うのでしょうか。)
話を東京ウィメンズプラザの「ジェンダーチェック」に戻すと、ここに見られるのは「『男らしさ』『女らしさ』にとらわれない個性」を無条件によしとする思想です。
「個性」とやらを無条件に賛美して抑圧や権威をすべて悪と決めつけるあたりは日教組と全く同じですね。しかしそのような「ジェンダーフリー」の結果はひ弱でだらしない男と下品でモラルのないかけらもない女を生み出しているだけではないでしょうか。(ちなみに、「ジェンダーフリー教育」の先進地としてこの手の書物によく上げられるのは、「あの」国立市であるということを申し添えておきます。)
この問題についてはいろいろ思うこと、書きたいことがたくさんあるのですが、自分自身考えがまとまらない部分があるので今回はこのくらいにしておきます今後も頑張ってください。
(追伸)これは臆測ですが、結局のところ過激なフェミニズムに走ったり、ジェンダーフリーを唱えたりするような人には、家庭環境に恵まれなかったとか自分の人生がうまくいかないとかいうトラウマがあって、それに対するルサンチマンが高じてこのような思想に走る例が多いのでしょうね。その点この人たちにも不幸な面があるということは考えなければならないし、またその結果個人がどのような思想を持ってどのような生き方をするかということは自由ですが、教育やメディアを利用したり、行政の一部に介入したりして世の中全体をそれに巻き込もうとするのはいいかげんにしてほしいですね。(まあ彼らも、自分達の考えがおいそれと広く世の中に受け入れられるものではないということくらいわかっているからこそ、このような手段に出ているのでしょうが。)
なお、このようなフェミニズムに対する批判としては、林道義・東京女子大学教授や八木秀次・高崎経済大学助教授の著作が参考になります。(『諸君!』1月号にも八木先生の論文が載っています。)
(引用終わり)
(参考)
ジェンダーとは生まれながらに備えている性差(sex)でなく、社会的、文化的に形成された性差を言います。「女らしさ/男らしさ」というイメージなどは、生活習慣や制度などの社会過程によりつくりあげられてきたものです。
このような固定観念にとらわれることなく、誰もが自分らしく生きていくことのできる社会を実現することが大切です。
↑これがジェンダーフリーだそうです。みなさんはどう思われますか。
藤本さん
●ジェンダーフリーは、我が国の文化にはなじまない気がする。古来より女性の地位の高い我が国では、ことさらに地位向上を考えなくてもいいと思う。キリスト教社会にこそふさわしい気がする。
男女共同三角?社会とか夫婦別姓制度とかいって、家族を破壊する意図はないのかいな。すこぶる怪しい。
世の中には男と女ばかりが存在するのではなく、子も存在する。
爺さんも婆さんも、死者の魂も存在する。
誰かに権利があれば誰かが義務を負う、義務を履行することがあほくさくなれば、人間の社会は破壊される。
左翼の方のお考えはいつも、革命、破壊を目的とする。懲りない面々が多いが、まもなく、その人達も社会的影響力を失っていくだろう。
それまでの間、我々が力を出して家族を守ろう。
剛一郎さん
●>ジェンダーフリーを唱えたりするような人には、家庭環境に恵まれなかったとか自分の人生がうまくいかないとかいうトラウマがあって、それに対するルサンチマンが高じてこのような思想に走る例が多いのでしょうね。
との文章を読んで思ったのですが、教育書の中でも「自然に任せる」教育法を前面に押し出している(と、聞きましたが?もし、本当なら教職員組合の組合員で怠け癖のある方が聞いたら、泣いて喜びそうです。)
「エミ−ル」の著者で有名な「ジャン・ジャック・ルソ−」も家庭環境に恵まれなかったのも偶然の一致では無い様に思います。(ちなみに、ルソ−は、生まれてから、すぐに母親に死なれ、10歳の時に父親から見棄てられ、ロクな学校教育も受けられず、少年時代は物取りをして生活していた、と聞いております。)
ジェンダ−フリ−と言う考え方は、自分の考えでは男女間に「階級闘争」の概念を持ち込んでいる様に思います。(八木教授の話によると「ジェンダ−フリ−」思想のル−ツは「エンゲルス」にある。と言ってますね。)
紅緒センセイ
●ジェンダーフリーについて私もちょっと思い出があります。私が大学院に在籍していた頃、"Language
and Gender"というクラスを取っていて、(これは性差とか社会的性別役割と言語との相互間系を研究するというクラスだったのですが)このクラスで書いた論文が結構高い評価を受けたので担当の先生と一緒にカリフォルニアのシンポジウムに参加することになったのですが、そのシンポジウムに参加する際に先生から細部にわたって注意を受けました。
私は性格はかなり男勝りなのですが、服装とか身なりはどういうわけかそれとは対照的にフェミニンなものを好み、頭のリボンが私のトレードマークだったのですが、「シンポジウムにはフェミニストがかなりいるので、その時はリボンはしない方がいいわよ。それだけで攻撃の的にされるから。あと、服装もできるだけシンプルでマニッシュなものにしたほうがいいわね。」とか、「あなたは日本人で、フェミニスト達は日本は男尊女卑の国だと思っているだろうから、いろんな質問をされると思うので、そういう質問が出た時はできるだけうまくかわすのよ。ほんの少しでも性別役割を認めるような発言をしたら、荒らされるおそれがあるからね。」とかいうアドバイスを受けました。結局、先生のアドバイスに従ったおかげで論文発表は成功に終わりましたが、なんだか釈然としないものが残りました。リボン一つに目くじら立てるジェンダーフリーって一体・・・・
私はこの件に関してはかなりリベラルな方だと自負しているのですが、(男は仕事、女は家庭という決め付けには反対ですし、自分より能力のない男をただ男だからというだけで立ててあげるということは絶対できないです。)それでも超えることのできない男女の性差というものは認めます。例えば、男性にはどうあがいても子供は産めないし、女性はどうしたって体力的には男性に劣りますよね。また、医学的に見てどうしても男子の方が抵抗力が弱く、子供の頃は病気になりやすい・・・などなど。それから、私自身の経験や他の母親の体験談から察するに、まだ物心のつかない幼児が母親の化粧品をいたずらするケースは女子のほうが確率的に高いと思うのですが、これは女には美しくなりたいという本能的願望が潜在するからではないかと考えています。こういったものをすべて否定するのがジェンダーフリーなのでしょうか?
あと、私がどうしても違和感を覚えるのは、ジェンダーフリーを叫ぶフェミニスト達には、男性と同じ待遇を要求しておきながら、一方でそれに伴う責任とか義務とかには言及しない人が多いという点です。雇用面での男女間の給料格差を是正したければ男性並みに残業や出張、転勤も覚悟しなければならないし、生理休暇をうまく利用して海外旅行するようなOLも女性自身が糾弾すべきでしょうし、デートの時に男性のみにドライブさせたりおごらせたりするべきではないと思うのですが。男女同権を叫ぶ女が男性が自分のためにドアを開けてくれないからとヒステリーを起こす姿は大変見苦しいものがありますよね。
結局、今のジェンダーフリー教育っていうのは多くの方がご指摘の通り、自然の摂理への反抗と権利の主張および義務の放棄を具現する歪んだ教育って印象がどうしてもぬぐえません。
管理人
●ジェンダーフリーとは、社会的、文化的に形成された性差をなくそうとするものだとか。しかし、社会的文化的な性差とは、基本的な性(sex)を元に成立しており、両者が無関係でない以上、社会的文化的な性差をなくそうとする動きは、容易に性(sex)の否定につながってくると思います。Oさんが仰るように、性(sex)を否定すれば、ひ弱な男とだらしない女を大量生産するだけであり、さらには恋愛や結婚といった社会の基本的秩序まで崩壊させるおそれがあります。ジェンダーフリーといえば表面上は「男女参画社会を築こう」とか「いわれなき性差をなくそう」といった理想論に聞こえますが、その裏には人類社会に共通する普遍的な秩序や概念を解体していくという「毒」が内包されていると考えられるのです。(ちょっとオーバーに聞こえるかもしれませんが)こうした動きを担っているのが、「国立市」に象徴される人々であるというのも、その証拠のように思えます。戦後民主教育が容易に共産主義と結びついたように、ジェンダーフリーも階級闘争イデオロギーと深く結びついているのではないでしょうか。現在、多くの自治体においてジェンダーフリーを推進しようとしているのは警戒する必要があるようです。
ジェンダーフリーの具体的な事例としては、小学生の男女ともに赤いジャージを着せるとか、運動部のマネージャー廃止を叫んだり、大相撲の土俵に女性を上げろと要求する等が挙げられます。
この問題に詳しい職場の同僚に聞いたところ、こういう過激な運動を行っているのはほんの一部で、ジェンダーフリーの真の意味が理解されていないと嘆いていました。また、ジェンダー学を学んでいる若い世代(20代)は、こうした運動を行っている人々(全共闘世代)に批判的だとも。しかし、現在のジェンダーフリー推進者が明らかに政治勢力と結びついていると思われるため、こうした若い世代も、やがてはそうした「勢力」に取り込まれていくのではないかと懸念されます。
小人閑居さん
●正直に言って、私はジェンダーフリー教育になにもかも反対というわけではありません。男女混合名簿だって慣れれば違和感はなくなるだろうし、ランドセルの色が男子は黒、女子は赤というのにも何の根拠もないわけだし。また男だって家事をやらなければいけないケースもあるのだから、家庭科の男女共修には賛成です。
しかしジェンダーフリーの根底にある「誰もが自分らしく生きていくことのできる社会」というものにそもそも胡散臭さを感じますね。そのようなことを言う人は、「人間はだれもがすばらしい個性を持っているのだから、それを抑圧せずに伸ばしてやるのが教育である」とでも考えておられるようですが、人間はむしろ抑圧されることによって自分の人格を鍛え、あるいはその抑圧と戦うことを通して自分とは何か、そして自分の生きる意味を見いだしていくものなのです。
たとえば、絵の描き方を知らない人に白い画用紙と絵の具だけを渡して、「好きなようにお絵書きしましょう」などと言っても、そんなものは落書きにしかならないでしょう。うまい絵がかけるようになるためには、やはり基礎からしっかり単調で退屈な練習をしていかなければならないものです。ゴッホやピカソ、ダリといった「個性的」な作品を残した巨匠たちも、そのような基礎と藝術に対する深い理解があったからこそ、そのような個性を開花させることができたのです。
今の「個性重視」「ジェンダーフリー」と言っている人たちは、従来の教授法を否定して落書きを「個性的」などと言って賛美しているのと一緒ですね。それにしてもあの人たちは「『女はやさしく、おとなしく』ということを押しつけることはよくない」というからには、乱暴な言葉遣いをしてだらしなく町中で地べたに坐っているコギャルたちを「女性解放の体現者」として歓迎しているのではないかしらん?
まあ、「男子も女子も同じ色のジャージ」と言ったって、そういうのは昔から田舎の学校ではちょくちょくあったから、ジェンダーフリーとは関係ないという気もするけどね…。
でも私がそういう学校に行くはめになったら、きっと登校拒否してただろうな…。
あと何人かの方が夫婦別姓について述べておられましたが、自分でもペーパー離再婚を実現し、現在夫婦別姓のスター的な存在になっている某女性衆議院議員は、「選択的夫婦別姓」を主張する理由として、「多様な価値観やライフスタイルが認められる社会に」の一点張りです。その人には、「『多様な価値観』を言うのであれば、今度から国会に登院したり何かのセレモニーに出たりするときも、Tシャツにジーパンで出たらどうですか」とでも言っておきますか。
管理人
●2chにジェンダーフリーに関する興味深い投稿がありましたので紹介します。
「東大でて幼稚園の先生になった,バリバリのジェンダーフリー論者の女性が,たまたま自分に男女の双子が生まれたのを良いことに,環境による性差を一切与えずに子育てしてみようと取り組んだ,その結果が,男の子は自動車に興味を,女の子はお人形とおままごとに熱中,という,単に,外圧によってのみ性差は作られるのではないという厳然たる事実であったと。そういう記事を読んだことがあります。
人それぞれだから,女の子なんだから,と極端に行動を制限されるのには反対だけど,振り子が触れすぎて、自然な欲求まで悪いことのように持っていこうとする最近のジェンダーフリーにも,危惧の念を抱いています。
そう言えば,先ごろ読んだ養老猛(ダッケ。字がわからん)によれば,女はある程度は社会的な抑圧を受けたほうが良いのだ,それは生物学的な必然なのだ,というようなことが述べられていました。それを読んだときには,なるほど,と思ったのを覚えています。けしからん事に,くわしい内容を忘れてしまいましたが。
しかし,自分も含めて,最近の野放図な若い女性のあり方を見ていると,それも一理あるのではないかとも思えるのですが」
(引用終わり)
なるほどねぇと思いましたね。男が「男らしく」女が「女らしく」なるのは社会的文化的に形成されたものではなく、根源的な性(sex)によるものだというのなら、ジェンダーフリーなんて根底から一蹴されてしまいます。あははは、ってなもんですよ。私も「男なんだから、女なんだから,と極端に行動を制限する」のは反対ですが、現行のジェンダーフリーは弊害ばかりもたらすようで、非常に問題だと思いますね。
小人閑居さん
●星新一に「白い服の男」というショートショートがあります。(新潮文庫の同名の本に収録されています。)この話は、ある近未来の世界では秘密警察が社会全体に網をはりめぐらしていて、「戦争」ということばを口にした者は「人類の敵」と呼ばれてリンチにかけられ、歴史は改竄され戦争のことを扱った書物は焚書にされるという内容です。「戦争をなくし平和を実現するためには、人間の心の中から『戦争』という概念を抹殺しなければならない」というのが、この話の主人公である秘密警察のメンバーの弁です。
これってなんかジェンダーフリーに似ていませんか?「女性にも参政権が認められ、社会で働く女性も増えているのに女性差別がなくならないのは、慣習や人々の意識の中に古い性別役割分担意識が染み付いているからである。だから真の男女平等を実現するためには、社会や人々の意識の中の性差や男女の区別を抹殺しなければいけない」というわけで。それをやろうとしたら、あの話ほど極端ではないにしても本当にファシズムになるしかないのではないでしょうか。実際、あの人たちは「国語の教科書の教材の中では男の子は元気で女の子はおとなしい」とか「エプロンをして家事をしている母親のさし絵がある」というだけでいちゃもんをつけているくらいですから。
フェミニストの言ってることにはバカバカしいものがたくさんあるのですが、取り上げるときりがないのでやめときます。でも、フェミニストたちの言うことを聞いていると、あの人たちの思い描いている理想の社会というのは、もしかしたら試験管かクローンで子どもをもうけて、子どもはみんな国営の孤児院で男女の分け隔てなく育てることによって女性を出産・育児から解放する…という社会じゃないかと思えてきます。
管理人
●ジェンダー学に詳しい同僚から、東大教授佐藤学氏の論文を読ませてもらったので紹介します。難しい文章でぐちゃぐちゃ書いてありますので、簡単に説明しますと……
「現代のジェンダーに対する取り組みは、家庭科の男女共修であり、「父兄」を「保護者」と呼びかえることの徹底であり、男女混合名簿の普及であった。ジェンダーフリーと呼ばれるこれらの取り組みは一部では戯画的様相も呈している。行政によって推進されている男女同一の「さん」づけの徹底などになると、もはやあらゆる差異を抹消する全体主義の色合いさえ帯びている」
つまり、現場でさかんに行われている「男女の差異をなくそうとする運動」を学者レベルでは「戯画的」だと批判しているようです。(当たり前)
「現実生活において「女である前に人間である」ことなどありえない。男あるいは女として生きざるをえないのが現実である」
と、しごく当然なことを述べ、最新のジェンダー学がこういう認識に至ったのは、「性差を縮小すれば、かえって性差を拡張する」結果になるからだといいます。具体的には……
「男女共学を推進したアメリカの高校では、フットボ―ルとチアガールを生み出した」
などの例からも明らかだとか。(笑)
で、どうするかというと、性差を認めた上で、「セクシュアリテイの差異」を根拠として平等を追求する「ジェンダーセンシティブ」の展開が望まれるとか。
「ジェンダーセンシティブの教育学は経済原理と男性原理で支配され生産中心の社会を批判し、養育、教育、医療、福祉、消費などの再生産過程を中心とする社会に転換する」
のだそうです。
「女性は男性中心社会において「他者」の地位に追放され、周辺化され、男性の文化によって植民地化されてきた。ジェンダーをめぐる闘争の戦略は、男性社会に男の言語で参入する闘いとして展開され……、自ら女としての性的アイデンテイテイを樹立して……「女性」というカテゴリーを政治的な道具として利用し、「女性」という言葉の同一性を脱構築する闘いを構築する必要がある」
と結んでいます。
いやはや、「女性」という立場をフルに使って「男性中心社会」を打倒するのだというのです。フェミニズムとジェンダーフリーもある一定のレベルまでは賛成できるのですが、ここまでくると完全に「革命」ですね。こういう運動を「国立」に象徴される人々が推進しているように、階級闘争イデオロギーと容易に結びつくわけです。こういう人たちがコギャルなどを容認するのも、既存の秩序やモラルを破壊する存在としてシンパシーを抱くのでしょうね。
日本のジェンダーフリーはまだ性差をなくそうといった「戯画的レベル」で留まっていますが、今後「性差はなくならない」という認識に至ったとき、こうした革命的理論が登場してくるのでしょう。やはりジェンダーフリーには強烈な「毒」があるようです。
デスザウラーさん
●多分お察しの通り、拙者はジェンダー・フリー思想が大嫌いです>管理人さん
極端というか、ツボを言ってしまえばジェンダー・フリーとは要するに共産主義思想の一面に過ぎないからです。私は、以前中核派の理論雑誌で「党宣言(マルクス)こそ、女性解放への道」という一文を読んだ記憶がありますが、「なるほど」と思わされたものです。
女を、男との闘争に駆立てる。この点にこそ、ジェンダー・フリーの目的があります。男とのあらゆる面における差を否定する、役割分担を否定さ
せる。これは階級闘争に他なりません。資本家VS労働者の関係を、夫VS妻に置換えて、次のような論理を構築しました。
「夫は金を持っている家の中の資本家」
「妻たるプロレタリアートは、階級闘争を挑まねばならない」
このために、まず金銭で対等になる必要がある。次に、家庭内の役割分担を否定する必要がある。共産主義革命の究極の目標は、資本家とプロレタリアートの間に差を無くすことですから、男女間でも同じようにすることが、ジェンダー闘争の目標は、男女間で役割でも持てる物でも差を無くす事です。
しかし、このような状況が我々にとって居心地のよいものでないのは、明らかです。ジェンダー・フリーの最も良い見本は、TVのバラエティ番組があるでしょう。朝ナマでもよろしい。あの番組に登場する女の弁護士や大学教授、国会議員が、概ね一律にジェンダー・フリー論者である事を考えると、ジェンダー・フリーの見本はまさしくああいった番組です。
11月末の「噂の!東京マガジン」(TBS系13:00〜)でジェンダー・フリーの恐るべき現状を見てしまったのです。この番組では、近頃の女の子を適当に掴まえては、ちょっとした料理をやらせるという企画があるのだが、その日の課題は秋刀魚の焼き魚。
で、10人にさせてみて、満足に焼けたのは何人か?
