まずは以下のご意見をお読みください。

●わたくし、ジェンダーフリーを推進するある団体に所属している者です。中に入って、そこにいる人々の考えを聞いているうちにある結論に至りました。それは「ジェンダーフリーは男女差別や対立を深める」ということです。なぜ男女共同参画社会とジェンダーフリーがセットになっているのかまったくもって分かりません。2者相容れない性質のものだと思います。お互い助け合って、女性にも同じ機会を与え、あとは個人の自由でいいではないですか。働くのも勝手、家庭に入るのも勝手、夫婦間の役割、子どもに対する考え方は理屈でなく感情が支配するもの。また、そうでなくてはいけないと思います。ジェンダーフリーの行き着く先は、思想統制・言論統制・徹底した唯物論が支配する無味乾燥なロボットの国ではないでしょうか。
専業主婦を女の恥みたいに言ったり、扶養者控除を撤廃する運動を起こしたり、学校では男女ともに「さん」づけを強制させたり、ひな祭り鯉のぼりの否定など、独善以外の何ものでもないです。自分が正義で、反対する者はかわいそうな愚か者。勉強不足って怖いわ・・・だから、私たちが人の道を教えてあげるわーん〜まあ、こんな思考回路でしょうかね。
なーんてことを思っていた矢先に、このサイトを見つけたというわけです。同じ考えを持っている人がいたことに、まずは安心しました。ここに書かれていることを読んでいるうちに、更にジェンダーフリーの恐ろしさやくだらなさが分かり、同時に怒りさえ覚えました。この思想のおかしさになぜ気づかない。いや気づいていても、変わり者扱いされるだけだから、表面上は賛同している振りをしておこう・・・実は私の所属する団体にも、こんな人たちがけっこういます。私もその1人。きっとフェミニズムの本質、共産主義との酷似点、だけを語っても、洗脳されている人には通じないと思います。結局は人間の本質を科学的に正しく捉えることからスターとしなければ論議にもならない。性欲もあれば支配欲もあり、依存心も持っているのが人間。それ以上のものでもそれ以下のものでもない。男と女の関係も、動物的な本能があることを前提として認め、その上でお互いどう認め合えるかを考える。そうすればジェンダーフリーなんていう宗教じみた思想には行き着かないはず。


ジェンダーフリーを推進する団体にいる人ですら反対しているジェンダーフリーって何?(笑)


そのジェンフリですが、最近ではさすがに批判に抗しきれなくなったのか「一部には間違った例があるようだが」と断りを入れた上で「本当のジェンフリはそんなものではない」というようになってきました。でも、そんなの真っ赤なうそ。2ちゃんでこんなのを見つけました。

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●http://www.joho-yamaguchi.or.jp/jc-ygbc/ko/dannjo-.htm
より

総理府の男女共同参画審議会の委員を経て、内閣府の男女共同参画会議影響専門調査会長を努める政府の中枢ブレーンである大沢真理氏は、自身が編集代表として出版した『21世紀の女性政策と男女共同参画社会基本法 <改訂版>』(ぎょうせい)で次のように「男女共同参画社会基本法」を解説しています。

《肝心な点は、男女共同参画ビジョンが男女共同参画社会または男女共同参画をいかにとらえたか、にある。・・・「この答申は、女性と男性が、社会的・文化的に形成された性別(ジェンダー)に縛られず・・・」という文章は、控えめな表現をとってはいるが、次の趣旨をもつということまでが、審議過程で確認された。すなわち「男女共同参画」は、gender equalityをも越えて、ジェンダーそのものの解消、「ジェンダーからの解放(ジェンダーフリー)」を志向するということ、これである。
カッコのなかであれ、「ジェンダー」という言葉が、審議会答申を含む日本の政府文書に登場するのは、この「ビジョン」がはじめてだった。まして、ジェンダーそのものの解消を展望するとは、ラディカルというに値する。

→男女共同参画審議会で、男女共同参画自体が「ジェンダーそのものの解消」を目指していることが確認済みだそうです。

決定的な転換をもたらしたのが、フランスのフェミニストであり社会学者のクリスティーヌ・デルフィです。デルフィは、「生物的なセックスを基盤として社会的・文化的なジェンダーがあるのではなく、ジェンダーがセックスよりも先行し、ジェンダーが基盤でセックスまでも規定する。」としました。つまり、セックスとジェンダーの立場を逆転させたのです。
この理論によって、男女の生物学的な差異や特性を是認しながらでは、男女差別は解消できないとし、ジェンダーそのものを解消しなければならないというジェンダーフリーの思想(ジェンダーからの解放)へと発展していったのです。
 
→この思想について、先にあげた書の中で大沢真理氏は次のように解説しています。

《ジェンダーは、異なっているが対等であるという類の分類ではなく、タテ型の階層性そのものであって、いうまでもなく男が標準、普遍、主であり、女は差異を持つ者、特殊、従である。実践的には、ジェンダーという分割線をそのままにして、ジェンダー肯定の「固定的な」意識を「改革」しようとしたり、ジェンダー役割の相互乗り入れの促進や、女性の地位の底上げ等に努めても、女性差別は解消できない・・・ジェンダーが基盤でセックスまでも規定するようになったのである。ジェンダーという用語が登場してからも、生物としての自然であるセックスが基盤で、そのうえに文化がジェンダーを発達させたという理解が暗黙のうちに常識だったのではないだろうか。そのような「常識」は、1990年代初年までに、分子生物学や性科学、そしてジェンダー論の発展によって、くつがえされたわけである。セックスに根ざす(とされる)男女の特性は是認しつつ、不合理な男女格差を解消する、というスタンスの実践では、女性差別を解消できない。》

→社会的性差そのものを消し去らない限り女性差別は解消できない、という考え方で男女共同参画は推進され、その中でジェンダーフリーも圧し付けられていく訳ですな。
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つまり、男女共同参画法自体が「間違った考え」によって作られているわけです。みなさん、これをしっかりと覚えておきましょう。(笑)


こんなのもあります。(某BBSより)


●女性の皆さん、初めまして。
 私は女性学という学問がどのように人間社会に影響を及ぼすか現在研究しています。しかし、女性学には決して良い印象はありません。この学問の影響を受けた女性は、男性に無用な敵対心や偏見を持つようになっていると思います。そのため、男性の意見が信用できず、必ず男性の意見を否定し自分の意見を男性に押し付けて説き伏せることだけに躍起になっていると思います。そしてやがて独裁的な人格になっていきます。しかしこれでは学校、職場そして地域社会などで健全な人間関係、特に異性関係を築くこともできません。結婚も出来ないでしょう。益々孤立していきます。
 世の中には結婚できない男性が沢山います。女性学を研究すること自体は個人の自由ですが、男性を苦しめるような生き方は絶対しないで下さい。一生独身で過ごすなどとんでもないです。結婚して異性と共に長く生活することは人格形成の上でも重要なことです。苦労があるから幸せがある、それを忘れずに。


大学のジェンダー論にも疑問の声があがっています。

女子学生さん
●大学に入ってからジェンダー論というモノを学んで「なんか違うなぁ」と思っている者です。
 私の通っている大学のジェンダー論の授業でも大体このHPで否定されているような事をやらされました。
 そして、今後期の授業の最初にやる発表の事で悩んでいます。
 私は勇気を出して(?)「ジェンダー論の批判」をしようと思っているのですが共感してくれる人がいないのです。
 グループを組んで討論しているのですが、女の子には「私は男に守ってもらいたくはない」と、言われ、男の人には「俺は貧弱だから「男らしくない」って否定されてきた」等といわれれてしまいました。
 私は教育の現場でジェンダー論の押し付けがジェンダー論者の嫌う「男らしさ、女らしさ」の押し付けに変わっているだけだと思うのです。
 また、個性は叩かれて伸びるものだとも思っているのでなんでもかんでも「個性」にする風潮にも疑問を持っています。
 今、「ジェンダー論」は否定してはいけないものになっているみたいです。

