新教育課程になってから、高校の教科書にはいっせいにジェンダー論が登場しています。
高校生の皆さん、こんな嘘に騙されてはいけませんよ! (~_~;)



目次
@「男は仕事、女は家庭」という役割分担は18世紀の産業革命から生じたという嘘!
 
教育出版【倫理】
中教出版【倫理】

A「マーガレット・ミードは性差の逆転した部族を発見した」という嘘!
 
 一橋出版【倫理】実教出版【倫理】桐原書店【国語】










@「男は仕事、女は家庭」という役割分担は18世紀の産業革命から生じたという嘘!


教育出版【倫理】p14

わたしたちのなじみ深い「男は仕事、女は家庭」という分業は日本やヨーロッパでは近代になってからはじまった。それまでは家が生産の場であったので、女性も男性と同じ農作業や商売に従事していた。
しかし、生産の場が家から工場や会社へ移るようになると、しだいに女性は家にとどまって家事と育児に専念するようになった。つまり、「サラリーマン」や「主婦」はともに近代になってから登場したのである。


中教出版【倫理】p138

18世紀のイギリスに始まる産業革命によって労働のための職場と家庭生活とは分離する傾向が顕著になった。その初期には工場で働いていた子どもと女性は保護と引きかえに就業を制限され、工場や会社で働いて収入を得る父親と家庭で家事や育児に専念する母親、学校に通って社会に出る準備をする子ども、という近代家族が出現した。
こうした「男は仕事、女は家庭」という性別分業は一見平等なようである。けれども、家事労働に対しては賃金は支払われない。そのため、経済的に自立できない女性は、いきおい精神的に男性に従属することになり、女性差別を生み出す一因ともなった。



管理人
●なんだかな〜。そういう役割分担はかなり昔からあったんじゃないの?
例のチャンプリ族なども、男は狩猟で家庭内のことは女性が担当していますし、民話によくある「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯」にというのは、その証拠のように思います。
農家などでは確かに夫婦が共に野良仕事をしますが、やはり家庭内のことは女性が担当していました。私の経験(実家は農家)でもそうですし、遠野物語などを読んでもそうなんですね。
どなたかこの問題に詳しい方がいらっしゃいましたら、レクチャーしていただけないでしょうか。




神名さん
●こんなの、もちろんウソです(^^;)。誰が言い出したのか知りませんが、おそらくはフェミニストであり、それも、もしかしたらマルクス主義フェミニズムの系統ではないかという気がします。しかも日本ではなく、これは欧米のフェミニズムからの受け売りでしょう。

 これは「主婦」と対になる男性を考えてみると、いっそうはっきりします。「主婦」が近代の産業革命以降に発生したものであり、その理由が「工場などができたこと」による男女の役割分業の発生ということは、「主婦」の夫は誰かというと、工場労働者ですね。つまり、マルクスの言うプロレタリアートです。マルクスが工場労働者の解放をいうのと、その妻である「主婦」の解放を主張することの間には、似通った理論が通底しているように思います。

 ところが実際に「主婦」が何であるかというと、私なりにシンプルに表現するならば「給与生活者の妻」で家政を司るような役割分担をしている女性ですね。教科書の記述のように「工場労働者=プロレタリアート=ブルーカラー」の妻だけが「主婦」なのではなく、「ホワイトカラーの妻」もまた主婦である。教科書の記述では、このごく当たり前の事実が抜け落ちているように思います。

 ですから日本でいうと、武士の妻も「主婦」だという事が出来ます。あるいは賃仕事をしていた職人の妻。これも「主婦」ですね。もちろん、江戸時代には職人の妻(時代劇で長屋にたむろしているおカミさんたち)を「主婦」とは呼びませんでしたが、工場労働者の妻が「主婦」なら、彼女達も「主婦」に該当するでしょう。

 私が上に「近代の産業革命以降」ウンヌンが欧米のフェミニズムの受け売りであろうと書いたのも、ここに理由があります。日本史を見る限り、産業革命に該当するような産業構造のドラスティックな変化を経ていなくても、江戸時代には給与生活者・賃労働者の妻として、現在の「主婦」に当たる女性が存在していたからです。