正解「1人」
これは、焼けなかった人数ではなく、焼けた人数です。今の日本のおなごは、焼き魚という最もベーシックな調理法すら身に付けられなくなったということなのです。まこと巣晴らしい男女格差の是正。
見ていれば、悲惨惨憺暗澹の連続。まず、魚が識別できない。(冗談ではないのだが、秋刀魚・鯖・鰯の区別がつかない)。焼き網に水を入れる(グリルやないっつーの)。焼いた魚の上から水をぶっかける。(最早何も言えない)
これが、日本の現状なのかと思うと、思わずのけぞってしまった小生なのであった。(言ってはなんだが、食わせてばかりの親や、私を含め何かとおごってしまう男の方にも責任はあるのですが。ブチブチ、銭返せ……)
世のバラエィ番組に出たがる田嶋陽子や福島瑞穂にとっては、「ジェンダーフリー」が確実に進んでいる証拠として、喜ぶべき現象です。積極的に喜ばなくても、「料理が女の役割だと、誰が決めた」と居直るに違いない。だが、間違ってはいけないのは、人間が他の野生動物と決定的に異なるのが、文化を持ち、これを子孫へと継承する(遺産を残す)という点にあり、遺産継承の最も確実な容器として人類が共通的に産み出した手段が、「家」「家庭」なのです。その家の味というものは、代々受け継がれる「文化」そのものであって、料理という役割を放棄して居直る女知識人は、現在文化・文明を放棄して、ピテカントロプス・ペキネシスに向い驀進している真っ最中にあるのです。私は田嶋陽子には、大学の研究室ではなく、上野動物園に住む方が相応しいと思える。
ジェンダー・フリーとは、人間が確実に退化して野生動物に戻って行く一段階なのである。そして今の日本人は、確実に野生化の道を辿っている。
ジェンダー・フリー運動は、このように共産主義を目指す動きであり、日本人を限りなく野蛮化・猿人化するものです。
塾屋さん
●以前「私もジェンダーフリーには一過言ある」と書きました。いずれ書こうと思っていたのですが、下にデスザウラーさんが書いてあることは正に私が言いたいことを代弁して下さっています。
正に「デスザウラーさんに全面的に賛成」です。(ちょっと悔しい…)
デスザウラーさんが仰っている通り、現在のジェンダーフリーは正にマルクス主義的な階級闘争であり、女性の開放とは正に「支配者階級である男性からの女性の独立」を主張しているに違いありません。
私個人の見方では女性運動の原点である平塚雷鳥先生、その後継者であった市川房江先生らの果たした功績は非常に大きいし、その他では大妻コタカ先生や津田梅子先生やシスター江角ヤス(純心学園の創設者)といった女子教育に果たした偉人の業績は褒め称えこそできるものの決して批判はできないと考えます。
しかし現在の法政大のT教授やF弁護士といったジェンダーフリーの連中の主張に私はどうやっても同意することはできません。
これらのジェンダーフリーの方々が「血祭り」に上げるもので物議をかもし出す(というよりほとんど従軍慰安婦問題と同質の嫌がらせであり言いがかりに過ぎないと思うのですが)TVのCMがあります。まず間違い無くスポンサーや製作者の言いたいことを曲解するならまだしも、全くの言いがかりとしか思えないレベルでいちゃもんを付け、最終的にはそのCMを放映禁止かもしくは内容変更させるといった強行手段を使います。
最近印象に残ったのはニッサンのスカイラインというクルマの宣伝です。女優の牧瀬理穂がレストランのテーブルで向かいに座った男性に「男だったら乗ってみな」というCMが「女性もクルマに乗るのだから、これは差別だ」と批判され「悔しかったら乗ってみな」に変更されたということがありました。
多分このCMは低迷しているスカイラインの販売を回復させるためにフルモデルチェンジを行い、80年代にあった「スカイライン神話」の復活を目指したものでした。多分私達のような30代や40代のスカイラインのファンに向けたメッセージだと思うのです。(私なんかいまだに「いつかはスカイライン」と思っています)
しかし、結局その意図を伝えられることはなしにCMは内容変更という憂き目にあいました。
それでこれらのジェンダーフリーを主張している人々が選ぶ「男女が平等に扱われた素晴らしいCM」というのを見て、愕然としたことがあります。
一つ目は保険のCMでした。アメリカのマイナーリーグの野球の試合で二塁に盗塁した走者にアウトを宣告するシーンがあり、その塁審が帽子を脱ぐと実は女性だったというもので、不満を漏らす選手に毅然とした態度をとるといった内容でした。
もう一つはシステムキッチンのCMで、母と娘がテーブルにすわり歌を唄い、その二人に父親がハンバーグを作って持ってくるという内容だったと思います。
この二つを見た私の感想は「なんだ、ジェンダーフリーと言ったって結局は男性と女性の役割を取り替えただけじゃないか」という失望と結局彼女達は男性が持っている(と幻想的に思っているだけの)『特権』が欲しいだけなんじゃないか、という結論です。
ですから男性女性というもうどうしたって否定できない「差」を階級闘争のように捉える現在のジェンダーフリーは無理があると思えるのです。
法政大のTの言っていることがどうしても同意できないのはそう言った視点からのものであり、彼女の論は「全て男性社会に問題がある」というもので、彼女の主張は「お前達は男として生まれてきたことが原罪なんだ。なんでもかんでも男が悪いんだよ。男の特権を女が持てば全て問題は起こらないんだ」と聞こえる訳です。
さて、長くなりましたので本日はこの辺で。続きはまた後日書きます。
ただ私はこのジェンダーフリーに関しては、明らかに「マルクス主義的な史観を感じます。それは江戸時代の男女の関係が非常に女性に有利になっていた状況からも推察しています。
管理人
●デスザウラーさん、塾屋さん、ありがとうございます。私もみなさんとまったく同じで、ジェンダーフリーはオブラートに包まれた「革命運動」だと認識しています。理論的なことは以前に書いたので、今回は私がブチキレたジェンダーフリー(フェミニズム)について書きたいと思います。
○私が今の学校に転勤になったとき、私の学校は問題行動多発、中退者100名以上というとんでもない状態でした。たまたまた私に公報(学校PR)の仕事が回ってきたので、この状態をなんとかとようと、中学校訪問や体験入学を大規模に行う等、徹底的にPR活動に力を入れました。その一環として学校案内の刷新を行いました。それまでの校舎が表紙というダサいのではなく、O画伯の絵(美少女画)を使い、学校説明はマンガで行うというかなり斬新なものを作り上げたのです。評判は上々で、合同説明会でも私の学校のパンフレットだけがはけていくという状態になり、結果として志願者は激増。合格最低点も上がり、本校は落ちつき取り戻すことができました。入学後のアンケートでも「パンフレットがよかったから希望した」という生徒が何人もいました。
まぁ、そんなわけで、PR活動は大成功だったわけですが、その翌年、何かの研修会があったときに、どこかの女教師がいきなり立ちあがり、本校のパンフレットを見せて「こんなのが許せますか」と、本校のパンフレットがいかに問題かということをとうとうを語ったそうです。(私はその研修会に出ていないので、同僚からの伝聞です)。その女教師によれば、この絵は性を商品化しており女性差別に当る、公教育においてこのようなパンフレットを作るのは許されない、ということだそうです。もう呆れかえってものがいえませんでした。
O画伯の絵が女性差別だって? そんなことを天下に公言すれば笑いものになりますよ。芸術や文化を理解する感性など何もなく、何でもかんでも差別、差別と言いたてる感覚には異様なものを感じますね。しかも、その研修会ではみんなその女教師に賛成するような雰囲気だったとか。出席した同僚も、実はそのパンフレット作りに参加していたので、いたたまれない思いがしたそうです。(気持ちわかるよ^^;)
○3、4年前のこと、都高教が都立高校をPRするポスターを作って電車の中とか様々なところに掲示しました。教員や生徒30名ほどが勉強にクラブに委員会活動にいきいきと取り組んでいる姿をかわいいイラストで描いたもので、「都立においでよ」みいたなコピーがあったと思います。私も実にいいポスターだなと思い、こういうことをするなら組合もいいな、主任手当てを供出してもいいなと思っていました。(マジで)
ところが、これにもフェミ教師がいちゃもんをつけたのです。
「数えたら女子の数が少ない。これは女性差別だ」(しかし、よく数えようなんて気になったなぁ)
「若い女教師が花壇に水をやっている。これは女性の役割を固定しようとする女性差別だ」(えぇ〜、女教師が花壇の世話をしちゃいけないの〜)
「女生徒が男子生徒にラブレターを渡している。これは女性差別だ」(だって、そういうことってあるじゃん。それを描いちゃいけないの〜)
他にもいろいろありましたが、もう忘れました。でも、よく見ると生徒会長に立候補しているのは女生徒だし、運動部でも女生徒は活躍してるんですよね。これを書いたイラストレーターはかなり気を配っているし、誰が見ても女性差別してるなんて思えないのに、こんな意見が二回も組合新聞に載って、しかもどこからも反論は出ない。
結局、いつの間にやらポスターは撤去され、製作費用数百万円はパーに……。もう絶句でしたね。
今じゃ、都教委のパンフレットでも、管理職のイラストは校長(女)教頭(男)となっています。現実にはこういう取り合わせが少ないだけに異様な感じがします。都教委もフェミ教師たちを恐れているようですね。ほんとに困ったもんです……。
スズキさん
●>ところで、ジェンダー勢力が行政にどう介入しつつあるのか、教えて
>いただければ幸いです。この点がメディアであまり報道されていない
>だけに興味があります。
分かる範囲でですが・・・。
ウチの役所には男女共同参画推進室というセクションがあり、室長1名、係長1名が配属されています。
やっているのは主に男女共同参画にたいする意識改革のための情報提供や、教育、つまり広報誌を作ったり、セミナーや講演会を開いたりしています。
庁内には専門委員と言う形で各職場から割り振られた職員が、いろんな部門に分かれて、男女共同参画への施策推進について話し合います。
もっとも、仕事で割り当てられてるそんな場で反対意見なんか言うわけにもいかずほとんどみんな一部の人達を除いてしら〜として無駄な会議をこなしているみたいです。
広報誌とかジェンダーフリーチェックリストなんてものがあるんですが、明らかに偏ってる、というより論理的に破綻してるんです。「母の日にエプロンをお母さんに贈る」のは「ジェンダーに敏感じゃない」とかってあるんです。これって個人の自由だろって突っ込んでますが、彼らは個人の自由を最大の価値とみなしつつ、一方では他人の自由は無視するような、とんでもないことを平気でやっちゃってるんですよね。
最近では教育こそが社会を変えるっていうなかなか鋭いことを意識して新採用の職員の研修でも取り上げられるようになってきました。
そこで言われているらしいアヤシゲな話を、
「今後は女性の社会進出が強まって、必ずしも結婚が女性の幸せとは思わなくなっている人が増えている。シングルのまま過ごす女性が増えることにより、男性で結婚したくても出来ない人が増えてくる結果になる。これからの男性は固定的な性別役割分業意識に囚われていると、どんどん女性にとうざけられるようになる。故に女性にもてたければジェンダーに敏感になって個として尊重する姿勢を持たなければならない。」
ここまでくるとほとんど強迫ですよね。女にモテたきゃジェンダーフリーだって。
大体批判していることが的外れなんですよ。そんなこと誰も言ってないってことをやり玉に挙げて批判してくる。
残念なことに、私の役所にはこうした論理に直感的にアヤシイと思う人がいても、反論して人間関係をややこしくしてもやだし何の得もない、
またはこうした理屈が共産主義の奇形であることを知らない、理解できないため有効な反論を形成できない、といった人が多い現実から、ほとんど反対する人はいません。みんな黙ってるってことは声の大きい人の意見がとおりやすいって事です。
そろそろ「王様は裸だ」って言わなきゃいけませんが。
フェミおばさんが行く by管理人
●差別はいけないざます。どんなことがあっても許されないざますわ。
今の社会に差別があったら断固糾弾して差別をなくすよう働きかけるのが正しい道ざますわ。何か差別はないかしら。何もないと暇で仕方がないざます。
あら、この名簿、男子が先になっている。こ、これは女性を不当に貶める女性差別ざますぅ〜!!!。断じて許せません。女子を先にするか、アイウエオ順にすべきざますぅ〜。
なになに……? 都立高校では7割が男女混合名簿に。けっこうざますわねぇ。差別撤廃運動の輝かしい成果ざますわ。これをどんどん推し進めて、すべて混合名簿にすることが正しい道ざますわ。
さて、ほかに差別はないかしら。
何、「父兄」? 母親が多いのに「父兄」とは何事ざますか。これも女性を不当に差別しているので許せません。「保護者」ということにしましょう。私の判断が絶対に正しく、「父兄」などという言葉を使うのは女性差別者だから、断固糾弾すべきざます。わかりましたね。一致団結ホウレンソウみたいなカンジで糾弾するざますよ。
さてほかに差別はないかしら。
「子供」? なんていうひどい言葉ざましょ。「供」は「供物」の意味だということは「子供」は「神への生贄」という意味になるざます。あぁ、こんなかわいいお坊ちゃまに対してなんという惨酷な……。これはお坊ちゃまに対する不当な差別ざます。以後「子供」といわず「子ども」と書くことを命じます。
そうざますか。朝日新聞や日教組はみんな「子ども」と書いていると……。さすがに人権を大切にしていらっしゃるざますねぇ。いいですか、みなさんも「子供」と書くことは絶対に許しませんからね。これは「金日成マンセー」と同じくらい大切なことださますよ。
さて、ほかに……。
「奥さん???」なんと「お、お、奥さん……」ゆ、ゆ、許せません!!!
女性は奥にいる存在だというのですか〜。断じて許しがたい女性差別ざます!!!
これからは「妻さん」と呼ぶことを命じます。どこかの市役所のようにするざますよ。
さぁ、ほかに差別はないか、
差別、差別、差別……
あったら断固糾弾するざます。
それが差別のない美しい国を作る正しい道ざます〜!!!!
