(19年に改定された教科書ではこの教材はカットされていますが、こういう事態があったことを残しておきたいと思います)
19.12.16
以下の件は平成14年に書いたものです。
とうとう高校の国語教科書に載った
ジェンダーフリー評論
(桐原書店の方へ、営業妨害だと思われるのならぜひ反論をください。そのまま掲載します)
名誉毀損にならないようタイトルを変更しました。(笑)
現在使用されている「展開 国語総合」(桐原書店)に以下の評論が掲載されています。この教科書によって現在、何十万という高校生にジェンダー思想が刷り込まれているのです。
教科書検定には通っていますので、このまま放置しておけば、次回の改訂から各社一斉にジェンダーフリー評論が載るおそれもあります。
この(突っ込みどころ満載の)評論と桐原書店とのやりとりをご一読の上、事の重大性をぜひともご理解ください。
なお,この評論の論拠となっている「ミードのチャンプリ族研究」や「ジェンダーがセックスを規定するという考え」はその後の検証や臨床例によって完全に否定されています。(つまり、誤った認識や根拠の不確かな部分が全体の7割以上!を占めているのです)
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学問的に間違いが明白になった学説を教科書に載せることは問題である。旭川学テ事件の最高裁大法廷判決ではこう言っている。(イワンさんからの情報です) |
全文/
問題点の整理/質問@/質問A/桐原書店の回答@(削除)/質問B/最終回答/
筆者I氏に関する疑惑/桐原書店の受取拒否/
鈴彦姫さんのご意見/公開質問状/受取拒否A/ 受取拒否B
世界日報の記事/
桐原書店は確信犯/
政府が公式にジェンダーフリーを批判した産経新聞の記事/
と続きます。
ジェンダーの視点から ( )(メンズリブ代表 大阪大学教授)
(太字は根拠が誤っているか、不確かな部分です)
ジェンダーとはオス、メスといった生物学的な性のあり方を意味するセックスに対して、文化的・社会的・心理的な性のあり方を指す言葉である。簡単にいえば「男はこうあるべきだ」「女はこうあるべきだ」といった社会的枠付けや「男らしさ」「女らしさ」といった「らしさ」を意味する。セックスは自然科学レベルでの性の分類だが、ジェンダーはそうではない。ジェンダーは、人間の社会や文化によって構成された性なのである。
「男らしさ」や「女らしさ」が社会や文化によって作られたものであることを示す興味深い研究がある。アメリカ出身の文化人類学者マーガレット・ミードの研究だ。彼女は、ニューギニア地域の研究の中で、一つの面白い発見をした。ここで、彼女の研究した社会集団の中から、アラペシュ族、ムンドグモル族、チャンブリ族という比較的近隣に居住していた三つの社会集団を取り上げてみよう。実は、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、欧米の文化の中で育った彼女の「当たり前」の男女観と比べてきわめて特異なものに見えたのだ。
つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気持ちを持っており、ムンドグモル族の場合は、逆に男も女も「攻撃的」であり、さらにチャンブリ族では、男は繊細で臆病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは頑強で管理的役割りを果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。このミードの議論は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が絶対的なものではなく、文化によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。(ここでいう「女性的」「男性的」の区分はミードの視点に映ったイメージであるこというまでもない)
その後も、文化によって男性役割・女性役割が異なる場合があることについては、実証調査を踏まえて、多くの研究者が明らかにしている。例えば、カナダのヘヤー・インディアンの研究をした原ひろ子によれば、男女の間には一定の役割分業は存在しているが、この分業は必ずしも固定的ではなく、「男であれ、女であれ、毎日の生活に必要なことは一応まんべんなくできるようになっている」という。
これらの調査研究は、われわれが「当たり前」のように考えてきた「男というもの」「女というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が文化によって変化するということを実証調査の裏付けをもってうまく説明してくれる。逆にいえば、このことは「女らしさ」や「男らしさ」、女性の役割や男女の役割は、文化や社会によって作られたものであることを示しているだろう。文化や社会の構成物としてのジェンダーという視点は、こうして確立されたのである。
次に、ジェンダーとセックスの関連について考えてみよう。われわれの「常識」の世界では、ジェンダーはセックスに規定されている、という発想がまだまだ根強い。「女性は生物学的に男性より体力に劣る。だから、男性の方がさまざまな力仕事を分担し、女性は補助的な労働をするのが自然だ」とか「女性は子ども産む、だから子育ては女性に向いている。それゆえ、男が仕事、女が家庭という分業は自然なことだ」といった発言は今でもよくきくことだろう。
でも、本当にそうだろうか。確かに平均値で見れば、男性のほうが体は大きいし、筋力も発達している。しかし、世の中には男性よりも力の強い女性はたくさんいる。身の周りに、オリンピックの女性の選手と競争して勝てる男性はそれほどいない。にもかかわらず、なぜ「男は仕事、女は家庭」なのだろう。
育児は女性に向いているという意見には、さきに挙げたミードの研究が反論してくれるだろう。実際、男性が育児に積極的にかかわる文化はそれほど珍しくはない。日本の江戸自体の育児書の研究をした大田素子によれば、当事の育児書の読書対象はほとんど父親で、母親を対象としたものは少ないという。もっとも、その背景には「子育てのような大事なことは家長の仕事であり、こんな重要なことは愚かな女たちには任せられない」という差別的な発想があったらしい。
セックスは必ずしもジェンダーを規定しているとは限らないのだ。それどころか、最近のジェンダーをめぐる論議では、セックスがジェンダーを規定しているのではなく、むしろジェンダーがセックスを規定しているという指摘さえ生まれている。(下線部注・生後のしつけや教育によって生物学的な性が強化され、またどちらかの性で生きるか決められることもある)
