「ジェンダーフリーってなんか変」もNO,4に突入です。
灯理(あかり)さん、神名龍子さんという両巨頭(^。^)を迎えて、議論はますます絶好調!
みなさんのご意見をお待ちしています。


議論BBS「フェミナチを監視する掲示板」もよろしく!





Mさん
●教研に行きました。ジェンダーフリーと子どもの特権条例の報告会でした。お目当てテーマが一箇所で一遍で聞けるので、能率よく情報収集できました。

以下、あまりにくだらない内容なので、みなさまにお知らせすることを大変心苦しく思います。そこで、くだらなくても、読んでくださる方のみどうぞ、お読みください。

最初は、ジェンダーフリーの報告でした。
○教文研(教組の中のクラブ活動、資金は、拠出された主任手当て)で、男女三角関係について、研究している人たちの発表でした。
CMチェックの表が配られました。かの有名なメディアリテラシーのおけいこ表です。
CMの名前がずらりと23個も書いてありました。

男女三角関係研究メンバーが、夏休みに、一生懸命作ったんだって。
「子どもが家にいて、テレビを見る時間帯のものばかり」なんだそうです。よくこんなのつくったな。もっとましな研究してみろよ。まったくね。

その表では、CMの名前の一つ一つに@ステレオタイプ、A優劣付け、Bアイキャッチャー、
Cアンチステレオタイプの欄がありました。CMのビデオを見ながら、そのCMがこの四つのどれにあたるか、該当すると思われる欄に◎をつけるのです。

発表の男の人もこの研究会のメンバーに入った時は、意味がわからなかったんだって。
分からなくても、済ませられる言葉ということは、世の中に必要のない言葉なんだけど、「先輩の女性の先生がたに教わって、勉強して、分かるようになりました」だって。きもわるーい。

@ステレオタイプ
類型化、固定化された男女観性別分業のパターンから自由になれない。ということなんだそうです。あは。これじゃ、男の人、子ども作れなくなっちゃう。
少子化はジェンダーフリーがもたらすのかもね。

A優劣づけ
ここでは男が上っていうこと。女が上のものも分野によってはあるんだけどな。
竹中直人が鎧兜をつけて、男にはチャンスがあるって言ったコマーシャルが昔あったんだそうで、それじゃ、女にはチャンスがないのかってことになるんだそうで、これは優劣づけで、こういうのは人権によくないらしい。分かる?
ひがむなよ、おねーさんたち!!
つまんないじゃん、そんなこと言ったらさ。

Bアイキャッチャー
 必要もないのに、人の目をひくためだけに男女の体を見せたり、媚を売るような表情の女性を起用すること。性暴力にもつながる。
ぎゃーはははは!!!!
この男の人の先輩のお姉さんたち、必要な時には、体を見せるぅ?
あは、質問すればよかったな。こんどの機会に質問しようっと

「必要もないのに、人の目をひくためだけに、男女の体を見せたり、媚を売るような表情」
をしない女って、どんなんだろうね。それじゃ、女は、スカートはけいな。
女の足をたいていの男は、すごーく熱心に見てるよ。

男は、女の体の中で、足を見るのが一番好きなんじゃないかな。女の足って、男とぜんぜん違うよ。胸なら、ペチャパイもいるけどね。女の足は、すごく官能的だ。
だから、中学生の不良少女が足を超ミニをはくんだよ。あの子たち、デリカシーと恥じらいがないから、あーゆー風に見せると、かえって、色気がないってこと、わかんないんだよ。

足もね、恥じらいと挑発のバランスが取れたところで男に見せるのがグッドだってこと、教えてやったら、中学生の不良にさ。

ジェンダーフリーの先輩の女の先生方、不良女子中学生の短いスカートを叱ってやったら。
CM会社に電話をかけるよりさ。その方が、教育者らしい行いだと思わない?
それとも、「主体性」とか「子どもの権利条約」とか言って、許してやる?
あの超ミニをさぁ。
あたしなんか、メディアリテラシーこそやらないけど、不良少女に言ってやるよ。

「なんだ、その短いスカート、あと10センチ長くしろ。はしたない。それじゃ、娼婦だ。男にやってちょうだいって言ってるみたいなもんだ。恥じを知れ。」ってね。
それから、こうもいうよ。
「そのスカートはいてるってことは、男に、やって欲しいって気持ちがあるんだろう」ってね。
たいていの子は、「うん」て言うよ。
私はそれから、またどやしつける。
「恥じをしれ!娼婦に身を落とす気か、そのスカートで、チカンに会っても、泣きつくんじゃないよ」ってね。

CMにはアイキャッチャーがけっこう多いんだって。当たり前だよね。男の美しさより、女の美しさのほうが、上だもん。お金になるもん。
コマーシャルだもん。資本主義の世界なら、いくらか、それは当たり前。

「よくですね、女性の水着姿が出てきて、最後の最後に、電気製品の宣伝だったりする、
それじゃ、この水着なんだったの、ということになる。こういうのを、アイキャッチャーと言います。」
よくもまあ、こんなくだらないこと、大人が集まって考えてるな。あほらしい。
話だと、神奈川で人権推進指針ができて、国で、男女三角がとおって、神奈川でも三角ができて、メディアリテラシーをやってるんだって。
「男女の自立」「両性の自立」は不適切な差別語で、「多様な性」が人権に良い言葉らしい。
私、くすって笑っちゃったけど、他の人はしーんとしてた。
開場の他の人も誰も笑ってなかった。よく、真面目に聞いてられるな、こんな話。






神名さん
●>@ステレオタイプ
>類型化、固定化された男女観性別分業のパターンから自由になれない。
>A優劣づけ
>ここでは男が上っていうこと。
>Bアイキャッチャー
>必要もないのに、人の目をひくためだけに男女の体を見せたり、
>媚を売るような表情の女性を起用すること。性暴力にもつながる。
>Cアンチステレオタイプ

 要するに「Cアンチステレオタイプ」以外はダメ、ということですね。80年代のフェミニズムにも、ミスコンに反対したり、ここに挙げられた@〜Bに該当するようなポスターに「これは女性差別です」というステッカーを貼りつけて歩くようなありましたけど、いまだにこんな事をしているのか、という感じですね(^^;)。

 CMのように日常、公共的な場面で人々の目に触れることを許された(つまりいわゆるポルノ作品ではない)映像については、イメージの多義性について考える必要があります。薬の効能書きと違って、イメージ作品はもともと多義的なものであり、そこから個人が受け取るイメージは、必ず受け手の各人の思想や立場を含み込んでいます。だからこそフェミニズムにどっぷりと漬かった人たちは、イメージ作品に接した時に、フェミニズム的観念を呼び起こしやすい。しかし、別の観念や別の生活感覚を持つ人たち(フェミニズムに影響されていない男女)は、まったく別のメッセージを受け取ったり、何も感じなかったりすることが、いくらでもありえます。

 当然のことながら、CMの製作に関わる人たちはイメージ作品の多義性に自覚的です。その上で、自分達が意図するメッセージが受け手に伝わるような工夫をします。その際に大切なのは、CMを製作するその都度の時代に生きる人達の「気分」がどのあたりにあるか、を嗅ぎ分けることです。そのためにマーケティングがあり、あるいはコピーライターの感性に期待が寄せられます。現代のCMは、宣伝する製品がいかに優れているかを効能書きのように説明するのではなく、この気分を「射抜く」こと(それによって購買意欲を掻き立てること)を目的としています。

 CMは「気分」をターゲットにするので、しばしばエロス性(エロティックという意味ではなく)を多用します。それは水着やレオタード姿の女性であったり、若い男女の夫婦や恋人像であったりするわけですね。たとえば、ハワイ(沖縄、グァム、etc.)旅行のポスターなら、若くてスタイルのよい女性の水着姿と、ハゲて腹の出た中年男性の水着姿と、どちらをモデルとして選択するか。このとき、女性の水着姿の方が、男性だけでなく女性に対しても好感を与えるという判断が働くはずです。逆にいえば、一方の性に好感を与えながら、もう一方の性に不快感を与えるようなCMは、性差別ウンヌンという問題以前に、CMとして失敗作です(^^;)。それは、フェミニストが糾弾しなくても、スポンサーが採用しないという形で淘汰されます(そこで淘汰されなければスポンサーが淘汰されます)。

 しかし上に書いたように、フェミニストはこのような、多くの男女が持つ感性を持たないために、フェミニスト独特のメッセージの受け取り方をしてしまいます。つまりフェミニストは、作品評価を他の男女と共有できないのです。そこで、自分達の「見方」こそが正しいと考えるところに発生するのが「検閲」の思想です。それぞれのCMがどのような文脈で作られたかということを無視して、ただ自分達の政治思想に合うか合わないか、それだけを唯一絶対の基準として判断する態度です。

 もちろん、このような「検閲」の対象がCMだけに留まるという根拠は何もありません。なぜなら、CM以外にもイメージ作品は存在していて、そのいずれにおいてもここまで述べてきたようなことが当てはまるからです。ですから、もしかしたらいずれ、『ミロのヴィーナス』や『モナリザ』も検閲されるかもしれません。あるいはフェミニストが教会に押しかけて、「聖母子像」はすべて「女性=母性・固定化された性別分業のパターン」であるとして糾弾されるを始めるかもしれません。お伽話も含めた文学作品は、すでに糾弾の対象になっていますね。この「検閲」の基準には歯止めが存在しません。

 もうひとつ指摘しておきたいのは、実はフェミニストも自分達の感性が世の人々とズレていることを知っている、ということです。これが、フェミニストの行動が強迫的にならざるを得ない動機です。人間は誰でも、自分の確信を維持するためには、他者との間に「確かめ合い」を必要とします。ただ、フェミニストはそれをフェミニスト同士でやる。あるいは、自分たちの話を聴いて納得してくれそうな人たちを集めてやる。そこに異論を持つ人が紛れ込んでいる場合には排除する。そうしないと、自分たちの信念を維持できないからです。開かれた言語ゲームを拒否して「関係の病」に陥る。左翼もそうですが、「検閲」の思想には必ずこの「関係の病」がセットになっていますね。



「多様な性」の嘘 by 神名さん
●>「男女の自立」「両性の自立」は不適切な差別語で、「多様な性」が人権に良い言葉らしい。

 「男女」とか「両性」という表現は人間を男女に分ける「性二分法」を前提としているからよくない、ということでしょうか。そこで、二分法ではない「多様な性」という表現が推奨される。そういう感じですね。この「多様な性」という考え方には、私が知る限りでも、2つの源流が思い当たります。

 まずひとつは、フロイトが指摘した幼児性欲の「多型倒錯性」です。人間は生まれて間もなくは男性性や女性性を持たず、後に社会的な要因によって男は男になり、女は女になる、という考え方ですね。ここから引き出せる、ジェンダーフリーに都合のよい理屈は何かというと、ひとつはジェンダーが後天的に作られたものだということ。もうひとつは多型倒錯性が人間本来の姿であって、ジェンダーはそれをきわめて狭い道筋に限定する抑圧的な文化装置だ(ゆえに、それを解体すれば人間はもっと様々な在り方ができるはずだ)ということです。

 前者の問題点は、なぜ男女非対称のジェンダー構造が時代や文化を越えて成立しているのか、ということです。確かに「男らしさ」や「女らしさ」の具体的な中身は時代や文化によって違うけれど、ジェンダーが身体の性差と同様に性二分法をとるという点では普遍的です。「ジェンダーは社会的(文化的・歴史的)に作られる」という主張は、この普遍性を説明できません。

 多型倒錯性の問題は、私がもう一つの源流とみなす、ポストモダン思想に共通するものです。ドゥルーズ=ガタリのいう「n個の性」というのがその代表ですね。つまり、「性別」というのは「男」と「女」だけでなく、人間の数だけあってもいいはずだという考え方です。実際には「自動車」や「鉱物」も性別だというムチャクチャな話になるのですが(^^;)、話しを簡単にするために、ここでは人間の話しに限ることにしましょう。