 ついでに書いておくと、「主婦」という言葉は、元々は現在とは違って、「家政の監督者たる女性」という意味です。ですから、必ずしも結婚して誰かの妻になっていなくても「主婦」であり得たわけですね。例えば、大奥には「お主婦様」と呼ばれた女性がいました。また男性の場合には、「家督を継ぐ」という概念がありますが、これも女性にもありました。女性の場合には、姑が嫁に「家政の監督権」を譲ると隠居になるわけです(これを「しゃもじを譲る」と言いました)。

 さらに明治以降の日本についていうと、「主婦」というのは上流階級の奥様を意味しました。こういう家庭では下女(後に女中、さらに現在では家政婦という)を雇っています。この下女を指揮して家政を司る。これが「主婦」です。ですから「主婦」という言葉は、産業革命やそれによって生まれた工場労働者とは、まったく関係のない用語です。明治時代の上流階級というのは、官吏や上級軍人(将校)のような給与生活者です。それに大企業(財閥)の役員とかですね。

 昔は、職人のカミさんや農家の嫁を「主婦」とは言いません。昔の農家のように男女総出で働いて、その上にさらに女性が家事をするような場合には、男女の性別役割は存在しても「主婦」とはいいません(ですから性別役割の有無と「主婦」が存在したかどうかということとは、別問題として考える必要があります)。

 ところが時代が下ると共に、第1〜3次産業の人数の比率が変化して、就労男性の中で給与生活者が占める割合が増えてきます。そうすると、一介のサラリーマンの妻も「主婦」なんですけど、でもこのクラスの家庭は下女を雇えるほどに豊かではありません(^^;)。「主婦」という名前はこのクラスでも使われるようになりましたけど、家事は下女にやらせるのではなく、自分でこなさなくてはなりません。このような現代とほぼ同じ意味の「主婦」が目立ち始めるのが、明治の終わりか大正時代くらいです。

 ではこの頃に「工場労働者の妻」はどうだったのか。実は、この当時の日本の工場労働者は、マルクスやエンゲルスの言うような「家族が暮らせる賃金」をもらっていません。ですから「工場労働者の妻」に「主婦」、特に専業主婦なんかいるわけがなくて、彼女達は今でいうパート、あるいは自宅で出来る内職などをして家計を支えていたのです(^^;)。しかも産業別の人口から言えば、当時はこういう女性の方が多かった。ですから「サラリーマンの妻=主婦」というのは、当時の多くの女性の憧れだったのです。

 この「主婦」が大衆化するのは、日本では戦後の話、特に高度成長期から後の話でしょう(アメリカなどでは大正時代くらいでしょうか)。農村の人口が減って過疎化が問題になり、都市人口が増える。これはつまり給与生活者が増えたということであり、同時に「主婦」が増えたということを意味します。それと同時に、「主婦」は女性の憧れではなくなり(少なくとも昔に比べれば「主婦」という言葉が持っていた輝きはかなり失われ)、女性のありふれた在り方の代名詞へと変化するわけです。

 簡単にまとめ直してみましょう。

 まず、教科書では性別による役割分担と「主婦」とが、近代以降に同じ理由(産業革命)によって発生したと書いているようですが、これは間違いです。具体的な内容は違っても、性別による役割分担それ自体は時代や文化の違いを超えて普遍的に存在します。

 次に、家政を司る給与生活者の妻である「主婦」が存在するためには、給与生活者たる男性が存在しなければなりません。このような男女は、欧米や日本にもそれぞれの形態で、産業革命よりも以前から存在していました。ただ就労人口の中で給与生活者(例えば禄を食む武士や、お店(たま)者など)の人数が占める割合が、現在に比べて少なかったというに過ぎません。

 3番目に、「主婦」はかつて女性の憧れであり、女性たちが「主婦」になることを望んでいたという事実です。女性は決して、自らの意に反して役割分担を押しつけられたり、家の中に閉じ込められて「主婦」たることを強制されたわけではありません。これは現在でも同じことで、給与生活者の妻として専業主婦になるか、それとも農家の嫁になるかと問われれば、前者だと答える女性が多いであろうことは、容易に想像がつきます。

