「卑し系」のジェンダーフリー



 現在、世の中では「男女共同参画」や「ジェンダーフリー」がこっそりと、そして、ときには大手を振って進行している。これは、一般には「男女平等」とか「性差別をなくすため」という、一見すると反対のしようのない大義名分に支えられている。しかしその実態は、あらゆる性差を否定するような、「ジェンダーフリー」という名の「ジェンダーレス」運動なのである。

 社会的、文化的、あるいは心理的性差を「ジェンダー」という。「ジェンダーフリー」はこの意味での「男らしさ」や「女らしさ」をすべて否定する。それどころか、身体的な性差(セックス)さえ否定しようとする。たとえば、「男女共同参画」のポスターで男女が握手しているデザインのポスターを描いたとする。このとき、男性をショートヘアー、女性をロングヘアーに描いただけでも、描き直しを要求される。仮に男女を共にスキンヘッドで、しかも両者をシルエットで描いたとしても、男女の差はあきらかなはずだ。しかし「ジェンダーフリー」の思想ではそれすらも許さない。結局は全く同じ形の、男女の定かならぬ雪ダルマのようなシルエットが二つ、握手しているデザインになる。どこが「男女共同参画」のポスターなのか、まったくわからない。

 このような愚挙は、「性差別は性差があるから起こる」という考えに基づいている。しかし、これは「差異」と「差別」の区別がついていない、素朴すぎる考え方だ。この理屈で言うと、黒人差別は肌の色が同じにならなければなくならない、ということになる。また、世の中からあらゆる差別をなくすためには、あらゆる差異をなくさなければならない。だが、それは現実には無理な要求だから、最後には「この世から差別をなくすことはできない」というニヒリズムに陥ってしまうことになる。したがって、「ジェンダーフリー」はそもそも実現不可能な提案なのだ。

 性差別は、確かに性差を利用して行なわれる。しかし、性差は性差別の「動機」ではない。差別の動機は「アイデンティティ補償」である。自分に自信が持てなかったり、不遇感にとらわれたときに、他の人間や他のカテゴリーを、不当に自分よりも価値の低いものとみなす。それによって、自分を相対的に優位におくことで、アイデンティティ不安を打ち消そうとする。これが「差別」の本質だ。例えば、男性と女性という二つのカテゴリーを並べて男性の方が偉いとか、朝鮮人を日本人よりも劣った民族と見るとか、こういう価値付けは不当である。このような不当な方法で、自分を優れたものだと主張する行為は、「醜い」ものに感じられる。だから「差別」は悪いこととして嫌われる。

 それからもう一つ、性差は性差別に利用されることで「不幸の源泉」であるかのように見えてしまう。しかし実際にはその一方で、男女の「エロスの源泉」にもなっている。同性愛という例外があるじゃないかという人もいるが、そういう人たちだって恋愛対象を「男性であるか・女性であるか」という観点で選んでいることには変わりない。またバイセクシャル(両刀使い)であっても、男性から受け取るエロスと、女性から受け取るエロスには違いがあるはずなのだ。

 しかし、ここでは話を簡単にするために、話を男女間の異性愛に限ることにしよう。性差が「エロスの源泉」であることから、男女の関係(その典型的な例は結婚や恋愛である)が生まれ、その結果としても男女が幸福になったり不幸になったりする。この場合、大切なことは、「性差」それ自体を否定することではなくて、どういう場合に幸福になり、どういう場合に不幸になるのか、その分岐条件を考えることだ。出発点(性差)を否定すると、そこから生じる幸福も不幸も、両方とも否定しなければならなくなるからである。

 なぜ「ジェンダーフリー」にこういう発想がないのかというと、「ジェンダーフリー」の元になったフェミニズムでは「あらゆる女性は男性から差別されて不幸である」ということが前提になっているからだ。そこでは、男女は常に対立関係にあると言うことが、疑ってはならない「真理」とされている。「そんなことないわよ、アタシは彼と一緒になって幸福よ」といっても、「そりゃアンタ、男にだまされて幸福だと思いこまされているのよ」というだけで、聞く耳を持たない。ここで思考停止。

 だけど、男女の関係というのは、必ずしもどちらか一方が得をしたらもう一方がそのぶん損をするという、対立関係にあるわけではない。不幸にしてそういう関係にある男女もいるが、お互いがお互いの「幸福の源泉」になるような関係もあるはずだ。どういう条件があると男女が対立関係に陥るのか、また、男女がそれを避けて幸福を与え合うような関係を作る条件は何か。その条件を取り出すことこそ、必要なのではないか。性差否定の思想の最大の欠点は、かえってこの問題を隠してしまい、解決すべき問題も解決できなくなる、ということにある。