われわれの生物学差異は、男女に簡単に二分できない多様性を持っている。多くの文化は、男女という二元論でものを考える仕組みを持っている。この人為的な分類である男女の二項図式(ジェンダー)から生物学的性差が把握されると、個々の存在の性的多様性は見失われ、すべてが男女の枠組みの中にまとめられてしまう。その結果、「女(はこう)」「男(はこう)」というあらかじめ設定された固定的な枠組みに、個々の能力、個人の人格ものまた回収されてしまうというわけである。
実際「女は政治に向かない」などといった発言を今なおよく聞く。この発想の背後にも、明らかに生物学的に規定された男女の違いを、社会や政治の文脈に持ち込みそれを絶対化・固定化する意識が見いだせるだろう。
その結果、女性の声は「意識が低い」「直感的で」「取るに足りないもの」として一段と低く見られるようになり、さまざまな政策決定や意思決定の場から女性は排除されてしまうのである。
現代社会もまた、このようにして社会的・文化的に構成されたジェンダーの構図に従って出来上がっている。ジェンダーによってわれわれの意識や社会の仕組みが構造化されているといってもいいだろう。男・女の二項図式によって形成された「男性が主で女が従」「男性が能動的で女性は受動的」という固定的な枠組みは、家庭における役割の仕組みから始まって、地域社会や職場における男女の関係の中においても見い出すことができるからである。
しかも、この構図は、家庭教育や保育・学校教育などあらゆる教育の場や、メディアを通じた意識形成の場においても繰り返し表明されている。その結果、このジェンダーの構図は「当たり前のこと」「変えようもないこと」としてわれわれの意識の中に染みついてしまったのである。
こうして、この男性支配の構図は、日常生活から社会構造・政治構造までの様々な社会生活の中に深く根を下ろし、再生産され続けているのである。
ジェンダーという視点の発見は、このようなセックスによる規定を絶対化・固定化する男性主導社会の発想に大きな亀裂を走らせることになった。というのも、ジェンダーという視点を導入すると、「女性の役割」や「女らしさ」といった性に関わる意識や社会の仕組みが、文化や社会の産物であることが、はっきり見えてくるからである。と同時に、ジェンダーの構造が社会や文化によって形成されたものであることになれば、われわれの生活にとって不都合なものであれば、人間の意思によって変更を加えることができるということでもある。
そして今、これまでの「女はこう」「男はこう」というジェンダー意識によって支えられていた社会の構造に対するはっきりとした異議申し立てが起こっている。固定的なジェンダー意識は、女性が本来持っている多様な能力を抑制し、女性の社会的な活動に制限を加えてきたからである。女性たちがその多様で個性的な能力を十分に発揮できる社会を作り出すためには、ジェンダーにとらわれない社会=ジェンダー・フリー社会の実現が前提になる。
同時に、男性もまた「男は強くなければならない」とか「男は女をリードしなければならない」「感情を抑制しなければならない」といったジェンダー意識に縛られていることを見ておかねばならない。「男はこうでなければならない」という「男らしさ」の縛りは、実は男性にも重荷になり始めている。実際、各地で「男らしさ」に縛られない自分らしい生き方を模索する男性の動きも目立ち始めているのである。
女性ばかりではなく、男性もまた、固定的なジェンダー意識にとらわれた社会から自由になるということが求められているのだ。
【学習の手引き】
「読解」
@ジェンダーとセックスがどう違うのか、整理してみよう。
A次の考えに対してどのような観点から反論できるのか、まとめてみよう。
・育児は女性に向いている。
・女は政治に向かない。
・男は強くなければならない。
B女性や男性の生き方は社会や文化によってとせのように影響を受けてきたか。また「ジェンダー」という視点の導入により、男女の生き方はどう変化しつつあるか。筆者の考えを整理してみよう。
「発展」
身の周りにある「男らしさ」「女らしさ」の例を挙げ、それについて「ジェンダー」の視点から話し合ってみよう。
この評論の問題点
@論拠になっているミードの研究が完全に否定されていること。(ここを参照)
A「ジェンダーがセックスを規定する」という極論がデタラメであること。(下の質問を参照)
B主張が「例外から一般を導く暴論」であること。例・少数部族の例を一般化。オリンピックの選手は男よりも力が強い、なのになぜ男は仕事、女は家事なのか。「異議申したてが起きている」「動きが起きている」とあるが、それらは一部の動きに過ぎないこと等。
C女性は男に支配されている、差別されている、家事を押し付けられている等、女生徒を自己否定させる内容であること。自己否定をされた者は否定した相手(男性や社会)を敵視し、闘争を挑むようになる。これは明らかに「扇動」であり「革命」の論理である。
D男性が「感情を抑制する(らしさ)」必要はないと明記していること。「らしさ」というジェンダーが醸成された理由の一つに、男の暴力性や攻撃性をどう抑制するかということがある。つまり、「男が感情的になるのはみっともない」「男は女性に優しくすべきだ、女性を守るべきだ」と規定することによって、女性を守り、社会秩序の安定をはかってきたと考えられる。そういった「らしさ」が失われれば、男の攻撃性や暴力性、性的本能が剥き出しになり、多くの女性がDVやセクハラの被害を受けることになる。また、社会は暴力化し、秩序やモラルが崩壊するおそれもある。
E政府がすでにジェンダーフリーを公式に否定していること。「政府が目指す男女共同参画社会は男らしさ・女らしさの否定ではない」として、それを文科省を通して学校現場に徹底させると言っているのに、こんな教材があっていいのか。(下の産経新聞を参照)
F最後の「学習の手引き」が国語の範囲を逸脱して、ジェンダーフリー思想を刷りこむためのものであること。(下の鈴彦姫さんの意見を参照)
質問@ 9/26
突然、このようなメールを差し上げる失礼をお許しください。
私は高校の教師をしながら文筆活動等を行っている長尾誠夫と申す者です。
来年度から使用される貴社の教科書「展開 国語総合」を読ませていただきましたが、I氏の書かれた「ジェンダーの視点から」という評論に関して大いに疑問を感じましたので、二点に関して質問させてください。
@ 導入部では、「ジェンダーは人間の社会や文化によって構成された性なのである」とあり、「ミードの議論は、いわゆる男らしさや女らしさが絶対的なものではなく、文化によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした」と書かれていますが、ミードの研究はすでに否定されているのではないでしょうか。以下のサイトをご覧下さい。http://www.caribscape.com/baldeosingh/social/sober/2000/culture2.html