大学でやった「ジェンダー論」の授業について報告したいと思います。
 私の通っている大学では「ジェンダー論」の教授が何人かおり、また女性の教授はどんな教科にしろ、ジェンダーを絡めて話す人が多いように思います。
 内容はというと、やはり(?)ミードの話を出してきて、「男らしさと女らしさは押し付けられたものだ」と言っていました。
 その教授は結婚されていて、自分が事実婚で夫婦別姓を選択している事や学校に提出する資料の保護者の欄に父親ではなく自分の名前を書いたことを自慢げに話していました。
 別に自慢する事じゃないと思います。
 私がジェンダー論に疑問を持ったきっかけは教授が「結婚して専業主婦になったら旦那や子供のためにと思って自分のしたい事ができなくなるのに、それを悪い事だと思わない」みたいなことをいった事です。
 他人のために尽くす事が悪い事なのだろうか?と思ったのです。
 「らしさを押し付けるのがいけない」ならまだ分かるのですけど「らしさがいけない」になると違うと思います。




鈴彦姫さん
●女子大生さん、はじめまして。あなたは偉いですね。自分の実感を大切にして、周囲の雰囲気に流されずに疑問に思うことを疑問だと言おうとしているところが。私は、高校で教師をしながらあなたと同年代の2人の娘を育ててきた母親です。頑張って欲しくて久しぶりにかきこみます。

>また女性の教授はどんな教科ににしろ、ジェンダーを絡めて話す人が多いようなきがします。

 これ、とてもよくわかるような気がします。多分その教授陣達は私と似たような年代の人たちではないかと思いますが、彼女達は若い頃に「男らしさと女らしさは押し付けられたものだ」とどこかで教えられたのです。そしてそれを疑問に感じずに進歩的な素敵な考えだと信じ切ってしまったのでしょう。
 私自身30年前の高校時代「婦人問題研究会」に入り、「経済的に自立しない女は鎖に繋がれた犬と同じだ」とセットで、全く同じことを教えられましたから。ただ私は女子大生さんと同じように自分の感性にしっくりこないことは納得できませんでした。
 だっておかしいでしょう、男女の役割が逆転した特殊な部族の話を持ってきて、「男らしさと女らしさは」後からすりこまれた物だなんて説得力ありません。ミード説がすっかり否定されている今、信じなかった私は正しかったと強く感じます。
 私が信用しなかった理由はもう一つあります。教えていた大学生に何か感情の欠落部分を感じだからです。疑問を言っても取り合わず、こちらが涙を流しても冷ややかなのです。人間の心の柔らかい部分が感じられなかったのです。きっと自分の教えていることを信じきり、教えることに使命を感じていたのでしょう。そのことの前では、高校生が不安そうに泣くことなどどうでもよかったのだと思います。
 実はこの感情の欠落は、フェミ、やジェンフリに熱狂的な人に共通しているということを私は気付いています。「上野千鶴子対談集ラディカルに語れば」の中で大沢真理氏が「10年以上にわたる不況と雇用不安のもと、中高男性を中心に自殺が3年連続で3万件を超えた。・・・・自殺が典型的な「資源の無駄」とすれば、貿易で食べるしかない日本にとって排外ナショナリズムは「不経済」のきわみである。」という文章を書いています。これ感情の欠落を感じませんか?人間の死を経済効率で表現しきれてしまうところ。
 又、伊藤公男氏は、「男らしさの鎧を着ているから、家族に弱音を言えずに中高年の男性が自殺をしてしまう」と言っていますけど、本当ですか?そんなに簡単な公式で説明できるのでしょうか?人間の心のデリケートな部分が全然理解できていないんじゃあないですか。と思ってしまいます。こういう人達の話は私は信用しないことにしています。女子学生さんも自身の感性や、実感を大切にしてください。
 私、経済的自立教育の方は、かなり影響を受けたとみえ、教師で食べていくことを選んだのですが、仕事で得られる喜びと、子育てを代表とする主婦の喜びというのは、全く違います。(そもそも、仕事で充実感を得られるのは、大学教授人の方達のように、自分の得意な分野で活躍できたり、それなりの社会的な評価を周囲から得られたりする、恵まれたケースだと考えた方が良いです。仕事の充実感と主婦の充実感を両方体験できた私は幸せな人間だと感謝しています。あー仕事止めたい、あー主婦降りたいと思ったのも度々ですが)
  仕事の充実感というのは、競争に勝ったとか、人に評価されたとか、ここまでやったという達成感です。同時に収入も手にすることができます。仕事というのは内容や、目標がはっきりしていますから、充実感もはっきりしたかたちで現れます。ところが、主婦の仕事というのはここまでで終わりとか、ここが目標、という明確な物がありません。ですから充実感というのもはっきりした形で現れてきません。お金を手にすることも出来ません。フェミ達の大好きな経済面から見るととっても損な仕事に見えます。でも本当はとても得がたい喜びがあるのです。
 それは時々ふっとやってきます。「お母さんこれ絶対喜ぶと思って買ってきたよ!」「お弁当美味しかったよ」「お風呂入れば、お湯わいてるよ」・・・そういう家族の言葉は私の心を柔らかく温かくしてくれます。入学式や卒業式で親が目をうるませているのは、「あーここまで成長したんだなー」と、それまでの時間を心になぞりながら喜びが溢れてくるからです。子供や家族に尽くしたことは後から何かの折に必ず、自分に返ってきます。それは尽くしているときには気付かないものです。どれだけ返ってくるかも分りません。計りようがないのです。もちろんお金に換算することはできません。する必要もありません。お金で買うこともできません。しかしそれは、人間の孤独を支え、生きている喜びを支えてくれます。家族のために尽くすということは、家族を支えていると同時に自分を支えていることでもあるのです。
 というわけで、仕事も随分やってきた私ととしては、専業主婦は今や憧れです。今度生まれてきたら愛する家族を得て専業主婦をやってみたいと思っています。子供が1歳になるまで育児休暇を取らせてもらいましたが、1年間では短かったです。3歳位までゆったりと育ててみたいですね。後から振り返ると豊かな時間だったと痛感します。







恐るべし女子差別撤廃条約!!





この論議は「一部の団体が女子差別撤廃条約を盾にとって、男女別学をなくすよう勧告したが、それは条約の誤読によるものである」という論点から始ります。

女子差別撤廃条約について  by 紅ちゃん
●誤解:条約は男子校、女子校の存在を脅かし、「性的に中立な」教科書を強要するであろう。

事実:別学は禁止されてはいない。教育上の平等に関する記述は教育設備や教科書、及びその他の教材が女子にも男子にも平等に与えられることの必要性を指すものであり、別学であろうと共学であろうとかまわない。

MYTH: The treaty will threaten single-sex schools and require "gender-neutral" textbooks.
FACT: Single-sex schools are not prohibited. Educational equality language refers to the
need for equal educational facilities, texts, and other materials for girls and boys, whether they are taught in single-sex or co-ed schools.