 この「多様な性」や「n個の性」というのは、あくまでもロジカルに生み出された性概念であり、人々の日常生活の中で使用されることのない「死んだ概念」に過ぎません。実際に人間の数だけ「性別」を区別し、それに基づいて行動している人がいるとは、私にはどうしても思えないのです。もちろん、個々人の間には必ず何らかの形で違いが存在していますし、私達は通常そのことを疑ったりはしません。でも、私達はけっして「個々人の違い」を「性別」という概念で呼んだりはしません。

 逆にいえば、「多様な性」とか「n個の性」というのは、個々の人間の違いを「性別」と呼ぶことによって、「性別」という語の通常の意味を、つまり現在の「性別」という概念を、解体(脱構築)しようとする狙いが透けて見えます。これは、ポストモダン的発想の常套手段です。

 また、フロイトに戻っていうと、彼は口唇期から性器愛に至る個体発達の過程として、単なる事実として多型倒錯性を指摘したに過ぎません。フロイトは、多型倒錯性を「人間本来の姿」として価値付けたわけではないのです。

 もっとも、「多様な性」という言葉の「性」をセクシャリティという意味で使っていて、たとえば同性愛者という理由だけで不当な差別をしてはいけない、というのなら、私は賛成です。実際に欧米では、同性愛者や性同一性障害の当事者がヘイト・クライムに遭ったりして、生命・身体の危険にさらされているという事実もあります。これは不当なことですから、解決する必要があります(私としては、他人事ではありませんし ^^;)。

 だけど、そのために「性別」という概念そのものを相対化する必要はありません。これは他でも書きましたが、「差異」と「差別」を混同している考え方で、「黒人差別をなくすためには肌の色が同じにならなければならない」というのと同じだからです。いわゆる「多様性を認めること」と「多様な性=n個の性」とは、まったく異なる概念だということですね。







灯理さん
●わけの分からないフェ理屈に、それでも必死であわせようと先生方が努力しているようすが手に取るように伺われて、とても可愛そうな研究会ですね。
そしていつも思う事なんですが、どうして彼ら、彼女らのコードの読みかたってこう、悠意的で下手糞なんでしょうか(?_?;)。

>竹中直人が鎧兜をつけて、男にはチャンスがあるって言ったコマーシャルが昔あったんだそうで、それじゃ、女にはチャンスがないのかってことになるんだそうで、これは優劣づけで、こういうのは人権によくないらしい。

この後に続いて威勢良く門を開けて出撃するとそこに敵兵が待ち構えていて、竹中秀吉は大ピンチ・・そこで寧々殿を思わせる女性が物蔭から「ピンチもある。」と登場してカードを授けるので、これのどこが優劣を表していることになるんでしょうか?むしろ女性の方がより賢明である、というコードですよ・・(-。-;)。これ、UFJの短期ローン、モビットのCMです。
こんなものすごく単純な、ベタと言って良いCMすら読めないとは・・もちろんこのCM、中小企業主や個人事業主の家を対象にしたローンですから、当然事業主たるご主人を秀吉に、経理を担当しているであろう奥さんを北の政所に例えているわけで、こんな分かり易いCMもありません。
ですからもし、批判するのならむしろ@のステレオタイプのほうに入れるのが適切で、鎧兜をつけていたら優位、などとするのは全然妥当な読みと言えません。
でもそれに、現実にほとんどの中小企業や個人事業主はそう言う事業体系を取っているわけで、その層にこそアピールしなければならないCMなんですから、そんな文句を言ったってはじまらないのです。

スカート丈の話ですが、足を出すそれを最初に発表したのもシャネルです。それは“活動的な女性”の表象でした。
いまの少女たちの異様に短いスカート丈はおそらく子供時代への固着、成熟拒否の現れでは無いでしょうか?。子供のスカートは短いですからね。
“可愛い”ことに対する過剰な執着もその現れで、奇麗になりたいとはちっとも思っていないのじゃないか知ら・・いつまでも“子供のままで居たい”わけです。
これには“望ましい女性像”のイメージを大人たちが与える事が出来ないでいることに一つの原因がある、と思います。よくできる子供たちはそれこそフェミニズムの標榜する“働く自立した”女性を目指す事が出来ます。
でも、みんながキャリアウーマンとして成功が約束されているわけではなく、そんな者になれない、ということは何よりも成績表が教えてくれます。そうなっちゃうともう、大人になってもロクなものにはなれない、と言われているも同然で、それが結局“成熟拒否”、成長しようとする意志の放棄へとつながっていくように思うのです。

そんなことは無い、学力など人間にとって小さな価値に過ぎません。優しさや勇気のほうが・・つまりは男らしさや女らしさがよほど大切に決まってるじゃありませんか(-。-;)。
そこには人間に関する根源的な価値観が込められているので、それの解体は直ちに人間と言う関係性において規定される価値そのものの解体につながっていく、と思います。つまり、愛の否定、龍子さん風に言ったらエロスの拒否、でしょう。
それこそ女性の足場を解体して、資本の奴隷に貶めるものです。

> もうひとつ指摘しておきたいのは、実はフェミニストも自分達の感性が世の人々
>とズレていることを知っている、ということです。これが、フェミニストの行動が
>強迫的にならざるを得ない動機です。人間は誰でも、自分の確信を維持するために
>は、他者との間に「確かめ合い」を必要とします。ただ、フェミニストはそれをフ
>ェミニスト同士でやる。あるいは、自分たちの話を聴いて納得してくれそうな人た
>ちを集めてやる。そこに異論を持つ人が紛れ込んでいる場合には排除する。そうし
>ないと、自分たちの信念を維持できないからです。開かれた言語ゲームを拒否して
>「関係の病」に陥る。左翼もそうですが、「検閲」の思想には必ずこの「関係の病」
>がセットになっていますね。

それで権力と野合して上からの強要という形で革命を推し進めようと・・それでは文革ではありませんか。上に紹介された教研のようすなど、まるでそれ、そのものです。カルトなどでやる信念強化の為のプログラムを思い起こさせ、胸が悪くなってきますよ。
世間的な同意の得られない正義の体系を勝手に打ち立て、それを強要しようとするなんて恐ろしい事です。何よりその精神の傾きが・・それはホンのちょっと矛先を替えるだけでマイノリティの抑圧につながって来るものですから。
今、わたし達は彼女らにとって利用価値がある、と思われているからいろいろとチヤホヤもされますけど、一つ風向きが変われば直ちに矛先はこちらに向いてくるでしょう。彼女らに同意しないとなれば・・そうなった時の罵詈讒謗のものすごさは・・龍子さんのほうが良く、ご存知ですよね(^_^;)。





トワズさん

●どうも、しばらくぶりです。ちょいとジェンダー話に参加させていただきます。

> もうひとつ指摘しておきたいのは、実はフェミニストも自分達の感性が世の人々とズレていることを知っている、ということです。

彼らの場合、感性がずれているということもあるのでしょうが、論理によってのみ考えようとするせいで、感性の訴えを聞き届けられなくなっている感じですね。人の幸せも不幸も、結局は感覚のものなのですが、それを論理で捉えようとしているのでしょうか?

あと、ふと思ったのですが、社会的な刷り込みがジェンダーを規定するということなのであれば、性同一性障害の人たちって、どういうことになるのでしょうかね。
肉体は男なのに自分を女だと思っているような人たちは、周囲から男として育てられたでしょう。であれば、彼は男というジェンダーを手にしても良さそうな気がしますが。それこそ、ジェンダーが刷り込みではありえないということの証左だと思います。
もしかしたら、それが、「セックスはジェンダーを規定しない」ということの根拠に使われたりしているのでしょうか。だとしたら、逆でしょって感じですね。
それに、性同一性障害の方も、結局は、自分の肉体とは異なる性を意識しているわけで、それは結局、人がジェンダー的二分法から脱却できることの証明にもなりませんし。





神名さん
●トワズ様

>あと、ふと思ったのですが、社会的な刷り込みがジェンダーを規定するということなのであれば、性同一性障害の人たちって、どういうことになるのでしょうかね。
>肉体は男なのに自分を女だと思っているような人たちは、周囲から男として育てられたでしょう。であれば、彼は男というジェンダーを手にしても良さそうな気がしますが。それこそ、ジェンダーが刷り込みではありえないということの証左だと思います。

 ここでいう「ジェンダー」は、性自認(自分は男(女)であるという認識)の意味で使われているようですので、その線に沿って私の考えを書かせていただきます。結論から言ってしまえば、性自認の構成においては「社会的な刷り込み」も要件の一つですけれども、それだけではないということになります。

 まず、性自認とは何かということを、定義とは別の形で考えてみます。これは端的にいえば「欲望」の一種です。欲望といっても、お金に汚いとかそういう悪い意味の言葉ではなくて、自分自身の「かく在りたい」という思い描きですね。たとえば、「リンゴを食べたい」という欲望は「リンゴを食べ味わう自分」を思い描くことに他なりません。

 人は、生まれてから何年か経つと、自分が属する社会においても「男はこういうもの、女はこういうもの」という認識を持ちます。これは、自分の外側からの情報が元になっていますから、「社会的な刷り込み」といってもよいでしょう。そして、人は誰でも、自分の様々な「かく在りたい」を追求しているような存在ですね。目の前のリンゴを食べたいとか、●●大学に入りたいとか、いろいろな欲望を持っています。

 ここで大切なことは、人は自分が知らないもの(こと)を欲望することはできない、ということです。たとえば「しくまひ」を欲望することはできない。この「しくまひ」というのは、パソコンのキーボードをデタラメに叩いて作った文字列なので、それが「もの」なのか「こと」なのか、それすら私にもわかりません(笑)。そういうもの(こと?)は、欲望のしようがないわけです。

 子供といえどもそれなりの年齢になれば、自分もいつかは成長して大人になることを理解します。そして、自分が将来どう在りたいかということは、自分の身体の性別の認識に合わせるのが普通です。たとえば、女の子だったら「お嫁さんになりたい」と思ったりしますけど、男の子は思わないわけですね、普通は(^^;)。

 でも、私のように(^^;)、自分の「かく在りたい」が身体の性別とズレちゃう人がいます。普通は女性のものとされている「かく在りたい」を持ってしまうと、自分を女性と思ってしまう。自分の身体が「男」だという事はわかっているにも関わらず、このような「かく在りたい」を持つ自分は、少なくとも精神的には女性であると思わざるを得ないわけです。これが、性同一性障害です。

 ここで確認しておきたいのは、欲望(かく在りたい)は自己選択的なものではない、ということです。たとえば「コーヒーを飲みたい」という欲望も、本人にとっては「到来する」ものですね。「コーヒーを飲みたくなろう」と思って自分の意志で欲望するわけではありません。性同一性障害の場合も同じで、好き好んで性同一性障害になるわけではありません(ですから、性別を相対化するための戦略として女装を選択するのとは、根本的に区別される必要があります。あれは自己決定・自己選択的にやっているわけですから ^^;)。

 人は、欲望の対象を教えられたり、身の回りから見て取ったりします。私は生まれも育ちも日本ですから、いくら自分を女性だと思っても、首長族のように「首が長いほど美人だ」という感覚は持っていません。あくまでも日本での価値観でいう「美人」だったらいいなぁ、と思うのです(笑)。これを「社会的な刷り込み」とみなすことは可能ですね。

 だけど、自分が知っている様々な「もの」や「こと」の中で、何が欲望の対象になるかということは、必ずしも「社会的な刷り込み」だけでは決定できません。少なくとも、それを一元的に「社会的な刷り込み」に還元できるということは、立証できません。同じ日本で生まれ育っても、「コーヒーを飲みたい」と思う人もいれば「コーラを飲みたい」と思う人もいて、その違いが生じる理由を理論的に説明できないのと同じです。この違いは、個々人の経験や価値観の違いとしか言いようがないものです。