 4番目に、上では述べませんでしたが、かつての明治〜昭和初期に見られた女性の職場進出は、現在とは全く意味が違うということです。この「女性の職場進出」とは、もちろん農家の嫁になることや、下女、あるいは女工になるという意味ではありません。看護婦や教師、電話交換手、デパートガール、バスガールの類いです。こういう職業には、女学校以上の教育を受けた女性しか就くことが出来ず、その大半は良家の子女でした。看護婦や教師は例外ですが、「職業婦人」の大半は結婚退職をして「主婦」になったのであり、けっして現在のフェミニズムが推奨するような「働けイデオロギー」の手本になるような存在ではありません。

 5番目に、これは上と関連することですが、下女や女工なども含めれば、産業革命以降でも女性の就労率は昔の方が高かったということです。理由は簡単で、現在に比べて社会全体が貧しく、働かなければ家計の成り立たない世帯が圧倒的に多かったからです。また、だからこそ一握りの上流・中流階級に属し、働かなくてもよい「主婦」が、女性たちの憧れの的だったのです。したがって、産業革命によって一気に「主婦」が増えたわけではなく(たとえば前述の通り、日本ではそれ戦後の話ですから)、「主婦」の急増は産業革命よりも後の、第3次産業の発展との関連で説かれるべきでしょう。

 なお、参考になるかどうかわかりませんが(^^;)、拙稿、

 「家父長制」の謎(http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign53.html

もご参照頂ければ幸いです。




灯理さん
●大体その近代主婦のイメージってローマ社会から引っ張ってきたものでしょう?。その時にローマ式の“家父長制”も近代西欧で採用されたわけですね。だから近代になって主婦が発生した、などと言うのはもとてつもない、“定義そのものを裏切る”妄言、といえます。




管理人
●神名さん、灯理さん、ありがとうございます。常識的に考えてそんなバカなことはないですよね。
ただ、恐ろしいのは、こういうデタラメが教科書に載ることによって、生徒が信じこんでしまうことなんですね。
ミードは嘘、環境決定説も嘘。文化人類学と生物学において嘘を教え、今度は民族史、歴史の分野でも嘘を刷りこもうとしているわけです。ほんとに許せません!!




神名さん
>中教出版【倫理】
>こうした「男は仕事、女は家庭」という性別分業は一見平等なようである。けれども、家事労働に対しては賃金は支払われない。そのため、経済的に自立できない女性は、いきおい精神的に男性に従属することになり、女性差別を生み出す一因ともなった。


 この部分はまた、別問題として論じなければなりませんね。

 これは以前に述べたことがあるのですが、重複をおそれずに書くと、ヘーゲルは人間の住む世界を「家族・市民社会・国家」の3つの領域に分類しました。「家族」というのは人間が契約によらずに、いわば関係のエロス(よい感じ)によって結び付いているような領域です。家族の他に友人や恋人なども、「関係のエロス」で結び付いているような関係ですね。「市民社会」というのは契約によって成り立つ、経済の領域です。企業とか、そこで行なわれる商行為などが、この「市民社会」に属します。しかしこれだけでは、個人間や企業間、あるいは個人と企業の間に利害対立が起こります。それを調停するのが「国家」です。この3つは本質的に異なる領域であり、それぞれ別原理に立脚しています。

 いうまでもなく、家事労働は「家族」に属します。一方、労働に対して賃金を支払うというのは、契約に基づく労働力と貨幣との交換であり、この交換は契約(雇用)に基づいて行われるものです。これは「市民社会」に属する事柄です。したがって、家事労働に賃金を求めるということは、「市民社会」のルールを無条件に、全く別原理に立脚する「家族」の領域に持ち込むということです。

 なぜこのようなおかしな主張が出てくるのかというと、この主張がマルクス主義フェミニズムから提出されたものだからです。マルクス主義というのは、基本的には「市民社会」について論じるものです(それを踏まえて「国家」についても言及しますが)。そこで使われるのは、マルクス一流の経済学ですが、そもそもこの経済学という学問は「市民社会(経済の領域)」に生じる不都合を解決するために、「市民社会」がどのように存在しているかということを明らかにすることを目的としています。