因みに、コウ教授の指摘する、女子差別撤廃条約(CEDAW)に関する誤解とは以下の通りです。
1.女子差別撤廃条約(CEDAW)は「家族計画」へのアクセスを促進することにより、中絶の権利を支持するものである。
2.女子差別撤廃条約(CEDAW)の批准は子育てに関する伝統的な性別役割を再定義することによって、アメリカの家族観を幾分か損なうことになるであろう。
3.女子差別撤廃条約(CEDAW)の批准は売春を非犯罪行為として扱うことを強要するであろう。
4.女子差別撤廃条約(CEDAW)は別学教育を違法化し、学校で使う教科書の検閲を強要するであろう。
5.女子差別撤廃条約(CEDAW)の批准は同性間の結婚の合法化を強要するであろう。
6.女子差別撤廃条約(CEDAW)の批准は合衆国や州、地方の法律を廃したり、あるいはそれらに取って代わったりして国の自治や州の権利を著しく損なうであろう。

コウ教授はこれらは全て誤解に基づく懸念であるとしてアメリカ政府による女子差別撤廃条約(CEDAW)の批准を推進しておりますが、ヘリテージ財団によるレポートによると、どうもこれらは根拠のない懸念ではなさそうな気がするので、アメリカ政府が批准に躊躇しているのも一理あるかとは思います。(このレポートの和訳はわが心の師匠岡本さんのHPで読むことが出来ますので、アタッチしておきました。)その辺、何の気なしに「男女平等、結構結構。」と安易に条約に批准し、男女共同参画法を施行させ、フェミにつけいる隙を与えた日本の政治家よりは賢明かもしれません。(今回もまた福田官房長官が水島広子に足元を掬われる大ポカをかましたようで、ウクレレ持って「あ〜あ〜あヤンなっちゃった」と歌いたい気分です。^^;)



管理人
●>フェミによる女子差別撤廃条約の間違った解釈を暴露して追及していけばフェミは正統性を失って存在しえなくなる、

まさに、その通りで、とても重要な内容なので整理しながら話を進めたいと思います。

ジェンダーフリーの論拠となっている女子差別撤廃条約10条のCは
(c) The elimination of any stereotyped concept of the roles of men and women at all levels and in all forms of education by encouraging coeducation and other types of education which will help to achieve this aim and, in particular, by the revision of textbooks and school programmes and the adaptation of teaching methods;

直訳すると、
(c)すべての段階及びあらゆる形態の教育における男女の役割についての定型化された概念の撤廃を、この目的の達成を助長する男女共学その他の種類の教育を奨励することにより、また、特に、教材用図書及び指導計画を改訂すること並びに指導方法を調整することにより行うこと。

これに対して、アメリカ国務省人権問題担当次官補(1998−2001)イェール大学ロースクール・シェル国際人権センター所長(1993−1998)であり、国際人権法の専門家でクリントン政権の時に国務省の高官として上院による女子差別撤廃条約の批准を目指した中心的人物であるハロルド・コー教授は

2.女子差別撤廃条約(CEDAW)の批准は子育てに関する伝統的な性別役割を再定義することによって、アメリカの家族観を幾分か損なうことになるであろう。
4.女子差別撤廃条約(CEDAW)は別学教育を違法化し、学校で使う教科書の検閲を強要するであろう。

と誤解されるおそれがあると警告し、第10条C項については
米上院外交委員会での証言によれば、
As one way to encourage equal access to quality education for all children, Article 10 requires parties to take all appropriate measures to eliminate “any stereotyped concept of the roles of men and women at all levels and in all forms of education by《 encouraging 》 [not requiring] coeducation《and other types of education which will help to achieve this aim . . .,”》 (emphasis added) including, presumably, single-sex education that teaches principles of gender equality.
《 》は原文ではイタリック
http://www.law.yale.edu/outside/html/Public_Affairs/260/KohTestimony.pdf
と述べ、C項の「教育における男女の役割についての定型化された概念の撤廃」の目的は“As one way to encourage equal access to quality education for all children”
「全ての児童の質の高い教育への平等なアクセスを奨励する」ことにあるという。

つまり、「男女における教育の機会均等を目指したも」のであり、日本のフェミがいうような「男女が固定的な役割を持つという考え方をやめ、男女も自分の個性に応じてのびやかに人生を生きること」とは異なっており、「らしさ」を否定するものではない、と解釈できるようです。



>日本で現実に行われているジェンダー・フリー運動という政治運動はアメリカでは保守派から非難されているだけでなく、リベラル派からも見放されているということでは?

その通りだといいのですが、10条の誤読はわかったものの、いろいろ調べてみると、ジェンダーフリーの論拠が一条にあるという意見も多いですね。

第1部
第1条
 この条約の適用上,「女子に対する差別」とは,性に基づく区別,排除又は制限であつて,政治的,経済的,社会的,文化的,市民的その他のいかなる分野においても,女子(婚姻をしているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し,享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう。

この「女子に対する差別とは,性に基づく区別」という文言から「区別は差別」であり、らしさは区別だからケシカランという妄言に正当性を与えているようです。反フェミの人達が女子差別撤廃条約そのものに問題があるというのは、ここを指してのことのようです。
これをうまく論破する方法はないものでしょうか。


管理人
●女子差別撤廃条約について調べてみました。上に述べた1条に関しては「区別・distinction」には「区別、差別」という意味があり、前後の文脈からして「区別による差別」と解釈できますので、日本のジェンダー論者がいう「区別=差別」論に正当性を与えるものではないと思います。現に、男女別学は認めているわけですから、「区別はケシカラン」と言ってるわけではないでしょう。これは「誤読」として一蹴できそうです。
ところが、以下の前文と5条はどうでしょうか。英文とともに紹介しますので、熟読してください。どう読んでも誤訳ではなく、ジェンダーフリーに論拠を与えるものだと思えるのですが……。

(前文の一部)
社会及び家庭における男子の伝統的役割を女子の役割とともに変更することが男女の完全な平等の達成に必要であることを認識し,

Awawe that a change in the traditional role of men as well as the role of women in society and in the family is needed to achieve full equality between men and women

第5条
 締約国は,次の目的のためのすべての適当な措置をとる。
 (a) 両性いずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため,男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること。

To modify the social and cultural patterns of conduct of men and women,with a view to achieving the elimination of prejudices and customary and all other practices which are based on the idea of inferiority or the superiority of either of the sexs or on stereotyped roles for men and women

「男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること」
これは明かに文化変革(破壊)を推奨する文言に思えます。以前に「ひな祭りや鯉のぼりはよくない」といった答申が文科省から出て問題になったことがありますが、今になってその意図がわかりました。あれを作成した者たちは女子差別撤廃条約に従っただけではないでしょうか。
ジェンダーフリーの元凶はこの条約にあり、「誤訳や曲解である」という反論だけではいかんともしがたいのではないか。また、ジェンダーフリーを本気で阻止するには条約の撤回か一部訂正をするしかないと思うのですが、いかがでしようか。


管理人
●で、結局、女性差別撤廃条約の問題点、国連の問題点にいきつくわけです。
以下、岡本さんHPより部分転載です。(許されて〜)