 「男らしさ・女らしさ」よりも「自分らしさ」というのは、何も考えない者たちにはとても魅力的に聞こえるだろう。だけど、これは抽象的な「お題目」に過ぎず、そこには具体的な人生の像(イメージ)がない。だから現代では「自分さがし」ということが問題になってもいる。「男らしさ・女らしさ」を否定した後に、どういう具体的な人生像があるのかといえば、おそらく、そんなものはない。価値の多様化の風潮に振りまわれれて人生像の「お手本」を見失っているに過ぎないからである。

 確かに現代では、昔のように何から何まで「らしく」で縛られてしまうと、とても息苦しい感じがする。今は、昔ほどには「らしく」に縛られなくてもよい時代になった。「縛られなくてもよい」というのは、あくまでも本人が不都合を感じた場合に「それは絶対的なものではないんだよ」と言うことであって、不都合を感じなければ、従来の「らしく」に従っていきることも選択肢の一つである。これが「自由」ということだ。

 でも、「ジェンダーフリー」の場合には「縛られなくてもよい」ではなくて「縛られてはならない」という主張になっている。本当に「自由」ということを考えるなら、自分の意志で「男らしさ・女らしさ」を選択してもよいはずなのに、それを悪いこと、間違ったことだと決めつけてしまう。これは「自由」ではなく「抑圧」である。「ジェンダーフリー」論者は、他人が自分たちの気に入らない選択をすることを許さない。そこには「ジェンダーフリーの実現に参加することが価値のあることだ」という価値観が隠し持たれていて、それに反対する人は「反動分子」にされてしまう。「性」や「差別」について深く掘り下げて考えていないことが、こうした矛盾になって現れているのだ。矛盾を隠すために、ますます自分たちの「真理」を振りまわすような悪循環を起こしてしまう。「ジェンダーフリー」論者は自覚していないだろうが、これは事実上の思想的な行き詰まりである。

 世の中に目を転じれば、確かに女性が不利益を被っている事実はある。だが、それを本気で解決しようと思ったら、従来のフェミニズムや、そこから出てきた「ジェンダーフリー」を白紙に戻して、根本から考え直さなければならない。なぜなら、「ジェンダーフリー」は「性差別は性差があるから起こる」という出発点から間違えているからだ。そして何よりも、この間違った出発点から始まった考え方は、ごく一般的な「性」についての考え方や実感から懸け離れた、非常識なものになっている。



 ところで、女装者(トランスヴェスタイト)やトランスジェンダー、トランスセクシャルなどにも、「ジェンダーフリー」に賛同し、積極的に協力する者たちがいる。こういうカテゴリーに属する人たちは何らかの仕方で、身体の性別とは逆の性別を生きようとしている(あるいは、すでにそのように生きている)。このような生き方を抑圧するのは、「男は男らしく・女は女らしく」という規範である。もちろん「ジェンダーフリー」はこのような規範を否定する。だから、つい「ジェンダーフリー」に飛びついてしまいやすい。

 しかし「女装だからスカートをはく」、あるいは性同一性障害のように「身体が男であっても自分を女だと認識しているからスカートをはく」というのは、よく考えてみれば「女は女らしく」という規範を実行しているということだ。そもそも、性別なんか関係ない、性別にとらわれないというのなら、「女装したい」と思ったり、性同一性障害になったりするはずがない。女装者も性同一性障害も、性別という概念なしにはあり得ない存在なのである。

 他人に対して「性差にとらわれてはいけない」といいながら、その一方で「私は自分を女だと認識している。それを社会的に認めろ」というのは、あきらかに欺瞞である。欺瞞といって言い過ぎなら、矛盾である。女装者や性同一性障害の当事者にとって、「ジェンダーフリー」は自己否定の思想なのだ。理屈の上では、「ジェンダーフリー」論者であることと、女装者・性同一性障害であることとは両立するはずがないのだ。いいえかれば、「ジェンダーフリー」に加担する女装者や性同一性障害の当事者は、自分がどのような性質を持っているのかということを、まともに考えたことがないということだ。