 一方「家族」というのは、人々が「関係のエロス」で結び付いているような領域です。これは、「市民社会」のように愛情や友情を貨幣に換算して取引するような契約関係の領域ではありません。誤解のないように書いておきますが、これは「無償の愛情」というような、キリスト教でいう「アガペー」が支配する領域でもありません。家族や恋人、友人関係において、人々は貨幣ではなく、精神的な充足感を求めるのです。ここが「市民社会」とは根本的に違っています。

 家族のために何かをする、友人のために何かをする。私達はその時に、家族や友人に対して賃金を要求する必要を感じるでしょうか。感じませんね。でも、相手に感謝されたら、とても嬉しいですね。自分の中に、家族や恋人や友人のために何かしてやりたいという気持ちがある。それは、その人が家族や恋人や友人を大切だと思っているからです。だから何かしてあげる。それだけでも嬉しいけれども、相手に感謝されたらもっと嬉しい。それは、自分が相手を大切だと思う、その気持ちが通じたと感じられるからです。そして、相手の存在を認め、また相手から自分の存在を認められるという、相互承認の関係から、人間は精神的な充足感を得るものです。

 主婦が家事労働に対する賃金を求めたり、逆に男性が家族サービスにサービス料を求めるようになったら、それは「家族」ではありません。単なる商取引きです。また、友人が映画に付き合ってくれたからといって、労働報酬をお金で支払ったりはしません。食事をおごったりはするかも知れませんが、それは労働に対する報酬ではなく、たとえば忙しい最中に自分に付き合ってくれた友人に対する感謝の気持ちの表れであり、相手が喜ぶのは、食事という報酬(現物支給?)を得たからではなくて、その感謝の気持ちが嬉しいのです。

 ところが、マルクス主義フェミニズムでは、本来「市民社会」に適用すべき経済学的な視点を、無条件に「家族」に適用します。経済学では「関係のエロス」は扱いませんから、それはないものとみなされ、また他者のためになる行為を「労働」とみなすために、「家族」の領域がまったくの無報酬の労働に満ちたものに見えてしまうのです。

 そこから「家事労働に賃金を」という主張が出て来るわけですが、しかしこれは全く無意味です。これは、経済学的な視点で「家族」を見るとこのような主張が出来る、という単なる知的遊戯に過ぎません。「家事労働に賃金を」という主張が正当なものとみなされるためには、まず経済学的な視点を「家族」に適用することの正統性が立証されなければなりません。しかし現実には、この正統性が全く検討されていません。これは、そもそも経済学とは何であるか、という認識の欠如です。したがって「家事労働に賃金を」という主張には、その正統性を支える基盤が存在しないということになります。

 また、もしこのような経済学的視点を「家族・市民社会・国家」のすべての領域に適用することが正統であるとするならば、人間同士の関係はすべて貨幣に換算可能だという話になってしまいます。「家事労働に賃金を」という主張の延長線上には、「世の中すべてカネだ」という世界観しか存在し得ないのです。しかし私達は現実に、そのような世界を生きているでしょうか?

 簡単にまとめ直すと、「家事労働に賃金を」という主張は、「家族」と「市民社会」という異なる原理に立脚する異質な領域の違いを無視して、「市民社会」に適用すべき経済学的視点を無条件に「家族」に適用することで、ロジカルに創作された問題であるに過ぎません。しかしこのような知的遊戯は、次の方法を取ることによって全く無意味なものになります。

 すなわち、私達が現実に家族や恋人や友人という関係を「どのように生きているか」、それを自分自身の経験に問い直すこと。私達が他者との間で「関係のエロス」をどのようにやり取りしているのか、またそこからどのような意味を受けとって生きているかということを内省してみれば、そこには「経済学的視点」によっては見出すことのできないような、「関係のエロス」が持つ価値を必ず見出すことができるのです。




トワズさん
●私はいつも、この「家事労働は無賃労働だ」という言い分を不思議に思っていたのです。「無賃労働」ってのは、「働いても金をくれない」ってことですよね?
でも、それが本当に無賃(無対価)労働ということなら、主婦たちは、自分の食費や光熱費や交通費や洋服代や化粧品代を、生きるために別途稼いでこなければならないでしょう。それをやらな主婦たちは、当然、餓死するしかないはずです(笑)。
つーか、ごくごく素朴に、「妻の賃金は、夫から得ているんじゃないの?」と思ってしまいまうのですけどね。そうでなければ、とっくに世の主婦たちが餓死していると思うのですが・・・(笑)。まあ、確かに離婚でもすれば「無収入」になるとはいえますが、それは、まあ、夫でも同じことですからね。このあたり、一体どういう理屈になっているのでしょう・・・?不思議です・・・。