重要な部分を訳しておきます。
「マーゲレット・ミードの有力な論議。即ち、サモアには(文明社会と異なり、)思春期/青年期に特有のストレスがないこと、また、性的な気質(と普通考えられている性差に起因する気質、)がチャンブリ族の人々の間では通常とは逆になっているとのミードの主張は、所謂タブララサ的な心の見方(人間は真っ白な心の状態で産まれて来るという経験論的な人間の精神観のこと、)と生物学に対する文化の明らかな優越性をこれまでサポートしてきてきたものだけれども、現在では投げ捨てられるにいたっている。
ミードの結論は彼女のサモア諸島における研究、即ち、彼の諸島における性に無頓着な習慣、彼女の主張によれば、それらの習慣がサモア諸島の人々の気持ちを充足させ、サモア諸島の社会をして犯罪から無縁ならしめているという性を巡る習慣の研究に基礎を置くものだった。ミードの結論は特にチャンブリ族の研究。つまり、その部族では男女の性的な役割が通常とは逆転しており、例えば、男性がお化粧したり頭髪をカールにしたりしており、それらの性的役割の逆転が(ミードが言うには、)結果的に部族の男性をして柔和かつ穏やかな気質を持つようにしているという、チャンブリ族の研究に基礎を置いたものだった。
事実はこうである。サモアの人々は性的な嫉妬感情を持ち、サモアの社会にも他の社会同様にレープが存在していること。チャンブリ族の男性は妻にしばしば暴力を振るう人々であり、また、チャンブリ族では男性が成人するための通過儀礼の一つとして殺人を行う。そして、チャンブリ族の男性はこの通過儀礼を済ませて初めてその顔にフェースペイントすることが許されるのだが、このフェースペイントこそミードが女性的と考えた正に男性の化粧そのものなのである。これらのことが、その後の研究で明らかになった」
ミードを引き合いに出すまでもなく、医学的見地からも男女に生得的性差があるというのは常識であり、「ジェンダーとは生得的性差に社会的文化的要因が結びついてできあがったもの」と捉えるべきではないでしょうか。(様々な本を読んでも、男女の性差は男性ホルモン・アンドロゲンの有無によって説明されています)
したがって
A以下の記述も明らかに間違いではないでしょうか。
「セックスは必ずしもジェンダーを規定しているとは限らないのだ。それどころか、最近のジェンダーをめぐる論議では、セックスがジェンダーを規定しているのではなく、むしろジェンダーがセックスを規定しているという指摘さえ生まれている。(注・生後のしつけや教育によって生物学的な性が強化され、またどちらかの性で生きるか決められることもある)」
これはジョン・マネーの『性の署名』などを参考にしていると思いますが、マネーの説が間違いであったことは臨床実験で証明されています。
以下を参考にしてください。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4895859371/249-5844077-9229969
その一部
「1967年、アメリカで包皮切除手術に失敗した8ヶ月の双子の男の子のひとりが、性科学の権威、ジョン・マネーの勧めによって、性転換手術を受け、ブレンダという名前で女の子として育てられた。性転換をすれば、女性の生殖機能を持つことができ、正常な性生活をおくれるとマネーは説得したが、実は、ブレンダは「性別の自己認識は環境的要因によって決まる」というマネーの理論を裏付けるための格好のモルモットとして利用されたにすぎなかった。マネーは、この症例を医学ジャーナルに発表し、自説の正当性を主張し、キンゼーレポート以来の偉大な発見としてセンセーションを呼ぶ。だが、少女となった男の子のこころと身体は、成長するにつれ重大な危機を迎える…」
以上です。(疑問点はたくさんあるのですが、今回はここにとどめておきます)
思想信条は自由ですし、教科書に様々な意見が載ることはいいことだと思います。しかし、明らかに事実と反することや、その誤った根拠から成立した思想をあたかも真実のごとく生徒に教えるのはいがなものでしょうか。
上記2点に関して、編集部のお考えを聞かせていただければと思います。
質問A 10/3
10/26に貴社発行の「展開 国語総合」収録の評論「ジェンダーの視点から」について質問をした者です。
その後、お返事をいただけないのですが、どうされたのでしょうか。教科書の内容は編集部で責任を持っていると思われますので、前回の質問をした2点につきましてお返事いただければと思います。
なお、お返事の内容はネット上で(場合によってはメディア上にて)公開する予定です。
ミードの研究について、その後ネットから拾った情報をランダムに紹介しますので、参考にしてください。
●マーガレット・ミードの『サモアの思春期』(畑中幸子・山本真鳥訳・蒼樹書房1976“Coming of Age in Samoa”)というのは人類学の名著とされていて、ミードの文化相対主義の根拠ともなった発見------サモアの青年期の少女が西洋文化の同年齢の少女に見られる性的不安を持たない------によって「至宝」とされた。
ところが、ミードの死後、人類学者のデレク・フリーマンは『マーガレット・ミードとサモア』(木村洋二訳・みすず書房1995“Margaret
Mead and Samoa: The making and unmaking of
an anthropological myth”)でこの主張を否定し、ミードの間違いの大部分が彼女の言語能力の不足によると断定した。
サモア語は社会的ランクに区別のある言語で、ミードのネイティブは彼女をからかっただけなのにそれが見抜けなかったとしている(フリーマンに対しても批判がある)。
「隠れた文化」(covert culture)を調べなければならない文化人類学者でも語学の壁がある。
●マーガレット=ミードという人は、 アメリカの文化人類学者なのですが、アメリカ領サモアにおけるフィールドワークの成果として『サモアの思春期』という本を著しました。これは、人間のパーソナリティは文化によって規定され、遺伝にはほとんど影響を受けないという「文化決定論」や「社会学主義」(これは彼/彼女らの常套句「遺伝決定論」や「生物学主義」のもじりです。
実際には「社会(的)構成/構築主義」と言います)、およびその流れを受け継ぐ「(主流派)フェミニズム」
(「人は女に生まれない。女になるのだ」、
S. ボーヴォワール『第二の性』) にその正当性を示す確実な根拠を与えたとされ、思想界にはかりしれない影響を及ぼしました。
しかし。 この本で示されているのは、 結局彼女がその著書で描いたサモア社会像における特に評価されていた部分は
ほとんどフィクションであり、事実と正反対であることが多かった、ということです。
ではなぜ、そんなことになってしまったのでしょうか?