ヘリテージ財団の論文をご紹介したいと思います。
内容の大意は、国連が「女性差別撤廃条約」「子供の権利条約」を使って、巧妙に、加盟国の独立権を侵し、加盟国の憲法・法律・文化を変革させようとしているというショッキングな内容です。
何故国連が、その様な政策をとっているのか、是非最後までお読みください。
又、この国連の大義をかざして、日本では「男女共同参画社会」基本法が成立して、ヘリテージ財団の論文の示すとおりの社会が現出されようとしています。是非熟読され、各地において推進されている「男女共同参画社会」の行き着くところの危機を、各地方自治体の責任者にお知らせください。




やっぱり変だよ女子差別撤廃条約  by 管理人

●私は女子差別撤廃条約の裏の顔として、ジェンダーフリーやら文化破壊の意図が込められているとしか思えないのですね。
5条を再掲します。「   」の部分に注意して読んでください。

締約国は,次の目的のためのすべての適当な措置をとる。
 (a) 両性いずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は「男女の定型化された役割に基づく」偏見及び「慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため,男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること」。

To modify the social and cultural patterns of conduct of men and women,with a view to achieving the elimination of prejudices and customary and all other practices which are based on the idea of inferiority or the superiority of either of the sexs or on stereotyped roles for men and women

「   」を取ると

 両性いずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は偏見の撤廃を実現する。
(誰もが納得する理想的な表の顔)

しかし「   」だけを抜き出すと、

男女の定型化された役割に基づく慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため,男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること

うは〜、これって文化破壊を推し進めるジェンダーフリー思想そのものではないでしょうか。
「男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること」
つまり、ひな祭り、こいのぼり、男女の服装の差、名前の差、らしさ……みんなダメ〜ということになりませんか。


紅ちゃん
●ちょっと長いですが、IMFの「CEDAWを否決すべき10の理由」の要約を紹介します。(法律関係には全く疎いモンで、KABU教授、誤訳や誤解釈がありましたら訂正をお願いしますね。チュ*)

1.CEDAWは自国の自治を損なう
合衆国憲法では「合衆国の権威の下で定められた条約は国の最高法規となり、それにより、全ての州の判事は憲法もしくはそれに反するいかなる州法でもこれに従うものとする。」と定められているので、CEDAWが批准されたらそれが「国の最高法規」となるわけである。つまり、合衆国の政策決定はすべて国民が選んだ覚えもない他国官僚の手に委ねられてしまうことになる。よって、推進派の「CEDAWは合衆国のいかなる法にも自治にも影響を及ぼさない」という主張は誤りである。

2.CEDAWは人権の意味を矮小化する
CEDAWを批准した国の中には中国、イラク、コンゴ、キューバ、リビア、サウジアラビアといった、人権侵害の甚だしい記録を持つ国々も含まれている。これに対して、合衆国は世界で最も国民の人権を重視している国である。よって、CEDAWによってその立場を確証する必要もなければ改善する必要もない。

3.CEDAWとは社会主義の別名である
第11条では「同等の価値」の労働(例えば、消防士と幼稚園の教員など。)には「同等の報酬」が与えられるように政府が賃金を定めることを要求している。この「同等の価値」の概念はアメリカが非能率的かつ自由市場主義に反するとして強く拒否してきたものである。また、11条は有給出産休暇を保障し、「保育施設網」を供給することを要求している。更に、CEDAWは政治家から棒跳び選手に至るまでクォータ性を導入することを求めている。

4. CEDAWは最悪の人権侵害国では重視されていない
サウジアラビアでは15人の少女が彼女らの学校が火災に見舞われた時に、燃え盛る校舎から出ることを禁じられ、死亡したという例がある。また、ナイジェリアでは、ある女性は不倫のために死ぬまで石を投げられる刑に処された。この他、署名国の中には女性器切除や貞節殺害、社会的制裁としてのレイプ、家庭内暴力などが行われる国もある。このような国々の女性にとっては、クォータ制や賃金設定などは非常識かつ無益である。

5.フェミニスト達の小姑的な監視が始まるであろう
National Organization for Women(アメリカ女性組織?アメリカの急進的なフェミニスト組織)のようなフェミニスト団体が条約の批准に伴い、勢力を増し、戦闘への女性の参加や、カブスカウトへの女子の参加を要求したり、リトルリーグにおける男子の割合が多いことに不平を訴えるような訴訟が数多く起こされることを覚悟しておいた方がいい。条約の第一条が「あらゆる分野における」「性別に基づくいかなる区別」も違法とするからである。

6.CEDAWは母親を憎悪するように仕向ける
1999年に国連委員は条約第5条違反の疑いがあるとして母の日を祝ったとしてベララスを査察した。

7.ジェンダー警察が来る
第10条は「あらゆる固定観念化された男女の性別役割を撤廃すること」を要求し、特に教科書や学校のプログラムの改訂によってこれを求めている。

8.オーストラリアはこの条約を試行し、そして阻んだ
オーストラリアはCEDAWを批准し、男女差別に関する法にこれを取り入れた最初の国の一つである。2000年までに、国連監視委員会とこれと陣営を共にする非政府団体によるオーストラリアの国内法への過干渉が反感を呼び、遂には国連査察団の訪問を制限し、国連委員会の総点検を要求し、一層感傷的なCEDAW選択的議定書の批准を拒絶するまでに至った。オーストラリアは正式に国連による民主主義国への批判に対して抗議し、また、国連がイラクなどのような締約国で続行されている凄まじい人権侵害に対して見て見ぬ振りをしていることを指摘した。

9.ソビエト憲法を好むものがCEDAWを好む
「抑圧のくびきを打ち砕く」と主張した旧ソビエト憲法のように、CEDAWは民主主義のみが真剣に捉えている高尚な人権に対する主張を掲げているが、ソビエトのように、CEDAWは我々が選んだ覚えのない、何の責任もない少数の「専門家」の手の中に権力を委ね、その「専門家」達は更に自らのフェミニスト的願望を国家及び個人に課された「人権」として定義するような仕組みになっている。一方、残念なことに、署名国の間では最悪の経済状態や社会的抑圧の「くびきを打ち砕く」ことには成功していないのである。

10.CEDAWはうまくいかない
第三世界の代表者達が女性を真の虐待と抑圧から解放したことのない、そしてこれからもすることもないであろう、それどころか民主主義国家における様々な事項を監視することに専念し、時間を費やしているような機構に自分達の望みを託しているのを見るのはまことに残念である。アフガニスタンの少女達および女性達をタリバンから解放したのはCEDAWではなく、アメリカであることを思い出してほしい。

どうも、この主張もIWFのものにしてはかなり感情的かつ煽動的な感じがして、全部が全部額面どおりに受け入れられないのですが、(特に最後の文にはアメリカ特有の驕りが感じられ、違和感を感じたのですが。)それでもここで報告されている締約国内での人権侵害や国連委員会の各国への干渉を読むと、アメリカがこの条約に批准しないのは賢明だという思いが増します。

また、こんな例も見つけましたので、報告します。
Independent Instituteのウェンディー・マッケルロイ女史の指摘によると、(上のHPにそれをアタッチしておきました。)ニカラグアのマックス・パディヤ家族相は、ニカラグア法におけるジェンダーの定義に国連の推進する「トランスジェンダー」というカテゴリーを取り入れることに難色を示し、通常用いられている「男性及び女性」でよいと主張したがために、2000年の北京5国連女性会議においてヨーロッパの開発エージェンシーがニカラグアへの援助資金を撤回すると脅し、その結果パディヤ家族相は更迭されたそうです。
更に、同女史はCEDAWは女性を保護する目的のためにあると信じているものは、何故国連が中国の一人っ子政策に伴う強制中絶を黙認しているのか考えてみろと指摘しております。また、国連の国際警察タスクフォースに配属された経験を持つ女性警官キャスリン・ボルコバック女史のエピソードも紹介しています。ボルコバック女史はボスニアにおいて国連警察官が未成年の少女に売春を強制したと言う何とも皮肉な事例を上司に報告したところ、彼女は解雇され、国連にその不当性を訴えても聞く耳持たぬといった態度であしらわれたことを報告しております。(2002年8月にはボルコバック女史の訴えは支持され、国連代表官の何人かが性の密売買に関与していたことが判明しました。)