 「社会的な刷り込みがジェンダーを規定する」というのは、人間が意思や主体性を持たないホワイトボードのようなもので、そこに「社会」が好き勝手に何でも書き込める、といっているようなものです。このような考え方は、人間が主体と客体の両面を併せ持つ存在だということが忘れられてしまいます。「社会的な刷り込みがジェンダーを規定する」というのも、そういう偏った視点から出てきた一面的な見解です。

 だけど実際には人間は、各人が自分に固有の意志や価値観を持つ「主体」でもあるわけです。「社会」によって書き込まれたことも、必ずしもそのまま鵜呑みにしないで、自ら「解釈」ということをしたりもする。だから人間には、同じ経験をしても同じ価値観を持つとは限らない、という事が起こるわけですね。








はるかさん
●はじめまして。はるかといいます。

今、学校の総合の時間に「ジェンダーフリー教育」を調べています。
卒業研究というかたちで1つ好きなテーマを設定するんですけれど、私は、これに決定しました。
このHPはネットで検索して、ジェンダーフリー教育の反対意見的サイトだったので、覗いてしまいました!
論文の「恐るべしジェンダーフリー教育」を読むと、いままで「良い事」だったモノに影が見えてきたと思いました。
ショックだったのは、「マネージャーの話」です。
好きでやっているのに、これっぽっちも考えてない教師に腹が立ちました。
その教師は、ジェンダーフリーを取り違えて覚えてしまったんでしょう。
個人の尊重もできない教師は教師(教える立場にいることすら)資格がないと思います。
それと、恋愛について。
「支配・被支配の関係」?冗談じゃありませんね。
それでは「愛する」ことは相手を支配する?
心を支配するなら分かりますけど(笑)
奴隷・主人の関係だなんて。愛することを間違えているんでしょう?
対等な恋愛なんて存在しないだって?
愛する⇔愛するで対等じゃないんですかね?

私には、この著者の考えがとうてい理解できそうにないです。
これも一人一人の考え方の差なのでしょうがないことですが、
恋愛についてそのように考えながら恋していたら人生楽しめない気がします。
少なくとも、私は楽しめません。

これまでは、私の意見ですが、ジェンダーフリーを甘くは見てはいけないんだなぁと思いました







灯理さん
●はるかさん、はじめまして。

愛すると言うことは自分よりも相手を大切に思う事ですよ。あなたのお父さんやお母さんはあなたのために、あえて自分が損をすることだってかまわないでしょう?それが愛する、と言うことです。はるかさんはそのお父さんやお母さんの気持がわかっているから、ちょっといやだな、とかうるさいな、と思っても言う事をきくでしょう?それも愛するって言う事です。
お父さんとお母さんも愛し合っていますよね。大人の愛はお互い相手のために自分の人生の幾分か、時には全部を与えているのです。そのときにどっちが得をしたか、なんて考え始めたら愛は消えてしまいまうのです。
「愛と言う名の支配」と言う本があります。あなたもきっと知っている田嶋陽子さんが書いたものですよ。でもね、支配するって言うことは与え合う事ではない。一方が一方を搾取する、と言う事です。少なくとも、田嶋先生はそう考えているようですね(^_^;)。それは間違っています。
マネージャーの話をしましょう。男の子は愛するもののためにはものすごい力を出す事ができます。限界を越えてがんばる事ができるのです。自分のためにだけしていたのではそんな力は出ません、だってそうでしょう?自分のためだけにやっている事だったら自分がしんどくなったら辞めちゃいます。
女の子はどうですか?ええ、確かに頑張りはききますけど、男の子ほどじゃありません、何しろ、ことに若いころの男の子のエネルギーはものすごい・・時には自分自身を壊してしまいそうなほどに・・女の子はどこまでも自分を捨てて行くことができるのです、愛するもののためになら。
そう言う風に男と女って言うのはちょっと違っているのです。
その違いをジェンダーと言って、社会的にあとから人間に押し付けられたものだ、と言うのがフェミニズムの主張です。そして、こう言う仕組みは女性にとっては損だから、なくしてしまえ、と言うのがジェンダーフリーなのです。そこにはもはや愛はありません。
でもね・・愛があるから人は自分の殻を破って成長する事ができるのです。はるかさんだって好きなことのためなら猛烈にがんばる事が出来るでしょう?それが大人になるための力です。そうやって何度も何度も脱皮を繰り返し、人はやっと大人になることができるので、ボーっと過ごしていたら体ばっかり大きなオトナコドモになっちゃいますよ。それでも良いですか?わたしはそうなって欲しくない。
現代は男社会だと言います。確かにその通り、社会の仕組みが男性のライフサイクル(一生の身体的、心理的な変化)にあわせて創られているからです。それはそうです、昔は社会に出て働く女性はあまり居ませんでしたから、自然とそうなっちゃったのです。逆に家の中では女性のライフサイクルに合わせて制度が作られていました。子供を産んで育てるのは主に女の役割でしたから。
それがだんだん家のほうが小さくなり、社会の方が大きくなって、今のようにアンバランスなことになってしまったのですよ。TVのサザエさんのようにおじいさん、おばあさん、娘息子に孫の揃った一家など、もう、ほとんど見られなくなりました。
それはちょっと寂しいことですね。本当はそのほうが家族は上手く行くんです。
それでちょっと女性はおかしくなっちゃいました。
男のように働いて、お金儲けがしたくなったのです。だって内の中に居てもおじいさんやおばあさんは居ないし、手助けしてくれる人が居ないので子供の数も少なくなって、寂しくなっっちゃったから・・でも、それでは流されてるだけじゃありませんか。
それで、よく考えて欲しいのです。
本当に女性がしなくてはならないこと、女にしかできないことは何なのか。女に生れてきたわけはなんなのか?それは男にも出来ることをするため、なんでしょうか?
わたしはそうは思わないのです。







神名さん
●はるかさん、はじめまして。

>それと、恋愛について。
>「支配・被支配の関係」?冗談じゃありませんね。
>それでは「愛する」ことは相手を支配する?
>心を支配するなら分かりますけど(笑)
>奴隷・主人の関係だなんて。愛することを間違えているんでしょう?
>対等な恋愛なんて存在しないだって?
>愛する⇔愛するで対等じゃないんですかね?

 確かに対等ではない恋愛も存在しますけど(^^;)、それが恋愛の本質だというわけではありません。はるかさんの感性の方がずっと優れていますね。

 「支配・被支配の関係」は、それ自体は必ずしも悪いことではありません。たとえば会社に就職したら、上司と部下は「支配・被支配の関係」になります。これを否定したら、会社は成り立ちませんね。ただし条件があって、この「支配・被支配の関係」はあくまでも仕事に関することだけの関係だということです。だから上司が「支配・被支配の関係」を利用して部下に仕事以外のことをさせたら、たとえば自分のおうちの夕食のお買い物をさせたら、これは不当です。

 それから、会社の「支配・被支配の関係」では、部下になる人も、自分の意志で会社を選んで就職するわけですね。昔のアメリカの奴隷のように、会社に買われて来るわけではありません。つまりこの場合も、自分で納得して会社の中の「支配・被支配の関係」に参加するわけです。こういう「支配・被支配の関係」は正当なものです。逆にいうと、昔のアメリカの黒人奴隷は、不当な「支配・被支配の関係」だということですね。


 ところで恋愛というのは、好きになった相手の中に、自分にとっての「とってもよい」を見出すということです。だから、「この人と一緒にいられたら幸福だろうな」という予感がはたらくわけですね。しかも、その「とってもよい」を独占したいという気持ちも同時に起こる。「自分だけを見て欲しい」とかですね。これが恋愛の本質です。

 片思いではなくて相思相愛の場合には、お互いに相手を独占したいと思うわけです。しかも、お互いに納得してそういう関係になります。誰が何といおうと、当人たちにとっては、それが不当なことだとは思いませんよね。そして恋愛の相手は、自分の好きな人だから、自分にとっての「とってもよい」を持っている人だから、大切にしたいと思う。「お互いが気遣いあう関係」ということも、両思いの恋愛の特徴です。それが「奴隷・主人の関係」と同じはずがありませんよね。

 もちろん、同じ「独占」でも、片思いなのに相手の人を付け回したり、誘拐して監禁したりしたら、これは不当です(^^;)。こういうのは「奴隷・主人の関係」と同じです。相手が納得していないからです。

 正確にいうと、相手が納得していても、未成年の場合にはこういうことをしてはダメです(^^;)。だけどそれは「支配・被支配の関係」だからダメなのではなくて、未成年は親が保護する対象なので、勝手に(相手の親の承諾なしに)親元から引き離してはいけないという、別の理由があるからです。

 はるかさんも、ステキな恋愛をしてくださいね(^^)。







影石さん
●はるかさん、はじめまして。私は高校で国語を教えている影石といいます。
 自分の研究テーマのために、反対意見にもちゃんと目を通すその心掛けに感心させられました。あなたはどうやら優れたバランス感覚の持ち主のようですね。
 「被支配・支配」の恋愛関係ですが、その発言をしている人は、不幸にもそういう恋愛しか経験してこなかった、ということでしょう。
 しかし、困ったことにこの手の運動をしている人は、本来ならレア・ケースであるはずの少数の事例をもって、それを拡大解釈し、不特定多数の人間の方をそれに合わせるよう働きかけるところに多くの問題があるのです。
 すでにこの板の管理者である長尾先生が指摘されているよう、ジェンダーフリー運動もそういった傾向をもつ、一つの政治運動だと言っていいでしょう。
 すなわち、実際に多数の困っている人々がいて、それを救済するために運動を起こしているのではなく、まずはじめに自分達の思想理念が先にあり、それを実現するためには、現実の社会の中で日々生活を送る圧倒的多数の民衆の現状がどうであっても、(極論すれば差別の被害者などいなくても)無理やりにでも社会を変革してしまおう、というのが実態です。

 そのため、マネージャー等、本人も含めたその周囲の人物すべてが納得して活動し、かつ何一つ困っている人などいない行為を、彼らは厳しく批判します。
 また、一方では誰一人望んではいないであろう、男女混合の身体検査等を自分達の理念に従って強引に導入しようとしています。

 その他詳しいことはこのホームページの随所を読めばわかると思うのでそちらを参考にしてもらうとして、一つだけ学校現場にいる者として気掛かりな点があります。

 それは、学校の教員にはこのジェンダーフリー運動に微塵も疑いを持たず、全面肯定している人間が多数いるということです。そういう人達の中には、反対意見や都合の悪い事例には全く目を向けないばかりか、自分の意に反する意見を持つ生徒に、意見を改めるよう説得したり低い評価をつけたりする場合があるのです。普段から生徒に優しく信頼されている先生であっても、こと思想に関することでは態度が豹変することも珍しくありません。
 はるかさんの卒業研究を指導する先生が、不幸にもそういう先生でなければ良いのですが、事前にそれとなく探りは入れておいた方がよいとは思いますよ。