 現実には、女装者や性同一性障害の当事者などの内で「ジェンダーフリー」に加担するのは、インテリを自認しているような人に多い。インテリジェンスに欠ける「自称インテリ」である。自分自身の「女装者であること」や「性同一性障害の当事者であること」という経験を無視して、フェミニズムの「理論」を選んでしまう。もちろん、「性」や「差別」について自分の頭で考えていないから、さきに述べたようなフェミニズム理論の矛盾にも気がつかない。「自称インテリ」は、経験から得た知識よりも、情報として与えられた知識に弱い。オウム真理教の幹部になった大卒たちも、この手の「自称インテリ」の同類だ。

 独善的なところも、両者に共通している。自分が信じる宗教のために「ポア」と称して他人の生命を平気で奪ったオウム幹部たち。自分が望む性別で生きるために、他人の常識的な性別観念を「ポア」しようとする「ジェンダーフリー」加担者たち。どちらも、自分たちだけに都合のよい思想的な「正義」を振り回して、他人を蹂躙することを当然のことと思っている。この独善性は、心根の卑しさの現れである。「ジェンダーフリー真理教」の信者は、「癒し系」ならぬ「卑し系」だ。

 「ジェンダーフリー」こそ「真理」だと考えると、これに従わない者たちは「遅れた考えの持ち主」だということになる。実はこれは、さきに述べた「差別」の構造そのものなのだ。「ジェンダーフリー」という基準を置くことで、自分たちを進んだ考えの持ち主、優れた存在と考えることができる。だがそれは、「ジェンダーフリー」論者が何らかの不遇感を抱えているがゆえに必要とされる「アイデンティティ補償」なのである。

 世の中の価値観を顛倒することで、自分たちこそ価値ある者だと主張する。ニーチェは、このような考え方を「ルサンチマンの思想」とか「奴隷道徳」と呼んだ。この場合の「奴隷」とは、かつてのアメリカの黒人奴隷のように、本人の意思に反して連れてこられた人たちのことではない。「ジェンダーフリー」加担者のように、自ら自己否定的な在り方を選択した者たちを指している。これをここでは「卑し系」と呼ぶのである。

 このような「卑し系」を別にすれば、多くの女装者や性同一性障害の当事者は、男性がどういうものか、女性がどういうものかということについて、ごく常識的な考え方を持っている。つまり、性別という概念を、世間一般と共有している。女装者や性同一性障害の当事者が、社会に受け入れられるためには、この共通点こそが糸口であるはずだ。「ジェンダーフリー」のような非常識な観念を振り回せば、ますます理解しがたい存在と見られることになる。

 そのためには、髪を伸ばそうと、ロングヘアーのウィッグを使おうと、スカートをはこうと、一向に構わない。また、それは自らが望む行為でもあるはずだ。自分自身がやりたいことや価値観を捨てて「ジェンダーフリー」に魂を売り渡す必要など、まったくない。これこそが女装者として、あるいは性同一性障害の当事者として、「卑し系」に堕落することなく、「自分らしく生きる」ということなのだ。

 「卑し系」になるな。自らに「弱者」のレッテルを貼るな。社会に不満をいう前に、自分がどのように生きて行きたいのかを、徹底して自分自身に問え。その時に、易きに流れて自分に嘘をつくな。「情報としての知識」に自分を売るな。どんなに理屈をこねても、人は「卑し系」の似非インテリをを軽蔑するものなのだ。軽蔑する人間をうらむより、軽蔑されない人間になることだ。自分を変えられない人間が、他人を自分に都合よく変えることなど、できはしないのである。なぜなら、他人も自分と同じく、一個の独立した人格だからだ。そのことを忘れると、独善的な「卑し系」になってしまうぞ。






以下は神名さんのエッセイです。


私の司馬解釈

司馬さんは確かに「イデオロギーで死ぬのはばかげたことなんだ」という意味のことを言っていると思いますけど、この「イデオロギー」というのは、私の理解ではもう少し具体的に「真理主義」を指しているように思います。しかもそれが比較的短期間で終息する「時代の気分」のようなものである場合ですね。

 司馬さんは、「個人の信念」や「時代の美意識」というものを否定していません。司馬さんが南北朝を書かなかったのは、むしろ「時代の美意識」を感じなかったからだと書いていた記憶があります。『空海の風景』で空海は、真言密教を学ぶために命懸けで唐に渡ります。『燃えよ剣』での土方歳三は、自分の信念に殉じて戦死します。また『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛は、日本とロシアの紛争解決のためにその身を賭して活躍します。でも私には、司馬さんがそれらを「ばかげたこと」として描いているとは思えませんでした。しかし、「個人の信念」や「時代の美意識」も「フィクション」であることには違いありません。