彼女が学問的に不誠実であったから? たぶん、そうではありません。若気の至りでひどく杜撰な調査をしてしまったことも大きな要因ですが、ぼくが先に述べたことがあったからでしょう。当時は「優生学」という悪しき遺伝一元論がハバを利かせていたので、それに対抗すべくカウンター理論をうち立てることの緊要性があったでしょうが、だからと言って行き過ぎるのはいただけませんね。
●「デレク・フリーマン著『マーガレット・ミードとサモア』 文化人類学の“名作”を撃つ」
文化人類学の分野で一世を風靡した“名作”ミード著『サモアの思春期』は,夢のような「神話」だった。短期間のずさんな調査で,南国の楽園の幻想をでっち上げたミードの罪は重大である。後年,事実に基づいた指摘を受けても,ミードはおのれの非を認めず,自説に固執した。これは彼女の科学者としての資質に問題があることを示している。社会的性差別克服の分野における彼女の貢献が大きいとしても,楽園サモアの嘘をつくりだした罪は消えないだろう。サモアは決して気楽な社会ではないし,サモアの青年たちは抑圧と葛藤に無縁ではない。
●2ch 社会学板の山形浩生の投稿
8 名前: 山形浩生 投稿日: 2001/04/11(水) 08:41
マーガレット・ミードは、有名な南洋の島の性生活に関する研究で名を挙げたが、実は現地人の通訳に完全にコケにされていただけで、でたらめを信じ込まされていたのだ、というのは知られているのだろうか。
9 名前: かんがるー 投稿日: 2001/04/11(水) 15:20
>>8
出典キボンヌ
10 名前: 山形浩生 投稿日: 2001/04/11(水) 17:51
問題となっていたのは、ミードの出世作「サモアの思春期」です。これに対して批判を加えたのはデレク・フリーマンです。近年の成果もくわえてそれをまとめあげた次の本がいちばん参考になります。
Derek Freeman, The Fateful Hoaxing of Margaret
Mead: Historical Research of
Her Samoan Research (Westview Press, 1999)
ただしフリーマンが最初に指摘を行ったのは、1983年くらいのargaret Mead and Samoa
という本です。
このフリーマンの最初の指摘に対して、オランズがミードのフィールドノートをもとに、「いや、ミードはホントはわかってたんだよ」という説を唱えてます。
Martin Orans, Not Even Wrong:Margaret Mead,
Derek Freeman, and the Samoans
(Chandler & Sharp, 1996)
ただし、ミードが実はフィールドのデータをかなりゆがめていたりする点はこの本でもはっきり指摘しています。フリーマンは最初にあげた本のなかで、オランズの見解はミードに甘すぎる、と批判を加えています。が、まあミードが信用できないのはもうほぼ確定してます。
11 名前: 山形浩生 投稿日: 2001/04/11(水) 18:23
ちなみにFreeman の最初の本は、かれ自身によるサモアでの調査結果とミードの記述との比較からでた批判で、ミードは自分の主張――つまりサモア人の若者は性的にアメリカよりずっと解放されていて当時のアメリカ人より自由だ――を強調するために話をゆがめているという本でした。が、Fateful Hoaxingのほうは、ミードに実際に情報提供をしたサモア人の女の子(当時)を見つけだして、どんなウソを彼女に話したかを宣誓してもらい(このサモア人は、自分の冗談のせいでミードが変な本を書いて サモアが誤解されたことに心を痛めていたのでした)、さらにはミードの学問的背景、特に指導者だったフランツ・ボアズとルース・ベネディクトの思想的影響がいかに彼女をそういう誤解の方向に導いたかを解き明かした、ミード批判の決定版です。これだけ読めば十分でしょう。
12 名前: 山形浩生 投稿日: 2001/04/11(水) 18:51
ちょっと気になってフリーマンとオランズの本をいま見直して訂正。
オランズは、ミードが意図的にフィールドの成果をゆがめて、自分のイデオロギーにあうようにウソをついたのだ、と主張しているのだ。それに対してフリーマンは、ミードはそこまで不誠実ではなかった、ちゃんと学問的誠実さは持っていた人だったけれど、冗談をしかけられたり、 その他の人からいい加減な情報や圧力をかけられたりして、仕方なかった、と言ってます。
でも、まちがいはまちがいだから訂正しましょう、ということ
桐原書店の回答@(要望により削除) 10/10
質問B10/14
丁寧なご回答、ありがとうございます。このような質問にお時間を取らせていることを申し訳なく思っております。ご回答を拝読させていただき、(中略)指摘させていただいた点についてご理解賜ったことを深く感謝いたします。
ただ、やはり幾つか疑問がありますので、まことに恐縮ではありますが、再度質問させていただきます。
(私がこのように何度も質問するのは、貴社に対して何らかの「思惑」があってのことでは決してありません。一介の教員として教科書編集の労を拝察し、敬意を表しているつもりではありますが、編集の皆様と同様に、よりよい教材を生徒に与えたいという思いがあるがゆえに、どうしてもこだわらざるを得ないのです。その点をご理解していただければと思います)
前回にも申しましたように、思想信条は自由であり、様々な意見が教科書に載るのは良いことだと思っています。しかし、それはあくまで「事実」に依拠した意見や思想でなくてはならず、さらに申し添えれば、あくまで教科書である以上、社会的に広く賛同される、あるいは容認される意見でなくてはならないと思います。この2点において「ジェンダーの視点から」には疑問を抱かざるをえません。
以下、質問させていただきますが、記事内容に関しては編集部が責任を持っていると思われますので、編集部としての意見をお聞かせください。
(著者がいかなる考えを持とうとも、一介の教師である私の関知するところではありません。この論文が国語教科書の内容として相応しいかどうかを問題にしているのです)
@著者はミードが否定されていることをご存知だったのですか。
Aミード説の誤りを……(中略)教科書の欄外にもその旨を明記すべきではないでしょうか。教授資料に書いたからといって教員がそれを生徒に伝えるとは限りません。本文を読んだだけの生徒が誤った事実を信用することは充分に考えられます。(中略)誤りが生徒に伝わるのを放置しておくのは良くないと思うのですが、いかがでしようか。
Bミードの説が誤りだとすると、この論文の論旨は根底から崩れてしまうのではないですか。
著者はミードの研究を紹介することによって「ジェンダーは人間の社会や文化によって構成された性なのである」71p5行という論理(実は誤り)を提示して、それを根拠として様々な意見を述べていますが、その部分を太字にしてみますと、全文115行中65行が該当します。半分以上の論旨が根拠不明確だという論文を教科書に載せる必要があるのでしようか。
C(中略)『ブレンダと呼ばれた少年』の例でもわかるように「ジェンダーがセックスを規定している」という考えは臨床例によって完全に否定されています。思考を深めるために極論を引き合いに出すことはままありますが、あくまで教科書という媒体において、一片の真実もない極論を紹介することに、どれほどの意味があるのでしょうか。生徒がこれを読めば、「ジェンダーがセックスを規定している」に何がしかの正当性があるように思ってしまいます。(現に私がそうでした) 生徒に誤解を与えるような表記をそのままにしておくのは問題があると思うのですが、いかがでしょうか。
D(略)
E最後に本質的な疑問です。この論文はジェンダーフリー思想を完全に肯定していますが、現在、ジェンダーフリーに対しては各界から批判が起きています。文科省が出した「ひな祭りや鯉幟、男女らしさを強調する名前は好ましくない」と書かれた冊子が問題になったのは記憶に新しいと思います。自民党や民主党の委員会でもジェンダーフリーには問題があるという公式見解を出しました。また、ジェンダーフリーを主張しているのは、特定の思想を持つ政治団体や組織(あえては書きません)が中心となっています。本来、公平中立であるべき教科書において、このような思想を肯定した論文が掲載されるのは問題があると思うのですが、いかがでしょうか。
11/13、桐原書店より、文書(内容証明郵便)にて最終回答あり。詳細は書きませんが、上記の質問には半分しか答えず、内容に何も問題はないとして、
この評論をそのまま掲載するそうです!!!