青島リカさん
●私も母子会等で色々フェミの言い分を聞いてきたのですが、全てにおいて支離滅裂論理としかいいようがありません。
家族社会は無償も有償の次元ではなく、自分で自分のことをやっただけで賃金が発生するか!と何時も思っていました。
フェミの賃金計算によると、主婦の労賃は17万円/月ぐらいだとか。
ただこの中には、トワズさんがおっしゃる主婦自身の光熱費、食費、雑費等がはいってます。
子供にかかる費用も主婦は親として養育の義務がありますから、当然折半です。
そうすると、まるまる17万円貰えるなんてことはありませんよね。
17万円-(光熱費+食費+住宅費+衣装雑費+医療費)-税金-年金-保険料―町内会費-通信料-子供(教育費-食費-雑費-医療費)・・・
更に、昼寝や就寝時間、プライベートな買い物の時間、TV鑑賞時間等、更に、風邪で寝込む時間、病院に行ってる時間、化粧をしている時間等私的な行為時間は時間給から差し引かねばなりませんしね。
こうやって計算すると、大抵マイナスになって報酬どころか逆に、雇用主?の夫に対して、追徴払いしなくちゃならない人が殆どだと思います。
そうそうそれにノルマもあるのでは?子供の学習力を社会に通用する程度まで引き上げたり、まともな躾をしたり・・・それが出来なきゃ報酬はカットになるだろうし。
つまり、家事労働賃金を訴えれば訴えるほど、フェミはフェミ自身の首をしめていると言う事に・・・(笑)
フェミって自分で論理破壊をしているなんだもの。
そーゆー自己矛盾にさえ気付かないのがフェミである所以かも・・・

家庭科教科書も酷いのあります。
実教出版の家庭科21教科書と実教オリジナルの家庭科資料は、フェミ一色。。。
「幼稚園と保育園の一体化」という項があり、記述の中に「幼稚園と保育園という二分化された環境に心を痛めていた保育士達の願いが、幼稚園と保育園の一体化だ」という内容があって・・・
別々の環境で育つ子供が可哀想だと言う論理なのだが、、、、そもそも、心を痛めてる保育士って・・・誰?去年まで6年間通った保育園では、そんな保育士一人もいなかったですけど・・・?あたかも全国の保育士が全てそう思っていたかのような記述は、根拠ゼロ、妄想全開ですね・・・
男女別学廃止の共学化や、幼稚園保育園の一体化・・・フェミってなんでも一体化させたがる。
目指すは、男女差も無く、大人と子供の自覚も無く、国家も無い、地球市民という名のカタツムリのような下等な生き物に成り下がると言う事なのかしら・・・?
ちなみの、この実教の家庭科21シリーズはフリーセックス本と言われています。







A「マーガレット・ミードは性差の逆転した部族を発見した」という嘘!  

一橋出版【倫理】
p92

文化人類学者のマーガレット・ミードは太平洋の部族社会を調査した結果、「男らしさ」「女らしさ」がそれぞれの社会で異なっていることを発見した。ある社会では「女らしい」ことが、別の社会では「男らしい」こととみなされていた。だから「男らしさ」「女らしさ」は社会や文化によってつくり出されたもので、遺伝的に決定されたものではない。このように社会や文化の中で形成されてきた性の特徴をジェンダーと呼ぶ。


教出版【倫理】

アメリカの文化人類学者マーガレット・ミードは、未開社会の子どもの成長に関する調査研究を行い、男女の差異(性差)には身体の大きさ、体力など生物学的違いにもとづく部分よりも、文化的、社会的つくられる部分が大きいことを指摘した。近年ではこうした文化的、社会的に作られる男女の差異は「ジェンダー」と呼ばれるようになり、生物学的な差異(セックス)と区別されるようになった。
ミードの研究は、性差の文化的・社会的な相対性を明らかにし、男性と女性をめぐる問題をジェンダーという視点でとらえるきっかけとなった。



これはすべてデタラメです。詳しくはここを参照!