こういう報告を読むと、国連に対する不信感が募ってしまい、一体何を信じたらいいのか分からなくなってきました。(^^;)






管理人
●フェミやジェンフリ批判も一通り終わり、そろそろ整理する時期にきたようです。ちょうどというか、以前から気になっていた「なぜフェミニストは(こんなにも大切な)家族を解体しようとするのか」ということについて、一応理解しましたので、覚え書として書いておきます。

『病むアメリカ、ほろびゆく西欧』より

エンゲルスは著書『家族・私有財産および国家の起源』において「家庭における妻解放の第一条件は、すべての女性が外に働きに出られるようにすること……すなわち家族を社会の経済単位にする考えは捨てねばならない」と書いた。

マルクスやエンゲルスがフェミニズムの原型となったという話は他でもよく聞きます。さらに70年代になると、これを発展させて、アンドレア・ドウォーキングという人は、その著書『ポルノグラフィ 女を所有する男達』でこう書く。
「結婚とはレイプを正当化する制度。レイプは本来、婦女を無理矢理連れ去るという意味だが、連れ去って捕虜にすると結婚になる。結婚とは捕虜である状態の拡大延長。略奪者による使用のみならず所有を意味する」「家族という孤立した小単位に分断されることにより、人々は共通利益のために一致団結して闘うことができなくなった」

同じくロビン・モーガンも「結婚は奴隷制度。結婚制度を廃止しない限り、男女の不平等は撤廃できない」と述べた。

こうした考えから「結婚や家族制度は崩壊させるべき」という結論に至るわけです。
73年に評判となったナンシー・レーマンとヘレン・サリンジャーの『フェミニズム宣言』にはこうある。

「結婚は男のために存在する。女を支配するための法的に是認された手段として。……私たちはこの制度を打破しなければならない。結婚制度打破は女性解放の必須条件である。よって、女よ、夫を捨てよう。人生を夫とともに歩むのはやめにしよう。すべての歴史は女性弾圧の歴史から書き直されるべきである。私たちは古代母系社会に回帰せねばならない」

80年代、ペンシルバニア州立大のヴィヴィアン・ゴーニック教授は「専業主婦は職業とはみなされない。夫に仕えることで保護を受ける家族の一員にしてもらうという選択をすべきではない。ラディカル・フェミニズムはそうした流れを心底変えたいと思っている」と書いた。

以後、アメリカではこうした言説が深く浸透して、家族解体、社会崩壊が進んだというわけです。
日本のフェミニズムがこれの焼き直しであるのは明かですね。






灯理さん
●内田樹先生の「女はなにを欲望するか」によると、クリスティーヌ・デルフィ・・あの伊藤先生のお好きな・・彼女はこう書いているそうです。

> 自然界との関係と言うものは存在しない。人間同士の関係を事物どうし
> の関係あるいは事物との関係に見せかけると言うのは、ブルジョワ・イ
> デオロギーの明白な特徴である。


としますとこれは「ドイツ・イデオロギー」

> 諸個人が彼らの生活を表するしかたは、すなわち彼らが存在する仕方で
> ある。したがって彼らが何であるかは彼らの生産に、すなわち彼らがな
> にを生産するか、ならびににいかに生産するかに合致する。

のパラフレーズであって、「彼らがなんであるか」を「彼らのジェンダーがなんであるか」に置き換えればそっくり同じことを言っている。フェミニズムは150年をかけ、デルフィにおいてマルクス主義に回帰した、と(^_^;)。

ヤレヤレと言う他ありません。
すでに段階としてはフェミニズムとは何か、と言うより何だったのか、ということの語られる段階でしょう。










ジェンダーフリーが「変形共産主義」だという何よりの証拠!



●第1回 女性政策とジェンダー 船○邦子

佐賀市での平成15年2/4の講演。
http://www.isquaresaga.jp/doc/241583ceb98bfe0849256cd300270fa9.html

こんにちは。懐かしい皆様とまたお会いでき、こういう機会を作っていただいてとてもうれしく思っております。アバンセのオープンの時に皆さんと「人生いろいろ」を唄いました。「今や輝いて飛び立つのだ」という女性センターにぴったりの歌だったと思います。アバンセオープンは、1995年の第4回世界女性会議(北京会議)が始まる時でした。世界の中で、本当に女性運動が高まった時だったといえるのではないかと思います。九州が日本の男女平等を一番先にやったのではないかというくらい色々なことをやらせていただきました。

今、地域の中でしっかり活動しておられる方が増えてきているのを見て、この10年は男社会から見れば失われた10年ですが、女性にとっては決して失われた10年ではなかったのではないかと思います。1999年には「男女共同参画社会基本法」もでき、2001年には「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」いわゆるドメステックバイオレンス防止法も誕生しました。ある意味では、女性を取り巻く状況が変わってきたといえます。しかし、仕事を続けていく女性や仕事をやめたくないので子どもを産まないという女性も増えている現実があります。そんな現状の中で、一番犠牲になっているのが子どもです。女性が社会参
画することによって、厳しい状況の狭間に子どもが置かれています。こういう状況を私達は今後どのような考えでいけばよいのかということも含め、男女共同参画ということの意味を今日は皆様とともに考えていきます。

今や女性を取り巻く状況というのは、制度的には進んでおり、韓国でも2000年までには上級公務員の女性が占める割合を20%にする等、積極的に差別をなくすための措置「ポジティブアクション」の制度が作られ、韓国は日本よりはるかに進んだかなと感じます。日本の中でも女性を取り巻く状況が進み、地方自治体でも地域の特性を生かした条例づくりが進んできていますが、男女共同参画と地方分権というのは21世紀にとって車の大きな両輪となるものです。このことをまず分かってほしいのです。

イラクでは戦争がいつおこるかわからないほど緊迫し、日本でも有事法制を決めて、このままでは本当に戦争体制に入るのではないかという危機的状況にあると言われています。皆様方にお配りしたグラフは、中高年の自殺者の増加を表しており、日本の自殺者は今やポーランドに次いで世界で2位となっています。20世紀の植民地主義、侵略し文化を滅ぼし暴力の連鎖を繰り返した近代は、いき詰まっています。男女共同参画とは、非暴力で、男の人をやっつけるものでも、女がやるからと男の権力を奪おうとしているものでもなく、人権をベースにして、これからの21世紀にどういう価値、どういう文化を作り上げていくのかが男女
共同参画の最終的な目的です。そのときの基本にあるのが「地方分権」と「地域の中でどう男女共同参画を推進していくか」が課題であるということを理解していただきたいと思います。