 では、よい卒業研究の作品が完成することをお祈りします。





管理人
●以前『ホームレス作家』という本が話題になり、その続編の『ホームレス失格』が出ていたので2冊を一気読みしました。原稿料の入らなくなった著者が、公団住宅を追われてホームレスになる様子を描いたものですが、いくつか興味深いことがありました。
 まず、公団住宅を追われても、妻と子供は「母子寮」に入ることができて、夫には何の救済措置もないようです。道理でホームレスには男が多いわけだ。
 しかも、驚いたことに、この「母子寮」いうのが、東京都女性センター管轄の施設で、妻が施設の人から「絶縁指導」を受けたとか。行政にそんなことができる資格はないというのにです。
 「絶縁指導」の原因は、著者がお金がなくて夕飯を準備できなかったことがDVにあたると判断されたからだとか。その後、DVの嫌疑が晴れ、印税が入り住居が定まってからも、妻子と面会もさせてもらえもらえず、結局、妻の方から離婚を要求されて話は終わり。なんだか実に不快な内容でした。
 DVの嫌疑がかけられると、(たとえそれが事実でなくとも)男の側のあらゆる人権が侵害されるおそれがあるようです。それにDVといっても、男の側からだけで、子供や妻の側からの暴力はお咎めなし。しかも、妻の側が不満を申したてれば、子細を問いただす前に、行政は妻の側につくようなシステムになっているようです。
 何もかもが男の不利になる仕組みが出来上がりつつあるのかも。男に対する憎悪をもとにしたフェミ思想が行政の政策となり、それが実働しつつあるのかもしれません。詳しくは同書をお読み下さい。





灯理さん
●以前、下田 浩美「離婚バイブル」という本で、おそろしい妻からの夫への暴力の例を読んだ事があります。でも、フェミニズムがかった家裁の調停員や弁護士は、夫の言い分には聞く耳を持たず、妻の言い分だけで離婚を成立させようとする。でも、熱心なクリスチャンである夫は頑として離婚に応じない・・それでますます暴力は激化して行く・・そんなDVだってあるのです。
心に恨みやコンプレックスを内蔵した人間は、男女を問わず、暴力的なもので、それは男だけに限った事でないのは自明です。女性の場合、それは得てして自分の子供、時には赤ん坊に向けられます。そう言う人は自分より強そうなものには卑屈で、従属的なものですから・・それはフェミニズムの抱く女性像、妻の姿、そのものですね。
そんなイメージを抱くのはそう言う育てられ方をしたか、何らかの理由でそう言うイメージを母親に対して抱くようになったからだろう、と思います。そしてそうは成りたくない、と考えて、父の価値観を内部化する・・それを父の娘といって男性性、アニムスに憑かれた女、というのです。
そう言う人は昔からたくさんいた、と思われます。フェミニストはそれの今日的な現れに過ぎない、とも・・ただ、現代社会の価値観が極端に男性化したため、そう言う女が発言力を持ち、社会に影響を与える事が出来るようになった、と思うのです。
今、C・G・ユングの奥さんのエンマ・ユングの「内なる異性」を読んでいるのですが、フェミニストたちの語る理想やイメージは女性の抱く男性性アニムスの、その最も低いレベルか、せいぜい二番目ぐらい・・そんな感じです。

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彼女の性愛は男性の持つ攻撃的性格を示し女性の場合がいつもそうであるように感情により規定され感情に結びつくということがなく、人格の全体とつながらず、性愛がそれ自体として機能する。こう言うことは主に男性に見られることなのだ。
(北原みのりみたいです−灯理注(^_^;)。・・【中略】・・
最近五十年間の諸発見や諸発明と並んで、女性運動、つまり社会的男女同権の闘いが繰り広げられた事も、その事の一つの表現である。こう言う努力の最悪の産物をーいわゆるブルーストッキング(青鞜のモデルになったイギリスの男女同権運動-灯理注)をーわたしたちは今日のりこえたといってよいであろう。
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すみません、エンマさん、貴女はこの文章をすでに1947年、書かれました。でもこの、極東の島国では、そして海の向うの新大陸でも、ちっとも、何一つ、乗り越えられてはいないのです。むしろわたし達の時代を五十年も前から見通していたような、そんな気さえしてくるのです。わたし達は半世紀も、何をしていたんでしょう!
何か重大な欠損があるのです、多分、海の向うの、あの国に。男にとって大した事でなくても、女にとっては致命的であるような何か・・それが欠けているように思うのです。
それを考えなくてはいけません(ー_ー;)。





管理人
●灯理さん、ブルーストッキング(青鞜のモデルになったイギリスの男女同権運動)というのは初めて知りました。
DVの件ですが、DVがいけないという発想の中には「男がそんなことをするのは許せない」というジェンダー意識があり、その意識があるがゆえにDVを「水戸黄門の印籠」のこどく使用できるのだとすれば、ジェンダーを否定している者達がたくみにジェンダーを利用しているという構図が見えてきますね。なんだかな・・・・。





トワズさん
●まったくその通りですね。
DVなどという女性を守る概念が成立するのは、男性が肉体的に強く性格が攻撃的なものだとして特別な制約(責任)を課すもので、男女の別を意識したものですが、これは当然、男女の別を無くそうというジェンダーフリー思想とは相容れません。
今の世の中は、男女の別を無くそうという所までいくラディカル・フェミニズムが「男らしさ」を否定する一方で、「女権拡大論」としてのリベラル・フェミニズムが、「女性の権利」を拡大していくのですから、これほどの暴挙はないといっていいでしょう。
というわけで、彼らがDVだジェンダーフリーだと言うのであれば、我々は、「女性の中には、男性よりも力が強い人だっているかもしれないではないか。であれば、その可能性も鑑みて、女性から男性への暴力も、男性から女性への暴力と同じように扱わねばならないはずだ」と言い返していいということになりますね。もちろん、前出の「ホームレス作家」の方が受けた仕打ちを逆手にとって、直接の暴力でなくても、「それは女性から男性へのDVだ」と言ってもいいことになるわけです。






鈴彦姫さん

●初めましてメール名鈴彦姫と申します。興味あるホームページと、ハイレベルの伝言板楽しみに読ませていただいています。ミード説の否定記事には、興奮してしまいました。つまらぬ運動をしている人たちに送りつけてやりたいですね。
 それから、ホームページのはるかさんや大学生の文章を読んでいてメールを送りたくなりました。これからの日本をしょっていくお若い方達に、誤った男女平等観をもってほしくない。くだらぬ女性の言動に、男性がやる気をなくしたら大変です。良識派を自認している40代の普通の女性が普通に感じていることを言いたくなり、メールを送らせていただきます。
 今一番恐ろしいのは、確信犯的な、フェミニストやジェンダーフリー論者の毒を浴びた多くの女性が、あいまいな認識のまま、自分達の都合のいい部分だけをつなぎ合わせて男女平等を言っていることではないでしょうか。彼女たちの言い分は、こんなところです。
「女は家事や子育てに縛り付けられ正当な評価もされず、セクハラの被害に合い、長い間差別を受けてきた。だから今は、セクハラに監視の目光らせ、家事と子育ては可能な限り男に押しつけて、自由を満喫しましょう。今までずっと女が我慢してきたんだから、今度は男が我慢しなさい。女は勉強できるんだから、優秀なんだから。男って乱暴で、いやらしくて、だらしなくて、本当にダメ。」
 確かに過去には男尊女卑、男女不平等の歴史がありました。多くの運動家達のお蔭で(功の部分はは素直に認めたい)今は男女平等の世の中になりました。労働条件も改善されました。男らしさや女らしさをことさらに強調、強要されることもなくなりました。それにもかかわらず、女性達の主張は、とどまる所を知りまん。これでもかこれでもかと男性を圧迫しています。
 最近聞いた女性の会話で最も耳障りだった一言。「あー、喫煙室で男の人達が固まって煙草吸ってるのって、何か阿片窟みたい。やめてほしい。」愛煙家に「煙草を吸うな」というのは、その一言を言ったお喋りな女性に、「しゃべるな」と言うのと同じだということにどうして気付かないのでしょうか?喫煙室の煙は私に害を与えませんでしたが、彼女の一言は、不快を与えました。女性は男性のことを非難する前に、自分のことを反省してみるべきです。
 セクハラについて言えば、立場を利用して関係を強要したり、いやがらせしたりという真のセクハラは絶対に許すことはできません。しかし現状は、ユーモアやウィットで充分対応できる内容まで、目くじらを立てセクハラとして取立て、男女間のコミュニケーションをぎくしゃくしたものにしてしまっています。美人やかわいいがなぜセクハラ言葉になるのか理解できません。かえって女性の方が、刺激的な格好をしておいていやらしい目で見たなどと言っているケースが目立ちます。女性は、男性の本来持っている感情や欲求についてもっときちんと理解し行動すべきです。流行のファッションを追うような感覚でセクハラ探しに追従すべきではありません。
 次は家事についてですが、今の女性たちが家事に縛られているなどと本当に言えるのでしょうか。炊飯器、冷蔵庫、食器洗い機、掃除機、洗濯機、等等。家事であかぎれを作っている女性も、釜戸に火をおこすために早起きをしている女性も、この日本にはたぶんいないでしょう。
 誰が炊飯器を作ったのですか、誰が洗濯機を作ったのですか?熱き思いの男性たちが寝食をわすれて、研究に研究を重ねて作ってきたわけです。男性の物を創りり出す時のパワーはすばらしい。そのパワーはやはり女性にはない。もしそんなパワーがあればとっくの昔に女性が男性をはねのけて創り出していたはずです。だから、世の女性は男性に感謝すべきです。自分の目の前の男性が掃除をしなかったり、風呂に入らなかったり、汚れた服を持って帰るらないからといって「男ってだめねー」などと言うべきではありません。それは男性の一面でしかありません。仮にその人が本当にぐうたらだとしても、男性一般を貶めるような言動はすべきではありません。そして、男性がパワーを発揮できるように応援すべきです。家事は家族を支える大切な仕事です。
 子育てを軽視する傾向は、最も由々しき問題す。産む産まないは女性の自由。産むのも育てるのも大変だし、仕事にもマイナスすだから産まないでは、少子化はとどまるところを知りません。少子化は経済不振や国際競争力の低下と密接に関係します。このままでは日本が危ない。日本以外でどうやって生活して行くというのでしょう。国を蔑ろにして生きていけるビジョンが示せるのでしょうか。やはりこの日本を盛り立てて生きていくしかない。女性は、自分の感情や都合だけではなく広い視野に立って行動を決めるべきです。子供を育ててみれば、子供のかわいらしさと子育ての充実感を必ず感じるはずです。女性はもっと子育てに誇りと使命感をもつべきです。
 性差は確実にあるのですから、両性がお互いをよく理解し、協力し合う真の共生を目指したいものです。そう思うとやはり桐原の教科書は許しがたいですね。高校生ににあんなうそを教えてはいけませんね。
 はるかさや大学生さんには、頑張って日本を支えていって欲しいと思います。







小人閑居さん
●PHPから『教育黒書 学校はわが子に何を教えているか』という本が出ました。編著者はおなじみ八木秀次先生ですが、ゆとり教育、人権・平和教育、ジェンダーフリー教育、国立市の国旗掲揚問題など、要するにこのHPでも問題にしてきたことがまとめて取り上げられています。
 まだ読みはじめたばかりですが、この本の圧巻は八木先生自身が書き下ろされた家庭科教科書批判、そしてそれに続く八木先生と山谷えり子議員の対談でしょう。引用したい箇所はたくさんありますが、ひとつだけあげると、山谷氏は高校まで「女は損だ」と思っていたけどカトリック系の女子大で「女性であることは素晴しい」という文化を知ったことを述べた上でこう語っています。

「でも、『女は損だ』とかいいますけれど、それは男を基準にしていくら稼げるかとか、男を基準にしてどのくらい出世できるかという、たかだかそれだけのことじゃないですか。それに、男性に比べてどうだと言ったところで、別に男性の価値観だけが絶対的な基準ではないわけです。子供を産み育てて、お互いに愛し合えることというのはまた別の価値があるのに、そちらのほうはまったくカウントしないで、すべて男性の物指しの価値観でカウントして、『損だ、損だ』とやっているわけでしょう。それがいかに愚かなことか。違う文化のなかに入って、それがよくわかりました。
 日本のジェンダー・フリー運動というか、ジェンダー・フリー闘争は、男に無理矢理でも家事や子育てをさせて、『数量化してどっちが損か、得か』みたいなことをやっていますよね。でも、男の人にも赤ちゃんを抱っこして子育てを楽しむ恵みがあるわけですし、女の人にも、おっぱいをあげる恵みがあるわけです。その恵みとか愛という献身の美しさを教えれば幸せになれるのに、それをしないんですね。損か得かの権利闘争でものを考えると決して幸せになれませんし、欲求不満ばかりが募って夫婦仲もうまくいかないでしょう」