(補説)
上の「父兄」から「保護者」への呼びかけは基本的に賛成しています。現に私も「保護者」という言葉を使っています。ただ「父兄」とはいう言葉が差別用語として使用されていたわけではないので、「父兄」という言葉を使う者を批判するのは独善的でファッショな行為だと思います。また、「子供」の「供」は複数を表す意味であり「供物」ではありません。
これは他の掲示板でも書いたことですが、言葉の原義を問題にしていけば、言語文化なんて崩壊してしまいます。「彼ら」の大好きな「人権」の「権」は「権謀」というように「謀りごと」を意味しています。「民主主義」の「民」は「目を突き刺された奴隷の形」を表しているとか。だったら「権」はダーティなイメージがあり、「民」は「抑圧と隷従」の象徴だというので「人けん」「みん主主義」と書くのですか。結局、こういう言葉狩りを推し進めていけば、ギャグのような事態を招くだけだと思います。
スズキさん
●管理人さん、私の駄文をHPにまで載せていただき恐縮です。
また、フェミおばさんも最高ですね。笑わせていただきました。とても示唆に富んだいい作品だと思います。今後もフェミおばさんの活躍を期待?してます。
ジェンダーフリーのいろんな教材はどうも出所は一つみたいですね。
ウチの役所の担当職員や委員が自分で考えて作っているわけでなく、どこか(東京か)にある全国のジェンダーフリーを仕切ってる団体から提供される資料やネタをほとんどそのまま使っているらしいです。それが一体どこなのか?HPなどの情報がありましたらどなたかお教え下さい。
ところで蛇足ながらもう一つ。
「ジェンダーモノローグリレー」というのが出てきました。あまりにも
笑えるのでご紹介いたします。
〜ジェンダーモノローグリレー(独り言)
不平・不満があるとき、疲れたとき、考えているとき、楽しいとき、思わず独り言を言っていることはありませんか?車の中、お風呂の中、トイレの中やエレベーターの中で、誰にも聞かれないようにそっと愚痴をこぼしたことはありませんか?そんな自分に思わずドキッとしてしまったことは?
でもいいんです、独り言はあなたの本音、独り言を飲みこむのは精神衛生上良くありませんよ。
どうでしょう、あなたの本音を独り言してみませんか?夫や妻への愚痴や感謝の気持ち、女性であるために受けた不合理な扱い、男性であるだけの理由でがむしゃらに頑張らなければならないことへの不満。家庭、地域、社会、職場での体験など何でもかまいませんよ。ただし、ジェンダーについてですけどね。
あなたの独り言に共感する人はたくさんいるかもしれませんよ。〜
あまりにもアホすぎて力が抜けてきますが、こんなことを分別あるいい年したそれも公平を旨とするべき役所の職員が名前を出して呼びかけているんですから、世も末の感が深まります。
「そんなもん自分の日記にでも書いておけ!」って心の中で怒鳴りました。
このページを見ておられる方には説明は不要だと思いますが、ようするに彼らは人間の鍛錬されていない私的な部分にこそ世の中を変える本質があると思っているわけですね。公的な存在としての人間はややこしいからとりあえず無視して、個人の私的な部分をほじり出せば必ずや矛盾が噴出してくるぞ、とそんなことを狙っているのでしょう。
素のままの個人をここまで尊重しようとすることは、要するに教育を否定してるわけですよね。
今日も税金を使って講演会をやってました。どこかのインチキ学者崩れみたいな人が押し売りしてくるからしょうがなしにやってんでしょう。
岡久美子とか言う人で方々それで食い歩いているらしいです。
何言うか分かってるし、時間の無駄だからもちろん行きませんでしたけど。
紅緒センセイ
●実は私もここしばらく厄介な問題が発生して、ちょっと頭を悩ませてたんですよね。というのは、ちょっと前までクラスにストーカーっぽい学生がいて、彼はどういうわけか私にはなついていたのですが、他の学生やスタッフとはしょっちゅうトラブルを起こしていたのです。彼のキレやすい性格は他の先生からも聞いていたので、私も腫れ物に触るように、とにかく怒らせて問題を起こさせないように気をつけて接していたのですが、ついにこの間クラスでキレてしまい、クラスメートをびびらせてしまったので、レポートせざるを得なくなりました。
この事件のあった日、テストもあったのですがテストを途中放棄した彼に呼び出され、教室の外で人生相談を聞くはめになりました。私はできるだけ平和に、この学期は彼にとって個人的な障害が多すぎるのでドロップするよう説得することに成功しましたが、なかなか教室内に帰らせてくれず、神経を擦り減らしました。(普通の人なら無視してさっさと教室に戻っているところですが、彼は精神的・情緒的に問題があって、強引に戻ろうものなら何をするかわからないという恐怖感があったので、とにかく平和的に解決しなければならなかったのです。)
この間、テストが済んだ学生が一人帰り、二人帰りして、誰もいなくなったらどうしようと内心ビビっていました。でも、うれしいことにこの日は10人あまりの学生(ほとんど男性)が私の身を案じて教室から少し離れたところから私たちの様子を見たり、テストはとっくに済んだのに質問がある振りをして教室に残ってくれてたりして私を守ってくれました。そして、問題の彼が帰った後、駐車場までエスコートしてくれました。その後も私がレポートしたことによる逆恨みの可能性が残っているため、帰る時は必ず男子学生がだれかエスコートしてくれています。本当にありがたいことで、心からこの学生達に感謝しています。
この事件でふと思ったのが、この掲示板でもよく話題に上るジェンダーフリーです。この男子学生達が私をエスコートしてくれている第一の理由は私の身の安全を案じてくれているからであり、この行動の裏には「女性は守らなきゃ。」っていう気持ちがあるからでしょう。もし私が男だったら、ここまでしてくれたかどうか疑問です。(因みに、アメリカの学校ではたいてい警察のエスコートサービスがあり、リクエストさえすれば警察官がエスコートしてくれるので、学生達のこの行為は全くの善意のボランティアです。)そして、この「女性を守る」という考え方はことごとく男女の性差を否定するジェンダーフリーとは相容れないわけですよね。だから、ジェンダーフリーを声高に叫ぶ人達が私の立場に立てば、この男子学生達に対して、「せっかくですが、エスコートは結構です。」と言うのが筋だと思います。
そして、徹底的にジェンダーフリー教育を受けた男性なら、「男だからと言って女を守らなければいけない義務はない。」とか言って、自分にも身の危険が及びかねない行動は敢えてしないような気がします。(この男子学生達は問題の学生が以前暴力行為で警察沙汰になったのも知っているので、エスコートすることによりとばっちりを受ける可能性があることも承知の上です。)確かにこのような場合、学生達には他人をエスコートする義務はまったくないわけですから授業が終わればさっさと帰っていっこうにかまわないわけですが、私個人としてはやはり私の学生達のように頼りがいのある男性に断然好感を持ちますね。というか、女に身の危険の可能性があるにも関わらず自分だけ逃げてしまうような男は、男だからそれだけで女よりエライと思ってる男同様、自分の彼氏や夫には絶対したくないです。てなわけで、私も塾屋さんの「かみさん」同様、自分の意識の中の反ジェンダーフリーを認識しました。
(^^)
スズキさん
●紅緒さんの
>女に身の危険の可能性があるにも関わらず自分だけ逃げてしまうよう
>な男は、男だからそれだけで女よりエライと思ってる男同様、自分の
>彼氏や夫には絶対したくないです。
そのとおりですよね。そういうことってホンと大切だと思います。
ところが私が以前論争したジェンダーフリー派に言わせるとこんな反論が帰ってくるでしょう。
曰く
「女性であると理由だけで、必ずしも守る必要はないと思います。女性でも男性以上にたくましくて強い方はいるし、男性でも同様に肉体的能力に劣った方がいるでしょう。あなたのそういう固定的な観念が例えば体の弱い男性にとって居心地が悪い世界を作り、また女性なんだからおとなしくしてろという、個性を尊重しない考え方を生み出しているのです。あなたの周りの男性達はあなたを弱い存在だとみなしたからたまたま助けようとしたのであって、それを当然のこととして周りの人にまで押し付ける風潮には疑問です。「男性は女性を守るもの」というのはあなたの個人的な価値観であり私はそれを否定しませんが、それ以外の価値観もありうるのでありそれを積極的に認め合い、お互いの個性を尊重できる社会にしようではありませんか」
と、こんなところでしょうか。
一見正しそうですが、このサイトをご覧の諸賢にとってはいくらでも反論できるところだと思います。
ただ私が言いたいことの一つは「個性は教育によって身につく」ということです。
管理人
●私も似たようなケースをこれまで何回も経験しました。「困った立場に立たされている人を守ろう」というはまったく自然な感覚ですね。そういう立場に立たされるのが「女性」である場合が多いということは「性差」による現象であり、暴力的あるいは性的被害を受けるという面において「女性が絶対的弱者」になることはままあることです。それをスズキさんが代弁しているように「周りの男性達はあなたを弱い存在だとみなしたからたまたま助けようとしたのであって(女性だからではないので)それを当然のこととして周りの人にまで押し付ける風潮には疑問です」などと言ってしまえば、女性が「絶対的弱者」の立場に立たされていても、他者から「弱い存在」だと認識されなければ助けてくれないということになってしまいます。これこそ不当な女性差別でしょうね。「女性は絶対的弱者となりやすい」だから「助けてあげるべきだ」=「女性だから助けてあげるべきだ」となるのは当然の感覚です。これは「性差から生じる諸相」をきちんと認識しているので現実性がありますが、ジェンダーはこの「性差から生じる諸相」を認めようとしないがゆえにわけのわからないドグマに陥ってしまうのでしょう。やれやれです……。
スズキさん
●以前に管理人さんがおっしゃった
<<以前にフェミニズムに走る女性は屈折したものがあるという話がこの伝言板に出たことがありましたが、最近私もそれを実感しています。フェミニズムや自虐史観に走る者たちには共通する心性やトラウマが何かあるのではという気がしています。>>
私もその見方に基本的に賛成です。屈折している事とあと、管理人さんが「フェミおばさん」で上手く表現されたようにヒマな人が多いこと。
例の田嶋陽子さんは私が分析するに、心理学的には幼少期における父性愛の欠如が彼女をしてああさせているのだと思います。幼いころお父さんや周りの男性から充分な愛情や父性を感じながら健全に育ってきたなら、ああは成らなかったと思うのです。付け加えるなら成人後もあまり男性から可愛がられた経験がないのではないかと推測します。彼女にとっては男ならでは女ならではのものを感じることなく大人になったわけで、これまで経験してこなかったものは存在しないも同然です。だから徹底的に「男女の本質的違いは無い」などと断言できるわけです。
世のフェミニストやジェンダー・フリー論者の個人的背景は、大方そういったものだと思います。ただ、そのほかにももちろんいろんな要因があると考えています。それについてはまたあらためて書き込ませて下さい。
ただ、私は「フェミニズムに走る女性は屈折したものがある」ということを外部的に公言することにはどちらかというと反対です。
なぜか?それを言おうものならすぐさま「屈折しているのはお前の方だ」とやられてしまうからです。「屈折」とか「病的」とか個人の主観次第でどうにでもとれそうなものを論争の道具にすると、一種の泥試合の様相を呈するようになって感情的な罵り合いになってしまう可能性が高いからです。
フェミニズムをやっている方の中には私が個人的に立派だと思う人もいますし、その他多くの人達は善意から動いています。ただ自分たちの運動の背景にあるものが見えていない、あるいは自分たちの運動の結果何が起こるか理解できない。そういう人達がほとんどじゃないかと思います。
私の役所でジェンダーフリーをやってる人達も単なる普通の、それでいて他人に思いやりを持とうと努めている、いわゆる「いい人」がほとんどです。とても「共産主義の亡霊」なんてことは夢にも思わず活動しているんでしょう。
そういった人達をまで「屈折している」と一方的に非難したのでは、彼らの「いい人」であろうとする人格まで傷付けることにも成りかねません。申し添えますが、決して管理人さんのご意見を否定するものではありません。ただ、本当に非難しなければならないものは何なのか、冷静に見定める必要があると言いたいのです。もちろん賢明な管理人さんやそのほかの皆さんのことですから私めがこんなことを偉そうに言う必要は無いと思いますが・・・。
要は僕はフェミ系の人達もそれなりに日本人的なんだという、前に書いたことを、改めて思うわけです。日本人的フェミなんだけど、その活動の中に誰だか知らないけど、マジでヤバイものを忍びこませている人達がいる。それを知り、闘って潰す手段は無いものか考えているわけです
小森さん
●田嶋陽子本人が明石家さんまの番組で話をしたことがあります。彼女は幼い頃父親から愛情をうけられなかったばかりか、虐待をうけていたようです。つまりこれがトラウマになってフェミニズムに走ったようです。(にしては「北野武」や「杉本高文」という保守的な芸人の番組にはよく出る。)
それと「虐待は『遺伝する』」という心理学の定石で彼女は飼っていた犬を虐待してしまったそうです。
おそらく彼女の言論の攻撃性も同様のところからくるんだと思います。(またそれが原因で男どもを遠ざけ、フェミニズムに拍車をかけさせてしまった悪循環に陥ったと思いますが。)
塾屋さん
●前にもこの掲示板に書いたのですが、実はうちのかみさん(のような女)は「大の田島嫌い」です。もうあの顔を見ただけで「虫酸が走る」とまで言います。
で、かみさん曰く、
「この女は絶対に子供の頃から『女だからこそ受けられる愛情』というようなものを受けたことがないのよ」と言っていました。
因みにある番組で大竹まことに
「あんた、まともな恋愛をしてきたことないだろう」と言われたところ、
「私も素敵な恋愛をしてきたし、みんな素敵な方たちだったですよ」と反論しているのを見てかみさんは即座に、
「あ、この女、今嘘をついてる」と言いました。
「なんで分かるの」と聞いたところ、
「急にそれまでの語調と変わって妙に落ち着き払ったような喋り方をしているから」といい、さらに
「心の動揺を見透かされないためにそのような姿勢をとることが条件反射になっているのに違いない」とまで言いました。
つまりそういったことを言われ続けてきたから、そのような取り繕った態度が条件反射で出てくるという訳ですね。
で、最近のフェミニズムは急速に女性の支持を得られなくなってきていると感じられるのは、うちのかみさんのように「行きすぎたフェミニズムによって明らかに女性の立場が微妙になっている」と感じる女性が増えているからではないでしょうか?