 神は英語で“god”ですが、キリスト教の唯一絶対神の場合は大文字で“God”になります。司馬さんがそれになぞらえて、絶対化したフィクションを「大文字のフィクション」と書いていたのを読んだ記憶があります(何か随筆だったと思います)。この大文字の“Fiction”を、私は「真理主義」と理解しています。

 司馬さんは小文字の“fiction”を愛した人ですが、“Fiction”が熱病の流行のように世を覆うことを嫌っていました。司馬さんにとっての“F”とは、自分を戦地へ赴かせた昭和初期のそれであり、また60年代の左翼運動であり、これに「列島改造論」やバブル景気での熱狂的な土地投機を加えてもよいと思います。“F”が“f”を圧迫することを嫌っていましたし、またそれが国を誤るものだとも考えていたと思います。

 司馬さんが、現代思想の相対主義・懐疑主義者と異なるのは、“F”を拒否する一方で、国家のための“f”は認めているということだと思います。そうでなければ、あれほどまでに幕末から明治(〜日露戦争)までを背景とした作品を書き続けたりはしなかったでしょう。また、何のためであれ“f”を持たない人間(たとえば自分の保身しか考えない役人)は、司馬作品の中では評価が低いようにすら感じられます。少なくとも司馬作品の中で人気が高いのは、主人公が自分の“f”を貫くような作品だと思います。

 私事で恐縮ですが、私はトランスジェンダーの世界に大文字で“Feminism”が入ってきた時から数年来、これに抵抗を続けています。個人の“f”は“F”に対する抵抗の根拠になります。それがあるから、“Feminism”を唱えるのが大学教授の肩書きを持つ人たちであろうと、高卒の私でもかろうじて手作りの思想で(^^;)単独で抵抗を続けてこられたのです(ここで言う「手作りの思想」というのは、自分の“f”を言葉の形で取り出して、それを少しでも多くの人たちと共有できるように鍛えるということです)。

 “F”としてのフェミニズムに殉ずるのは馬鹿馬鹿しいけど、それに対抗し続けてきた自分の“f”のために命を狙われるのなら受けて立ちます。それは現代では「時代の美意識」とは言えないかもしれませんけど(^^;)、「保守的町人思想」とも違うように思えるのですね。










歴史の視点

  「真理」というのは、簡単にいえば「客観的真実」が存在していてそれを言い当てることです。だけど、それを言い当てることが可能かどうかという以前に、まず「客観的真実」なるものが本当に存在するのか、という事が問題になります。この答えは、イギリス経験論やドイツ観念論、私がかじった現象学などでは「ノー」です(ですからもし西洋文明を予定調和の世界とお考えなら、私は異なる意見を持っていて、それは「西洋科学文明」の特徴だと思います)。

 だけど、人間が「まったく血肉化してしまって日常判断では一切疑いを挟まないようなもの」を持っているということも、また確かだと思います。たとえば、いま私の目の前にパソコンがあって、そのパソコンが存在するという事を、私も「日常的な判断」としては疑いません。疑うべきかどうかという事すら考えません。これが「血肉化(身体化、内面化)」ということですね。でも、人間は誰も自分の五感(認識)の外側に出て、パソコンが客観的に存在することを証明できません。つまり、私の前にパソコンが存在するということは、「客観的真実」かどうかはわからないけど、疑いようのない「確信」としては成立している、ということになります。「客観的真実」はないけど「これは真理であるという確信」は存在する、といえばよいでしょうか。

 目の前のパソコンの有無は、「日常判断」としては意見が分かれることはありません。けれども、文化についての評価とか、それこそ歴史認識の問題とかは意見が分かれます。こういう問題についての個々人の「確信」の成立には、その人のこれまでの経験が無視できません。だからそこには、多かれ少なかれ社会的な慣習(まさに「伝統」といわれているもの)も、折り込まれているはずです。

 ただ、自分に内面化(血肉化)された価値観といえども、それだけではまだ「真理」になりません。『燃えよ剣』の土方の個人的信念(確信)は、武州多摩の伝統に育まれて彼に血肉化したものです。