 同じ民主党でも、この山谷氏と水島広子氏あたりの人間観を比べると、どちらが豊かで、深い考え方や広い視野に基づいているかは一目瞭然でしょう。「フェミやジェンフリは決して女性を幸せにしない」ということはこれで明らかですね。





影石さん
●「JTU 日本教職員組合」(「JTU」って……?)発行の「隠れたカリキュラムを考える ジェンダーフリーの教育を」というB6四つ折のチラシが出てきました。3〜4年前のものだと思いますが、公立学校でのジエンダーフリー運動の基調がここにまとめられているので一部紹介します。

(引用開始)

《学校では》
 多くの教職員は女の子も男の子も平等に扱い、男女平等の教育をしていると答えるでしょう。ましてや意識して差別しようなどとしている人はいないでしょう。
 にもかかわらず、学校が性差別の再生産の場になっていると指摘されています。

《男女を区分けすること》
 男女を分けることは長い間問題とされずにきました。しかし、男女を分けることは差別と認識されるようになりました。別の集団として区分けし(人種の区分けは差別とされている)違いを強調し、子どもたちの可能性を性によって枠づけしておさえこみ、多様な個性を見ないことにつながります。
 特に、男子が先の男女別名簿は「女と男はちがう」「男が先、女は後」の考え方を植え⊃けるものとなります。女の子には「さん」男の子には「くん」、男女色分け、男女グループ分けも問題。

《教科書はどうなっているか?》
教科書に描かれている女性像、男性像はどうなっているでしょう。
★東京教組の「国語・社会の教科書の中のジェンダー」から(小・中学校の文学教材分析)
☆女性像−やさしく、かわいく、容姿が取り上げられる、自立し主体的に生きる姿はほとんどない。
☆男性像−理性的、行動的、決断カ、夢をもち主体的に生きる姿。
☆小学校教科書5社(1〜6年)
 主人公女50人男171人
☆文学教材に出てくる職種1社(1〜6年)
 例 女−先生など8種
   男−農業など38種
女性がほとんどのっていない歴史の教科書をみて女の子たちは希望をもつでしょうか。女の子の生き方のモデルが固定化されています。

《ジェンダーフリーの教材開発を》
ジェンダーフリーの視点で教科書を見直そう
☆文学教材は、女の子も男の子も主体的に行動的に描かれ、子どもたちの生き方に希望を与えるものなど。
(引用終了)

ということで、かなりのぶっ飛び具合ですが、公立学校において依然として大きな影響力を持つ組合がこの基調なので、桐原書店がその辺りの需要を見越して、あのような作品を掲載したことは想像に難くありません。したがって逆に考えると、ジェンダーフリーに異議を唱える教員は、どうせ教科書を採用するわけないのだから客扱いもする必要もない、というところですかね。教科書以外の桐原の問題集とかはけっこう使ってるんだけどな。
 しかし、文学教材の登場人物は皆「主体的」「行動的」「希望を与えるもの」でなければならない、というのはスゴイ。とすると、「羅生門」も「山月記」も「こころ」ももう掲載できなくなるな(笑)。





灯理さん
●>文学教材の登場人物は皆「主体的」「行動的」「希望を与えるもの」でなければな
>らない、というのはスゴイ。とすると、「羅生門」も「山月記」も「こころ」もも
>う掲載できなくなるな(笑)。

昔懐かしい社会主義リアリズム、ですね。このためにソ連の芸術は壊滅的な打撃を受けました。光にばかり目を向けて、闇を見据えようとしない芸術は所詮、蜃気楼のようなもので、存在感を持ちません。だから人の心に届かないんですよ。
こんな教義にのっとっているからフェミニズムはろくな作品を生み出せないでいるんですね。
しかし、それにしても・・この、「隠れたカリキュラムを考える ジェンダーフリーの教育を」に伺える男性的価値観をまったく疑うことの無い傲慢さと言ったらどうでしょう!。わたしはこれこそ、もっともすさまじい男性優位主義の産物だと思います。なぜ、美しさや優しさが力強さや勇気に比べて貶められなければならないのか・・むしろ問題の焦点はそこにあって、そこを見据えないと、本当の意味での“フェミニズム”などありえない・・「タフでなくては生きてはいけない、優しくなければ生きている値打ちが無い。」と言うじゃありませんか(^o^)。

わたしは現代日本や諸外国の多くのフェミニズムが、女性が男性性を統合して行くときに陥りがちな陥穽に陥ってしまっているもの、と考えています。
攻撃的なフェミニストたちの陥ってる症状はアニムス憑依と言って、昔ながらのおなじみのもの、と言えるでしょう。低い次元の男性性に乗っ取られてしまっているわけですね。
人間が自我を確立して行くとき、女性なら男性の、男性なら女性に属する、と本人や、周囲の考える性質を切り離し、無意識の世界に追いやっていきます。ところがその際、切り離されるのは異性に属する諸性質ばかりではなく、悪とか、影といったあまり顕在化してもらっては困る性質もともに無意識化されるわけです。
フェミニズムは女性に対する男性性統合の要請ですから・・それは時代の要請でもある・・それを無防備に行うと、悪とか影の諸性質も一緒くたに同化してしまうことがあって、結果的に大変レベルの低い男性性に取り付かれてしまうのです。
E・ユングは女性の中の男性性、アニムスを力(英雄性)、行為(権力)、言葉(ロゴス=論理)、意味(創造性)に分類していますが、多くのフェミニストが力や行為までは同化していると思われるものの、言葉や意味の水準に至っている人は極めて少ない。
また、悪や影など、あまり好ましくない性質も切り分ける事なしに同化してしまっていて、結果、やり方が極めてアンフェアだったり、ひどく攻撃的(暴力的)だったりします。
これは男性性統合の要請があまりに早い段階(自我の確立期)から行われるために、女性の側でそれに対する適切な対処能力が養われていないため、ではないか知ら?
もっと女性のライフサイクルに即したやり方があっても良い、とそう思うのですね。
これは「父の娘」問題と言って、割合古くから知られているものです。男性の価値観を内面化した女、と言う意味ですね。こうなると改めて自分の女性性を再確立しなければならなくなって、自然的なありかたよりもよほど女性は遠回りを強いられ
ます。
社会に問題があるとすれば、この点への配慮が欠けていることだろう、と思います。
現代の社会のシステムは男性にも女性にも同じ教育を施し、同じ役割を要求してしまうところがあって、今のフェミニズムもその文脈に沿っていますが、それでは女性のライフサイクルに合わない・・隠された男性中心主義です。
もっと子育てを終えた女性が、男性性を統合し、次の人生のフェーズに進むための受け皿が必要とされているわけですが、それを「M字カーブ」と言ってフェミニズムは盛んに攻撃しているのです。それは間違いです。むしろ、その年代の女性が能力を発揮できるように社会のしくみの方をを整えなけえばなら無い・・所詮、「父の娘」は少数に過ぎないんですからね。
ああ、もちろん働くことばかりを重視してるわけではありませんよ。それと同じくらい“遊ぶ”事だって大切なのです。経済的に余裕があるのなら文化や芸術、学問などに打ち込んでみても良い・・それが「言葉」や「意味」の統合、と言うものじゃありませんか。銭金ばかりがこの世ではない、と言う価値こそ女性が伝統的に担ってきたもので、人間の健全さを保つために、それは必要な価値観、だと思います。
まあ、マルクス流れの拝金主義者には理解できないでしょうが・・でも、産む性である女性にはその事が体感的に分かっているのです。出産や子育ては損得勘定、していたら出来ませんからね(^_^;)。
現代社会では男性社会(市民社会)の力が異様なまでに大きく名って、女性社会(家族)の領域を飲み込もうとしています。育児の社会科とは言いえて妙、なので、女性の領域の解体、経済の原理に従わない領域の“打ち消し”の意志がそこには働いています。介護保険法もそうですね。
良く、フェミニズムに反対する女性はトレイター(裏切り者)といわれますがわたしにはあの「父の娘」たち、彼女たちこそ女性の中の“トレイター”ではないか、と思われるのです。




管理人
●フェミの本質に「男性優位思想」があるというのは唸らされました。たしかにその通りですね。女性という性や負わされた役割(出産、育児を含む)が男性のそれよりも劣っていると思うがゆえに、コップレックスや嫉妬を抱き、何とか男性に近づき、男性を女性のレベルまで「引き落とそう」とする。「男性も育児を」「固定的な役割分担はいけない」「男女参画こそ善だから女性も働くべき」といった考えはこれで説明できますね。そうして、フェミの闘士を養うために「女性であることに対する劣等感」を植え付けさせるわけです。女性は差別されている、支配されているというのがそれですね。桐原のトンデモ評論に「女生徒に自己否定を迫る記述」が多かったことも納得です。










鈴彦姫さん
 今日はフェミ・ジェンフリの温床、育成所、組合女性部を暴露します。実は某公立高校の教員です。実名を名乗れないのが不甲斐ないのですが、事情がありまして。
 フェミニストから迫害を受けている男性が気の毒でなりません。知り合いの中学生さんも全くひどい教師に当たってしまったものです。極一部の教師だと信じたいです、こんな中学教師は。女子に被害者意識を植え付けると言うことは裏返せば男子に加害者意識を植え付けることだったのですね。これまで気付きませんでした。
 こんな教育を男子にしていたら、男子は覇気のない飼いならされた従順な人間になるか、我慢しきれず暴力的な人間になるか、しかないのではのではないかと恐ろしいです。やる気を失った男ほど無残なものはない、暴力的になった男ほど手のつけられないものはない。今の男子が自分の力をまともに発揮できるのはスポーツか、ゲームの中だけになっています。もっと正当な場面で力を発揮できるようにしなければいけません。
 たぶん女性の教員ですよね、こんな馬鹿げた教育をするのは。組合活動に熱心な男性教員もジェンダーフリーを支持している人物には私は今のところはお目にかかっていませんので。左翼思想の男たちは、女の労働力を社会に引っ張り出して利用するつもりで、女は女で社会に出て賃金を手にしたいと願って、双方の利害が一致したところで始まった男女平等が、今や女達が独自の進化を遂げて手に負えない状態になっているというのが本当のところだと思います。
 私、ジェンダーフリーが嫌で組合をやめました。組合をやめるのも勇気がいります。特に女性の加入率は高く、前の職場では全員加入、今の職場では私を含めた2人以外は加入、という状況です。何故やめ難いかかというと、女性部は働く女性の権利を様々獲得してきたからです。生理休暇、育児休暇(初めは女性に、次には男性にも可)、介護休暇、最近は5歳児(?)までの子供が病気になった時に取れる休暇というのができたらしいです。働く女性には都合の良い権利なわけで、使う都合上義理があって、なかなか組合をやめられないわけです。
 一方で女性部は男女平等教育を強力に進めてきました。まず手がけたのが男女混合名簿、周囲は誰も望んでいたわけではありませんが、男女平等の名の下に正論ぶられると誰も否定することができず、男性組合員も一緒になって進めてきたのです。次がセクハラ探し。そしてジェンダーフリー。もうここまでくると男性組合員も辟易でしょう。
 彼女達の主張は、声の大きさ、口数の多さ、語気の強さ、時にヒステリックに、時に涙あり、一度言い出したら、相手が引くまであくまで言い続け、周囲が鼻白んで面倒臭くなり、口をつぐむまで続けられます。あれよ、あれよという間に、主張が通ってしまうのです。次に手がけるとしたら家庭科の教科書に続く、他教科の教科書の内容かなと思えます。だから桐原の発展国語総合は許せません。
 女性教員は大なり小なりフェミ、ジェンフリの影響を受けます。次のようなシステムになっているからです。
 毎年各学校で1人女性部長を決めます。だいたいどこも着任順で持ち回りにしています。女性部長になると女性部の総会に出ます。これがすさまじいのです。私が出席したのは10年程前です。まず会場は色がありません。黒,紺、茶、グレー、ダークグリーンこんな色です。赤やピンクなど着て行ったら、完全異邦人です。会場は旧友と出合う社交場のようで、あちらでもこちらでも「お久しぶり!」の声。私が参加した時はセクハラの実態報告をしていました。
 1人の30代後半の女性が前に立ちました。サマーセーターを着ていた彼女は、女の私から見てもなかなかきれいなバストラインをしていたのですが、マイクを握り仁王立ちになってこう言ったのです。
「男の教師が私の胸をじろじろ見るんです。こういうセクハラにあった時は、私は男性の股間をにらみつけてやることにしています。」
 アー、何ということを、きれいなバストラインですもの男性当然目がいっちゃいますよ。見られるのがいやならもっとラインの目立たない服着ればいいじゃないですか、こんなのセクハラって言うの?と思ったのですが、会場の反応にこれまた唖然。「ウォー!」という湧き上がる賛同のおたけびと、会場に響く拍手の嵐。私は目まいと吐き気がしてしまいました。