それにしてもテレビの画面での表情からそこまで読み取れる女の勘といものは空恐ろしいものがありますね、くわばらくわばら…
紅緒センセイ
●私の方は先々週より明後日まで小紅緒がいないもので、だいぶ楽をさせてもらいましたが・・・(でなければ終業式の前の日なんぞは徹夜になるとこでした^^;)
ところで、彼女は大のドラえもん(ちなみに彼女はドラえもんのことを「アンアンアン*」と呼んでます。かわいいでしょ?キャ*)ファンで、私が家事や仕事の準備で忙しい時は随分お世話になっています。ドラえもん、有り難う*で、私も一緒に見る事も多く、単行本もかなりたくさん持っていますが(現在の30代以降はドラえもんで育った人も多い事でしょう。もちろん私もしっかりその一人です。)、最近ジェンダーフリーや平和教育の話題に敏感になってから、ドラえもんについて思うようになったことがあるので、今日はドラえもんをジェンダーフリーおよび平和主義の観点から考察してみました。(なんか、随分おちゃらけているうえに長文になってしまいますがご容赦ください
m(_ _)m)
まず、ジェンダーフリーという観点から主人公ののび太を見てみると、彼はまさにジェンダーフリーの象徴のように見えます。何しろ、彼の趣味はあやとりと昼寝、一般に男の子が好きだとされている野球などのスポーツにはあまり興味を示さず、少女漫画やアニメも大好きです。そして、よく人前で泣いたり怖がったりします。そして、極めつけは、のび太としずかちゃんが婚約をする時のエピソードですが、雪山に登って遭難したしずかちゃんを助けに行ったはいいが、逆に足手まといになり、なんとしずかちゃんにおんぶしてもらって下山、このことがきっかけでしずかちゃんは「私がそばについていてあげないと危なくて見てられない」という理由でのび太との結婚を決意したのですが、この時ものび太はただ泣いて喜んだだけでした。こういうところを見れば、そうか、のび太はジェンダーフリーの申し子だったのか、と思いがちですが、ところがどっこい、よくよく原作やアニメを見れば、意外にものび太は反ジェンダーフリーの側面もいっぱい持っているのです。例えば、出来杉君の料理の味見をしにいった時のエピソードでは、のび太はこう言っています。「ハハハ、男の子が料理するなんておかしいや。」「ぼくは将来お嫁さんにしてもらうの。」(そして、そのエピソードの中では本当に大人になったのび太は家事一切を妻のしずかちゃんに任せっきりです。因みに、優等生出来杉君はこの考え方を否定し、大人になっても奥さんのために料理を手伝っています。)また、本来のび太はじジャイアンの妹ジャイ子と結婚するはずだったのですが、それをドラえもんの力でしずかちゃんと結婚出来るようにしたのです。しかし、これはジェンダーフリーの観点からすればとんでもない暴挙なのです。なぜなら、のび太がしずかちゃんを選んだのは他でもない、しずかちゃんが「かわいくて女らしい」からであり、つまりのび太は女に対する世間の固定観念をしっかり持っているのです。一方、ジャイ子の方は、確かに容姿こそしずかちゃんに劣りはするものの、性格はややがさつではありますが根は優しく、何よりも、彼女は大変な努力家で、将来は新進漫画家という明るい前途が十分に予測される自立した女性の卵なのです。そんなジャイ子を差し置いてしずかちゃんを選んだのび太の態度はジェンダーフリーに著しく反するものでしょう。そして、これは特に映画版でよく見られるのですが、普段臆病なのび太ですが、地球の危機などが迫れば実に積極的に戦いに参加しますし(下手すればジェンダーフリーのアンチテーゼ的なジャイアンよりもよっぽど果敢な場合も多いです。)、女の子が危機に晒されれば「いくらぼくでも女の子を見殺しにできないよ。」といいながら、非力ながらも守ろうとし(雪山のエピソードだって、もともとしずかちゃんを助けたい、って動機だったんですよね。)、結果はともあれ、のび太はかなり勇敢に戦っています。やはり、これはのび太が自分が男の子であるということを意識してのことでしょう。
因みにこの「積極的に戦いに参加する」という点では、ドラえもんは(サヨクの人達から見れば)かなり反平和的な漫画でもありますね。映画版における数々の戦いを見てもそうですが、敵とまず話し合おうという態度はほとんど見受けられません。たいていの場合戦いに突入します。(これは敵が話し合いが通用する相手ではない事がのび太達には容易に理解できているからでしょう。)また、映画版などにおけるSFやファンタジーっぽいストーリー以外にも、「話し合いによる解決」を無視もしくは軽視した場面は日常生活の中にもいっぱい見受けられます。たとえば、ジャイアンにおもちゃや漫画などを取り上げられた時、ジャイアンと話し合ってそれらの物品を返してもらおうなどとは考えておらず、(話し合うだけ無駄やもんね。)たいていの場合ドラえもんの道具を借りて実力行使による奪回、そして酷い時には報復という場面です。また、この点で私が一番印象的だった場面はドラえもんが未来の国に帰る時、のび太がジャイアンにいじめられた時のことが気がかりで安心して帰れない、といったのに対して、のび太がボコボコにされながらも自分の力だけでジャイアンにけんかで勝ち、「これで安心して帰れるだろう?」といったところです。
こういうのび太の反ジェンダーフリー・反平和的要素について、色々な作品に抗議する個人や団体ってどう思ってるのでしょうか?まあ、家事をすべて奥さんに押し付けたりやられた相手に報復したりするのは確かに私もいただけないと思いますが、そういったのび太のあまり好ましくない性格の一面も含めて、我々はこの漫画を愛しているのであって、思うに、のび太の人気の理由の一つは、これだけ世間の男の子に対する固定観念を裏切るような性格でありながら、時折彼が見せる勇気に(たとえそれが散々な結果に終わっても)ああ、やはり彼も根っこはりっぱに男の子なんだ、といったような清涼感を覚えるからという気がしてなりません。もし、こういった点をフェミニストの人達や平和教育を唱える人達が抗議して、こういった要素が作品から一切なくなったら、その時点で「ドラえもん」の魅力は必ずや色褪せると私は確信しております。敵に対して「とにかく話し合おう!」としか言わなかったり、女の子が危機に晒されていても逃げてしまったりするのび太なんぞ私個人としては見たくもありません。もっとも、そんな抗議をすれば全国何千万といるドラえもんファンから顰蹙をかうのはまちがいないとも思うので、作風がジェンダーフリー的かつ(シニカルな意味での)平和的に変わることは絶対ありえないとも確信していますが。
スズキさん
●紅緒さんのドラえもん考察、興味深く読ませて頂きました。
この掲示板を覗かせてもらうようになってから、同じような事を考えている人達が実は多いのだなあとしみじみ思います。以前私が論争したジェンダーフリーの人達からは「あなたの周りの女性はそんなこと思っていない」(勝手に決めんなよ)「せいぜい同じ価値観の女性をパートナーとして選びなさい」(それこそ余計なお世話だ)などと言っていじめられたことがあるため、女性の紅緒さんからもそういう意見が聞けて、まだまだ世の中そこまで酷くはないんだなあとホッとしています。
で、例のドラえもんに関する紅緒さんが挙げて下さった事例を彼ら(ジェンダーフリーの人達)が反論するとこうなると思います。
曰く、「ドラえもん」においてそういう描かれ方(ジェンダーを肯定する書き方)がされているのは、世間一般にそういう描き方を肯定するあるいは称揚する風潮があるからです。そういう風潮に迎合することを
筆者が描いたのです。それを読んだ子供達にさらに新たなジェンダー意識を植え付け、そこで拡大生産されたジェンダー意識にこれまた製作者側が迎合し際限なくジェンダー意識が再生産されて行くのです。ですから漫画やアニメの世界にあるジェンダー差というのは実は意図的に生産された差でしかないのです。証拠に他にジェンダーフリーな漫画やアニメの例を挙げることができます。あなたが「ジェンダーフリーなドラえもんは認めない」と言うのであれば、それはあくまでもあなたの価値観であってそれがそのほか社会全体の価値観だと思って欲しくはないです。
実際男の子でも少女漫画が好きな子や女の子でもガンダムやロボット物が好きな子がいるでしょう。あなたはそういった子の個性を無視するのですか?
まあ、こんなところでしょう。あらかじめ言っておきますが、これは議論をより高度にするため、比較的レベルの高いジェンダーフリー派の人の意見を想定しています。実際はもっと感情的な低レベルの反応が反ってきます。
さて彼らジェンダーフリー派に反論です。
ではなぜ、ジェンダーフリーな漫画やアニメがこれほど少数(というよりか無い)のか?本来男女が全く同じならその同じありのままを描いた漫画が一般に受け入られるのではないのか?企業の目標は儲かる事が主であって、社会にジェンダー意識を植え付けることが目的ではない。ジェンダーフリーな漫画を描いてそれが受け入られるならそれが男の子にも女の子にも両方にウケて、男女別々の漫画を描くより読者層が倍になる分ずっと儲かるのではないか?企業側はなぜそういう戦略をとってこなかったのか?
元々男女は同じではないから、それぞれの違いに合った漫画が自然と形成された。漫画がジェンダーを作ったのではなくあくまで、本来の性差に受け入られるような漫画ができたのである。
ただし、現実の漫画がそうした差を過度に誇張し過ぎ、特に性描写などにおいて性を商品と見る風潮を助長するような面があることは否めない。それは社会の良識のもと規制するべきであろう。それを支配する男性による性差別の現れなどとし「ドラえもん」のような正常な漫画まで規制の対象とするのは行き過ぎた平等意識と言うほかないであろう。
次に反平和的な描かれ方に対するジェンダーフリー派の意見。
これはあくまでも戦闘を描いた方が面白くて作品として成立しやすく、また作者としても描きやすいからです。「話し合いで解決しましょう」とやっては作品としての面白みに欠けるのは当然です。しかし、そいう描き方に戦争を肯定しがちな思想が含まれていることを読み解く力すなわちメディア・リテラシーを早い段階から涵養することが大切です。漫画ではそう言う風でも現実世界は違う。現実は仕返ししたくてもできない、実力行使なんてもってのほかです。そういうことを肯定しようとするあなた方の考えには軍国主義の過ちを犯した日本の過去の歴史に対する反省は微塵も感じられません。
反論です。
では実際に子供達は読んだ漫画に描いてある通りに行動しているのか?世の中には様々な漫画やメディアが存在するが、それをいちいち真似していたら世の中はとっくに大変なことになっている。子供達はある程度現実と仮想の区別をつけて漫画と接している。戦うことを認めているような思想が漫画の中に含まれるのはそれが人間社会の基本であるからだ。別に本当の戦争でなくても人々の生活は常に戦いに満ちている。企業間の競争、スポーツ競技、国家間の交渉、異性を巡る争い、受験戦争、出世競争、親子や夫婦間にさえ駆け引きがあります。ありとあらゆる競争や戦いに囲まれて我々は生きています。一つとして「話し合い」や「平和的解決」など通用しそうなものは有りません。むしろ子供達にとっては戦いを避ける道より、戦いと上手に付き合いながらその中で自分を磨いてゆくことが大切なことです。
故に漫画の中で戦いがことさら持ち上げられているように見えるのは「戦争美化」ではなく、いずれ戦いに望まなければならない子供達に覚悟を植え付ける正常な「諭し」であると言ったほうが適当でしょう。
と、こんなところでしょうか。
このサイトをご覧の皆様には釈迦に説法だったかもしれませんね。
でも彼らにとっては聞く耳を持ってもらえず、結局「軍国主義者」などとやられてしまうんでしょうね。
あらためて思うのは、彼らは社会が悪くなれば良いとでも思っているのではないか。ということです。
管理人
●それにしても、ドラえもんとジェンダーフリー論が盛り上がってますねぇ。さすが紅緒センセイ、鋭い、鋭い。スズキさんのレスも見事ですね。長谷川さんや藤本さんが納得されるのも当然だと思います。
私も、ドラえもんは一見ジェンダーフリーに見えながら、本質はその逆だと思っています。そもそもヒロインがしずかちゃん(優しくて可愛く品がある)というところから反ジェンダーフリーというのは明らかでしょうね。おそらく作者(藤子不二雄)の年代の方にはフェミニズムとかジェンダーフリーとかいう発想自体がないのだと思います。同じく幼児アニメの「あんぱんまん」(やなせたかし)などを見ていても、女性はバタ子さん(脇役)ドキンちゃん(ずる賢くて調子がいい)であり、男性はあんぱんまん、食パンマン、カレーパンマン(正義感あふれるヒーロー)となっており、まさにジェンダーフリー論者が目をむいて怒るような設定になっています。「彼ら」がこういうアニメにいちゃもんをつけないのは、世間的な批判がくることを承知しているからでしょうね。
とはいえ、最近のアニメはジェンダーフリーというより、女性を徹底的に賛美するフェミニズム的な設定が多い気がします。「セーラームーン」は「女性」性(可愛さ美しさセクシーさ)に男性的な「強さ」を付加しており、フェミニストが泣いて喜ぶように作られています。これがブームになった頃、韓国では心理学者が「セーラームーンを見せると男の子がひ弱になるので放映してはいけない」という声明を出して、実際に放映されなかったとか。最近はどうなのか知れませんが、儒教国家韓国らしいなと妙に納得したものです。日本で「セーラームーン」は流行ったのは10年以上前ですが、たしかに韓国の心理学者が言うように「男の子が弱くなり、女の子が強くなった」ような気もしますが……(^。^)
フェミニズム、ジェンダーフリーは左翼思想と密接に結びついていますが、かつてバリバリの左翼だった宮崎駿や高畑勲の最近の作品を見ていると、こういう発想から急速に脱却しているのがわかります。高畑勲の「となりの山田くん」は完全にかつての家庭賛美の映画で、奥さん=家事、夫=仕事という状況を何の批判もなく描いています。(私個人としては女性の社会進出には賛成していますが……)宮崎駿の「もののけ姫」のヒロイン「サン」はまさにフェミニストが絶賛する強く逞しい女性の象徴ですが、アシタカに好意を抱きつつも「依存すること」を拒否して、狼たちと森に帰っていきます。結局サンは人間の女性としての幸福を経験しないまま森の中で孤独に生きるわけです。私にはこれがフェミニストの末路を暗示しいるように感じられました。また、宮崎駿がこの作品で左傾の人がよくいう「共生」という概念にNOをたたきつけたところも画期的でした。「本物の人達」は安直なフェミニズム、ジェンダーフリーには決して与しないということだと思います。
Ikegawaさん
●フェミニズムとジェンダーフリーについて。
性差を全く認めないヒトもいらっしゃいますね。
小生としては、たしかに男女の「差別」はいけないかと存じますが、「区別」は必要であると存じます。むしろ、男女間の「区別」を尽く「差別」とし、性差を完全に無くしていくことのほうがむしろ差別であるのでは?
性差を完全に無くすということは、どちらかの性が優れていて、どちらかの性が劣っていると
言っているのに等しいような気がいたします。男女の性による優越が無ければわざわざ「区別」まで無くす必要は無いのではないでしょうか。
小生はプロレスを観るのが好きでありますが
(テレビ観戦ですが。そして実際、今観ながら書いていますが。)、いつぞやにミスター女子プロレスラーこと神取忍は男子レスラーと対等に試合してました(何とハンディ無しで!)。
ときにそういう人間の努力に基づかれた個性を尊重し、男子と対等に試合をする自由が与えられることは大切でありますが、なんでもかんでもとにかく性差を無くしゃあ良いというモンでもないでしょう。
男らしい男と女らしい女が存在する自由は有っても良いと存じます。
でないと、男らしい(←自覚は無い。)小生は困る…(汗)。
ですが、小生は、やっぱり女らしい女はカワユイし、男らしい男はカッコよいと感じます。
これは世間一般の感覚であると存じますが、如何なものでしょうか。
(無論、個人の好みはあるでしょうが。)
スズキさん
●Atsukoさん
>性差を完全に無くすということは、
>どちらかの性が優れていて、どちらかの性が劣っていると
>言っているのに等しいような気がいたします。
そうです。スバラシイ意見です。若いのに(失礼)立派な見識をお持ちですね。若い女性でそういうしっかりした意見をお持ちだと、日本の将来もまだまだ捨てたもんじゃないなと感じます。
ただ、誤解をおそれず意見しますと、私は男女間に「差別」と一般的に取られるような面があっても仕方が無いというか必要悪だと考えます。
それは男がエライとかいう程度のものではなく、ある面では男の方が偉かったり、別の面では女の方が尊敬されたり、いろんな複合的な面が社会には存在して当然だからです。そうした表面的な差別をある程度は認めるべきで、そのことによって個人を本質的に差別することを防ごうというのが私の考え方です。また、それが先人の知恵ではなかったかと思っています。
ですが彼らの言うことに従うと、表面的な差別を許さないことによって実は実質的な差別を生み出すことになるわけです。その意味でAtsukoさんの言われることは事の本質を突いていて、大変鋭いと思います。
>自由には責任が伴うモノですから、
>女っぽい男と男っぽい女が存在する自由は有っても良いでしょう
>が、常識の範囲の節度を忘れたらあかんかと…。
そうですよね。私もあまり男っぽくない男ですけど、自分の本質は男だとキチンと認識してますし、常識の範囲みたいなものは逸脱しようもないし、したいとも思いません。また、逸脱した場合の責任は自分できちんと取らなければならないと思います。それができる人が逸脱をすればよいのでしょう。素のままの個人を無制限に誉めそやす必要はないのです。
要するに社会が認める一定の基準(常識とか習慣とか呼ばれるもの)がまずあって、そこからどの程度自分が離れている(あるいは合っている)かってことがちゃんと分かってこその自分の個性だと思うんです。
彼らはそういう基準すら無いものにしちゃえって言ってるわけなんです。これは私の誤解ではありません。彼らはジェンダーを無くせとハッキリ言っているんですから。
管理人
●先日、東京都教育庁から「セクハラ防止のために」というパンフが配られましたが、案の定その中に以下のような記述がありました。
・ジェンダーフリー教育の推進
・性別に関わりなく個人を尊重する意識の育成
・固定的な性別役割分担意識の解消
・女性に対する偏見や差別意識の解消
ジェンダー勢力は行政の中にしっかり根をはっているようですね。
これまでは、家庭科男女共修(賛成)父兄を保護者へ呼び変え(やや賛成)男女混合名簿(どちらでもいい)程度で実害はありませんでしたが、今後上記の目的のためにどんな動きがあるのか気がかりです。
スズキさん
●セクハラを防ぐためにジェンダーフリーとは恐れ入りましたね。
まったくアホなことを言う人がまだまだいるものです。
彼等の言わんとするところは分かっているつもりですが、全然納得できません。
ようするに彼等は人間の本性は絶対善だと思っているんでしょう。人が反社会的行為を為すのは、それまでに誤った教育を施されたからであり、そういうものを取り除けば、善なる行為のみを為す正しい人間ができると。そんな風に根本的に考えているんでしょう。
ジェンダーを取り除いたからといって、男がイイ女を見ればヤマシイ感情を持つことが無くなるなどとどうして考えられるのでしょうか?