>このようにエトスが血肉化してそれが美意識にまで昇華されたものを司馬は無意識に捕まえているような気がしていたんですがね。

というのは、このような土方の信念について、とてもよく当てはまると思います。そして土方は、おそらく自分自身の信念が「多摩」ローカルなものだと言うことを自覚しています。だから土方は、「薩長の藩士が幕府に関して自分と同じ見解を持たない」ということを、不思議なことだとは思わないわけです。

 一方、勤皇の志士がいう「神州日本」には(国内的には)そのようなローカル性がありません。薩摩でも会津でも「神州日本」の中にあるという点では同じで、これはいわば当時の彼らにとっての「客観的真実」なんですね。「神州日本」を相対化する視点が存在しない。こういう考え方は「真理である」という形で「確信」されやすいといえます(もちろん、ここでいうローカル性というのは相対的なものですから、高杉晋作や伊藤博文のように海外を経験したり、あるいは海外について一定の知識を持つことによって、この視点も相対化されてゆくのですが)。

 ここで大切なのは、この「日本は神州である」という真理が、本当に「客観的真実」であるかどうかを確かめることが出来ないということです。これは「神」の存在証明ができないのと同じで、原理的に不可能なんですね。だから、信じたいという動機を持つ人だけがそれを真理として認めるという構造になっています。

 「論より証拠」か「証拠より論」かというお話しも、ここに関わってきます。これはどちらかが正しいのではなくて、条件によって「論より証拠」になったり「証拠より論」になったりします。自然科学なんかは「論より証拠」が成立しやすい分野だと思います。その理由は、1番目として、事実の追求それ自体を目的としていること。2番目に、事実の記述に臨んで価値判断を排除していること。3番目は、目の前のパソコンの有無を論じるのと同じで、直接に知覚できる実験や観察という方法をベースとして用いたからです(それが不可能な、たとえば進化論などでは意見が割れるように思います)。

 でも朝鮮戦争で南北いずれが先攻だったか、南京大虐殺があったかどうかという問題では、「韓国側が先に攻めこんだ」とか「南京大虐殺があった」と信じたい動機を持つ人たちがそういう主張をするわけですね。その動機は、事実の追求とは全く別の政治的な動機、過去の問題ではなく「現在」の問題です。だから、この「現在」の動機を解体できない限り、このような主張は続くでしょうし、仮にそのような主張が出来ないくらいに徹底的・実証的に追い詰めても、他の話を持ち出して「北朝鮮は悪くない」とか「日本は悪い事をした」と言い張るでしょう。こういう場合には、どこまでも「証拠より論」になると思います。

 ですから、どんな場合にも「話し合いはするだけ無駄」といったら間違いだと思いますが、「何でも話し合いで解決できる」というのも間違いです。話し合いによって解決できるかどうかは、上に述べてきたような条件によって決まるということです。

 ところで、「歴史」は上に述べたような自然科学の方法に徹するべきかといえば、私の考えでは「ノー」です。歴史にはそれを記述する目的や視点があり、その目的や視点は「記述される時代」のものではなく「記述する時代」のものだからです(あるいは「記述する人」のものだからです)。例えば、文部科学省が「歴史の授業で幕末を教えるべきだ」と決めたとします。「幕末を教える必要」は幕末人にとっての必要ではなくて、現代における必要ですね。その必要とは具体的に何か、ということを考えなければ、幕末という時代をどのように記述するかを決定できません。同じ幕末を記述するにも、たとえば経済史と軍事史とでは(両者は完全に独立した無関係なものとはいえなくても、やはり)視点が異なるからです。

 歴史論争というのは、たいていは「記述された歴史の中身についての論争」という形を取りますが、その本質は「歴史記述に当たっての目的や視点についての論争」であり、要するに「現代についての論争」であるということですね。






買売春のモラル

>ほんでその交換を、自己のセクシャリティーでだけでなく、貨幣や名誉や恐怖・・・が媒介する場合にどのような交換交通形態が成立するか。そんなこたー、倫理の問題だけでなく<社会的場面における欲望の自然法則>の範囲内の事項ではないか!