 男性敵視は相当なものです。他には、教卓の中にヌード写真が入っていたとか。こんなの若気のいたり、にっこり笑って「自分のお部屋に貼ってね。紳士はこんな所に置いておかないものよ。」と持ち主を探してあげれば一件落着。嫌なら黙って捨ててしまえばそれでいい。
 この手の会に輪番で参加するわけですから、よほどはっきりした意識を持っていないと毒されていきます。また、女性部主催の講演会、勉強会、合宿等が行われます。好んで参加するのは一部ですが義理で出席する人もいます。新人の人が誘われて優しく教えてもらったら、そういうものかなと納得してしまうでしょう。私はばかばかしくて一度も参加したことはありませんが、当時内容はジェンダーフリー一色でした。今も熱心にやっていると思います。
 組合をとっくにやめた私のレターボックスに最近女性部加入のお誘いプリントが入っていましたが、「まだまだ女性蔑視はなくなりません。…勉強会を覗いてみてください、楽しいですよ。」と書いて有りました。女性教員の比率の低い高校でこれですから、比率の高い中学や、ほとんどが女性教員の小学校は押して知るべしだと思います。
 ただ、私が疑問に思っているのは教員のフェミニスト達が最終的に何を目指しているのか、あるいはどこまで考えて活動しているのかということです。家族崩壊や、国家解体を謀っているのか、無意識の願望としてそういう思いがあるのか。そういう人もいるのかもしれませんが実は案外大変乙女チックで、教わった教義を従順に正しいと思い込んでいるだけなんじゃないかとも思えるのです。女性教員はもともとは真面目な人達ですので「こういう教育をしていけば、男も女も解放されて、皆自由になって、男も大人しくなって、戦いの無い平和な世界になって全員地球人、手をつなげるに違いないわ」と。本当に日本が危なくなった時には「キャー!助けて!」って言いそうな気がしてしまうのです。
 女の脳のさがなのか、細かいところは非常に気が付くのですが、全体を捕らえるのが苦手なものですから、バランスを欠いたり、整合性を欠いたりということがしょっちゅうです。
 ジェンフリなんかやっていたら芸術も文学も成り立たないということに気が付かず、ジェンフリ視点で作品を切り刻みます。漱石の「こころ」もお嬢さんの心情が描かれず女がばかにされているという解釈になります。
 しかし熱狂的な活動をしているには、一部の女性で、他の多くの女性は義理で付き合っていますから、まだ救いの道はあるかと思います。まずは義理派の女性達をこちらの味方に引き寄せます。実行力のある指導者が具体策を示して引っ張ってくれると案外動きそうです。ミニスカ指導は具体的で良さそうです。次にフェミ達を徹底的に浮いた存在にしてしまうこと。フェミ達が口数多く主張しても呆れて口をつぐむことなく負けずに否定し通すこと。これが学校現場で今できることだと思います。
 大学の汚染が激しいようですので、卒業前に生徒にジェンダーフリーに染まらないようよく指導して送り出そうと決意をあらたにしました。





トンデモ男女平等授業実践報告
●平成13、14年度東京都男女平等教育推進校(東京都で唯一の推進校)(  )区立(  )小学校 公開授業・シンポジウム

・公開授業(男性教諭)
6年生の「女らしさ、男らしさはつくられるU」を見学。

教材は、別紙、ミードのニューギニアにおける男女の役割の反転を紹介した文章。そして「おばあさんからの手紙」

黒板に「個性がある、いろいろ、みな同じ、男と女は違いがない」と書く。

1.児童にニューギニアの文章を黙読させ、その後、読ませる。子供の感想を書かせる。
子供の感想を聞く。
・日本と違う。ビックリした。(女)
・日本は男女違いがないけれど、こんな所があると初めて知った。(男)
・男らしく女らしくとは決まってないので、良いと思った。(女)
・育てられ方で違うので、ここはこれで良いと思う。(男)

2.「おばあさんの手紙」を黙読させ、その後、読ませる。(因みに、途中で「曽祖父」の漢字が読めず、先生も分からず、先生は見学者に「何と読むのですか?」聞いた。)
子供の感想を書かせる。

先生の発言
私は昭和24年生まれですが、父は晩酌するので、おかずが2品ほど多かった。常に上座に座っていました。母は、父の言いなりで、文句ひとつ言いませんでした。喧嘩もしませんでした。(子供たちに)今の文章で、男と女の違いを言ってください。
・風呂は男が先、洗濯物は別のたらいで洗う(女)
・プールは男が先、小学校が男女別(女)

先生の発言
それから、親の願いがちがうでしょう。男には「大」女の子には「小」で。感想を言ってみてください。
・男が偉い。ニューギニアと違って、女が下で、いいなりで厭。(女)
・男女の違いがはっきりしている。男が良い、楽な生活をしてる(女)
・かなりの差別だ。今とはすごい違い。(女)

先生の発言
それでは、これが重要なんだけれども、男女の育てられ方、生活の違いが何故あったのか、書いてみてください。

子供の意見発表
・男は力があって戦争に使えて、女は使えなかったから。(男)
先生 力がなければねえ・・・(先生戸惑い)
・男は戦争で疲れてて、家では楽をしたかった。(女)
・男は戦争で戦って、偉いと思われていたから。(女)
・男が兵士になるため、家では良い生活をさせてた。(女)
先生  あーーそうだねえ。混乱して、児童の意見は黒板に書かず
・あのときの社会に都合の良いように、そうなっていた。(男)
先生 男が上、女が下は、戦争があったからなんだねえ。(と黒板に書く)
当時の主権は誰にありましたか?天皇ですね。天皇を頂点に三角形のピラミッドのようになってたのですねえ(と、図形を黒板に書く。頂点に天皇と書く)
社会を治めるために、都合が良かったんですね。
社会秩序は、自由だと守れないから。統一するため、秩序を守るためなんですね。
こういうことを、気づけばいいんですね。(授業終わり)
参考・・・教室内に掲示されているものを見ると、国語では、特別に、「田中正造」を学ぶことになっていた。朝日新聞が掲示されていた。ランドセルは、男の子は黒系、女の子は赤系。着ている服も、男の子はグレー系が殆ど、暖色は無い。女の子は赤系が多く、あとは白、青が一人。
尚、「おばあさんの手紙」の出典を尋ねましたが、教頭に聞かないと分からないとの先生の答えでした。

・ シンポジウム
教頭(女性)が司会。
実践報告
男女混合名簿の実施、各種名札の色の統一、敬称統一、男女混合並び、その他、校内活動では本人の希望するもの、運動会での男女混合短距離走、マラソン大会の男女混合走、以上のような必ずしも必要でない男女の区別をなくし、職員・児童の心のバリアフリーの環境作りを行なってきた。
男女平等を目指し、心のバリアフリーを求めて、7つの授業を行なった。
2年生よりも、5年生の方が「自分らしく生きたい」という意識が強かった。
1年生と6年生を比べると、1年生は持ち物の色に性別が出ており、6年生では男らしさ女らしさは、その人らしさだと気づいている。性による区別は6年生の方が弱い。
低学年では、大人社会の不必要な男女の区別意識が高学年よりも強く働いている。
高学年になるにつれて、学校という子供社会で必要ない男女区別意識から自由になっている。
又、どの学年においても、気づいたり学んだりしたことを、実行表現することへの支援の必要を感じる。
2年間の学びの中で教師も変わった。子供も変わった。そしてそれを地域に発信していきたい。

シンポジウム
(教諭)
2年間やってみてよかった。自分自身こんな研究をやる機会がなかったら、そのままその視点がなかったと思う。まず自分が変わった。
男女平等教育というのは、子供が「こうしたい」という時に、私達がその願いが叶うように支援してあげることが男女平等教育だということに気づいた。
子供の変化では、クラス遊びを設定すると男女一緒だが、休み時間には、男女分かれて遊ぶ状況だった。それが1学期に「男の子の遊び、女の子の遊び」という話し合いをしたりする中で、今では、男の子4人の班もあれば、女の子の中に男の子1人の班もあれば、その逆の班もあって、今日はどの子と話したいのかという考える力というものが、男女混合遊びを通して育ち、徐々に変わりつつある。

PTA会長
先ほど低学年の方が高学年よりも、男女の性の意識が強いと言われたのは当たり前だと思う。親の立場から言うと、ずっと区別してきた。産まれて産着は、女の子はピンク、男の子は水色というのは当たり前で、女の子が産まれて水色を着せると、男女どちらか判らない、ピンクで包まれて来るから、女のお子さんです、おめでとうございます、となるのではないか。
3歳になると、女の子には七五三で可愛い格好をさせる。そういう風に小学校に入るまでは、区別して育ててると思います。これは差別ではなくて区別だ。
「男のくせに泣くんじゃないよ」とか自分も言われて育った記憶がある。それは差別ではなくて、区別して育てられているのは事実である。
私は、この学校に娘を通わせてるが、家で足を上げたりしてたら、「女の子らしくしなさい」と言う。「胡座かいても良い」なんて言えないです、普通。そういったことで、親としてみれば、この男女平等教育は戸惑っている面がある。

(コーディネーター)
本音と建前というものが、この問題にはつきまとっているようですね。
岡野(女性センター所長)
確かに親御さんは子供を差別しようと思ってないだろう。女性総合センターでは、よく、男の子もなく女の子もなく同一化しようとしてるんじゃないかと、聞かれるが、そうではない。男である女である、よりも、その子らしさというものをまず大事にしたいと思っている。だから、区別的な扱いが長く続いたり、学校の中で毎日、男女別の名簿、呼び方が男女で変わったり、男の子の役割、色、女の子の役割、色などが
ずっと続いて、躾けられたりすると、女の子の方が、「私は女だから」という一歩男の子より下がっていなければいけないとか、こんなことを言ってはいけないとか、役割でも「長」のつくものではなく、女の子は副会長か書記か、それくらいに抑えておいた方がいいのではないかとか、心の中で躊躇する気持ちが出て来る。そのまま大人になると、進路を選ぶ時、職業を選ぶ時、女の子の方に選択肢が少なくなってしまう。そういう傾向が今も残っているんじゃないか。
男女共同参画社会の目指すところは、女の子も男の子も、その目指すところ、個性に応じて、色々な選択肢を自由に選んで、人生を楽しんで行く、そういう社会を作っていきたいと考え、女性総合センターでは展開している。