むしろ私は逆だと思います。
セクハラが問題だからより一層男は男らしく生きるべきだ、と言わなければならない。ジェンダーフリー派が決定的に勘違いしているのは、「男は偉いもので、女に自分の言うことをきかせてもよい」というのがジェンダーだと思いこんでいることです。ですが、それは全然逆で、本来の日本人が持っていたジェンダー(男らしさ)は「男は女を守るもの、女の幸せが男の幸せである。」という物です。(ちょっと単純すぎて異論が有るかもしれませんが)現代ではこうしたジェンダーが持っていた本来的意義が剥奪されてしまったため、女性を平気で自分の欲望の対象にする愚かな男を作ってしまったのです。
こうした馬鹿男に必要なのは、「ジェンダーフリーになりお互いの個性を尊重しよう」などと言うことではありません、「男として恥ずかしくないのか」と言うことだと思います。
また、今後こういう個性の代わりに性欲を拡大してしまう男を作らないようにするためには、子供の頃から、本当の男らしさ、女らしさを教えることが必要だと考えています。
私も管理人さんと同じで男女混合名簿やランドセルの色になど別にこだわりません。ジェンダーの形は社会が規定するものですから、社会がその都度必要な形に変えて行けば良いからです。ですが、男女に社会的文化的違いがあるということは不変でありどうしたって無くしようの無いことです。
混迷の時代だからこそ、きちんと社会生活に必要な意識を子供の頃に教え込むのが親や社会の役割、愛情ですし、子供が自分の思想実現のための道具でなく本当に子供本人のためを思うなら皆そうするでしょう。
管理人
●セクハラに関するご意見、見事です。なるほどなぁ〜と思いました。よく考えてみると、ジェンダーフリーを推進すればセクハラ防止につながるというのは妙な論理ですね。セクハラが「男がイイ女を見てヤマシイ感情を持つこと」から生じるとすれば、それを防止するジェンダーフリーとは、その種の発想をなくすこと、すなわち「性差」そのものをなくすことになってまいます。ここにジェンダーフリーの悪しき本質が露呈していると思います。スズキさんの仰るように、セクハラを防止するには男性がジェントリ―になること(「男性」性をしっかり身につけること)が大切だと思います。
デスザウラーさん
●> セクハラを防ぐためにジェンダーフリーとは恐れ入りましたね。
> まったくアホなことを言う人がまだまだいるものです。
この3月までNHKで放送していた「アリー・my・ラブ」の舞台になっている法律事務所では、トイレが男女共用でしたね。
これを真似て、あらゆる施設の全ての場所を男女共用にしましょう。更衣室は勿論、風呂場も乾燥室も例外なくです。これが本当のジェンダー・フリーで、男女共同参画社会のあるべき姿です。男が着替えるロッカールームで着替えができないような女は、ジェンダーに囚われているのだ!
かくして、ジェンダー・フリーによってセクハラがなくなるかどうか、はっきり分るというものです。
管理人
●学校の図書館に「学校をジェンダーフリーに」(明石書店)というのがあったのでパラパラめくってみたら、そのトンデモぶりに驚き呆れてしまいました。学校は女性差別を拡大する装置であり、ジェンダーフリーによって学校を改革しなければならないとか。つまり、今の学校は男中心主義だから、女性を前面に出すようにしなきゃダメなのだそうです。みなさんに紹介したい(驚くような)実践報告がたくさんあるのですが、今日は神奈川県の高校教師が書いた「マネージャー撤廃論」を紹介します。まずは御一読ください。(要約です)
「高校生にとってモテるというのは重要なことである。モテたいがために本来あるべき自分の姿を不本意な形でねじまげてしまうことはよくあることだ。文化祭などの学校行事のたびに遅くまで作業をする男子のために女子の「おにぎり部隊」が出動するのもその一つ。この文脈上に女子マネージャーがいる。
彼女たちは「強制ではなく、好きでやっているのだからいいじゃないか」と言うが、そう思う背景が何であるのかを押さえるべきだし、「好きでなくても」やらなくてはならなくなる人が出ることに無自覚になってはいけない。
家庭や学校で繰り返し繰り返し男と女は違うというメッセージを送られつづけ、その与えられた価値観によりモテることを選ぼうとするときに「好きで」マネージャーや「おにぎり部隊」を選ぶ生徒が生み出される。
つまり、女子マネージャーは強制ではないが、性差別社会において刷りこまれた意識によって「選び取らされた結果」として存在する。
いったいどこに自らすすんで自分を中心部ではなく周辺部に置きたがる人がいるだろうか。本来ならば、選手として関わりたいと思うはずなのに、女子マネージャーが後を絶たないのは、男達の裏方に回ることがむしろ高く評価されることを彼女たちが知っているからである。
自分がメインステージに立たず他者に夢を託すという彼女たちの姿は、夫や子供に夢をたくす「妻」や「母」の姿に見事に重なる。現在、働く女性は真っ先にリストラの対象となり、非人間的な労働を余儀なくされている。こうして働く女たちは労働権を常に脅かされる一方、専業主婦には年金制度などでさまざまな優遇措置がある。
こうした政策によって、女たちは自らの糧を自らで得るという当たり前のことができなくなり、家庭に囲い込まれ、自分自身を生きることを辞めてしまうのである」 (引用終わり)
書いていて反吐が出そうになりました。マネージャーになる子はすべてモテたいがための打算で、主婦は自分を生きてないというのです。なんという悪意に満ちた見方なんでしょうか。自分の価値観こそが絶対で、それ以外の発想はいっさい認めず、すべて差別によって植え付けられたものだと切り捨てる……。よくもこんな人がよく教師をやってられるものです。
「自らすすんで自分を中心部ではなく周辺部に置きたがる人」はたくさんいますし、「人の面倒をみたい」というのは生得的にそなわった母性だと思います。
今年野球部のマネージャーになった一年生の女生徒がこんなことを言ってました。
「私は外野手がフライをとったときの笑顔と、ベンチに戻ってくるときのみんな晴れ晴れとした顔と、試合が終わったときの礼が大好きです。だからマネージャーになりました」
この生徒に対しても「あんたモテたいからでしょう。あんたの発想は性差別から生じたものだよ」と言うのでしょうか。呆れはてるほど卑しい性根ですね。
この論文を読んで真底、ジェンダーフリーに「憎悪」を抱きました。
デスザウラーさん
●ジェンダーフリーのためにマネージャーが撤廃されなければならないとすると、同じように多くの男女混合のアーティスト・グループ(ボーカルは決ったように女)も、レースクイーンもキャンギャルも全て撤廃されなくてはなりませんね。性差もろ出しを商売にしているモー娘とかも解散させられるな。ウン。最も、既にジェンダー・ハンターどもによってミスコンが中止に追い込まれているのですから、キャンギャルが法律で禁止されるのも、遠い未来の話ではないかも知れません。
その内、フェミニストは、きっと紅衛兵のようにつんくを吊るし上げにするでしょう。藤原紀香も松嶋奈々子も、いきなり拉致されて、頭髪を切り落とされるに違いありません。
小人閑居さん
●管理人様のあげておられるマネージャー撤廃論については、こんな曲論につきあうのは時間の無駄というものでしょうが、あえて一言だけ申し上げると、「モテたいがために本来あるべき自分の姿を不本意な形でねじまげてしまう」という、その「本来あるべき自分の姿」というのはいったいどういうことなのでしょうか。人間は男女にかかわらずモテたいために自分を高めようとするものであって、「本来あるべき自分の姿」とやらに安住してしまっては人間進歩も向上もありません。
そもそもこういう自分の偏った思想を人に押しつけようとする人ほど「押しつけはやめて」などと言ってるのはブラックジョークとしか言いようがありませんね。
ジェンダーフリーの世の中にしようと思うのなら、漱石の「坊っちゃん」は焚書になりますね。だってこの話では一本気で男らしい主人公や山嵐が正義で、「女みたいな声でしゃべる」赤シャツは卑劣漢として書かれていますが、これは「男らしさ」を読者に植えつけるだけでなく、ニューハーフに対する差別を助長するじゃないですか。あと「瀬戸の花嫁」も、結婚こそが女性の幸せという価値観、「男だったら泣くな」という価値観をすりこむから、「与作」も男は山で木を切り、女は機を織るという性別役割分業をすりこむから放送禁止にし、カラオケボックスからも撤去しましょう。(そんなこと言ったら歌謡曲なんてほとんど放送禁止だな)
…冗談はこのくらいにして、紅緒様の言っておられたフーリエ思想はソ連では崩壊したものの、スウェーデンなどの北欧ではかなり現実になってますね。そもそもフェミニストが北欧を賛美するのは、かつてソ連や中華人民共和国が「労働者の楽園」などと言われていたのに似ていますが、スウェーデンの少年非行や自殺、精神障害の増加といった現実をもっとよく直視する必要があると思います。
そもそも、このスウェーデンですら、女性の大部分は事務的・補助的な労働につきたがる傾向があるとか。それだけでも、この「マネージャー撤廃論」がいかにバカげてるかわかりますね。
大隅さん
●「マネージャー撤廃論」を読んで、書かれた内容があまりにも寒々としているのにびっくりして、冗談はよせ!と思わずうめいてしまいました。しかも、この書き手は、同業者の高校教師であるとの由。こりゃ拙いなと重ねてうなりました。内部告発的なことを言って、自分はそうじゃないとやって、いひひひひと喜ぶ悪魔的な快感を味わうのもどうかと思う。けれど、こういう考えにわが同僚の多数派が組しておるのかと思うと、暗澹たる気持ちにならざるをえず、どうしても反論したくなりました。実際、こんな考えの持ち主が寄り集まって、「いかなる強制にも断固反対」と呼号して、今の公立学校を動かしているのかと思うと気分が悪いです。
一点について論じます。
>高校生にとってモテるというのは重要なことである。モテたいがために本来あるべき自分の姿を不本意な形でねじまげてしまうことはよくあることだ。
ーーと主張されている。そもそも人からモテたいと望むこと自体が怪しからん。そういう論旨だけど、教師をやっている者から、このような発言が飛び出すなんて、私はひどく不思議に思います。教師であって、「俺は生徒から嫌われてよい、モテなくてよい」と自分自身に言い聞かせて納得し、周りにもそう公言している者など、見たこともなければ聞いたこともないからです。あるいは、他の教師が多くの生徒の人気を博するのを目の当たりに見て、うらやましさで心が動揺しない者などいないと考えるからです。
教師は「人気商売」だ。こう断じても、そう間違いないと思います。同僚が何かごちゃごちゃ言ってきても、「では、君はどうなんだ、人のこと言う前に自分がどうかを考えろよ」と押し返せる。が、たとえ言うてることがかなり的外れであったとしても、生徒に「先生の授業は今一つわかりません」「教師がそんなことではあかんで」と言われれば、ぎくりとしいつまでも気にし続けるのが、教師というものではないか、と。
生徒からの人気が全くないと「不適格教員」扱いされるんじゃないかな、と常にびびっているわれわれ教員の間から、「モテるなんてことを気にするなんておかしいよ、しゃらくさいぜ」との主張が唱道されるのは本当に奇怪です。筆者は、自分を偽りすぎているのではないでしょうか。論稿を「教師にとってモテるというのは重要なことである」と書き始めるべきだった、と思います。
それに、これは私の経験体験からの意見ですが、「人からモテる」「好かれる」「人気を獲得する」ためには、学問を学び修めるのがたいへんなように、それなりの意志も努力も、そしてコストも必要です。それを手に入れた人には、それなりの尊敬の念を払うように生徒をもってゆくのが、われわれ教師の役目だと思う。論稿は、これとは全く反対の行動を導くような論説で、教師たる者の唱えるべきことではないと心底から感じました。モテている者への単なる妬みにすぎないようにも思えたし。
スズキさん
●Yahooなんかでジェンダー・フリーをキーワードに検索すると出てくる出てくる、大量なヒットがあります。が、中身はほとんどが行政が作るジェンダー・フリー思想を市民に意識啓発するためのサイトです。ジェンダー・フリーという思想があること自体は日本赤軍もついこの間まで存在していたくらいですので、別にどうということは無いのですが、問題はそれが主に行政によって役所の職員が貴重な血税を使ってその運動を推進しているということです。特定の政治的イデオロギーに行政が肩を持つべきではないのですが、ここがまず腑に落ちないところです。
私の勤める役所を例にしてご紹介いたしましょう。
私の市の市長は大変真面目でいかにも市民派という感じの人です。情報公開大好き、行政改革大好き、市民に開かれた、弱者にやさしいバリアフリーのまちづくりがキーワードらしいです。ですから何を考えているのかがとても分かり易い人でもあります。
大勢に迎合し易い彼のこと、やはり男女共同参画にも熱心です。
ウチの役所内で課を横断したプロジェクトチームを立ち上げる時、行政に対する様々な課題を審議する各種委員会や審議会などが作られる時、それらを立ち上げることをその委員会等の活動内容やメンバーなどを、決められた書式に記して市長決済に回すのです。この書式の中に何故か「男女割合」という項目があります。ここに記載されている男女人数の割合が男ばかりだったりすると、「女性をもっと入れなさい」などと市長から意見が付きます。男女半々でなくてもいいから、ある程度は女性をそういった意思決定の場に参画させよ、ということらしいです。当然湧く疑問として男女は関係なしに適任者を選んだら、たまたま男性ばかりだった、あるいは女性ばかりだった、ではダメなのか?というのがあります。でもそれではダメでとにかく女性を登用せよ、と言われます。
こういうのはアファーマティブ・アクション(積極的差別是正策)といい(私はアホーマティブ・アクションと勝手に呼んでいますが)、現状が男尊女卑の状況にあるからそれを是正するための措置として、女性を積極的に優遇するような政策を指すそうで、ウーマンリブ華やかしき頃のアメリカで実際に行われたことがあるのだそうです。まあ、簡単に言うと逆差別してもよいということですね。
これが彼等には自分たちの思想の押しつけだとは認識できないようです。もし、その会が審議する内容が非常に重大な急を要するものだった時本来なら委員になれない人物も委員にさせて良いというのだろうか?彼等はその審議会が持つ意義よりも自分たちのジェンダー・フリー思想を優先させることが、正しいと本当に考えているのだろうか?それとも審議される内容や結果なんか本当は最初からどうでもよくて、自分たちの意見さえ押し通すことだけが目的なのか。
彼等は「個人が性別に関わりなく平等に認められる社会」が理想だと虫の良いことを言ってますが、実際はそのせいで本来ならなれるべき委員の資格を剥奪された方のことはどうなるのか?これが本当に個性を認めることになるのか、全然違うじゃないか。
実際にも私の課で受け持つ審議会も、以前の改選の時そういう意見がついて、5人の委員の中に1人強引に、本人も嫌がるのをむりやり口説き落とし、どうみても力量的に不釣合いな女性委員を入れました。審議会での会議の様子を見ると本当に居づらそうで、気の毒です。付け加えますと、この審議会のメンバーになるには非常に高度で幅広い学術的知識が必要で、人数も少ない分意見も求められるし、下手なことを言うとバカにされるので、出来る人はかなり限られてきます。その女性にはそうした能力が十分ではないことは明かだったのですが、「大義名分」がそれに勝ってしまったのです。
こんなことをして一体何になるのかさっぱり分かりません。こうして例え女性が最終的に平等を勝ち取ったとしても一体何の意味があるというのでしょう。私にはお互いにとっての不幸をもたらすものとしか見えません。
デスザウラーさん
●ジェンダー・ハンターの次なる標的は浜崎あゆみでなければならない!
前回、ベスト・ジーニスト賞(ジーンズが似合う有名人に対する表彰)で選ばれた浜崎は「女の子らしく履くようにしている」とコメントしていた。そういえば、最近電車内で見ても、浜崎に習ってジーンズの裾を大きく折り返す若い女性が目に付く。さすがに若い世代のカリスマである。しかし、「女の子らしく」とは何事か!これが性差による差別を助長する発言でなくて何だ!反ジェンダー主義者よ、早速浜崎を血祭りに挙げよ!
(上記発言は、勿論皮肉であって、扇動ではありません)
でも、実際にはこれを知ったとしても絶対にやらないでしょうね。反ジェンダー主義者は、朝日のようにマスコミが支援してくる場でしか叫べない腰抜け揃いだからです。
スズキさん
●今回はおなじみジェンダー・フリーというカルト思想がどうしてここまで広まり巷間の善良な婦女子をかどわかしているかの理由を、私なりにアプローチしてみたいと思います。
その1 共産主義の亡霊説
このサイトで何回も出てきていますので、私などがあらためて説明するまでもないでしょう。
かつて革命を夢見た人達が、今や社会の指導的地位に付いて、その場から古臭くなった共産主義の言葉をあえて出さず、自分の思想の実現を目指し違った形での社会変革を企図している。そのうちの一つがジェンダー・フリー(修正フェミニズムとでも言うべきもの)である。
その2 父性・母性の意味の希薄化説
かつては、理屈以前に父親(男性)の能力、母親(女性)の能力というものが明確に発揮されていたため、男ならではのもの、女ならではのものに異論を差し挟むことは難しかった。しかし高度に複雑化した現代社会は父性愛(母性愛)を発揮されなくても子供を育てることができる環境ができたため、父性・母性愛を十分受けることなく大人になる人も増えており、それらを当然のものとして受け入れる感覚がなくなってしまった。(ex田嶋陽子氏)
その3 市場拡大説
これはどちらかというと私のオリジナルに近いと思います。
現代の日本は構造的とも言える不況に陥っており、長引く消費の低迷が企業側にとって明るい出口の見えない状況をもたらしています。
そこに出てきたのが家庭という場で無償労働を提供し、自らの独自資産を持たない、消費能力も生産能力もある、日本国内だけで何万人も存在する人達。それが専業主婦というものです。
この専業主婦達を市場に取り込めば、あらゆる企業にとって大きなビジネスチャンスとなります。そうした女性がもっと金を使えば、例えば化粧品、エステ、などの業界は大変潤うでしょう。女性がもっと外で働くようになれば当然働く女性にとって必要な生命保険や銀行、証券会社なども顧客の幅を広げられるでしょう。不謹慎ですが不倫も増えるでしょうからその手の産業も増えるでしょうし、それに恋愛が景気を良くするみたいなことを言った人もいますよね。誰でしたっけ?