筆者に関する疑問
神名さんのカキコです。
●まず、次の引用をご覧ください。『男性学入門』(著者○・作品社、1996年8月30日第一刷発行)という本からの引用です(P167〜168)。
---(引用)---
ミードのこの研究から、すでに六〇年以上の年月が経過している。
しかし、最近の文化人類学の成果では、フェミニズムの立場から研究を行なっている研究者からも、ミードの例に対していささか懐疑的な考察が増加しているようである。
つまり、「性役割」や、<男らしさ><女らしさ>の文化的な規定性については承認するが、同時に、あらゆる文化を通じて[男/女]のニ項対立図式が普遍的に存在しており、また、そのほとんどすべてにおいて、男性の側が“文化”を、そして女性の側が“自然”を代表するという、“男性優位型のものの見方”が存在しているというのである(オートナーほか『男が文化で女が自然か』山崎オヲル監訳、新評論など参照)。
(中略)
もちろん、これらの人類学者たちはフェミニストであるから、この現状を肯定するわけではない。むしろ、女性の劣位の原因が、育児への拘束にあるのだから、育児を男女共同の作業とすることで、女性の社会参加を拡大することの必要性こそ、彼女たちは主張しているのだ。
すべての文化が「男性優位主義」になっているかどうかという点については疑問があるのだが、
---(引用終わり)---
この引用中の「ミードの例」というのは、ニューギニアでの「アラペシュ族」「ムンドグモル族」「チャンブリ族」の研究を指しています。ご覧の通り、著者は『男性学入門』を書いた時点(遅くとも96年前半でしょう)において、ミードの調査研究に対して「フェミニズムの立場から研究を行なっている研究者」からでさえ、これを疑問視する声が挙がっていたことを知っていた、ということです。
ここには、ミードの研究が「否定された」とは書いていませんし、また著者は自身の考えとして【すべての文化が「男性優位主義」になっているかどうかという点については疑問がある】とも述べています(ただし疑問の根拠には一切触れられていません)。
しかし『ジェンダーの視点から』(桐原書店の教科書に掲載された文章)では、著者は、【育児は女性に向いているという意見には、さきに挙げたミードの研究が反論してくれるだろう】と述べているのですから、こちらでは彼はミードの研究を正しいものとして扱っているわけですね。
もちろん、「学者が見解を変えてはならない」ということはありません。しかし、それには正当な理由が必要です。つまり、「フェミニズムの立場から研究を行なっている研究者」やその他の研究者からの、疑問や否定に対して、ミードの研究が正当なものだといえる根拠が必要です。だけど、そんなものがあるわけがない。なぜならミード以降の再調査では、彼女の研究に対して否定的な結論しか出てこないからです。
この『ジェンダーの視点から』はいつごろ書かれた文章なのでしょうか。もし『男性学入門』よりも後に書かれたものでしたら、以上の事実から導かれる結論は以下の通りです。
少なくとも著者は『ジェンダーの視点から』を書いた時点において、ミードの研究に対して疑問視ないし否定する意見が存在することを知っていた。つまり『ジェンダーの視点から』を執筆した時点で、「確信犯的に」ミードの研究成果を正しいものとして扱ったということになります。
(メールはここまで)
桐原教科書の「ジェンダーの視点から」は『ジェンダーで学ぶ社会学』からの引用です。この本は『男性学入門』の2年後の「1998年」発行ですから、やはり……。
11/29 ミード否定の資料を送ったら、「受取拒否」をされてしまった。都合の悪いデータは、たとえそれが事実であっても要らないというわけでしょうか……。
鈴彦姫さんのご意見です。
●受取拒否、頭にきたので、又送らせてください。
「ジェンダーの視点から」を読んで、自分の高校時代を鮮明に思い出した。某高校に通っていた私は、その学校の自由な校風にどっぷりとつかり、自由を満喫していた。男にだって負けないと思っていた私は、少々生意気な女子高生だったかもしれない。当時高校は、家庭科は女子にしかなく男子は柔道やその他の教科を勉強していた。私は家庭科は大好きだったが、なぜ男子にはないのか素朴に疑問を感じた。仲良しの○さんと意気投合し、担任や家庭科の先生に聞いてみたが何もはっきりはしなかった。
私達は、婦人問題研究会に入った。それは放課後卒業生の大学生(思想団体の人)がやってきて、テキストを読み、話し合うというものだった。テキストはエンゲルスの「家族・私有財産および国家の起源」そしてミードを代表とする性差を否定する文章。正論8月号で林氏が「フェミニストたちも70年代以降この方法を絶えず実践してきた。フェミニズムの運動と組織は少なくとも30年以上の草の根レベルのオルグ活動という、たゆみない積み重ねの上に成り立っているのである。」と指摘しているがまさにそのはしりの活動だったに違いない。
当時はウーマンリブの時代でジェンダーという言葉は聞かなかった。金銭的に自立しない女は鎖につながれた犬と同じだと言われ、「女らしさ」は知らず知らずのうちに自分にすりこまれたのだと言われた。私は結婚も子供を産むことも何か厭わしいもののような気がした。しかし何かが違う。自分の内なる感情とどこかちぐはぐな気がした。そう訴えても大学生は許してはくれない。性差を否定する民族の例は特殊ではないかと意見を言っても「それは君がまちっがている。」と否定される。高1や高2の女生徒が大学生に勝てるわけはない。何か自分の存在自体を否定されたようで、頭の中が混乱し涙を流しても大学生は足を組み冷ややかな目で見ている。あの冷たい目をありありと思い出した。結局○さんはその思想団体に入っていった。
私はもっと自分の気持ちに正直でいたいと思った。本当に「女らしさ」がすりこまれたものなのか確かめてみたいと思った。普通に生きてみようと思った。そして研究会をやめた。
あれから30年生きてきて私ははっきり言える。「女らしさ」はけして文化によってのみ作られたものではない。生物学的な特質とそれから派生した文化的な性差である。ところが、教科書の本文からは全くそのようには読み取れない。だからこそ私が自分の高校時代を思い出したのだ。