(コーディネーター)
差別するつもりではなくても、区別が重なって壁になっている。だから壁を取り払うということ。不必要な規律をなくすということだ。

(中学校長)
2年前から混合名簿を使っている。小学校に学ぶことが多い。中学校だと名前を呼ばれる時、敬称無しで呼ぶ。混合名簿も少ないので、小学校とのギャップを感じて、「中学校は恐ろしい所だ」と印象を持っている子もいるようだ。そのギャップは無くした方がいいと思う。混合名簿は父母に好評。

(コーディネーター)
混合名簿は意識を変えたか?
(教諭)
別名簿の時は、男らしく女らしくだった。今は誰もが同じと感じている。区別を重ねると差別になるということを実感している。
(PTA会長)
少年補導員をしている。女の子が食い物にされている。親としてはしっかりと守れる女の子にするために、家庭で教えたい。女の子は注意した方がいい。

会場から質問
男女平等は憲法でも教基法、学校教育法でもきめられており、私の育った頃も男女平等、同権と言われて来た。新しい教育ではないと思うが、教諭が「新しい視点」と言われた意味をお聞きしたい。
男女共生は大切だが、授業を拝見した時に大正時代のことがあった。男性が何もかも先、女性は虐げられていたという資料だったが、先生は女の子に感想を聞かれて、女の子は少し恨みがましい気持ちを持っている感じを受けた。意気消沈している感じもした。共生ということを学ばせる場合、大正時代は大正デモクラシーという言葉があったように、決して民主主義がなかったわけではない。さばけたご家庭もあったと思う、だからそんな暗い例を挙げて、男女を対立軸に置くのではなく、男女それぞれを認め合う尊重しあうような資料がほしかったと思います。
女性センター所長さんが区別を重ねることが差別になると仰ったが、私もそれはかんじている。しかしながら、PTA会長が言われたように、女の子は女を意識する、男の子は男を意識する、そういう個性を大切にするということが、親として子供を教育する上で大切なのではないかと思った。

(教諭)
自分も最初拒否反応があった。研修会があって、ウーマンパワーみたいな。同権と平等とは違うと思う。法的な変遷の中で男女が同じ権利を持つということだ。私達が子供時代に受けたことは、男の人よりちょっと下だった女の人を同じにしようという視点の男女同権だったと思う。しかし、新しい視点とは、男のくせに、と言われてた男の人のプレッシャーもなくすということが新しい視点だったと思う。男である女であるは個性ではない。生まれて来た一つの事実であって、育てられる過程で個性は作られるもの。端的に言うと、女性の地位を上げるというのではなくて、男女共に個性を活かして生きるということだと思う。

(女性センター所長)
公けの場では法的にも変わって来て、差別がなくなったようだが、見えにくい差別が残っている。男性の方が優遇されていると女性は80%、男性も70%がアンケートでも答えている。女性は子供ができると仕事を辞めなければならない。本人の意思ならいいが、親戚家族、会社などからのプレッシャーで辞めるということだと問題。
 又、女性が上位の役職にあることが日本は特に少ない。偉くなればいいということで はないが、そこに至る教育などが問題ある。少子高齢化の中で、女性が責任をもって働くことが日本の元気になると思う。
 男の子は男の子を意識するように、女の子は女の子を意識するように、と言われたがそう思う。PTA会長も言われたように、女の子が性産業の食い物になることのないよう女の子にも男の子にも教えなければならない。しかし、性差には二つあって、生まれた時の性のからだの違い、これは区別して男女に教えなければならない。もう一つはジェンダー。文化的社会的に作られた性差。男は男らしく女は女らしくは、生
き方を苦しくする。その二つは区別して考えないといけない。

(コーディネーター)
歴史的文化的な性差はあると思う。中学生はどう受け止めてるのか。

(中学校長)
中学校では、女性の方が強い。応援団でも女子が男子を引っ張っている。男子が女子におされ気味だ。

(コーディネーター)
子供たちの意識が変わってるのですね。

会場から質問(Oさん)
実践報告で混合並びがあるとおっしゃってたが、混合並びから学級崩壊が進んだ、という文章を読んだが、ここではどうなのか。
男らしさ女らしさは良いと仰りながら、区別は積み重ねると差別になると仰る。PTA会長のご意見はもっともだと思ったのだが、やはり歴史的に積み重ねて来た知恵というものがあるのではないか。それを全くなくしてしまうことにはなりはしないか。
区別は差別であるとまで言われると、文化まで否定しまうのではないかと思った。
授業を拝見した時、女の子たちが「大正時代と今とでは全く違う」と感想を述べてましたし、中学校の先生も女の子の方が積極的だと仰った。もうあらかたの差別はなくなっているのではないか、これ以上進める必要があるのかな、と思う。産む性である女性は、子供を育てて行かなければならない。少子化の問題もあるし。個人の自由を強調されたが、個人の自由と社会の秩序というバランスをどう考えれば良いのかというのは、学校現場ではきちんと考えるべきだと思う。ですから、機会の均等というのは良いと思うが、結果が平等でなければならないというのは行きすぎではないかと思う。

授業での資料で、ニューギニアで男女の役割が逆転してるというものが使われていたが、これはマーガレット・ミードの研究のものだと思うが、最近ミードの男女役割逆転の記述は嘘だったということがはっきりした。学説的にはっきりしないものを学習の材料に使われることに、疑問を感じた。

会場から
足立区内の教員です。混合名簿を採用している。今の方が混合名簿にすると学級崩壊になると言われたので、思わず手を挙げた。混合名簿2年目だが、その前にも個人的に混合名簿を採用していた。今まで混合名簿にして学級崩壊したことはない。混合並びの方も今年行なうことになったが、心配したが、実際にはきちんと並んでいる。
子供も違和感がない。静かに並んでいる。ですからどこからそんな混合名簿から学級崩壊が進んだ、などと、どこから出たのでしょうか。学校現場に対する失礼な攻撃だと思った。

コーディネーター
共生の問題は色々意見がある。教育は色々な意見を取り入れてやっていくという難しい営みである。ご理解頂きたい。
私個人の見解では、教育は過去の文化を伝えていくという面と、新しい時代にどう生きたらいいかという面がある。その解釈が誰もが納得いかないところに評価が錯綜するという面がある。それぞれの学校の教育は、それぞれの地域と密接に関係するもの。地域によって考え方が違って来る。そうしないと道を誤ると痛切に感じた。
21世紀の社会に向けて男女共生を取上げなければいけないのか、を取上げたかったが、20世紀が作り出した課題を反省し、新しい枠組みを作らなければならないと思う。その観点から、男女がお互いのよさを活かしてやっていかなければ、社会は成り立っていかないと気づいたのではないかと思う。

校長挨拶
男女混合でのマラソン大会にPTAから苦情が多く寄せられている。しかし、今年もそれに臆することなく、男女で走らせる。






管理人
●「おかあさんのせいきゅう書」という、ちょっといい話が小学校の道徳の教科書に載っています。まずはお読みください。


「おかあさんのせいきゅう書」

 ある日曜日の朝、たかしが二階からおりてきて、朝食のテーブルについたときのことです。
 たかしは、お母さんのおさらの横に、ていねいにたたんだ一枚の紙きれをおきました。
お母さんはそれを開いてみました。
 たかしはその様子をじっと見ていました。
 お母さんは、はじめ少し不思議そうな顔をしていましたが、すぐもとのやさしい顔にもどって、それをくり返して読みました。
 たかしのおいた紙きれは、次のような請求書だったのです。

おかあさんへのせいきゅう書
○お使い代―――――100円
○おそうじ代――――200円
○るすばん代――――200円
合計――――――――500円

 読み終わったお母さんは、にっこり笑ってたかしをみましたが、そのときにはなにも言いませんでした。
 お昼の食事のときになって、お母さんは、たかしのおさらのわきに500円をおきました。それをたかしは見て、自分の考えどおりにうまくいったと思って、うれしくなりました。 
 ところが、お金といっしょに、小さな紙きれがのっていました。たかしが取りあげてみると、それはおかあさんからのせいきゅう書でした。
 それには次のように書かれていました。

たかしさんへのせいきゅう書
○親切にしてあげた代――――――0円
○病気をしたときのかん病代―――0円
○洋服やくつやおもちゃ代――――0円
○食事代と部屋代――――――――0円
  合計――――――――――――0円

たかしは、はっとしました。一回、二回、・・・・、たかしは何度もくり返して読みました。
たかしの目には、しだいに涙があふれて、お母さんの書いた字が、ぼうっとかすんできました。
(ぼくは、自分のことだけしか考えずに、お母さんにせいきゅう書を出してしまった。それなのにお母さんは・・・・)
しばらくじっとしていたたかしは、お母さんのそばへかけよりました。そして、さっき受け取ったばかりのお金を、お母さんの手にわたして言いました。
「お母さん、ごめんなさい。このお金は返します。そしてこれからは、せいきゅう書なんかなしで、なんでも手伝わせてください・・・」

 (グルエンブルグ作「ブラッドレーのせいきゅう書」による)

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これに対して、桐原書店の「小論文テキスト」にはこんな記述が

「経済企画庁の調査によると、アンペイドワーク(家事や介護などの無償労働)にたずさわった年間評価額は約304万円、総額116兆円。GNPの2割を超える額となった。また、アンペイドワークに携わるのは9割が女性で、1日のアンペイドワーク時間が4時間弱であるのに対して男性は30分だった。職場においても、アンペイドワークにおいても男女差をなくしていく必要があるし、アンペイドワークの価値自体も見なおさなければならない」

アンペイドワークの価値を見直すべきだといいつつ、アンペイドワークに女性が携わっていることを批判しています。つまり、この筆者はアンペイドワークの価値を低く見ているとしか思えません。
家族の市民社会化(市場原理の導入)が家族崩壊の引き金になるというのに、そんなに頓着しないのは、やはり愛情とか信頼といった家族の絆を経済原則に置き換えて、それを軽視しようとする動きの一つだと思えます。経済企画庁がこんな調査をしていたのは、やはりフェミニズムの影響なのでしょうか。








管理人
●アメリカの性革命について調べていて、ライヒとケイト・ミレットという人物に行き当たりました。この両者の思想を理解することで、現在の日本で問題になっているジェンフリや男女参画や過激な性教育の本質が理解できるように思います。
まずは立花隆「アメリカ性革命報告」の一部分です。

ケイト・ミレットの『性の政治学』はウーマンリブの最も基本的な文献である。以下、その内容を簡単に紹介する。
まず、男女間の性行為とは、単に生物学的、肉体的行為ではなく、「私的領域における性の政治的モデル」だと説く。
その定義に従えば、「政治」とは一群の人間が他の一群を支配することで、「性の政治」とは男性の女性支配、つまり「父権制」である。男が支配し女が従属するという関係が、すべての搾取と抑圧の原型であり、社会の実質的、潜在的権力機構の一番根底の部分に、この抑圧体制がある。この抑圧体制をひっくり返さない限り、いかなる革命も、やがては反革命に転じていく。
 性革命とは、この男が女を支配する父権制をくつがえすことでなければならず、現今流行の社会的風俗的変化は取るに足りない。
 夫権制には八つの基盤がある。男性が女性より優位の存在で、両性にはそれぞれ適した役割があり、女性のそれは家事であるというイデオロギー的基盤をはじめとして、生物学的、社会的、階級的、経済的、教育的、人類学的、心理学的な父権制を支える様々な構造が考察されていくが、簡単にいえば、男性と女性の間には生得的な差が本質的には何もないにもかかわらず、それがあると女性に信じ込ませて、文化的、社会的なあらゆる装置を動員して、男性は完璧な支配に成功しているのだという。
 社会制度としての父権制の原単位は、一夫一婦制のもとに築かれている家族であるから、まずここを掘りくずさなければならない。父権的一夫一婦制を守っているあらゆるタブーと闘うために、同性愛、婚前セックス、婚外セックス、私生児などを社会的に許容していくことが必要である。男性優位主義のイデオロギーを排撃し、そこから生まれる男らしさ、女らしさに対する社会的評価を捨て去らせる。押し付けられた家事、育児などの性別役割を拒否して、職業を持ち経済的独立をはかることによって、父権制の権威と財政的基盤を打ちくだく。こうして、家族構造を破壊し、男性支配を消滅させ、そうすることによって、社会の真の政治的、経済的変革も可能となるのである。