経済学の本で、「市場は広い方がいい」というようなことを読んだことがあります。タダ働きをし、消費を抑えられている家庭の女性は資本主義の論理から見ると大変もったいない存在なのではないかと思います。ですが、無償労働を当然とし、女性の浪費を不道徳とする社会の意識なり規範があったら、それは市場の拡大を目指す人達にとって大変邪魔なものに感じられますよね。これを打開する手だての一つとしてジェンダー・フリーが選ばれたのでは?と考えます。
ですから私が想像するに、ジェンダー・フリーを推し進めている勢力の一つに、こうした不況から脱出するための手段と捉えている人達がいるんじゃないかということです。
こうして考えると、やはりどうも当の女性自身が望んでこんな運動に賛同しているとはとても考えられません。甘い言葉に乗せられている人達が結構多いんでしょうね。
こういういかにも正しそうなジェンダー・フリー思想の背後に何があるか、そういうことを読み解く力が本当の彼等が言うメディア・リテラシーだと思うのですけどね。
小人閑居さん
●長尾先生のあげておられた「学校をジェンダー・フリーに」(明石書店)、さっそく図書館で借りてみました。先生もあげておられた「女子マネージャー撤廃論」を読んでみると、これを書いた神奈川県の高校教師は、「男と女は違うというメッセージを送られ続け、その与えられた価値観によりモテることを選ぼうとする」こと自体を悪いことのように言い、「男女別制服の強制」をも槍玉にあげていますね。おそらくこの人は、「かわいい制服」に憧れて進学先を選ぼうとする女生徒も、「性差別社会によってドレイ根性を植え付けられた、マインドコントロールの犠牲者」とでも思っているのでしょう。(これって前にも書きましたが、女性がアクセサリーをしていたとか髪を伸ばしていたとかいうだけの理由でリンチにかけた文革の紅衛兵や連合赤軍を思わせますね。)確かに度をこした美容整形やダイエットがいいとは言いませんが、彼らは自分のこのような考え方がかえって女性を遠ざけているということに気がつかないんでしょうかね。
最後にこれだけは言っておきますが、「自分は男に奉仕する女子マネージャーになりたくない」「かわいい服を着て男に媚びるのなんてイヤだ」と考えるのは全くの個人の自由です。私が言いたいのは、「こういう思想を教育やメディアを使って世間に押しつけるのはやめてほしい」ということだけです。
この本にはほかにもおかしな点がいっぱいありますが、管理人である長尾先生をさしおいて私があれこれ言うのも僭越かと思うので、ここは先生にお任せしましょう。
スズキさんの言っておられる件ですが、あと3については、「少子化が進めば労働力が足りなくなるから、そのときには女性を安い賃金で働かそう」という腹もあるんじゃないでしょうか。(あくまでも邪推ですが。)これについては難しい問題ですが、IT技術が進展し家のパソコンを使ってもできるような仕事が増えれば、「仕事と家庭の両立」という問題も若干は改善されるんじゃないかと思っております。でももしこうなったら、あの人たちはまた「新たな性別役割分担だ」とか言いだすだろうな。
管理人
●「学校をジェンダーフリーに」という本より、かの国立市で行われたトンデモ学芸会の実践報告です。(要約しています)
学校行事の大きなものに学芸会があるが、劇の脚本探しには苦労する。女の子が主人公の作品が極端に少なく、あっても女の登場人物は役割分業そのもの、美しいお姫様や優しいお母さんといった具合だ。(それ、いいと思うけどな。何が悪いの)
そこで私たちは自分たちで脚本を作ることにした。
(あの〜、古くはかぐや姫、最近ではセーラームーンや犬夜叉等、元気な女の子が主人公の作品はたくさんあるので、素人が無理して新しいキャラを作る必要なんてないと思うけど)
題して「アリーテ姫の冒険」(な、なんか嫌な予感が……)
アリーテ姫はかしこくて勇気のある女の子、しかも乗馬うまく、いわゆる「男らしい」特技だけではなく、縫い物をし、絵を書きダンスをするのが好きという「女の子」らしい特技も備えている。
(え〜!! 絵を書きダンスをするのが好きだという男はいっぱいいるよ〜。あなたたちの方が勝手に性的な役割分担を決めてるんじゃないの)
そして何よりの特長は15才までに書斎にあるあらゆる本を読み尽くしたという読書好きな設定である。
(ふへ〜、要は自分たちがいいと思う要素をつめこんだだけじゃん^^)
授業では「女はかしこくない方がいいか」というショッキングなテーマを取り上げて四つの狙いを定めた。(すごいテーマだ!!)
@「女はかしこくなんかない方がいい」という王様の言葉から女のあるべき姿と社会的偏見について考える。
(え〜!!! つまり女はバカな方がいいと男は思っている。それをどう思うかと小学生に聞いたわけね〜。ひどい話だよ〜。男は偏見に満ちた敵であり闘うべき存在であると小学生に刷りこんでいるわけだよ、これは。男はそんなこと思ってないよ。女は美しく優しく賢くあってほしいと願ってるよ。あなたたちが本気でそう思ってるのなら、あなたたちが自身が偏見に満たされてるっていう証拠だよ。ていうか、そんな考えしかもってないから男から優しくされなくて、「ふん、所詮男なんて」と思ってんじゃないの〜)
A難題を解決する冒険の過程の中で、力、武器を使わなかったことから何が本当の力かを考える。
(戦いの好きな男はバカだ、力に訴えない女は賢いという発想から、九条賛美、非武装中立まで持っていくつもりなんでしょうか。やれやれです……。デスさんが読んだら怒るぞ、きっと)
Bお姫様が登場するほかの童話との違いに気づき、どちらのお姫様が生き生きとして魅力的かを感じ取る。
(ふへ〜、書いてて気持ちわるくなったよ。自分達の創ったお姫様こそ素晴らしいんだぁぁぁ〜ってことですか。もう押し付けもいいところ。自分たちの作品を何のてらいもなく絶賛できる神経「厚顔無恥さ」には呆れかえるばかりです)
子ども(←もちろん子供とは書かない。気味悪いほどの全体主義)の共感を得た作品だから、学芸会は子どもたちの大満足のうちに終わった。アテリーナ役は女の子だったが、魔法使いを始めとする配役のほとんどは男女混合だった。フィナーレに登場する銀色の馬の役は、はじめ男の子が希望していたが、練習中にその男の子がアテリーナ役は女の子に憧れ、つきしたがう蛇の役になり、
(つまり、男を従属させたから嬉しいってことだね)
かわって馬の役になったのは小柄な女の子だった。これまでの学芸会の歴史の中で、疾走する馬に乗って観客席から舞台に駈け上がったヒロインなどなかっただろう。
(大成功、おめでとうございます。要は、あなたたちが批判している男中心の芝居の逆をやっただけですね。ジェンダーフリーというのなら男女が主人公の芝居にすべきじゃなかったですか。今流行りのアニメやゲームはあなたちが作った芝居よりはるかに男女平等に描いてますよ。
あなたたちは自画自賛して舞いあがっているようですが、読んでる方はうんざりするだけです^^;)
スズキさん
●管理人さんの「トンデモ学芸会の話」読ませていただきました。
あまりのアホさ加減に思わず笑ってしまいました。はっはっは。
と笑ってばかりもおれません。私の役所では、先日この場で紹介させていただいた「ジェンダーモノローグリレー」なるものがついにスタートしてしまったのです。ガーン。
これもあまりの恥ずかしさに、読んでるこちらが赤面しそうなのですが、本人達は大マジメ。そういう人達が身近にどんどん増えていってるんですから、私はもはや四面楚歌の状態。このサイトが唯一の逃げ場?かな。
わたしの役場で「トンデモ学芸会」が実現するのもそう遠く無い気がします。
〜ジェンダーモノローグリレー(独り言)
不平・不満があるとき、疲れたとき、考えているとき、楽しいとき、思わず独り言を言っていることはありませんか?車の中、お風呂の中、トイレの中やエレベーターの中で、誰にも聞かれないようにそっと愚痴をこぼしたことはありませんか?そんな自分に思わずドキッとしてしまったことは?
でもいいんです、独り言はあなたの本音、独り言を飲みこむのは精神衛生上良くありませんよ。
どうでしょう、あなたの本音を独り言してみませんか?夫や妻への愚痴や感謝の気持ち、女性であるために受けた不合理な扱い、男性であるだけの理由でがむしゃらに頑張らなければならないことへの不満。家庭、地域、社会、職場での体験など何でもかまいませんよ。ただし、ジェンダーについてですけどね。
あなたの独り言に共感する人はたくさんいるかもしれませんよ。〜
スズキさん
●ジェンダー・フリー論者のよく使う手の一つに、「世の中には性同一性障害の人達やトランスジェンダーの人など、自分の性に囚われない生き方を目指している(あるいはしなければならない)人達がいる。現在のジェンダーを肯定する考え方はそうした人の個性を侵害している。」というのがあります。
私自身もジェンダー・フリーの主張の変さをいろいろ考えてた時、こうしたトランスジェンダーのことも頭にありました。
で、考えてみての結論です。
私が思うに、トランスジェンダーとは一定の枠組みとしてある性差を飛び越えることです。ですから性差も何も無い環境で、ボーダレスの男も女も区別が無い状況では飛び越えるべきものが無くなってしまうことになり、トランスジェンダーの方も自らの存在意義を失ってしまい、かえって困ってしまうのではないかと考えました。つまり社会には法律以前に一定の規範とかルールみたいなものが有り、それに当てはまらないことが社会的な「例外」になることは仕方がない。「例外」にはある程度寛容であるべきだが、「例外」を中心に世の中を考える訳にはいかない。とそういうことです。トランスジェンダーはそうした「例外」に生きることを選んだ人達であり、「性」を乗り越えようとするところに自分のアイデンティティーを見出す人達です。その人達から乗り越えるべき「性差」を奪ってしまったら一体彼等の存在意義はどこへ行ってしまうのでしょう。
ご紹介のあったサイトを見て、あらためて自分の考えに自信が持てました。ジェンダー・フリーな世の中になるとトランスジェンダーの人達に喜ばれると、勝手にジェンダー・フリー派の人達は思い込んでいますが、むしろ嫌がられるでしょうね。
他にもジェンダーはこれまでも変わって来たものだし、これからも変えることはできる。しかしそれは政治の手段によってではなく、エロス(魅力?とか価値感みたいなもの)によって変えるのだ、という意見も「ジェンダーは社会が規定するもの」とする私の意見と同じです。
ジェンダー・フリー派は(迫害された)女性やトランスジェンダーなどの「弱者」の意見を代弁しているような、いかにも弱い者の味方のごときモノ言いをすることがしばしばで、自分達は「弱者」の側だから何でも許されると思っているようです。
あなたはあなたの意見しか言って無いよ。と教えてあげたいですね。
「意見」というより「ワガママ」とか「不平・不満」といったレベルのものも多いですが。
管理人
●結論めいたことになるかもしれませんが、結局ジェンフリ信者は自分たちの考え以外を認めようとしないところに問題があるようですね。「男しく」「女らしく」生きたいと思わない人にとってジェンフリはいいのですが、「男しく」「女らしく」生きたいと思う8割以上の人(「男という不安」という本にデータが載ってました)には迷惑なだけなんですね。要は多様な価値観や生き方を認めてあげればいいだけであって、「自分らの偏った考えを他人に押し付けないで」ということでしょうか。「男という不安」(PHP新書)にジェンフリやフェミニズムの見事な批判が載っていますが、「彼ら」の考えが世間に受け入れられることはまずないように思います。まぁ、そうであるがゆえに、「学校」にこだわり「行政」に介入して力を得ようとしているのでしょうが……。
それからもう一つ。文化的社会的性差を認めないとは「文化」の否定につながりますね。革命の最初の段階は文化や伝統を断絶させることです。(カルト宗教が出家を強要したり)スターリンが移住政策をとったのもそのためですが、こんなところからもジェンフリが革命思想の亜流であることがわかります。
スズキさん
●管理人さん
>ジェンフリ信者も口では「多用な価値観を認めてほしいだけだ」など
>と一見正当なことを言いながら、学校や行政等自分らの発言力のある
>場においては一方的な「押し付け」を平然と行っているのではないで
>しょうか。
そうですね、そのとおりだと思います。
ただ、彼等は「自分達の思想の押し付けだ」という批判をかつて山ほど受けたためか、今はかなり狡猾な手口でことを進めています。それが行政や教育の場へのアプローチの仕方となって現れているのではと考えます。ですから、「多様な価値観を認める社会に」というのは彼等の絶好の逃げ口上であり、本質から目を逸らせる錦の御旗になっていることをよくよく確認しておく必要があると考えたからなのです。
小人閑居さん
●本日の「朝日新聞」朝刊オピニオン欄「父性はどこに」に、あの田嶋陽子女史が登場しています。以下は引用です。(括弧内は私のツッコミ。)
「一般に幼児虐待は、女が置かれた社会状況から半ば必然的に生じる反応なんです。」
(そりゃそういう例だってあるかもしれないけど…これって典型的な「犯罪が起きるのは社会が悪いからだ」という議論ですな。だったら「男は上、女は下」という状況に置かれている(と女史は考えている)現代日本の女性はみんな幼児を虐待するのか? むしろ児童虐待は、ウーマンリブの先進国のアメリカでもっと起きてるような気がするけど…。)
「仲良し家族なんて幻想です。むしろ家族こそ苦悩や事件を引き起こす悪の温床であることに、世界の女は気づき始めている。ただ、日本では女が長年『良妻賢母』をしているせいで、未だ伝統的な形態の家族ごっこが続いている」
(家族に限らず学校だって会社だってクラブだって、人間が集団をつくっていこうとすると、多かれ少なかれ「苦悩や事件」はつきまとうものじゃないか。家族をなくせば、もっとたちの悪い「苦悩や事件」が起きると思うけど…。)
「私の友人の英国人女性はいま4人目の男と暮らしているけど、3人の子は男親が違うので、週末は3人の元夫たちが訪ねて来て、それはにぎやかです。北欧に比べて遅れているという英国でも、半数ほどの子が非婚カップルから生まれる。父親なんていなくたっていんです。」
(あんたの友人のことはどうか知らんけど、世界中にはそれよりもっと多くの父親がいない人がつらい思いをしているということがわからんのか?)
「昔話は女子教育のためにあったと民俗学の柳田国男が言ったけど、まさにその通り。『夕鶴』しかり。女は夫につくせという教えです。」
(こういう読み方しかできないとは、ずいぶん貧しい感性ですな。あんたがそう感じるのは勝手だけど、昔話を読ませてもらえなくなる子どもこそいい迷惑だよ。)
インタビューはまだあるのですが、いいかげん気分が悪くなって来たのでこのへんにしときます。それにしても、こんな粗雑な思考の持ち主がよく学者になれるものですね。
でも、例の「appendix」掲示板でも、ジェンダーフリー論者自身が「一部のフェミニストは『女らしさ』自体を男性からのおしつけとして否定するが、それは『男性の女性に対する優位』を認めていることになるのでは」という意味のことをいっていたことがあります。そのへんから考えると、田嶋女史や「女子マネ撤廃論」を唱えている高校教師のような人は、フェミニストやジェンダーフリー論者の中でも少数の過激な人たちではないかという気がしています。しかしこのような人の言動ほど人目につきやすく、結局は彼らの圧力に大勢が押し切られてしまうというのが現状ではないでしょうか。(これって、度を越した日の丸君が代反対運動を苦々しく思っている教職員の方が多いのに、一部の教職員の圧力でこれらの運動がゴリ押しされるのに似ていますね。)
ウルトラの母さん
●なぜ、ここのページにさまよいこんで来たかといいますと、実はジェンダーの検索からなんです。明日、PTAの家庭教育で「教育の中のジェンダーフリー」と言う講演があるので無知な私は「ジェンダーフリー」ってなんですかぁ??と調べてみたわけです。(^^;;
うんうん、なるほど名簿を男女混合にしたり席順を男女混合くじにするってことね・・・あほらし!!今時、男か女かわからん名前なのに混ぜるなって感じですね。どーでもいいです。そんな表面的なことを変えたからって真に男女平等なんてあるのでしょうか?確かに不当な差別を受けることは私も許せないし嫌だと思う。でも、そこにこだわりすぎたり
勘違いしたジェンダーフリーが今の「母性恥じらい喪失オンナ」を生んでるんじゃないでしょうかね。
先日もあるワイドショーに出演されてたT先生、子供の世代ではもう女がジェンダーフリーを叫ぶ時代じゃないですよ。平等が当たり前すぎて意識もしてないと思います。むしろ男の子の方がかわいそうでしょう。ちょっとおっとりしてると、「オカマみたい。」とか言われてちゃって・・・
息子が大人になって「俺は主婦になるんだ。」とか言い出さないように今からしっかり「男の役割」を教育して娘にはちゃんと母親になれるよう、私は教えたいです。それってダメなわけ??