教科書には「ジェンダーは、人間の社会や文化によって構成された性なのである。」とはっきり書いてある。生得的な要素などどこにも書かれていない。これを読んだ女子高生が、私と同じように自分の存在を否定されたように感じる危険がおおいにある。
2人の子供を育て、今は本当に良かったと思っている。育児は面倒なことも多く、時にいらいらもし、時に自信を失い、悩み、それでも子供のかわいらしさに、愛情を注ぎ、見守ることだ。そして時々何物にも変え難い充実感を味わうのだ。多くの母親は私と同じように感じているはずだ。子を産み、乳を与え、育て成長を身守る。それが人々に自然なことに思えたからこれまで女性が育児を中心におこなってきたのではないか。それを伊藤氏は「育児は女性に向いているという意見には、さきに挙げたミードの研究が反論してくれるだろう。」と言う。氏の挙げたミードの研究のどこに反論の根拠があるのか本文中には探せず、又仮に有ったとしても、特殊な例を論拠にすることは問題であり、しかも今やミードの説すら否定されたというのに、何を論拠に論を進められるのか。ミードの研究部分無くしてはこの評論は成り立たない。
更にこの教材のひどいところは、学習の手引きだ。「次の考えに対してどのような観点から反論できるか、まとめてみよう。」とあり、項目に「育児は女性に向いている。」とある。つまり、生徒は「育児は女性に向いている。」ということに反論するように仕向けられているのだ。これから結婚をし子供を育てることに夢を膨らませている女生徒がいたとして、その生徒がこの問題にどう答えることをこの教材はは期待するのか。また、「育児は女性に向いている。」についてうまい反論が言えた生徒がいたとして、では次の発展として誰が育児に向いていると言わせるのか。「男性が向いている。」と言わせるのか。「女性も男性も向いていないから、母親からも父親からも離してスペシャリストに育児は任せよ。」と言わせるのか。将来子供を育てている時に育児がうまくいかず悩んだ時に、「育児は女性に向いているわけではない。」とこの教材を思い出させ育児を放棄させるのか。育児とは悩みながら親も成長していく日々の作業なのだ。
育児ということを扱うに最も大切な愛情や心、責任という視点が全く欠落し、これまでの文化を壊すことだけしか教えていないこの教材を高校生に教えることは、私断じて許せません。
12月27日、以下の公開質問状を郵送しました。
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公 開 質 問 状
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12/28 ミード否定の資料を送ったら、またしても「受取拒否」をされてしまった。これで2回目!!
12/31 予想通り「公開質問状」も受取拒否!
それにしてもユーザー(教員)の質問に答えようとしない教科書会社っていったい……
1/11 資料と質問状をFAXにて送付。
1/23 この件がついに「世界日報」にて報じられる!!
ジェンダーフリー 高校国語教科書にも
否定された学説を根拠に
性差を否定するジェンダーフリー思想が批判を受けるなか、四月から使用される高校国語教科書で、学問的に否定された学説を根拠に「ジェンダーフリー社会」を推奨する論文が掲載されていることが、このほど明らかになった。政府も公式に男女共同参画社会が「男らしさ」「女らしさ」を否定するものではない、としたばかりであり、「生徒が誤った観念を刷り込まれることになる」と、有識者から懸念が強まっている。
(山本 彰)
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文科省 「論理の読み取りが主眼」と釈明
生徒に刷り込みの危険性認める
出版社 「論議する立場にない」と逃げ腰
次期改訂で各社一斉に広まる恐れ
この教科書は、『展開・国語総合』(桐原書店=東京都杉並区高円寺南)で、問題となっているのは、( )教授による論文「ジェンダーの視点から」の部分だ。
この文章の冒頭で、( )氏は文化人類学者のマーガレット・ミードに「ニューギニア地域のチャンプリ族は男が繊細で臆病、女は頑強で管理的役割を果たしている」とした研究があることを強調。「このミードの議論は、いわゆる『男らしさ』や『女らしさ』が絶対的なものではなく、文化によって変化すること(中略)を明らかにした点で画期的」と称賛している。
だが、著者が根拠にしているミードの論文は、その後の再調査などで、(1)現地通訳が、からかって彼女に事実とは正反対のことを語っていた(注・この批判は誤り。これをまとめた冊子では「チャンプリ族の女性は一家の稼ぎ手であったが、その労働をコントロールするのは夫や父親であった」と訂正されている。8/26記)(2)ミード自身も「性差の存在を否定するような実例を見つけたなどとはどこにも書いた覚えはない」と表明している――との事実が判明し、論議の材料にするには全く不適切なものだ。
桐原書店は、本紙の取材に対し「教科書出版社であり、ジェンダーフリー論議についてコメントする立場ではない」(同社広報担当)と説明。ミード学説を教えることは教育上、配慮の欠けたものになるのではないか、との質問にも、「答えられない」の一点張りだ。
そのほか、同教科書記述は、ほとんど根拠にならないミード以外の学説を紹介したり、「オリンピックの女性選手と競争して勝てる男性はそれほどいない」と書くなど“苦心”しながらも、「男らしさ」「女らしさ」が「人間の社会や文化によって構成された性である」と断定。
その上で、「ジェンダー(社会的性)がセックス(生物学的性)を規定する」との最新議論を紹介し、「女性たちが多様で個性的な能力を十分に発揮できる社会を作り出すためには、ジェンダーにとらわれない社会=ジェンダー・フリー社会の実現が前提になる」と力説している。
性差否定の内容がどんどんエスカレートしている評論「ジェンダーの視点から」の教科書記述(桐原書店のHPより)
この問題にいち早く気づき、同社に何度か問い合わせをし、ミード学説についての資料を送付してきた長尾誠夫氏(都立高校教師)は、資料の受け取りを拒否される一方、最終的に「ミードは主流である」「高校生にジェンダーフリーを教えることは大切」との回答を得た、という。