(引用おわり)

なんともう30年以上も昔から、このような理論が提唱されて、それをジェンフリや男女参画という名を借りて、何度も何度も蒸し返しているにすぎなかったわけです。しかも、そうした動きの真の狙いが「家族解体」にあるというのは、ミレットの理論からも明かです。

立花隆の論考をつづけます。

この理論は誰が見てもウィルヘルム・ライヒの発想を借りてきたものである。
60年代アメリカ性革命の先駆的イデオローグとなったライヒは。フロイトとマルクスを結びつけて理論を展開し、共産党からも国際精神分析学界からも追放された。異端の思想家だったが、反逆する若者達には魅力的な存在となり、日本の全共闘世代に大きな影響を与えた。
ライヒは現代家族の搾取的経済機構と権威主義的政治体制の根底に、一夫一婦制による性的抑圧を支えとした家父長家族を見た。家父長的家族制度において、青少年は自然な性欲を抑圧され、その結果、服従的で権威を恐れ、不正と搾取と体制に対する反抗を自己放棄してしまうような性格形成をよぎなくされてしまう。こうして大昔において始った家父長制は、青少年に対する性的抑圧を取り除かないかぎり、永遠に続くことになる。
 マルクス主義の原始共産社会=無階級社会がライヒにおいては、原始母権社会=性的非抑圧社会となり、経済的支配・被支配の階級闘争の歴史が、性的抑圧・被抑圧の歴史となる。ケイト・ミレットの理論は、ライヒにおける性的抑圧者=青少年を女性に置き換えることによって成立する。性的抑圧から解放され、原始以来の家父長支配体制を覆す栄光ある歴史的役割は若者ではなく女性に与えられる。

(引用おわり)

この「栄光ある女性」が「フェミニスト」といわれる人達だというわけです。ジェンフリやフェミや過激な性教育が常に特定の人々によって進められてきたのもこれで納得できました。

それからもう一つ大事なことは、ケイト・ミレットのいう「男女に生得的な性差はない」ということはミードがチャンプリ族の(誤まった)研究で「実証」し、ライヒのいう性的抑圧が思春期の青年たちを歪ませる(つまり性の解放、フリーセックスこそが素晴らしい)という理論も、これまたミードが『サモアの思春期』で実証してしまったということです。もちろん、今では二つの研究共にデタラメであったことが判明していますが、それまではミードの研究によってライヒやミレットの理論が正しいものとして受容され、結果としてアメリカを荒廃させてしまったというわけです。

以下、紅ちゃんからの情報です。アメリカの某サイトより。

ミードの主張によれば、サモアの青少年は自由かつ開放的な乱交にふけることを許されており、それどころかそれが奨励さえされており、その結果、人々は幸福で社会にうまく適応しており、平和で開放的かつ親切であると言うのだ。
 文化人類学者達はこの説を大変好意的に受け入れ、人類学の全ての分派において最も頻繁に読まれ、課題として与えられる研究の一つとなった。しかしながら、この研究の全てが虚報の総括であったのは大変困ったことである

(引用おわり)

以下、ライヒに関して某所よりコピペです。過激な性教育のいかがわしさはこれからも明らかです。

オーストリア生れの精神分析学者。
ウィーン大学卒業後、ウィーン精神分析診療所で、精神分析とマルクス主義の統合を目ざして活躍する一方、精神分析技法ゼミナールを主宰して、研究と指導に専念した。
患者の態度やふるまいに現れる性格抵抗 (主要な抵抗) に注目した〈性格分析〉の理論と技法とを追求して、 《性格分析》 (1932) を発表し、古典的精神分析から現代の自我心理学的精神分析への発展の端緒を切り開いた。
社会学的見地に立ち、社会適応を重視した性格形成論、性を社会的抑圧から解放し、〈性器性欲の優位性〉を確立して、健康なオルガスムの体験能力を獲得することこそ健康の基盤であるとする性革命理論などが知られている。
ライヒは子供時代に関してあまり語らない人間だった。その理由として、父と母が共に自殺している点があげられる。
13歳の時、母・セシーリアが自分の家庭教師と性交している現場を目撃してしまう。ライヒはそのことを父・レオンに告げた。
精神バランスを崩した父は母を自殺に追いやった。そして自身は、わざと真冬の凍った池に何時間も立ち続け肺炎で死んだ。両親が自殺したのは自分のせいではないかと、ライヒは後悔し続けることになる。
こうした中で、全ての人間は「性欲」(リビドー)に支配されているというフロイトとの出会いは衝撃的であった。やがてライヒはユングが抜けた後の精神分析学会で精力的に活動を行う。
しかし晩年のフロイトも、さすがに「性欲理論」は無理があるとして放棄しつつあった。またユングはリビドーを「性」ではなく生命エネルギーと定義し、右脳と左脳のメカニズムにまで迫ろうとしていた。
しかしライヒは時代に逆行する形で、性欲理論を補強していった。

「全ての人間はオルガスム(性的快感)を求めて生活している」

彼は、神経症で悩むオールド・ミスの患者にマスターベーションを勧めた。自虐癖のある患者に「では実際に打ってみようか」と臨んだ。どれも確かに症状は好転した。
そして、性の解放と称し

・未成年の避妊教育の実践
・堕胎の権利の確立

遂には、性の全面的な解放を行えば、神経症や性倒錯、そして犯罪の一切存在しない理想郷が誕生すると主張した。
ライヒの思想は進歩的ともいえるが、いささか過激すぎる点も多い。
・・・ライヒの思想は禁欲を重んじる20世紀初頭のヨーロッパ社会で、当然受け入れられるような内容ではなかった。師匠フロイトも、この「明らかに行き過ぎた理論」に不信感を抱きつつあった・・・
共産主義者としても積極的に活動していたが、 33 年ドイツ共産党から、 ついで 34 年国際精神分析学会から除名され、ストックホルムやオスロ を経て、39 年アメリカに亡命した。ライヒが主張する「性の解放」を全ての人間が嘲笑したのだ。
そのころから精神に変調をきたし、「オルゴン(オルガスムの)・エネルギー」と名付ける宇宙エネルギーの存在を信じこれに熱中するようになった。
世界には至るところに「オルゴン・エネルギー」が満ちている。それが細胞を動かしているのだ。愛するものと別れるとオルゴン・エネルギーが不足して病気になる。しかし休養すればオルゴン・エネルギーが充電されて再び健康になるのだ・・・
このエネルギーを集める力を持った〈オルゴン・ボックス〉に入ると、すべての性障害が治ると称して、ライヒは金属箱を販売した。しかし、これがアメリカの薬事法違反に問われることになる。
それまでのライヒは、思想は別として精神科医として極めて優秀な評価を受けており、裁判に負ける可能性は低かった。しかし、ライヒは陪審員達にこういった。
「オルゴンエネルギーを暴発させて大洪水を引き起こしてやるぞ」
ライヒは裁判中、法廷侮辱罪で投獄され、不遇のうちに獄死した。









管理人
●『エンド・オブ・セックス』(工作舎)という本から著者(ジョージ・レオナード)の意見を紹介します。
 著者は理念的にはアメリカの性革命やフェミニズムを肯定していますが、現実に生じた諸相ーーーレクリエーションとしてのセックス、ポルノグラフィ的即物的セックスの蔓延等には批判的で、愛情あふれる充実したセックスを提唱しています。内容は性の指南書的傾向があるので、性革命や性教育に関する部分のみ簡単に紹介します。

まず、アメリカの性革命の結果については
「あまりにも多くの若者が性革命を否定的に捉えており、消え去った親密感や今では手が届きにくくなったロマンスとコミットメント(深くかかわること)に対する憧れを抱き、セックスの反革命が起ころうとしている」と批判。
しかし、アメリカには依然としてレクリエーションとしての性を追求する科学者や理論家がいて、彼等は以下のように主張しているとのこと。
「レクリエーションがセックスの目的として正当なものだと認められれば、伝統的な道徳規範、犯罪法、精神医学的仮定といったものは意味をなさなくなる。(だからよい)
もし、セックスそれ自体を楽しむことになれば、思春期が始まると同時に避妊薬や避妊具を万人に入手可能にする必要がある」

 ライヒの理論によく似た「性的快楽追求が人間の解放につながる」という考え方です。昨今問題となっている過激な性教育の根底にはこういう考え方があるような気がします。

これに対して著者はこう警鐘を鳴らす。
「専門化し分化した社会では、セックスが愛や創造や社会や宇宙から切り離された特殊な活動となる可能性もある。しかし、この考え方には裏がある。それは性の全体を抽象的な区画で断片化し、研究によって支配する傾向である。最悪の場合、これは非人間化、卑俗化、一種の生命剥奪につながる」(簡単にいえば人間をモノ化するということでしょう)
「どんな文化であれ、性を抽象化一般化し、愛の行為を没個性化することは、究極的には集団虐殺(ジェノサイド)につながる」
「独自性と普遍性の変転きわまりない相互作用があって始めて成立するエロチックな経験を、概念の中に押し込めることは、究極的に私たちを殺すものである」
(ユダヤ人に対するホロコーストなどの大量殺戮ができたのは、人間を個々として捉えなかったから。西洋文明が自然破壊を推し進めたのは、自然の木や石を没個性的にただの木石としてしかとらえなかったから。かつての日本ではそこに神を見たから自然破壊が進まなかった。同様なことが性を通して人間にも行われつつあるというわけです)

著者は言う。
「大量殺戮には必ず没個性化という要素を含んでいる」
「私たちはそうした抽象主義者たち、イデオロギーの方が重要な人たちが今やこの地球上の生命を一掃できるような秘密指令のカギを握っている」
「こうしたレクリエーション的なセックスの結果、きちがいじみた無目的な快感の追求があらわれ、それが感覚の麻痺、性的なエスカレーションとストレスにつながり……性交しなければならないという強迫観念を抱かされ……結果として性的機能障害を引き起こしている」
だから
「無差別の性的実験の落胆から、情熱的な愛やコミットメントに対する憧れが芽生えてきた」
「人々の最大の望みはすべて個的(パーソナル)なものに立ちかえるべきであり、とりわけ性愛についてはそうなのである」
 性器はその人の心情や個性とむすびついた個的(パーソナル)な器官であるだけに、他の内臓諸器官と同様に(とくに幼年期において)即物的に教えるのは、性器の没個性化につながり、(神聖さや個的な要素が失われ)非常に危険であるというわけです。

さらに筆者は性教育についてこう言います。
「ふれられ、愛撫され、やさしくゆすられることへの人間的欲求は食物への欲求と同じくらい基本的なものだ。今では幼年期および少年期における感覚刺激が肉体の精神ばかりか精神的な発達にとっても必要なものだということがわかってきた。一度も愛されたことのない子供は、ただついおしおきの感覚がほしいばかりに、わざと手におえないふるまいをするということが明かになりつつある。愛に満ちたふくみのない愛撫を子供たちに与えることこそ、究極の性教育だといえよう」
 小学一年生に性器の名前を教えて「性的虐待」をしている教師たちに読ませたい文章です。