だから、学校の中でもジェンダーフリーの推進を!とか言われてもひいちゃうんですけど・・・
まゆさん
●私は男尊女卑が物凄く嫌いです。自分がそういう目にあっているからでしょうが。確かに役所等がつらつらと述べているジェンダーフリーはそもそもおかしいと思う。しかし、日本における女性の地位は低すぎなのではないでしょうか?男女の性差を認めた上で互いを尊敬し合うということはこの国では所詮ムリなのか?結婚したら所有物となってしまうナンテ私はまっぴら。所有物と思っていないつもりでも、意外と日本人男性はそういう行動が目立っている。妻子に対して言っていること、やっていること、もう一度考え直してみろ!と私は言いたいです。女性が夫に尽くすのは当然、なんて思っている人は考え直した方がいいですよ。そんな考え過去の遺物。そういう考えをしているからこそ、熟年離婚が増えているんだよ。お役所の言う馬鹿みたいなジェンダーフリーのことだけを考えるのは控えてもらいたいと思う。
スズキさん
● はじめまして。
「お役所の言う馬鹿みたいなジェンダーフリー」のことばかり言ってる
スズキと申します。
まゆさんのような方がいらっしゃって大変うれしく思います。非常にストレートで、熱心な姿勢は若さを感じて「いいな〜」と思ってしまいます。
では私からの印象を述べさせて下さい。
>私は男尊女卑が物凄く嫌いです。自分がそういう目にあっているから
>でしょうが。
どういう目にあったのでしょうか?本当にそれが「男尊女卑」と言われる思想によるものなのか興味があります。
>確かに役所等がつらつらと述べているジェンダーフリーはそもそもお
>かしいと思う。
私もそう思います。
>しかし、日本における女性の地位は低すぎなのではないでしょうか?
どういう所が低いのでしょうか?専業主婦をやっている女性が多いからですか?それでは専業主婦が程度の低い仕事だとまゆさんが言っていることになりますよ。本当にそうなのですか?
それに日本の主婦は大抵家の財布を握ってますよね。まゆさんの家ではお父さんはお小遣いをお母さんからもらっていませんか?日本の家庭においてはお金という非常に大事なものに関わる裁量権が実は夫ではなく妻の方に有るのですよ。これは世界中どこを見渡しても例の無いことなのですよ。ですから、まゆさんが日本の女性の地位が低いと言われるのは違うんじゃないかと思います。
>男女の性差を認めた上で互いを尊敬し合うということはこの国では所
>詮ムリなのか?
私はそのような世界になればいいと思っています。
ですが、ジェンダー・フリーの人達はその前提となる「男女の性差」なんてものは無い、と言いきっているのですよ。これは異常だと思いませんか?
私が主張しているのはそんなに大げさなことではなく、ジェンダー・フリー思想って変だ。そんなことを政策として実現するのはおかしいんじゃないかってことだけです。
>結婚したら所有物となってしまうナンテ私はまっぴら。所有物と思っ
>ていないつもりでも、意外と日本人男性はそういう行動が目立ってい
>る。妻子に対して言っていること、やっていること、もう一度考え直
>してみろ!と私は言いたいです。
世間の世の中の男性の言動に腹が立つ気持ちは、分かるつもりです。
ですが、今の日本では「所有物」のほうが元気に旅行に出たり、カルチャースクールに通って自分を磨いたりしていませんか?それにくらべお父さんは「粗大ゴミ」だの「濡れ落ち葉」だの言われ散々ですよね。
どちらが本当に幸せなのでしょうか?
それからまゆさんが考えている「日本の男性の男尊女卑思想」というのが日本で昔から一貫して続いているものなのでしょうか?実はそれが割と最近になって作られたりあるいはそう見えるようになった考え方だとは考えられないでしょうか?
ただ、現状にとても酷い例があることは知っています。私はそれが、あらゆる価値観が崩壊し社会が混沌としているせいで偶発的に起こってしまう不幸なことと考えています。ですから悪いことは何でも日本人の伝統的な感性のせいだと考えるのは、あまり頭を働かせていないある意味楽な結論です。
ですから目の前のことにあまりカッカせずに、もっと広い目で世の中を見渡し本質を見ぬこうとしてほしいと思います。
>女性が夫に尽くすのは当然、なんて思っている人は考え直した方がい
>いですよ。
私は当然だと思います。ただ、夫はもっと妻に尽くさなければならないと思いますけど。ですから給料袋をそのまままるっと妻に預けてしまうんですよね。それから「尽くす」というのだって限度がありますよね。ある程度は尽くしても、奴隷みたいにはならない。それは当然です。そういう人間関係のルールとか知恵みたいなものが無くなってきたから、先ほどの混沌とした社会状況になったのではと考えています。
>そんな考え過去の遺物。そういう考えをしているからこそ、熟年離婚
>が増えているんだよ。
では過去にはもっと熟年離婚が多かったのでしょうか?
現代社会が変化したからだというのでしたら、どこがどう変わったからなのでしょうか?
そういう考え方(男尊女卑?)があったから熟年離婚が増えたという根拠。「男尊女卑」が昔から本当にあったのかということ。この2点が明らかでないと説得力がないですね。
>お役所の言う馬鹿みたいなジェンダーフリーのことだけを考えるのは
>控えてもらいたいと思う。
そうですね。馬鹿みたいだからもう考えたくないです。
でもね。馬鹿が包丁振り回してたら危ないでしょ。まずはその馬鹿から包丁を取り上げないとね。そうしないと自分や自分の周りの者が怪我しちゃうかもしれないですよね。そういうことなんですよ。
まゆさんの考えはまあ、十分に理解できる平均的な若者の思考だと思います。その自分の体験に引き付けて熱心に考えようとする姿勢は好感が持てます。今後はもっといろんな事。日本の歴史文化社会、外国のこと、現代社会について等々たくさん勉強してみて下さい。もっと広い視野で世の中が語れるようになりますよ。是非がんばってください。
課長さん
●にっぽんの商人(イザヤベンダサン著 山本七平訳)の中に興味のある内容がありました。私がごちゃごちゃ言うより、意訳して抄録すると
(アダムはなぜ九百三十歳まで生きたか)
旧約聖書でアダムは930歳、イヴは800歳まで生きたという記述があり、「どうしてアダムが長生きだったのか。」「きまっているじゃないか、義母がいなかったからだ。」という話だそうです。
日本語で言うとアダムには姑(しゅうとめ)がいなかったのだというと、少しはわかりやすいかな。実はこれはこれで誤解だそうです。日本の嫁と姑の関係と米国での夫と義母の関係はまったく違うそうです。どう違っているかというと、米国では経済支配権は夫、教育支配権は義母が握っているのが普通で、教育支配権に関して奪権闘争が起きると、収拾がつかなくなるそうです。だから絶大な教育支配権を握っている義母がいないから、アダムは長生きしたというブラックジョークだそうです。
義母と夫の関係を現実的立場で見ると、それは「争い」であり、権力闘争であり、支配権の奪還闘争の歴史なわけです。これのもっとも単純な形が教育権と経済権の闘争になります。文化大革命なんかはそうです。文革派は教育権を握り、経済権を実権派が握って、とんでもない闘争を繰り返したわけです。
意志的に情報を開示しないで、黙っている人間から情報を奪い取るのは不可能です。従ってある人間が情報をもっていて、その情報がないから生きていけないのなら、その情報を持った人間は、他の人間の生死の絶対的与奪権までもつことになります。これほど教育権とは強力な権力です。同様に経済支配権も強力な権力であることは論議する必要はないでしょう。
さて米国はレディーファーストであるが、財布の紐はしっかりジェントルマンが握っている。家政を男が支配するのは実にギリシャ以来の伝統です。日本の西欧化が幾ら進もうと、日本の女性はこの醇風美俗を奪還されないように、日々に警戒をおこたるべきではない。これは平和憲法に記された基本的権利でなく、偉大なる徳川時代の「徳川版PHP型」教育によって日本の男性を洗脳した、つまり教育権の行使によって生じた経済的支配権なのである。ということで、どうやって教育によって経済支配権を女性が取ってきたかが、書いてありました。
やれやれ、この話によると、むしろしいたげられているのは男性ですな(笑)。
男性だって経済圏を握られ、教育権を握られ、その上で権威まで剥奪されたら、何の値打ちもない、完全な奴隷です。それはさすがに男性は許さないでしょう(笑)。
私はこの話を読んでいて、日本でまだ天皇という何者をも越えられない存在が有るが故に、日本では実質平等社会を成立させている。仮にこの枠を取ってしまったら、経済が何より重要な日本人は人間の間の格差を経済でしか見なくなる、完全なエコノミックアニマルになるだろうと思いました。学校の成績を偏差値でしか評価出来ない、これ以外の尺度がないという便宜上の理由で、人間の創造性など関係ない人間が評価される世界になりつつあるのですから、同様でしょう。だって哲学がなくて、神がいない脱宗教化をほぼ徳川時代に達成させているのですから、拝金主義にならざるを得ません。平等人権など無視した「とんでも社会」になりそうな予感がします。
(江戸時代の町人の話)
ちょぼくれ卑女(ひじょ)
「当世男女之鏡 教草女房気質十四之巻」嘉永6年の記載
(少し修正しています)
やれやれ聞きねえ、向こうの叔母さん、隣の婆さん
わっちがかかあは山だし女で、部屋方奉公
「おひや」は水だとようよう覚えて
鳴子(なるこ)がガラガラ、駆け出す素足であかぎれ板の間
お宿のお使い重箱つまんだ
喉元すぎれば熱さも忘れて
田舎の土気がそろそろ剥がれれば(田舎臭さが剥がれてきたら)
白粉(おしろい)べたべた口紅ぴかぴか、縁付く所を松葉のかんざし
わっちはその頃 琴弾く盲目(めくら)が手引きにやとわれ
おりおりの供待ち 互いに名を知り
オヤオヤお待ちどう 茶々でもあげよか
目の中ニッコリ、心がかよいて、一夜のお暇(いとま)、かくして足入れ
大きなおいど お尻がわれから 不首尾なお暇
あとは野となれ 山だし女も
今ではおかみさん 朝寝がお好きで 仕事はお嫌い
渋皮むけたで 女房にしたけれど
貧乏の柿には 子だねが沢山
今年も孕んだ うるさいこんだよ
うんだの われだの 亭主をやりこめ
おはぐろ剥がして 頭はトビの巣
小遣銭さらって天麩羅買い食い
我が子の月代(さかやき) いつでも毛毬栗(いがぐり)
袂(たもと)のほころび 見せても縫わない
子供が不憫で離縁もさられず
叔母さん 如何(どう)しよう 因果な縁だよ
それ身な 私はいわねえ事かよ
お前がひしゃげた鼻もと 思案で
引きずり女を持ったが 過ち
全体あの女は 百ある銭なら 四五文足らない
女房の落度(おち)すそ 女房が立ち聞き
夫婦の喧嘩に 子供が泣き出す
擂粉木(すりこぎ)カッキリ 擂鉢(すりばち)グッワグッワ
入り口引き明け 念仏婆さん
二人へ向かいて どうしたものだよ
女房をたたくは 犬打同然
夫婦の喧嘩は 地獄の種まき
なかよく稼げば それこそ極楽
始めて盃(はい)した夜は 如何にした
百年添うても その夜忘れるな
割れた擂鉢(すりばち)や再び用いぬ
姉さん聞きねえ 兄(あにい)も聞きねえ
野合夫婦(ちちくりあい)にはこのようなことが間々(まま)あることだよ
女房持つにも 女房になるにも
真面目なお人のお世話にまかせな
小さい暮らしの 火打箱(ひうちばこ)でも
石と竈(かまど)の陰陽和合で
家内が明るく お家が繁盛
ちょぼくれ坊主がいう事ききねえ
茶にしなさんなよ、ホホーイ、ホイ。
戦後強くなったのは女と靴下というのは本当ですかね。これで見た印象では、もともと強かったような気がします。
この例での女房は不作の内ですが、基本的に江戸の町人は徹底した一夫一婦制度をとり、これで完結した一個の単位としていたようです。亭主が社長なら、女房は専務ですな。さらに専務が財布をすべて握って内向きの経営者の役割をしていたという。妻をめとるというのは共同経営者を雇う事になるわけです。たまには亭主にも息抜きに温泉でも行かせてやれという温情専務。
儒教的な建前の制度では君臣父子夫婦の秩序ですが、町人は絶対にこのような虚構を許さなかったようです。さらに野合とか、恋愛による結婚をきびしく排除したようです。そりゃ納得出来ます。共同経営者の専務が愛人や情人だったら、株主や銀行、従業員から一斉にそっぽを向かれます。はい。
そんな常識、鉄則を裏長屋の念仏婆さんまで知っていたわけです。
紅緒センセイ
●先日のまゆさんのご投稿を読んでいると、なんだか昔の自分を鏡で見ているようで、苦笑してしまいました。^^;これについてはスズキさんをはじめ常連の方々が的確なレスをしていますが、まあ女性の立場からの意見もあった方がバランスがとれてるかもしれないので、遅れ馳せながらちょっとレスさせていただきます。
確かに日本人の男性にはとんでもない男尊女卑的な考えをしている人がいますよね。(私も昔ボーイフレンドに「男は浮気してもいいけど女はダメ!」だの「女が学歴なんか持つとロクなことがない。金と時間の無駄だ!」だの言われてブチきれたことがありましたねえ。)翻って欧米の男性はレディーファーストを守るし、いつも"I
love you"を言ってくれるし、家事もまめに手伝ってくれる。日本の男尊女卑男どもとは雲泥の差だわ、と思っていましたが・・・実際アメリカに住んでみると、何のことはない、アメリカにも日本同様、男尊女卑男がいるということがよくわかりました。しかも、アメリカ人のこういう男の始末の悪い点は先述したように女の扱いがうまいのが多くて、一見フェミ男に見せかけておいていざ付き合うとなると豹変するのもかなりいる上に、この手の輩は女性差別者であると同時に人種差別者でもあることが多いということです。
特に気をつけるべきは、日本人の女の尻ばかりおっかけてる白人男どもです。もちろん、本当に日本の文化と歴史に興味があり、アメリカ人にはない日本人の美徳に魅力を感じ、それゆえ日本人女性に惹かれているといった人もいますが、残念ながらそれ以上に多いのが白人女性を相手にする自信がないか、もしくは相手にされないから日本人で手を打とうといった輩です。そして、日本人の女が言うことを聞かなかったり自分の思い通りにならなかったりした時はあしざまに罵ったりします。
結局、この手の輩は自分に自信がないから誰かを差別することによって自分の優位性を確立しようとしている情けない奴等なんだなあ、と思うようになりました。ですから、そういう奴は何人であれ相手にしないのが得策ですね。
そして、日本人にも女性を同じ人間として認め、尊敬できる懐の深い男性は自分が思っていた以上にいるというのも、歳を重ね、多くの日本人男性と知り合うにつれてわかってきました。ここの常連の殿方も絶対そうに違いないと私は信じて疑ってません。(^^)
ですから、まゆさんが今どのような形で男性から差別を受けているのか知る由もありませんが、決して日本人男性や日本社会に絶望しないでほしいと願います。(アメリカに住み、アメリカ人の夫を持つ私が言っても説得力ないかな?^^;)
そして、差別を是正するためには声高に差別を訴えるだけではだめだと思うのです。女性も(他の面で差別されている時も同じですが)男性に負けない実力や才能を身につけ、それを証明するべきなのです。女性に限らず誰でもそうですが、実力もない者が自分の実力の無さを棚に上げて差別だ、差別だとわめいている姿は大変見苦しいですよね。私がフェミニズムとかジェンダーフリー思想に違和感を覚える大きな理由の一つはこれらを主張する人達は女性の資質向上よりもとにかく待遇を同じにすることを目指している人が多いという点です。(他にもたくさんありますが。)ですから、まゆさんのようなこれからの若い世代の女性には自分を磨くべく奮起していただきたいと心からエールを送りたいと思いますね。
それから、これもスズキさんのご指摘と重複するかもしれませんが、愛するもののために尽くしたいというのは男であれ女であれ自然な感情であり、「女性は夫のために尽くして当然」という考えを「過去の遺物」として切り捨ててしまうのはどうかな?と思います。もちろん、スズキさんがおっしゃったように、こういう考えは「男性は妻のために尽くして当然」と言う考えと表裏一体であるべきですが、ジェンダーフリー思想にはこの本来対であるべき考えを恣意的に切り離し、「女性は・・」の方にだけスポットを当て、「こんなこと言う男がいるから女性の地位は向上しないんだあ!」って叫んでいるイメージがありませんか?(まあ、実際とんでもない男尊女卑思想の男もいるのは事実ですが、差別でもなんでもないことを差別だって叫んでいるフェミニストの方がよっぽど目立つと思うんですけど。)
熟年離婚が増えているのは、決して一方的に男性が悪いわけではありません。女性の中にもわがままかつ傲慢なのが増えたってのも一因でしょう。