このままでは、学説的に否定されたミード論文を権威を持って引用した教科書により、「何万という高校生が授業でジェンダーフリーの考えを刷り込まれる」(長尾氏)ことになりかねない。
一方、この教科書を検定で認可した文部科学省教科書課は「国語教科書の評論は、作者の論の展開を読み取る教材で、ジェンダーを教えるわけではない」(太田課長補佐)と苦しい弁明。だが、その学習作業の中で「(ジェンダーフリーの思想が)刷り込まれる可能性が無いとは言えない」(同課長補佐)危険性は十分ある。
さらにミードについて「全く学説が否定されているというものでもないようなので…」と説明。検定基準として学説の評価まで立ち入ることに及び腰だ。
国語教科書を研究してきた若井勲夫・京都産業大学助教授は「国語教科書は、文章を表現したり理解したりする本来の目的から、最近は流行に媚(こ)びる内容が目立ち、思想的に利用されやすくなっている。今後、それが一層、強まるような危機感を覚える」と指摘。
今回の改訂では、「展開・国語総合」だけだが、この内容が何も議論無く掲載されれば、次回の改訂では、各社一斉にジェンダーフリーやフェミニズム教材が掲載されかねないことは、これまでの歴史教科書の例から見ても明らか。
加えて、同教科書の記述では、「われわれの生物学的差異は、男女に簡単に二分できない多様性を持っている」とし、「男性器と女性器を併せ持つ両性具有者が存在」との注釈も。思春期の高校生に、性差に関し一層の混乱を与える内容になっている。
こうした教科書で学ぶ生徒の父母や、現場で教える教師の懸念に鈍感な教科書検定と教科書会社の姿勢である、と言わざるを得ないだろう。
桐原書店は確信犯!!
影石さん
●職場で新年度用の副教材をあれこれ見ていたら、「小論文重要テーマ解説『論点を探る』というのがあった。仕事柄生徒の論文指導をすることが多いので、これは参考になるかな、と手に取ったら、偶然にも桐原書店発行であった。
パラパラと見ていくと、まず「民法改正案」としてこうある。
『現在の民法では、結婚後は男女どちらかの姓を選択しなくてはならないことになっている。実際には、女性が改姓することが圧倒的に多い。しかし、現代は女性の生き方が多様化し、自分の生き方を自らの意思で選択していこうとする女性が多くなっている。また、社会における男女格差をなくす動きが進むなかで、改姓は女性の不利益につながるとして夫婦同姓の見直しを求める意見が出されるようになった。』
うーん、これってずいぶんと一方的な記述じゃないかな、と更に見ていくと、今度は「少子化と男女問題」のところではこんな解説が。
『少子化をくい止めるために、国はまず、その原因を調べた。すると、少子化の根底には、男女問題が横たわっていることがわかってきた。「男は仕事」「女は家事、育児」など、男女の決まった役割が社会のなかでしっかりと根を下ろし、それがあらゆる方面で女性を抑圧している。たとえば、会社では家事や育児よりも、真っ先に仕事を優先させるよう社員に求めてきた。そこで仕事の中心を担うのは、「家事、育児」の役割を与えられていない男性だった。しかし、現代は、社会へ出て男性と同じように仕事を続けようとする女性が数多くいる。仕事を持つ多くの女性は、「仕事優先」の会社で生き残るために結婚しても子どもを生めなかったし、生まないという選択をするようにもなった。』
いやはや、これはひどい。普通この手の論点の解説本では、偏りが生じないよう賛否両論を併記してあるものが一般的なのだが、ここでは偏見にまみれた独善的な意見(「男女の決まった役割が社会のなかでしっかりと根を下ろし」ていた昔の方が少子化ではなかったんだから、完全に論として破綻しているじゃないか!)を一方的に断定しているだけである。これでは考察の余地なく最初から生徒に結論を誘導しているようなものだ。こんなものが高校生用の小論文の解説書と言えるのかね。
そして、出ましたねぇ。「ジェンダー」についての解説。
『(前略)ジェンダーについての研究が進むにつれ、社会がつくった固定的な役割が、男女の不平等や女性差別を生んでいたことが明らかになってきた。そこで、社会が変われば、男女の役割分担も、女性差別の問題も解決できるという考え方が生まれた。現代においてはこの考え方は広く社会に受け入れられ、社会変革が進められている。』
やれやれ。加えて、ご丁寧にも欄外には「関連キーワード」として「メンズ・リブ」についての解説まで出ているよ。
なるほど。桐原さんは確信犯であったか。
それにしても、教材としての完成度を犠牲にしてまで特定の思想の刷り込みに加担するかね。桐原書店は他では結構いい問題集とかも作ってるのにねぇ。
(参考)11/13 産経新聞の記事
■「ジェンダーフリー」国会で議論
国や地方自治体の男女共同参画行政や「ジェンダーフリー教育」は男らしさ・女らしさや性差そのものを否定するなど偏っているのではないか、という批判が高まっている。12日の参院内閣委員会でこの問題が取り上げられ、男女共同参画担当相の福田康夫官房長官らは「性差を否定するものではない」と答弁、一部の学者やフェミニズム運動家の見解を排除した。
「性差否定ではない」
福田担当相ら 教育現場にも徹底
基本法の精神
亀井郁夫氏(自保)の質問に答えた。千葉市の男女共同参画条例に盛り込まれていた「男らしさ・女らしさを否定しない」とする趣旨の文言が「男女共同参画社会基本法の精神に反する」と一部の団体の反発で削除された。亀井氏はこのケースを挙げ、「男女が互いの違いを認めて尊重しあうのが基本法の精神ではないか」とただした。
福田官房長官は「男らしさ・女らしさを強調しすぎるのは問題だが、時代や社会情勢が変わっても男女の性別に起因するものは否定できない」と、基本法は性差を否定しない立場を示した。性差否定とは矛盾するが、「公務員や審議会の委員、企業の幹部などは男女同数が望ましい」などと「結果の平等」を求める主張がフェミニストの間にある。
これに対し、福田官房長官は「男女共同参画のために機会を提供し、男女が選択できることが重要」と、目標は「機会の平等」であり、「結果の平等」ではないことを強調した。
非公式な用語
「社会的・文化的な性差の解消」の意味で「ジェンダーフリー」という言葉が定着しつつある。亀井氏は「米国では使われていない言葉。基本法の精神は『ジェンダーフリー』か」とただした。