男女共同参画のキーワードは「ジェンダー」です。このジェンダーという言葉を発見したのが女性学であり、ジェンダーを軸にして世界を見ることが女性学の特徴です。私達がおかれている状況、世界を認識していく時にジェンダーを分析軸にして見るジェンダー統計をとることが大切です。ジェンダーは中国で上手に訳されていて「社会性別」と呼ばれています。例えば、賃金で統計をとってみると、
(略)
こういうふうに具体的にデータを集め、相手に数値で示すのが重要です。女性の失業率に対し男性の失業率が高い、これは女性が家計を助ける為にとどんな仕事でも安くてもいとわずパートに出て働くからです。男女平等が推進されるように保護規定が撤廃されても、休日や深夜には何時間以上働いてけないという法律がないので、昼も夜も働いて、健康を害するような非人間的な働きが強要されるようでは男女共同参画とは言えません。男は外で女は家庭という性別分業を支えてきた考え方、これが性別特性論(男と女には特性があるという考え方)ですが、これが一番やっかいです。「うじうじして女のくさったような男」とか「サバサバと男みたいな女」等々とひとくくりに「男」「女」に分類してしま
う。男だって色々いて、女だって色々います。金子みすずの言う「みんなちがってみんないい」です。戦前の社会が良妻賢母の母性神話や強い男らしさの神話を作り上げてしまったのです。成果主義の追いつけ追い越せ、まねる教育、答えを均一化する、集団化する、暴力を法律化して正当化するという「近代」に反するものが「男女共同参画」です。だからといって、決して男の人から権力を奪おうということではなく、また、男性は黙っていなさいということでもありません。
男女が共に認め合い支え合って、対等な立場で快適な社会生活ができるということなのです。

ジェンダーフリーとは、女らしさ男らしさとは持ってうまれたものではなく、自分らしさを大切に生きていくということです。今の社会には性別の偏り(ジェンダーバイヤス)があるので、偏りや段差をなくすバリヤフリーがあるようにジェンダーフリーは男と女の段差をなくし偏りをなくしていこうとすることです。深い意味は、男らしさ女らしさより自分らしさ、つまり人権が基本ですから、これからの社会、これまでの近代をどう乗り越えていくかの一つの大きな指針になるのが男女共同参画であると先ほども言いました。

近代の価値は競争と言っていましたが、近代というのはどんなことを大事だとされた社会か言ってください。力(権力)、お金、物質、科学、戦い(競争)、技術、成果、評価(仕方が問題)など。日本の近代化は、西洋に追いつけ追い越せの西洋を真似ること、習うことでした。独創性がない、正解を求める教育の基本にある○×主義、発達段階でスピードを競う、はずれる人は集団からはずれる均一な社会は個性が認められないというような近代の価値観に対して、異なる価値観を作っていくのが男女共同参画だということを理解していただきたいのです。そのような近代の価値観で日本はいき詰まり、物が溢れたのに人の心が貧しく
なったのです。人が人を信頼出来なくなる、地域の中でサポートし合えなくなっている。そのような価値観に対し、ジェンダーフリーはどういう社会を作っていこうとしているのでしょうか。

千葉県松戸市のジェンダーフリー保育は、ひとりひとりの存在を認めて、人と比べない、その子にはその子の特徴があるという保育です。そこにいる子どもは自分の力で決め、自分のことを大事にし、自尊感情を持って、安心して居心地良く過ごしています。3才の子どもでも遊びたいところで遊び、年齢を越えたところで遊び、自己決定の力をつけていきます。叱らないしどならない。子どもは叱られないで、のびのびして安心しています。子どもは尊厳を持っています。その子その子の特徴があり、人と人を比較しない人権を尊重する保育がジェンダーフリー保育です。

近代の競争価値観から少子高齢化社会の時代を迎え、70歳を越えた女性の3割しか配偶者がいません。妻を亡くした夫は5年は生存しておられるが、女の人は夫を亡くしたら20年、平均すると15年生存しています。一人暮らしとなっても地域の中で安心して生きていける。地域の中でお金に換算されない地域通貨があり、みんなの思いやりを交換し合うようなことがどんどん進んでいます。今までと違う、競争ではなくひとりひとりが大事にされ、共に支え合って生きる社会を作っていく、これが男女共同参画を目的としていくうえでの課題です。豊かさの中身を問うていく、本当の意味で「豊かに生きる」ということ。21世紀は地
方分権を進め、地域循環型経済にしていくことです。日本経済が破たんし失業率が高くなっても生き残ってゆけるには、自分の食べる物は自分で作ることです。

男女共同参画は、女性が抱える問題だけでなく男の人の生き方を含めた問題です。特に、リタイヤされた男の人たちが地域やシルバー人材センターで能力を活かして還元していくことが大切です。生涯学習の目的は、1.差別を見ぬく力をつけ人権感覚のある人に育てる、2.男女共同参画を実現する、3.学んだことを地域に返すことであり、これが生涯学習の3本柱です。これを忘れないで、「男女共同参画」を地域の優先課題にし、これから先、私たちが子どもたちに希望のある未来を残すことが問われています。





灯理さん
●これ、言葉を変えて共産主義社会の理想(夢)を語ってるだけですね。
共産主義社会が来れば社会の諸問題はすべて解決する、と言うのがジェンフリに置き換わっただけではありませんか。
いまどき、こんな能天気なことを語ってるのはフェミニズムぐらいのものでしょう





KABUさん
正に。要は、<そうあってほしい状態>と<その状態になるために解決しないといけない事柄>と、そして、<解決するための方法論>がごっちゃになっているのでしょう。私が読んで理解した限り、マルクスはこの真中のタームの抽象度のレヴェルの問題発見に(問題の問題としての把握に、)生涯をかけたと思うし、私が敬愛するM・ウルストンクラフトもそうでした。ジェフリさん達って、あんまりむしが良すぎるんちゃうか(笑)。

















小人閑居さん
これはいささか長文ですが、国立で「男女平等教育」を推進してきた川合真由美教諭(故人)の「『男が先』を否定することでみえてくるもの──学校のなかの性差別と男女混合名簿」(『働く/働かない/フェミニズム』(青弓社、1991年)荷収録)という論考の一節をこちらでも紹介します(要約)。これを読むと、ジェンダーフリー教育の本質がわかるとともに、国立市の学校で学級崩壊が深刻なのもむべなるかなと思えてきます。

 国立市の小学校における、混合名簿にはじまる「男女を分けない」日々の教育活動の実践のなかからみえてきたものは、予感していた以上のものがあった。

その一、男優先の社会秩序を拒否する「男女混合名簿」

 学校という社会は、男社会である日本のなかでは、まだ平等が生きている社会と考えられている。が、それは私たち自身が日本社会の「何でも男が先なのが自然」という秩序を体内化しているからにすぎない。
 どんなに非人間的な社会秩序も、そのなかで日常生活を営んでいると、慣れてしまって、ひどいと感じられなくなることは、歴史の示すところである。混合名簿にしたからといって、目に見える成果はそれほどない、だから無理して変えることはないと考えることは、秩序の奴隷感覚といわねばならない。混合名簿は、学校というミニ社会のなかで日本の男優先の社会秩序を一つずつ傴撃ちこわしていく、ひとつの武器なのだ。