管理人
●紅緒センセイ、見事なレスありがとうございます。まゆさんへのレスはこれでほぼ完璧なのではないでしょうか。
スズキさんのレスの中に「女性は夫のために尽くして当然」とありましたが、これには驚きとともに深く感心しました。一見、横暴なように見えて「男性も妻のために尽くして当然」という考えと一緒にすることによって、深い夫婦関係が生まれるわけですね。若いスズキさんに人生の極意を教えられたような気がしました。
フェミ妻は「夫のために尽くすのなんて冗談じゃない」と思い、夫も「こんな女房のためになんか何もしてやるもんか」となって、結局は熟年離婚なんて図式もあるのでは、という気がします。
ところで、課長さんの教えていただいた江戸時代の「女性の強さ」には深く考えこまされてしまいました。女性史というと「虐げられていた女性が近代の女性解放運動によって人間らしい生き方ができるようになった」というのが基本的なパターンなのですが、それは本当なのでしょうか。名作に出てくる女性像などを思い浮かべても「男に搾取されている」とはあまり思えないのです。「三四郎」の百合子、「潮騒」の初江、「高野聖」の魔性の女、等……。もしかして、「江戸の庶民は天皇を知らなかった」と同様に階級闘争史観のバイアスがかかっているのではないでしょうか。もしそうならば、現行のフェミニズムやジェンダーフリーは根底から覆されてしまいますが……。(断言はできませんが、この視点から名作を読み直してみたいと思います)
ウルトラの母さん
●とっても遅く馳せながらおばさんからも一言。
まゆさん、あなたはもしかして自分のお母さんを見ていてそう思うようになったのですか?(じゃなかったらゴメンナサイ)
私は若い頃まゆさんのように考えていたのは母を見ていたからだと思うんです。
いつも仕事や家事の愚痴を言い、「育ててやってる」みたいな恩着せがましい母親が大嫌いでした。その反発が「結婚なんてしても女は損だし、子供もメンドクサイからいらないわ。」と。
今、2児の母となって夫の両親と同居している私はその頃の理想とはかけ離れています。あなたが見たら我家はとんでもない男尊女卑でしょう。でもスズキさんが言われるように「自分以外の誰かを無償で愛すること。」って案外やりがいがあるんですよ。確かに私も人間だから疲れるしストレスもたまって愚痴もいいます。あなたのお母さんもそうかもしれません。でも全部そう思っているんじゃなかったと今になってやっと私も解かったんです。それじゃなきゃ、子供なんて育てられません。
あなたの意見を読んで自分を振り返り、娘にそう思われないような両親でいたいと考えさせられました。
スズキさん
●ウルトラの母さんの
>「自分以外の誰かを無償で愛すること。」って案外やりがいがあるんですよ
こうした気持ちがあることが、他人も自分も幸せになれることだと思いますよ、ホンとに。個人主義だのなんだのっていって自分のことしか考えない人間は常に満たされないものに囚われてしまうでしょうに・・・。なにをいってるんでしょうねあの人達は。
小人閑居さん
●先日図書館で「教科書の中の男女差別」(明石書店)という本があったので借りてきました。これは発売されてから10年ばかりたつ少々古い本で、著者は4人の弁護士ですが、この本の国語教科書についてとりあげている内容ときたら…
「物語の主人公に女性が少ないことは、児童に女性は社会の脇役という考えを知らず知らずのうちに植えつける危険がある。そして成人女性の主人公が特に少ないという現状は、女子児童に自己の将来についてさまざまなイメージを持たせにくく、女子児童の個性・能力の伸長という点で疑問がある。」
以下この本では「家事をするのはほとんど女性である」「挿し絵では母親がエプロンがけで出ている」(この本ではまだそこまではいってないけど、そのうちに「女性はスカート姿で描かれている」「髪が長い」というだけで糾弾されるかもしれません)「男の子は犬の散歩、女の子は皿洗いの手伝い」「女性については容姿を重視して紹介される」「社会科教科書では仕事の説明をするのがほとんど男性」といったことまで細かくチェックして大げさに糾弾していますが、この「男女平等がすべてに優先する」と言わんばかりの大まじめさ見てると、「この人たち、ほんとに司法試験受かったの?」とバカバカしい気持ちになります。
そもそもこの人たちって、文学も美術もメディアも、「文化」と名がつくものはすべて特定の思想を押し付けるためのプロパガンダとでも思ってるんでしょうかねえ。だとしたら、それこそファシズムじゃないでしょうか。そういうことが教科書の中だけで済んでいるならまだしも、メディア全体に押しつけられたら…と思うと背筋が寒くなりますね。
最後に、この本の最後近くにはこうあります。
「たしかに子どもたちにとって教科書はもっとも日常的で影響力の大きいメディアである。学校という子どもたちに対する一種の権威のもとで、教科書は反復して使用され、試験というフィルターを通して子どもたちの知識や思考に、程度の差こそあれ、絶対的価値として定着していくからである。(中略)教科書に描かれた人物やその行動様式は子どもたちの生き方のモデルとなり、子どもたちは社会の期待する性役割のメッセージを教科書からうけとる。」
…確かに弁護士になるような優等生はそうかもしれんけど、ほとんどの子どもはそんなこと考えないって。このような視野の狭いガリ勉優等生に「生きる力」を与えるために、「ゆとり教育」を推進しましょう…あれ?
…というのは冗談です。しかし、ジェンダーフリーにしろゆとり教育にしろ反日の丸君が代にしろ、こういう思想にはまるのは官僚・弁護士・学者・教育やマスコミの関係者といった、学校では優等生だった、普通なら「インテリ」として世間の尊敬を集めてしかるべき人たちであるという事実は、もう少し考えた方がいいかもしれません。見直すべきなのは、勉強の量ではなく内容や質ではないでしょうか。
管理人
●なぜ、フェミニストやジェンダーフリー論者、あるいは国旗国歌に反対する人たちに(いわゆる)インテリが多いかということですが、簡単にいえば学校教育の影響だろうと思います。社会科の教員のほとんどが左傾であるのは、大学時代の教育の「成果」でしょうし、そういう教員が言うことを、真面目で頭のいい生徒ほど信じ込みやすいのだと思います。彼らの言うことは耳障りのいい「きれいごと」が多いですからね。フェミニズムやジェンダーフリーについては、その下地は家庭科の授業で作られているようです。以下は最近聞いた女子高性の会話です。
「家庭のレポート、めんどっちぃね」
「いいじゃん、女は社会に出て仕事すべきだみたいなことを書いとけば、( 教師の名 )はいい点くれるよ」
なぜか家庭科の先生は、私の知る限り夫婦別姓でジェンダーフリー論者です。こういう日常的な授業の影響も無視できないものがあると思います。
紅緒センセイ
●小人閑居さんのご投稿で思い出すのが10数年前は光村図書の5年生の国語の教科書に載っていた今江祥智の「どろんこ祭り」が男女差別に繋がると言う理由で削除されたということです。この作品はおてんばな女の子と気弱な男の子が主人公で、普段はこの女の子が遊びでも何でも主導権を握っているのですが、どろんこ祭りというその町のお祭りの時にこの二人が着物を取りかえっこしてこっそり入れ替わり、(もちろんこれは女の子のアイディアです)祭りに参加するというお話です。そしてその時に男の子の着物を着ているのが実は女の子だということがばれてしまい、そのとたんに女の子はいつもの元気はどこにやら、急に恥ずかしくなって困惑しているのをいつも気弱な男の子が女の子の手を引っ張ってうまく女の子を逃がしてあげ、男の子らしさを発揮するという話だったと記憶しております。
私がこの話を知ったのは大学生の頃、近所の子供達の家庭教師をしていた時にその子達の国語の教科書で読んだからですが、思春期にさしかかった男女の心の機微がうまく描かれている、微笑ましいストーリーだなあ、といった感想を持ったのですが、時は流れてアメリカの補習校で教えるようになった時に教科書を見た時、(うちの学校でも光村の教科書を使っております。)この作品は消えていました。その時はそれ以上深くは考えなかったのですが、この時期というのはちょうどいろいろな市民団体(というよりもイチャモンつけの文句言い団体)がさまざまな作品やその中の表現を差別的として糾弾したため、これを恐れた出版社による自主規制の嵐が吹き荒れた頃というのを後から知りました。かの名作「ちびくろサンボ」が絶版に追い込まれたのもこの頃です。(余談ですが、先日うちの学校の図書館に「ちびくろサンボ」があるのを見つけ、感激しました。)
この件を知った頃は私も今に比べたらずっとサヨク思想がぬけておらず、朝日新聞がどれだけ偏向しているかという事すら知らなかったのですが、そんな私でもさすがに違和感を覚え、この作品を糾弾した団体に対して非常識で胡散臭いという印象を感じました。(因みに、「どろんこ祭り」は理論者の「今江祥智の本」の18巻で読めるそうですので、興味のある方は一度読んでみて、この作品が本当に男女差別を助長するようなストーリーかどうかご自分で判断して見てください。)
それから、同じ光村の2年生の国語の教科書には今でも今江祥智の「力太郎」が載っています。これも典型的なヒーローによる悪者退治のお話で、御多分に漏れず主人公の力太郎は困っている娘さんを助けて結婚し、ハッピーエンドになるというよくある筋書きですが、(これもジェンダーフリーの連中から見れば十分男女差別を助長するようなお話です。)今江祥智の文才の賜でしょうか、大変ユーモラスで子供達からは絶大な人気を誇っています。私の生徒達もこの話が大好きで、毎年これを扱う時には笑いの渦の中で授業が展開されます。こんなところから「どろんこ祭り」を削除した光村も「力太郎」の方は残したのかもしれないなあ、と思いました。まったく、こういう枝葉末節にこだわって名作を糾弾する連中には腹立たしい限りです。一般の人間とはかけ離れたものの見方しかできない、卑しい人間性がよっくにじみ出てると思います。なんでもかんでも差別に結びつけ、あらゆる作品を削除していったら後に残るのは当たり障りはないけど無味乾燥なつまらない作品だけになって、子供達の活字嫌いに拍車がかかると危惧してしまいます。(実際、少しそういうことがあるような気がしてなりません。昔の小学校の国語の教科書はもう少しおもしろかったような気がするのですが、この点は皆さんいかが思われますか?)
それにしても、この明石書店って、一体・・・・自分の母校と同じ名前だけに、かなり不快感を感じる私です。(-_-;)
デスザウラーさん
●> さて、「明石書店」といえば前に管理人さんがご紹介くださったトンデモ本の出版元でもありますよね。その本を探して本購入のサイトで「明石書店」をキーワードに探したら、出て来る出て来る、真っ赤っ赤の本ばかりです。被差別部落あり、朝鮮半島あり、従軍慰安婦あり、ありとあらゆる極左系本のオンパレードで、目的の本に辿りつくまでに大変でした。
明石書店は、共産党の下部組織であり、代々木の御用商人です。
ウルトラの母さん
●男性の方の投稿を読んでいると、現代の疲れたお父さん像が浮かんできて思わず笑っちゃいます。
確かにお父さん達は価格破壊の進んだ激安ランチを食べているというのにホテルのランチバイキング(もちろん最低でも千円はする。)は見事に女性しかいませんものね。どこのお宅の経済も奥さんが握っているのでしょう。なのにまだジェンダーフリーを叫ぶ女どもに怒りを感じるのはごもっともです。あげく熟年離婚された日にゃぁ納得できないでしょう。
同じ女性としても自分が自立もしていないのに夫を顎で使っている人をみるとイヤになります。夫に尽くすのが当たり前とは思いませんが他人が(夫婦でもあくまで他人)働いてきてくれたお金を使うのにあったり前というのは変でしょう。くたびれ果てて帰って来た夫に子供を預けて主婦同士で飲みに行く人も信じられません。
ただ、私の両親、夫の両親の様に60歳すぎて完全に夫婦関係が破綻しているカップルを見ていて思う事は、夫は気が付くのが遅すぎるということでしょうか?
女性は基本的には誰かに尽くすことに喜びを感じる生き物だと思います。だから大概のことは辛抱していけるのですが(最近の20代はもう違うかも。)何か子供の事でも、ご近所のお付き合いでも妻まかせで、普段はそれでいいとしても何か困った事があった時に真剣に話を聞かない、(これが一番のポイント)仕事もせいにして逃げる・・・これを日々繰り返すうちに女は諦め、夫を頼らなくなり、家族からも孤立させられていくんじゃないでしょうか。
実際、我家のお姑さまは毎日あっちのサークルこっちの旅行と飛び回っているのにお舅さまは日がなテレビの前に座ってあまり出かける事もなく、嫁の私に「あいつはちっとも家におらん!」などと愚痴っているわけです。70歳になるまで働いてきてお気の毒だな〜〜とは思いますが一方では「一生懸命働いてきた事は解かるけど今までのあなたの行動の結果だからしょうがないね。」と思うのです。
で、我ご主人様はといいますと夫婦分業、目上の者は敬えと言う封建主義者ではありますが実に私を操るが上手です。
普段は箸より重いものは持たなくても、盆、正月に親戚が集まって私が1人で台所でお三度に明け暮れ、内心怒り狂っている時などは何気に手伝ったり、「疲れたろうから肩揉んであげようか?」と、いざという時のホローがうまい!私は単細胞なので誉められたり感謝されたりするとホイホイやるタイプと見抜いての事なのかもしれませんが・・・でも誰でも当たり前と思われるよりその方が気持ちいいですよね。男とか女とか関係なく人間関係の基本ではないでしょうか。
お互いにちょとした思いやりさえあれば、誰かの為に犠牲になっているのではなく奴隷になっているのでもなくて、自分自身の喜びに感じられるのではないかと思います。
(注)私はなんの宗教も信仰していません。(笑)日頃の経験から思う事です。
スズキさん
■産経抄
江戸時代はひどく男尊女卑だったという偏見?はなお根強い。女性は、家に仕え、親に従い、夫にしいたげられていた暗黒時代だったというのである。ではたとえば「早春雨中」という次の漢詩を読んで下さい。
▼「酒無く花無く 空しく時渡り/春寒料峭(りようしよう)(=春雨を肌にうっすら寒く感じるさま)として 粟(あわ) 肌に生ず/新泥細雨 情(じよう) 出ずるに慵(ものう)し/独り窓前に向かいて 昨碁を覆す」。
▼早春の肌寒い雨の日に、外へも出ず、ひとりで窓辺に碁盤を並べ、碁の一手一手を検討しているということで、作者は高橋玉蕉(ぎよくしよう)。じつは玉蕉は女性である。詩集『玉蕉百絶』などを世に送り出して江戸の文人や僧侶たちとも親交をもち、慶応三(一八六七)年に六十七歳で没した。
▼これは門玲子さんの近著の労作『江戸女流文学の発見』(藤原書店)から借用した。世間では、平安の紫式部から明治の樋口一葉までの間、あたかも女流文学者は存在していなかったように思われている。しかし江戸時代にも個性的な評論や詩や歌や日記を著した女性はいっぱいいた、と同書はいう。
▼そういう女性たちははじめ大名藩邸や武家屋敷に仕えて行儀作法や文学の素養を身につけた。しかし後期には一般庶民も教養を高めて文学作品を生みだしていた。『東海紀行』や『帰家日記』を書いた丸亀の井上通女(つうじよ)、本居宣長と論争をした伊勢の荒木田麗女。
▼それに大田垣蓮月尼(れんげつに)、野村望東尼(もとに)、正親町(おおぎまち)町子、江馬細香、加賀千代女などなど、才女佳人はめじろ押しである。江戸期は決して暗黒ではなかった。どんな時代でも花は咲き、鳥は鳴き、人は笑った。江戸時代の女性も、現代におとらず元気だったのである。
ウルトラの母さん
●家庭教育のジェンダー講演があったことは先日お伝えしましたが、その後それをPTA新聞で特集(!)することになりました。
講師の方に来週、取材することになっているのですが、なにせ学校主催のセミナーですから批判的なことはあまり書くことができないとおもうのですが(表向きには広報部で新聞内容は一任されているのですが、それはあくまで表向きであって厳しい教頭チェックがある。)それでは私的に納得できないので、何とかジェンダーフリーの矛盾を何気なく伝えたいのです。今、考えている作戦は「ジェンダーフリーなんて初めて聞きました。」という感じですっとぼけた質問から周りの人たちも「ちょっとこれは変かも?」と思わせれる質問をしたいのです。真正面きって議論をぶつけるほどの度胸も口もないので、とってもコスイやり方で申し訳ないのですが、何かいい案がございましたら教えてください〜〜!
お願いします。
管理人
●どんな講演だったかわかればいいのですが、ジェンダーフリーの問題点を個人的には「偏った考えを押しつけていること」と