 その通りだと思います。特に「社会的場面における」というのが、とても鋭いですね(^^)。そもそも、倫理の中で売買春をどのように扱うか(売買春を肯定するか否定するか)という問題は、その考察の前提として倫理を置けないわけですよね。「売買春は倫理的に悪いことだから、倫理的に悪いことである」というのでは、何も説明したことにならないからです(^^;)。

 ヘーゲルの考えを借りると、人間には「家族・市民社会・国家」の3つの側面があります。「市民社会」というのは契約で成り立っている経済の領域のこと。そこで「生じる利害対立を調停するのが「国家」です。売買春は、この3つの内のどの側面に属するのかというと、「市民社会」つまり契約に従って金銭的な売買をする市場原理の世界ですね。

 それに対して「家族」というのは、契約や金銭的な売買で成立している世界ではありません。これは、友人や恋人といった関係でも同じことですが、人間同士のエロス的なつながりの世界です。つまり、「市民社会」とは異なる原理で成立している世界です。

 KABU さんをはじめ皆さんからは、「当たり前やないか!」とお叱りを受けそうです(^^;)。でも、この当たり前のことが、フェミニズムの論理には含まれていません。たとえばマルクス主義的には、人間は「労働力」という商品です。女性が結婚して子供を産み育てることは、「労働力の再生産」であり社会的な意義を持つ労働である。そういう理屈から「家事労働に賃金を」という主張が出て来るわけです。「家族・市民社会・国家」の区別がなくて、すべてを「市民社会」の原理で説明しようとするから、こういう主張が出て来るわけですね。

 売買春の場合でいうと、「売春がなぜ悪い」という主張は必ず「市民社会」の原理(市場原理)の主張になっています。「当人同士が納得して自分の身体を売ったり買ったりするのがなぜ悪い」という話になる。「自分の身体」を「商品」に置き換えて考えてみれば、これは正当な主張です。そして「自分の身体」を「商品」にしてはいけない、という理由も、市場原理に照らして考える限り説明できないのです。

 そのために、早計な人の中には「資本主義」や「近代思想」を悪く言う人もいますけど(^^;)、でもこれは間違いですね。少なくともマルクスよりも前の近代思想のビッグネームの中で、「人間は市場原理のみに従えばよい」といった人など、誰もいないからです。

 一方、売買春を悪と考える根拠になるのは「家族」の原理です。「家族」というのは、俗に言われるような「血縁」の結びつきであるよりも、人間同士のエロス的な結びつきであることがその本質です。「家族」を描いたよい話というのは、必ずそういう側面が強調されているはずなんですね。そういうエロス的な結び付きは金銭では買えないものです。だから、性的なエロスを金銭で売り歩くのは、「家族」(あるいは「恋人」等)という関係においてのモラルに反することだ、という位置付けになります。

 「売買春それ自体が是か非か」という問いは、実は始めから答えが出ない問いです(^^;)。これは、必然的に「家族」の原理と「市場原理」との水掛け論になります。「家族」の原理と「市場原理」とは、どちらが正しいという性質のものではなくて、最初から異質なものについての原理だからです。だから「ノー バット イエス」になってしまう。でも人間の身体は、誰でもひとつしか持っていませんから、「家族」と「市民社会」に分けるわけにはいきません。それをどう解決するのか。

 日本では基本的には、これは空間的な「場の原理」として使い分けていたと思います。つまり売春をする女性は遊郭に属する(そうじゃない夜鷹なんかは、もっと低い存在に見られていたわけです)。遊郭には家庭と異なるモラルがあって、それぞれ人間が「どこにいるか」によって、従うべきモラル(と、そのモラルに従っての振るまい方)が複数存在していたわけですね。かつて『ゴー宣』で、ソープ嬢は認めるけど女子高生の援助交際は認めない、というのがありました。あれは単に作者の実感を描いただけだと思いますけど(^^;)、日本の伝統的な解決方法に沿うものだったのです。

 それから、「場」が異なるということは、「場(家庭)」と「場(遊郭)」との間の行き来のモラルもあったはずですね。男性は決して好き勝手をしていたんじゃなくて、たまに遊郭に行ってもいいけど、それは「必ず家庭に帰る」ということが条件です。遊びにはまりすぎると、かえって「だらしないやつ、男の風上にも置けないやつ」として、男性同士の間でも低く見られました。今でも勘違いした男性が「浮気は男の甲斐性」といいますけど、本当は「浮気しても妻の元に帰る、家庭を壊さない」ことが男の甲斐性だったはずですね。浮気相手の女性から「いつ奥さんと別れてくれるの」と言われるような男性は、「甲斐性なし」といわれても仕方がない(笑)。

 こういう場所論的(トポロジカル)に出来ていたモラルを崩すのが、援助交際も含めた「素人売春」です。買う方のモラルが崩れるのは当然ですけど、売る方(女性)の側も、家族原理と市場原理との整合性がとれなくなってしまっている。これが現代の、売買春をめぐる問題の本質ではないかと思います。