内閣府の坂東真理子・男女共同参画局長は「『ジェンダーフリー』という言葉は国連も日本の法令も使っていない」と、公的用語ではないと指摘。その上で「一部に、男女の区別をなくす、男女の違いを画一的に排除しようという意味で使っている人がいるが、男女共同参画社会はこのようなものを目指していない」ときっぱり否定した。
文科省と連携
文部科学省の委嘱で発行されたパンフレットが、こいのぼりやひな祭りを否定的に記述するなど伝統的男女観の排除が教育現場に及んでいる実態にも批判が上がっている。これについて、米田建三・内閣府副大臣は「男女共同参画社会に関する教育は、決して画一的・機械的に男女の違いを認めないということではない。誤解を生まないようにしたい」と答弁、文部科学省などと連携して教育現場に趣旨を徹底する意向を示した。
■男女共同参画行政■ 混乱、政府姿勢に批判の声も
日本の男女共同参画行政が「男女の区別を取り払うこと」と解釈され混乱しているのは、政府の姿勢に問題があると指摘する声が多い。
平成11年に施行された男女共同参画社会基本法に基づき、翌年、首相の諮問機関「男女共同参画審議会」が出した答申は、男女共同参画社会を「男女が性別に基づく固定的役割分担意識にとらわれず…」と定義付けている。
この記述について八木秀次・高崎経済大助教授は「男らしさ・女らしさの否定こそが基本法の目指す共同参画社会だ」と批判。林道義・東京女子大教授は基本法の条文について、@男女の機会均等と利益享受の均等を混同している。A専業主婦を認めず、女性を全員働かせようという思想が秘められている B家族の一体感や共同性を廃止すべきだとしている−などの問題点を指摘している。
基本法の施行を受け、自治体でも男女共同参画条例の制定が相次いだ。
内閣府によると、これまで38都道府県と79市区町村で施行。各自治体とも基本法と似た趣旨だが、6月に施行された山口県宇部市の条例には、誤解を招かないためとして「男らしさ、女らしさを一方的に否定することなく男女の特性を認め合う」との文言が盛り込まれた。
逆に、千葉市では条例案の「女らしさ、男らしさという言葉に端的に表される、性別により男女に一定のあり方を期待する意識は、歴史的、文化的にも根差しており、一方的に否定されるべきではない」との文言が抗議を受け、削除されて9月議会で成立した。
また、千葉県では@女性の雇用に積極的な企業を県が工事請負などで優遇する A農家の夫と妻の間で収益の分配などを定める家族経営協定を促進する B子供を産む産まないは自ら決定できる−などの内容を盛り込んだ突出した条例案が問題化。堂本暁子知事は「日本一の条例」を自負したが最大会派の自民党から反発を受け、一部修正して9月議会に提出したものの継続審議となっている。
男女共同参画をめぐる議論は今後も各地で続きそうだ。
●男女共同参画条例
「性差否定じゃない」徹底
−内閣府が自治体に通知
男女共同参画行政が男らしさ・女らしさの否定ではないかと批判されている問題で、内閣府は14日、「性差否定ではない」との趣旨を徹底する文書を都道府県に送ることを決めた。
内閣府は「従来の姿勢を確認するだけ」としているが、共同参画の意味づけで混乱する自治体の行政がかなり是正されそうだ。
この問題をめぐっては、男女共同参画審議会の委員を務め、現在、内閣府の男女共同参画会議・影響調査会会長の大沢真理東大教授が「政府はジェンダー(社会的・文化的な性差)そのものの解消を志向している」と主張。地方自治体の行政や教育現場にも影響を与えてきた。
このため、「日本の男女共同参画行政は、男女の特性を認める『男女平等』『男女同権』ではなく、男女の区別そのものを否定する過激なフェミニズムに基づいている」と反発の声が上がっていた。
しかし、今月12日の参院内閣委員会で福田康夫官房長官、米田建三・内閣府副大臣、坂東真理子・内閣府男女共同参画局長が@政府が目指す男女共同参画社会は男らしさ・女らしさの否定ではないA「ジェンダーフリー」という言葉は公的用語ではなく、男女の区別をなくすという意味ではないB教育現場などで誤解を生まないようにしたい−との立場を明らかにした。内閣府男女共同参画局は「方針転換ではない」としながらも、「国会でまとまった答弁をしたのは初めてなので、内閣委員会でのやりとりを都道府県に送り、趣旨を徹底したい」としている。
2003 7/1 産経新聞の記事
・内閣府が都道府県・政令指定都市の男女共同参画行政担当者を集めた政策研修会で
提示した「男女共同参画に関する基本的な考え方」の内容が三十日、明らかになった。
男女共同参画は「個人の内面にかかわる『男らしさ』『女らしさ』や、伝統文化などを否定
しようとするものではない」「男女の差の機械的・画一的な解消を求めているものでは
ない」と指摘、「ジェンダー(社会的・文化的に作られた性差)フリー」については安易な
使用を戒めている。
地方自治体が策定する男女共同参画推進条例の中には、性差自体を否定したり
「ジェンダーフリー」という造語を公用語のように使用したりするケースが目立つため、
自主的な軌道修正を促すものだ。
「基本的な考え方」では、男女差について個人差や社会的・文化的な影響が大きいと
しながらも「脳の構造と機能の相違があることは動物実験からも認められている」と強調。
男女共同参画は「生物学的には男女に違いがあることは当然として認めた上で、性別に
かかわりなく、個人の能力を十分に発揮できる社会の実現を目指す」との立場を明確にした。
また「ジェンダーフリー」については「『北京宣言および行動綱領』や最近の国連婦人の
地位委員会(CSW)の年次会合の報告書などでも使われていない」「わが国でも男女
共同参画基本法などの法令において使用していない」としている。
内閣府では「表現の自由」や「報道の自由」に抵触しかねない規定を持つ自治体条例の
存在が指摘されたことを踏まえ、今夏に「基本的な考え方」の第二弾をまとめて都道府県・
政令市の担当部局に通知する方針。
http://www.sankei.co.jp/news/030701/morning/01iti002.htm
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