その二、学校のなかの秩序=管理教育を撃つ「男女混合の並び方」

 朝会一つとっても、男女混合の並び方は、男女別の並び方に比べ、見た目が悪い。何やらゴタゴタし、無秩序な感じがする。子どもたちに制服を着せ、男女別に並べたところを想像すると、その違いがよくわかるだろう。つまり、混合の並び方は、私たちの秩序感覚を伴う美意識に揺さぶりをかけてくる。もしかすると朝会は、並ぶこと自体に第一の意味があるのではなかろうか。もしそうでないのなら、早く来た者順でもいいし、全く並ばないバラバラで話を聞くことだって考えられる。男女別に並ぶなんて、何の意味もない。
 この秩序感覚を伴う美意識というやつが曲者で、卒業式、入学式などの儀式では、会場の整え方から、行動の仕方まで、儀式の論理をささえる役を果す。それは秩序正しく整然としていることにより厳粛な雰囲気を生み出し、権威を保ち、参加する者の心理にある種の緊張感を強制する。ここに、学校のもつ権威と秩序への意志(=管理教育)が集約したかたちで表現されている。
 女と男が入り乱れた並び方、行進の仕方では、儀式の好む「整然とした」感じではなくより人間的な感じを参加者に与える。私たち国立市の卒業式、入学式は、卒業を祝う会、入学を祝う会として、儀式性を排除し、子どもたちを祝うという本来の目的にそうよう、会場の設営も、行動の仕方も考えられてきた。それは、日本中で行われている同じ制服を着、同じ性をそろえ、練習を重ね一糸乱れぬ行動をする儀式と質的に異なることを、会場の日の丸・君が代が象徴的に物語っている。そう、儀式には日の丸・君が代がよく似合うのである。私たちは、男女混合をおし進めることが、日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずすことにも気がついたのだった。

その三、オール「さん」づけが顕わにした、学校のなかに生き続ける軍隊用語

 子どもたちを「さん」だけで呼ぶようにしたことが、こんなに多くのことをみせてくれるというのは、私自身新鮮な驚きだった。まず、日々「さん」「くん」とよび分けることで、女と男を異なる存在として、自分自身に意識づけてきたことに気づかされた。
 また「さん」づけは、子どもたちに対し、ていねいな優しい気持ちを生むということも意外な発見だった。つまり「さん」づけは、大声の叱声、怒声などとそぐわず、したがってそのような場面での教師の心を静める魔力をもっているようだ。そして、「さん」づけをつづけていくと、教室のなかでの「起立」「礼」「着席」、朝会などでの「前へならえ」「気をつけ」という言葉が合わないと感じてくる。やっとそれが戦前から戦後教育へと生き続けた軍隊用語だったということに気づくというくらい、私たちの感覚はマヒしてしまっているのだ。
 日の丸・君が代だけを排除しようとしても、日々学校のなかに、戦前の天皇制軍隊の用語が生き続けているというのでは、いかにもそぐわない。おかしいと、いま私たちはやっと気づいたところだ。ここでも、言葉の陰にみえかくれしているのは、日の丸・君が代だ。
 考えてみると、戦前の天皇制下の教育を否定したはずの学校に、未だ生き残っているものは、実に多い。運動会の騎馬戦も、その一つだ。私たちは、男女混合の騎馬戦から、騎馬戦そのものの意味を問うところに、現在さしかかったところだ。






灯理さん
恐ろしいと言うよりも、そのナイーブさかげんにほとんど気が遠くなりかけました。
いえ、この川合真由美さんと言う人のことですが・・。
もとより日本の学校制度が国民軍を創設するために要請された、と言うのは常識の範囲内のことで、いまさらそれをとりあげて云々するなんて、ナンセンスとしか言いようが無い。
明治期に於いてはいかに国民軍を創設するか、と言うことは喫緊の課題でした。何しろ行軍一つ日本人の身体性の中には無かったのです。
それで子供のころから肉体訓練を行う必要があった・・朝礼はその格好の訓練・・だからこそ軍隊式の掛け声や挙措動作が要求されたのです。
それどころか、学校の組織自体が軍隊をモデルにしたものなんですよ。
班は分隊、クラスは小隊、学年は中隊・・先生が仕官でクラス委員は下士官です。
その構造を見ないで名簿とか日の丸など、いくら問題にしても意味は無く、逆に組織への女子の組み込みを促進するだけに終わるでしょう。
フェミニズムの志向しているのはまさに、そういうことですが。
うわべだけふわふわした言葉を飾りつけたって、苦い事実は変わりません。今日では産業社会への女子の組み込みこそ、フェミニズムに要請されている役割なので、組合教師もそのお先棒担ぎに利用されているだけ、なんですね。
この方はもう故人、と言うことですけど、何と哀れなことでしょう・・こんな初歩的なことすら誰にも教えてもらえず、利用するだけ利用しつくされて、そのまま亡くなったなんて・・でも悟っちゃったらかえって気の毒だったかもしれませんね。





神名さん
この川合真由美という人の頭の中では、「管理教育」「(戦前の)軍隊」「天皇制」「規律」「日の丸・君が代」「号令」などが、すべて不可分なものになってるんですね(^^;)。もしかしたら、他国の軍隊には「規律」や「号令」が存在しないと思っていたのでしょうか? でも私の印象では、狂信的なイデオロギーがここまで人間を視野狭窄に追い込むという、この事実こそが不当な管理や抑圧の根源に見えます。

 私には軍隊経験はありませんが、「規律」も「号令」も戦後の自治体警察の中で経験しています。そこではたとえば、巡査部長は通称「チョーさん」、あるいは「部長さん」「主任さん」ですが、「さん」付けが号令にそぐわないとか、「大声の叱声、怒声などとそぐわず」という事実はなく、ましてそのような呼び方によって規律が崩れるなどということもありませんでした。

 この教員が「さん」付けの呼び方が「大声の叱声、怒声などとそぐわず」と思うのは、あくまでも彼女にとっての「この呼び方の意味」に由来するものです。もし彼女が、このような呼び方を「相手を尊重する上品な呼び方」と考えているならば、「大声の叱声、怒声などとそぐわず」と思うのは当然でしょう。しかしこの事は、誰もがあらゆる場面で同じ価値観を持つ、ということを保証しません。

 たとえば私達は、工事現場で「お〜い!、監督サンよォ〜!」という「怒声」が飛ぶこともありえるということを知っています。誰でもちょっと考えれば、「さん」付けの呼び方と「大声の叱声、怒声」が両立し得る場面が存在し得るという事実に思い当たるはずなのです。誰でも思い当たるはずのことに思い当たらない。これが視野狭窄ということです。

 また日本に限らず、近代の軍隊はどこの国であれ「号令」と不可分な存在です。「号令」は戦前の日本の軍隊の専売特許ではなく、米軍にも人民解放軍にもあります。たとえば「気をつけ」なら、英語では「attention!!」です。そもそも日本の「気をつけ」は、この和訳です。日本語に訳される以前は、号令は洋式軍隊のお手本としていた国の言葉をそのまま使っていました。時代によって、オランダ語だったり、フランス語だったり、もしかしたらドイツ語が使われた時期もあったかも知れません。海軍ならオランダ語、次いで英語です。近代の軍隊制度そのものがそうであったように、「号令」も輸入された制度であって、日本で発生したものではありません。戊辰戦争の官軍の兵士は、「前に習え!」と号令をかけて整列したりはしなかったわけです。

 普通の人は、アメリカの戦争映画を見ていて「attention!!」の号令がかかるたびに、その背後に「天皇制」や「日の丸・君が代」が透けて見えたりはしません。それは私達の感覚がマヒしているからではなく、米軍が「天皇制」や「日の丸・君が代」と無縁の軍隊だということを、知っているからですね。ましてや、人民解放軍の背後に「天皇制」や「日の丸・君が代」が透けて見える道理のあろうはずがない。

 軍隊(や警察)に「号令」が存在するのは、なにも「天皇制」や「日の丸・君が代」が要請したわけではなく、組織の機能上の必要が万国共通・普遍的に認められているからに過ぎません。

 そもそも「学校のなかの性差別」を「天皇制」や「日の丸・君が代」に還元しようという発想が、お粗末です。これはかつて(といっても戦後ですが)部落差別が天皇制に還元されたのと同じ語り方ですね。「部落差別」を「性差別」に置き換えただけです。しかし、この論法でいうなら、他の国には(天皇制がありませんから)差別は存在しないという話になります。王制も採っていないフランスやアメリカには差別は存在しないのか、という話になってしまう。でも、差別が世界中に普遍的に存在しているということは、丁寧に考えれば誰にもわかることでしょう。このことは逆にいえば、フェミニズムが「差別とは何か」ということをまともに考えたことがない、ということを意味します。

 「天皇制が差別を支えている」というのはまったくの虚像、つまり「物語」ですね。あるいは「神話」と言ってもいいでしょう。差別について掘り下げて考えることなく、判りやすい「物語」だけを用意したわけです。部落差別なんかは、本当に解決すべき問題であるわけですけれども、しかしこういう語られ方をしてしまうと、本当に考えるべき問題をスポイルしてしまいます。何か諸悪の根源を想定して、一切は天皇が悪いとか権力が悪いとか言っても意味がない。「天皇制という諸悪の根源があって、それをなくせば差別はなくなります」というのは理解しやすいけれども、差別の本質をまったく考えていません。「君に不幸が続くのは先祖の祟りだ」という「物語」を、私達は笑いますね。だけど、それと似たような発想がフェミニズムの中に、ひどい場合には「学問」の形をとってはびこっているわけです。








青島リカさん

●私の知る「教育関係者」に究極の女フェミがおります。
北海道は公立の別学が無く、私立のみに別学があります。
とは言え、集中している札幌市内でも、男子校はたったの2校、女子校は4校しかありません。
その僅かな道内の私立も、20年間で80%生徒減という苦しさに追い討ちをかけるように、近年の不景気&少子化の煽りで次々と共学化されています。
そんな息も絶え絶えの?私立に対し、彼女は徹底した女子校反対主義者でありまして、その理屈は↓こうです。
聞いて笑うな〜!です(^^;

@男子がいるのが当たり前の環境なのだから、男子がいない女子校の環境では歪む。男子がいるだけでそれだけで良い学校である。
A↑歪むとは、「異常な性行動(売春)」に走ること。
B女子校は封建制度
C中学受験が子供をだめにする(北海道は別学、中高一貫で中学受験があるのは私立のみ)
D男性の選択肢が狭まるのは損。
E女子校に行って歪んだ恋愛をしていた経験がある。
Fいい加減なおとなだって勝手にセックスしているのだから、高校生が好きな人とセックスすることそれ自体は悪いことではない。
G恋愛は芸術が・学力の大元になるのであって、学力向上の阻害にはならない。
H女性が認められる社会に早くなって欲しいから。
I女性でも高学歴なら男性の収入を抜く事が出来るから。
J有事関連法案は絶対反対

まぁ最後はオチの様になってしまいましたが(^^;)でもこれも彼女の主義主張なのでして。。。
これで進路指導の相談をする立場に居るわけでして、相談する父兄としてはにっちもさっちも・・・やれやれでございます。
女性である事でのリスクを女子高の存在の所為にしている(つまり、言いがかり)。
しかし、学校に男子が居ないだけで、売春行為に走る女子中高生なんているのか?!と(笑)
女子校が封建的な意味合いで作られたものであるなどと言う発想自体、女性を卑下している証拠ではないかと思います。
田嶋陽子辺りが良く使う言いがかり論ですね。
ついては、女子トイレ、女子更衣室も「封建制度だ!」と言い出しかねませんし。
こういう人達って、女性には「男性に持ち得ない特有の素晴らしい性差がある!」という自信が持てないのだと強く感じます。
「内助の功」「母性」「良妻賢母」「大和撫子」・・・等、女性の誉め言葉だと思うし、こういう言葉が大昔から日本にあったと言う事は、他国に比べて日本での女性の地位は低くは無かったと言えると思います。
女子校を歪んでいると思うのは、異性を性の対象として、学校を合コンか結婚相談所の様に見ているからでしょう。
こんな思考しか持ち合わせないのは、それこそ女性蔑視が自身の根底にある証拠です。

さて、フェミニスト、人権屋を調べている内に、初代フェミニスト、人権屋でもある共産主義者「エリノア・ルーズベルト」に興味を持ち、色々読み漁っている最中です。
彼女の自叙伝に興味深いエピソードが載っていたので引用します。

 1953年の春(終戦後8年)、日米人物交流の一人として日本の招待を受け来日。
 招待理由:日本の女性は数世紀に渡って封建的な思想が、彼等の生活と習慣を支配していた後、急に民主制の下に活動する責任を負う事になった為、混乱が生じ、それに対応すべく日本の指導者の一部の人達が、アメリカの女性が、日本の男女のグループと話し合う事で、彼等に民主主義の意義と、民主的政府がどう運営されるか、その方式を解明できるかも知れに後考えたからである。

 @日本での共産党の活動と、その勢力についての調査を兼ねた大学教授達との懇談
 結論→日本の学生の間には、マルクス主義を受け入れているのもが相当数あるに違いないと思うようになった。

 A裕仁天皇と良子皇后に謁見。
 
 私達は社会情勢一般について話をした。その内に天皇は、ご自分は必死の努力をしたにも関わらず、力が足りず、戦争に突入した事を非常に残念に思っている。と言い、今私達は友好と平和の時代に乗り出すのを心から願っていると付加えられた。
 
 エリノア「私がパキスタンとインドを訪問致しました際、いろいろの変革が起きていましたが、特に婦人の地位と活動に大きな変化を見ました。あらゆる階層の婦人達が、ともに接近して手を繋ぎ、お互いによりよく知り合う事により、力を得ているように思われました」
 
 良子皇后「私達はもっと教育が要るのです」

 天皇が口を挟んでご自分のお考えを述べられた。(その内容の記述は無し)
 
 良子皇后「私達女性の生活に色々の大きな変化が齎されようとしています。過去に私達はいつも、奉仕の一生を送るよう躾られてきたのであります。そして現在、このような新しい変化がもたらせるにつきまして、本質的な価値が失われる恐れが多分にあります。」

 「私達の習慣は違います。ルーズベルト夫人」と天皇が口を挟まれた。

 裕仁天皇「日本には、このような改革を指導する政府の機構があります。私達は、自分達の生活の仕方によって国民の模範になるよう心掛けるのでありまして、私達の生活それ自体が、国民に影響を及ぼす事になるのであります。」

 皇室が、日本の新時代に指導力を、どの程度発揮する事が出来るのかについて、これが決定的な言葉となったように思われた。しかし、過去の時代に婦人の年長者が、家庭でも非常に重要な影響力をもっていた以上、将来も、高い社会的地位に有る婦人が、もっと有力なリーダーシップをとるのを見る事になると思うが、この中には皇室御一家の方々も含んでの事と私は考えている。

〜以上引用終り〜

 当時の天皇皇后両陛下は、今の平成天皇皇后両陛下よりお若かったでしょう。
 ニューディーラーと呼ばれるアメリカ共産主義者の「女性の権利・男女平等主義」に対し、「本質を見失う」と答えられた良子皇后陛下のお考えは、見事に的を得ていらしたと感じます・